的になってしまいがちです。 メディアの歴史的な配置を見据えながら、さ メディア研究を開くこと、閉じること 道 中路メディア事象の断片化の話とも重なり まざまな論者が論考を紡いでいるわけです。 の ら ンの話ますが、メディア研究のディシプリンの断片 それこそ石田先生の文字論はメディアの起源スタインバーグもう少しマクルーハ ズ に関わることですし、メディアとは何であるをしておきますと、先ほど述べたように現在化も進んでいると思います。その一方で、メ イ のかという問いはすべての人が共通して持つはメディアをモノとして扱うことが主流の時ディアそれ自体やメディア研究のディシプリ デ タ ていると思います。そういう意味では、たと代になっていると思います。思い起こすと九ンの混交化も起こっています。たとえば物語 ス ンのリバイバルがありまや音楽を分析するのであれば、フィルム・ス えば 3 巻 3 章「映像文化へのアプローチ」で〇年代にマクルーハ ル タ 大久保遼さんが実践しているように、映像やした。新しく出てきたメディアを研究するたタディーズから入ってゲーム・スタディーズ スクリーンが遍在する空間というのが、二一めの方法論としてマクルー、 ノンが改めて召喚に向かう人もいるわけです。断片化を捕捉す ンの読み直ると同時に、混交化の状況も考えないとメデ 世紀的なデジタル環境の全面化によって突然されたのです。そしてマクルーハ ィアの実相にはたどり着けないと思います。 出現してきたのではなく、歴史的にも存在ししが進みました。この「デジタル・スタディ ていたのではないかというアプローチ、いわ ーズ』が示している重要なことのひとつが、吉見それは学問の封建社会化に関係してい 丿ノン的なメディア・スタディーズのると思います。第一世代から第二、第三の世 ゆる「メディア考古学」と呼ばれる方法論もマクレー、 あります。過去に存在したメディア事象は現方法論を駆使しながら、理論を探求しつつも代に知が継承されるに従い、それぞれの知の 在において反復しているにすぎないというこ抽象論に終始することなく、モノとしてのメ荘園というか、業界ができていく。アカデミ とを指摘するだけではなく、デジタルなメデディアの現実的な位相も分析していることでズムの荘園です。それぞれの学問領域におい ィア事象を歴史的に改めて位置づけることです。現在ではゲーム・スタディーズとか、ソてある考え方や理論が定説として語られ、そ さらにそこに分析の糸口を構築する必要があフトウェア・スタディーズとかさまざまなれによってその学問領域の輪郭が強固にな るのではないかとも思います。 3 巻「メデイ「スタディーズ」があるのですが、それぞれり、権威が高まったと思い込んで、その学問 ア都市」にはそうした歴史的に振り返る論考は相互に交流や対話をしない / できない状態領域は新たな考え方をさらに聖典化していく を所収しているのも、このシリーズの特長だになってきています。それは各スタディーズという循環構造が生じます。しかし本来、大 と思います で自分たち固有の領域や方法論を構築しなけ学や学問は、封建社会化を引き起こす循環構 ればならないという思いがあるためです。そ造を持ちながらも、同時にユニヴァーサルな し面もありますが、ともすると自閉ものを目指す志向からも成り立っているので
ります。社会学者という意味では、原点はやる。そうすると、〇〇スタディーズとか、△しいメディア事象を学術的に分析するうえ はり、マルクスはともかく、ウェ ジ△スタディーズといった名称がどんどん増殖で、「ニューメディア」という呼称が定着し道 の ンメル、マンハイムなどに行き着きます。そしていきます。そうすると、それらを相互にたこともあったのですが、最近では「フォー ら 、刀 マット」という比較的新しい言葉を使って現 うすると彼らが問い続けていた近代社会と価貫く知の全体的なパースペクテイプが構造化 ズ 値の関係が、社会学者の問いの出発点としてされないまま、個別のプロジェクトやロロス在のメディア状況を分析する、興味深い研究 イ デ あるわけです。そしてそこから、構造主義やタディーズがある一定期間行われて、そのまが出てきています。「フォーマット・スタデ タ ス ィーズ」が立ち上がることまではないと思い 言語論的転回、ポスト構造主義を受容し、さま廃れてしまう、ということになってきてい ル まざまなメディア論の展開を目の当たりにしやしないかというのか少し心配です。 ますが、シリーズ 2 巻『メディア表象』の中 タ ジ ながら自分の研究を紡いできました。石田さ吉見北米の状況はどうですか ? 路さんの論考を読むと、今後の映画メディア デ んは言葉と思考、メディアのことを考えてこスタインバーグ映画や文学といった研究をの展開を捉え、さらにその他のヴィジュア られたと思います。そして『デジタル・スタするより、ゲーム・スタディーズのような新ル・カルチャーを貫く分析視角として「サイ ディーズ』シリーズには、こうした社会学 / しい看板を掲げているテーマを研究しているズ」があることがわかります。今後サイズを 人類学的な側面と、言語学 / 記号学側面が両と就職に有利になるという状況はあります。主題としてメディアを研究できるんじゃない 方重なり合っています。どちらの視点からアそうするとゲーム・スタディーズを志望するでしようか。そういった意味でも、旧来のア プローチするにしろ、資本主義と産業革命を学生が多くなり、その分野の研究は盛んになカデミズムのように既存の専門分野の作法を 柱とする近代化という、現在の大前提となるります。ただ、学生がそういったことで研究身につけるだけではなく、思いもよらない方 わ況があり、その現代的、二一世紀的変容が分野を決めるのは仕方がない面もあります向から到来してくるまだ見ぬパースペクティ テーマになります。 か、それがメディアを考えるうえでの、有用プが重要になると思います。私にとってはそ な理論的なパースペクテイプを切り拓くことれがメディアミックスだったのですが、他の 断片化する学問領域 につながっているかといえば、そういったこやり方もいくつかあるので、それを育て、増 石田また大学の話に戻りますが、この頃のとはほとんどないと思います。 やしていくことが重要です。そうした試みが 日本の大学はますますアメリカ化してきてい そうした目新しいだけの看板よりも、多様広がってくれば、領域ごとに分断されてタコ て、新しいテーマではあるが、細分化され限なメディア事象に一貫して汎用可能な視点やツボ化して互いに話も通じないといったこと 定された研究領域を作ろうとする傾向にあ概念を導出することが重要だと思います。新にはならないと思います。ただ、新たなパー
一の平面上にコンテンツが乗っかり共存して いくとするならば、そのこととスタインバ グさんが研究されているメディアミックスが どのよ、つに結ひっくのかは確かに気になると ころです。スタインバーグさんの本の最後の 方で < O < < とドワンゴの合併の話 が述べられていますが、そこで触れられてい る「プラットホーム」の話に通底するのかな メディアがあり」と付け加えてもいます。 とい、つ ~ はします。 ッチ」だと、「妖怪メダル」というメダルを 中路そうですね。メディアと娯楽はまだあスタインバーグ拙著の 2 、 3 章では、『鉄競って集めています。集めたメダルでゲーム ると。しかしこれからはすべての情報の流れ腕アトム』を最初のメディアミックスの現象やその他のいろいろな遊びをしている。現代 がデジタル的に統合された数値の羅列になっとして考えています。それを歴史的なプロセでもメダルのような物質的なものが重要な役 ていくだろうという認識ですね。それが一九スとして捉えようというのが目的でした。マ割を担っているのが面白いですね。そういっ 八六年当時、つまり今からちょうど三〇年前ンガ、アニメ、お菓子のおまけ、玩具などがた意味では、メディアミックスはなくなるか の現状を捉えてキットラーが書き記していたキャラクターイメージを日常生活に拡散すると思いきや、キャラクターと物質との結びつ ことだと思います。蓮實先生はその二〇世紀ための媒介 / メディアであり、それがキャラきはまだ続いていて、「妖怪ウォッチ』のよ に向けられた視線を抽象的として批判されてクターへの欲望をかき立て、キャラクターとうに新しい欲望の対象を作り続けているとい いますが、それから、二〇世紀から二一世紀結びついたメディアの増殖を促すという循環うのが非常に印象的ですね。その他にも、任 にかけてアナログ記号がデジタル記号に置き的なネットワーク構造について跡づけていま天堂が二〇一四年に発売した am 一一 bo ( アミ 換えられていくデジタル転換というものも、す。西兼志さんが 2 巻『メディア表象』 7 章ーポ ) という、 ( 近距離無線通信 ) 機 ある程度は進行したと思います。たとえば門で行っている研究と重なる部分も多いと思い 能を搭載したフィギュアと W = U を連動さ 林岳史さんも 2 巻『メディア表象』 5 章「メます。もちろんこうした状況は現在でも続いせると、そのフィギュアがゲーム画面に出て ディアの消滅」で触れられていますが、これています。いまの子どもたちはそこからさらくるという製品があります。そうしたメディ からどんどんメディアの差異がなくなり、単に進んでいるのですが、はやりの『妖蚤ウォアが融合していく側面と同時にメディアの物 石田英敬教授 グ ン イ ス ク授 マ准 デジタル・スタディーズからの道 2
コミ研究が一九二〇、三〇年代には成立して いきます。最初は新聞を対象としていて、そ こからジャーナリズム研究が生まれ、続い て、戦時動員体制のなかで重要な役割を果た したラジオを対象とした研究が進み、さらに その流れのなかで放送研究が生まれ、テレビ 研究に至ります。そういうそれぞれの研究が ある種の安定的な閉域を作っていたし、研究 ういった構造や環境を私たちはさらに活かし者もそれぞれホームとなる自分の領域を持し、ユビキタスに溢れています。 では、その溢れる多様な断片を研究しよう ていく必要があります。それがメディア論やち、その結果としての体系性がありました。 メディア研究に携わっている者のある種の使もちろん、そうした体系性や領域性が全面的というとき、従来の細分化されたアカデミズ 命だと思います。決してメジャーになれなに無効だとはいまでも思ってはいません。とムのように、対象を明確に区切り、閉域とし い、マイナージャンルとい、つか、アカデミッ ころが一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての体系性を構築できるかといえば、それは て、メディアの存在地平のアナログからデジ難しいでしよう。そうではなくて、これから クマイノリティの実践です。 吉見メディア研究の学際性や脱領域性といタルへの移行は、学問的にも各領域の安定的メディアを研究する際に必要なのは、スタイ うことを受けていえば、テレビまでは既存の閉域を引き裂く断片化を引き起こしたようにンバーグさんかメディアミックスという形で 思います。そして先ほど中路さんがおっしや考えているような方法だと思います。それは アカデミズムかぎりぎり通用したのだと思い ます。テレビ研究までは、閉じられた対象領った、フィルムからデジタル映像への転換とつまり、対象は断片化した多様なメディア事 域をなんとか構築することができました。文いう、映画に起こったのと同じことが、文学象だったとしても、それぞれの断片が結ばれ 学研究は一九世紀から二〇世紀にそうした空やジャーナリズムでも起こったし、テレビでていく際の根底を貫く通奏低音をすくい上げ 間を作ったし、その後二〇世紀も半ばを過ぎも当然起こった。放送の領域でもそうしたデるようなロジックを探し求める必要があるわ ると映画研究、いわゆるフィルム・スタディジタルな断片化が起こっている。いまや、細けです。 ーズが成立し、あるいは美術史ももっと昔か分化されたさまざまなメディアの断片が社会それはキットラーの問い立ての仕方にも通 ら専門分野を形作ってきました。また、マスのいたるところ、私たちの身の回りに遍在じることではないでしようか。彼の議論がこ 中路武士准教授 吉見俊哉教授 デジタル・スタディーズからの道 4
【座談会】 デジタル・スタディーズからの道 [ 後篇 ] 石田英敬 東京大学大学院総合文化研究科教授 マーク・スタインバーグ カナダ・コンコルディア大学准教授 中路武士 鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系准教授 吉見俊哉 東京大学大学院情報学環教授 メディアミックスというバースペクティブ 吉見中路さんが提起された、あらゆるもの がスクリー ンやビジュアルの位相に還元され ていく、ポストメデイウム状况になりつつあ るといったことは、メディアミックスとも関 係があるのでしようか スタインバーグメディアミックスは、商業 的な面において、個別のメディアの特性を生 かすことで構築されたメディアシステムで す。今後、個別の媒体の輪郭がなくなってし まうのであれば、そのプロセスにおいて、メ ディアをどのように定義すべきかということ道 ら が問題になってきます。そしてどうやってメ ズ ディアミックスそのものを作るのかが問題に イ なる。これに関連すると思うのですが、キッ トラーは『グラモフォン・フィルム・タイプタ ス ライター』のイントロダクションで「デジタ ル ルべースでの完璧なメディア統合が達成され タ - ジ てしまえば、メディアという概念すら不要に デ そのすぐあとに「いまはまだ なる」といい ( 本誌二〇一六年六月号の前篇より続く。 ) 編集部
すし、世界的な流れでもあると思います。こプローチは、シリーズ 1 巻の執筆者が実践しのものとして、意識されない見えないものに の流れの先に生産的で明るい未来があるとはてきたこととパラレルですし、フロイトやソなってしまい、現在となってはある種断層に の 思えません。この方向は何か根本的に間違っ シュールといった人たちゃその後の現代思想なってしまっている面もあるのではないでし ら 、刀 ているのではないか。もちろん、そうだからと呼ばれる領域で重要な仕事をしてきた人たようか。その知の地殻変動のインパクトを、 ズ といって、逆に旧来の文学部や法学部、工学ちと根底において共通し、響き合っていると単なるノスタルジーや過去の権威の復活では デ 部に戻れば、 しい力というと、やはりそれも違思うのです。 なく、断片化した世界を貫くアクチュアルな タ 、つとい、つ ~ かします。 ただ、その根底にあった共通した姿勢が、 ースペクテイプとして再起動する必要があス 大きく変動する知のインフラの中核にあるある時期以降薄まり途絶えてしまっているのるのではないでしようか タ ジ ものを言い当てて、汎用性を持っ視座や理論ではないでしようか。一方で、メディアを研スタインバーグ賛成です。そういう多様な デ を導出する飽くなき模索をし続けなくてはな究するための参照すべきリファレンスという位相や事象を貫通するパースペクテイプは構 りません。その時に、「デジタル・スタディのがここ二〇、三〇年あまり更新されていな築する必要があると思います。それをどうや ーズ」というのは有力な橋頭堡になりうるのい状況があります。その二つの状況は重なりって作るのかを考えなくてはなりません。そ ではないでしようか。そのことについて最後合っているのではないでしようかいまでもしてそうした問題意識を醸成し、共有するう に一一一一口ずついただいて、この座談会を終えた ドウルーズやデリダといったところが参照さえで、『デジタル・スタディーズ』シリーズ いと思います。 れています。知の根底的な地殻変動を若いとは有用だと思います。メディアを考えるうえ きに経験した僕らのような世代からすると、で、このシリ ーズはここにいたるまでの過去 来るべきデジタル・スタディーズに向けて そこからほとんど更新されていないようにすの潮流と未来への開きが折り畳まれる結節点 石田吉見さんと私はすべての根底にあるメら感じます。 になると思います ディアの次元を追求し、多様な事象や領域をその知の根底的な地殻変動Ⅱパラダイムシひとっ注文をつけるならば、「アジアから つなぎ / 貫く視点についてこれまで考えてきフトが現在の学問や知的探究の可能性の条件のパラダイムシフト」という視点を今後より ました。もう少し自分の関心領域に引きつけになっていて、そこからメディア論やメディ追求してほしいと思います。現実社会におい てみると、メディアの理論は基礎的な部分にア研究というものが展開してきたわけですて * 0 e の発展のための生産拠点としての重 おいて、ある一貫した動きを持っていると思ね。しかし、その地殻変動もあらゆる領域に要な役割をアジアが担ってきたのは間違いな います。少なくとも僕がやってきたようなア影響を及ばし浸透したがゆえにあまりに自明く、またさまざまな多様なコンテンツの発信
す。さまざまなステークホルダーがせめぎあ石田だいぶ前にテレビの研究をしていて、論が構築しやすいわけです。アイコン ( イメ っていて、たとえばフィルム・スタディーそのときに考えたことですが、テレビを対象ージ ) とかインデックスのレベルになると、 ズ、ジャーナリズム研究、テレビジョン研としていても、ドラマの研究だとか、ドキュ抽象的ではない個別具体の対象なので一般化 究、ゲーム研究、ヴィジュアル・スタディー メンタリーの研究だとか、細分化していつが成立しにくくなる。だから、スタインバ ズ、文学研究等々、その他さまざまな領域がて、そればかり研究している人のタコッポ化グさんがおっしやったように、メディアある 大小の伝統を形成していくのだけれども、そが起こってくる。メディア研究の細分化はまいはデジタルメディアを対象とするときは、 れらを貫く機制を明らかにすることからしかすます進んでいるように思います。これは、個別の領域に閉じこもりがちになってしまう デジタルの問題は解ナよ、、 しオしというのが「デ記号論的にいうと、いわゆるアイコンやインので、ジェネラルな理論への一貫した志向性 ジタル・スタディーズ』の基本的なスタンスデックスにカテゴライズされるものを対象にを常に持っていることがなおいっそう重要で でした。封建社会化やタコッポ化に断固抗研究していることの一つの傾向ではないかとす。 し、デジタルメディアが立ち上がらせつつあ思ったりもします。人文学って基本的にメデ吉見石田さんと私でさまざまな形でコラボ る知、身体、権力の総体にまなざしを向けてイアが安定している限りは言語の研究なんでレーションし始めて、もう一五年程になりま いく、そういう意思は、二〇〇七年の国際学す。法律でも文学でも歴史でもつまるところすが、石田さんの根本は言語学者 / 記号学 会から今日まで、私たちに一貫してあるのではシンボル記号としての言語なんです。だか者、そして哲学者ですよね。私の根本は社会 はないでしよ、つか らそうすると、一一一口語Ⅱシンポル記号は一般理学者です。ここが二人のスタンスの違いにな の頁 過去に触れる 視 論集蓮實重彦 を 人 歴史経験・写真・サスペンス 3 十 工藤庸子Ⅱ編 現 演る一録製 田中純Ⅱ著 講鼎はリ収仕 て クつつ都約六価 気著税 区 -= テ 4 2 著 0 要四定 2 十 6 秘力をこ さカ し夫の ? 嫡重円 てみト人か 像張熱、定来る点製 0 って 記想緊過決未が並 g 圓都 「ボヴァリ 1 夫人」拾遺 なっヴ爵オ 」に、か亠中 . 日 - 京咽 「た歴極持向 束か仟日何に 2 定蓮實重彦Ⅱ著 いいた図 << 定 ⅱ ~ 果 9 デジタル・スタディーズからの道
だからカメラによって撮られた視覚映像は圧べースで進んでいくとポストヒューマンにな人文学の消滅が現実的になりつつあるいま 倒的であって、一九世紀から二一世紀にいたるわけです。ただポストヒューマンという考こそ、人文学や社会科学の役割やその可能性道 るまでメディアの主軸を貫いてきたのは機械えは、従来の人文学的な知と人間が消滅したの中心を冷徹に吟味したうえで、デジタル時 的な視覚の複製であるとまとめられるのでは世界との間にまだとどまっているといえま代における、あるべき位相を私たちが積極的ズ に展望する必要があります。 す。「人間が消滅した」あとはと 1 のマト ないかという気もするのです。 デ 石田吉見さんがおっしやったメディアの断リックスの世界だから、数学やコンピュータ吉見そもそも人文社会科学がそうした危機タ 片化ですが、文化は歴史的な配置の事後的効サイエンス、人工知能の領域であって、そも感から生まれてきた知だと思います。現代の レ タ - 果であるという前提が通用するかどうか、とそも人文学的な知は失効してしまうのではな人文社会科学の知のべースが形成されるのは ン いうことではないでしようか。メディアが遍いか、という議論になります。それで、この一九世紀末から二〇世紀初頭にかけてです。 デ 在化し断片化すると、そうした時代ごとの配『デジタル・スタディーズ』はそうした予見一九世紀末、産業革命と資本主義の支配によ 置の差異やグラデーションといったものが消に正面からがつぶり四つに組み合う必要があって目的合理性によって覆われる世界のなか されてしまうのではないか。つまりはデジタると思います。吉見さんが考察している「人で人間の文化だとか価値というものが存立し 、つるのか、とい、つ問題意識をウェ ルメディアとはそういうものじゃないか。だ文学は要か」という問いは、『デジタル・ ンメル、フロイトなどは明確に持っていたと からこそ、メディアミックスやあらゆるメデスタディーズ』か探究しようとしている問い 思います。新カント派のヴィンデンバルトや ィアのプラットホーム化といったメタな視点でもあるのです。状況次第では、人文学はい らないということにさえなります。それだけリッカートの認識も同様でした。世紀転換期 が立ち上がってくるのではないでしようか そのロジックを突き詰めていくと、現在の日大きなスティクがあると思うけれど、なかなにおけるそうした問題意識のせり上がりのな 本社会でさまざまな側面から問われているかそういうふうには理解されない。そうしたかで、人文社会科学的な知が形成されたので 「人文学は必要か」というところにもつなが危機感や認識を切実に抱いている人文学の専はないでしようか。ただ、それを受け継いだ ると思います。なぜかというと、文化は結局門家は少ないです。私たちは文理融合の情報後続世代にはそうした問題意識も薄れ、人文 デジタルに解体 ( 還元 ) できてしまう、社会学環で工学系の人たちとも一五年間一緒にや社会科学的な知はデフォルトで当然そこにあ だってデジタルに還元できてしまう。しかもってきたので、こうしたプロプレマティークるものとして発展させられていきます。だか そこには大きな経済的利得もあって、産業化により意識的にならざるをえないところがあら人文社会科学的な知の存在や価値が自明化 していくのです。 りました。 がどんどん進んでいく。そしてテクノロジー
れだけ大きな影響力を及ばした理由のひとっす。それは、現実の状況からも迫られている覚的表象を機械的に作り出す装置としてのカ でもあると思います。その意味でも、蓮實ーのではないかという気がします。 メラという存在に、それ以前以後という決定 キットラー対話は二〇世紀から二一世紀へのスタインバーグそういう意味では『デジタ的な断絶を見ているように感じられました。 転換を考えるときにかなり重要な意味や問い ル・スタディーズ』シリーズは大変に有用でそして、カメラについていえば、ダゲレオタ を含んでいるでしようね。メディアを考えるす。哲学から表象、空間へという流れが明確イプの発明が公式に発表された一八三九年か とき、二〇世紀的にというか、マクルーハ ンに打ち出されていて、一貫した姿勢を強く感ら現在に至るまで、身体のなかにまで入る手 的に映画や文学、テレビといった個々のメデじます。こうしたシリーズにおいてはある種術用のカメラやファイバースコープなども含 ィア領域の自律性は当然視しながら、それぞの一貫性が持続している例はそう多くないのめて、カメラによって眼差すこと、つまりカ れの形式的特性を導出するというのは有効なではないでしようか。 メラが被写体のイメージを機械的に生産し、 方法でした。ただ、二一世紀以降の全面的な そのイメージが流通し、現実を構成していく メディア研究と人文学 デジタル化とそれにともな、つ個々のメディア という一連の配置やシステムは、デジタル時 領域の融解によって、メディア事象の断片が吉見そこでもう一回、蓮實さんのキットラ代に入って衰えるどころかますます広がって 溢れ遍在する世界では、マクルーハ ン的方法 ーに対する問いに戻ると、彼は自律的なメデいます。そうすると、「すべての映画はサイ とは異なる、それぞれの断片に共通するものイアとしての映画について論じていると同時レント映画である」という仮説を解釈し直し を見出すロジックを追求する必要がありまに、カメラについても論じている。つまり知て、「すべてのイメージはカメラが生産する」、 八冊 0 又土へ間員一 0 の絡 らこ多 8 をを財 丁晉ロ・ . 0 0 = = ロ 0 / 済・ 8 るた訳 0 正 (-) コ円 8 くの 6 かお物 成源一貶 を評表 4 かの 3 、才”つ ( 自 0 こ 祉奴社田 で文描教 \ スき生 くる 揺え鵜 / 福ロ新房 いの家 立 レひ「訳 角砌舛「刊て 近えしう な史靍 又土のク 書 ス テにる美 国史代と史 ' 尹学 レそフ訳め 紀与索問 体マ縮権 主口を橋版 , 歴 ヒ の 世を模を 同境凝復 甲主テ義高装ク ト間ど由カ ンる物 帝界亡歴秀哲 が。クニ求 ス人た辻 展 半トをか 共環を物す 民と主。新ッ史ョぐ書 丿かを 曲ロ崎を版 らン「る と題主る [ 歴シめ [ との大の る想書み ( ア虫像論 研なと ・かヒ現士小 境す思 [ 里イ万国壮済ッ クを訳、よ 王文 2 大り経ラ 虫 昆相」識 筆の表始 グイと男ヒヒ環しの訳四 イå民とおレ 2 斗食前ど しン、と認 一ど究察 ルフ実忠ハ月 渡者森 会執くなら 学 コ T ン、」 * 元ンた治述アで異の ルレ」研老・ - 多たか 可一橋始大如目 紀ダを政詳 一ま驚」 出煥お新こ ダロ新功 史ス構と上士ルリを創・ 東 5 ー 一係とを ル日た性 禹など イ困の本 , 、分林亠ン虚象 ロ関食み ドムマー ) 様 オ受ポ団 李て集は デョめ國 ギは表集持デ貧学藏 5 デジタル・スタディーズからの道
* 印は東京大学出版会刊 寺田寅彦 ( てらたとらひこ ) 東京大学大学院総合文化研究科教授、比較文化。一九六六年生れ。・「高校生のための東大授業ライプ ガクモンの宇宙」 ( 分担執筆 ) 、「絵を書く」 ( 分担執筆、水声社 ) 、「西洋近代の都市と芸術 2 円世紀の首都」 ( 分担執筆、竹林舎 ) 、「十九世紀フランス文学を学ぶ人のために」 ( 分担執筆、世界思想 石田英敬 ( いしだひでたか ) 東京大学大学院総合文化研究科教授、記号学・メディア論。一九五三年生れ。・「デジタル・スタディー ズ」全三巻 ( 共編 ) 、・「記号の知 / メディアの知ーー日常生活批判のためのレッスン」、「大人のためのメ ディア論講義」 ( ちくま新書 ) 。 マーク・スタインバーグ カナダ・コンコルディア大学准教授、映画・メディア研究。一九七七年生れ。「なぜ日本は〈メディアミ ックスする国〉なのか」 ( 角川選書 )。 中路武士 ( なかじたけし ) 鹿児島大学学術研究院法文教育学域法文学系准教授、映画論・映像論。一九八一年生れ。・「デジタル・ス タディーズ」一巻、二巻 ( 分担執筆 ) 、「路上のエスノグラフィ」 ( 分担執筆、せりか書房 ) 。 吉見俊哉 ( よしみしゅんや ) 東京大学大学院情報学環教授、社会学・文化研究。一九五七年生れ。・「デジタル・スタディーズ」全三巻 ( 共編 ) 、「視覚都市の地政学ーーまなざしとしての近代」 ( 岩波書店 ) 、「「文系学部廃止」の衝撃」 ( 集英社 新書 ) 。 木下直之 ( きのしたなおゆき ) 東京大学大学人文社会系研究科教授、文化資源学。一九五四年生れ。・「講座日本美術史」全六巻 ( 共 編 ) 、「わたしの城下町」 ( 筑摩書房 ) 、「股間若衆」 ( 新潮社 ) 。 森千香子 ( もりちかこ ) 一橋大学大学院法学研究科准教授、社会学。一九七二年生れ。「国境政策のパラドクス」 ( 共編、勁草書 房 ) 、「排外主義を問いなおす」 ( 共編、勁草書房 ) 、・「排除と抵抗の郊外」。 辻智子 ( つじともこ ) 北海道大学教育学研究院准教授、社会教育学・青年期教育論。一九七一年生れ。「繊維女性労働者の生活 記録運動」 ( 北海道大学出版会 ) 、「労働の場のエンパワメント」 ( 共著・分担執筆、東洋館出版社 ) 。 澤井繁男 ( さわいしげお ) 作家、関西大学文学部教授、イタリア・ルネサンス文学・文化。一九五四年生れ。「絵」 ( 鳥影社 ) 、「評伝 カンパネッラ」 ( 人文書院 ) 。 池上俊一 ( いけがみしゅんいち ) 東京大学大学院総合文化研究科教授、西洋中世史。一九五六年生れ。「ロマネスク世界論」 ( 名古屋大学出 版会 ) 、「お菓子でたどるフランス史」 ( 岩波ジュニア新書 ) 、・「ヨーロッパ中近世の兄弟会」 ( 共編 ) 。 太田浩一 ( おおたこういち ) 東京大学名誉教授、物理学。一九四四年生れ。・「哲学者たり、理学者たり」、・「ほかほかのパン」、・「がち よう娘に花東を」・「それでも人生は美しい」。 清水あっし ( しみずあっし ) 公益財団法人東京大学新聞社常務理事 ( 二〇一三年より ) 。一九五七年生れ。一九八一年東京大学工学部 都市工学科卒業 - ) 齋藤希史 ( さいとうまれし ) 東京大学大学院人文社会系研究科教授、中国古典文学。一九六三年生れ。「漢文スタイル」 ( 羽鳥書店 ) 、 「漢詩の扉」 ( 角川選書 ) 、「漢字世界の地平」 ( 新潮選書 ) 、「漢文脈と近代日本」 ( 角川ソフィア文庫 ) 。 小沼純 - ( こぬまじゅんいち ) 早稲田大学文学学術院教授、音楽文化論、音楽・文学批評、詩人。「パッハ「ゴルトベルク変奏曲」 世界・音楽・メディア」 ( みすす書房 ) 、「魅せられた身体ーー旅する音楽家コリン・マクフィーとその時 代」 ( 青土社 ) 、「サイゴンのシド・チャリシー」 ( 書肆山田 ) 。 佐藤康宏 ( さとうやすひろ ) 東京大学大学院人文社会系研究科教授、日本美術史。一九五五年生れ。「湯女図」 ( 平凡社 ) 、「歌麿と写 楽」 ( 至文堂 ) 、・「講座日本美術史」全六巻 ( 共編 ) 、一伊藤若冲」 ( 東京美術 ) 、「改訂版日本美術史」 ( 放送大学教育振興会 ) 。 山口晃 ( やまぐちあきら ) 画家。一九六九年生れ。・「山口晃作品集」、・「山口晃が描く東京風景。ーー本郷東大界隈」、「す・、しろ日記」 ( 羽鳥書店 ) 、「す・、しろ日記弐」 ( 羽鳥書店 ) 、「山口晃大画面作品集」 ( 青幻舎 ) 、一ヘンな日本美術史」 ( 祥伝社 ) 。 冖執筆者紹介〕 、ヒつ 冖次号予告〕 学問の図像とかたち寺田寅彦 / ・新連 載法の森からーー A Letter from the Forest ofLaw 長谷部恭男 / トナリのシガク 加藤陽子 / 行政責任を考える 3 新藤宗幸 / 書評成田龍一 / 日本美術史不案内 佐藤康宏 / すゞしろ日記第回山口晃 " 、一一贏 >- 第四五巻第七号 ( 通巻五二五号 ) 二〇一六年七月五日発行 L-u 定価 ( 本体価格一〇〇円 + 税 ) 代表者ーーーーー古田元夫 一般財団法人東京大学出版会 発行 〒一五三ー〇〇四一 東京都目黒区駒場四ー五ー一一九 電話ーーーーー、。。。ー〇一一一ー亠ハ四〇七ー一〇亠ハ九 ファックスーーー〇三ー六四〇七ー一九九一 印刷・製本 , ーー大日本法令印刷株式会社 0 UNIVERSITY OF TOKYO PRESS 2016 - い 0 2