め 5 頁 らしだす。 索 9 8 を 4 井筒俊彦自身は東洋の思想をどう考えているのか。補助線と て め して『叡智の台座井筒俊彦対談集』 ( 岩波書店、一九八六年 ) 的皮 5 を から引いておこう。著者は「田 5 想伝統という点から見ても東洋 洋 精、青 は無秩序状態」 ( 同書「文学と思想の深層」、五七頁 ) と、「いろ東 彦庫 8 質俊文四 いろ素晴らしいものがある。しかしそれがバラバラに散在して神 青・本筒皮 と井本 識 ( ( 行 いて、一つの有機的まとまりというものがない。東洋、東洋と 意 0 年単 質 いうけれども、そのまま西洋と並べることのできるような状態 本 A 」 ではありませんー ( 同書、五七頁 ) と遠藤周作との対談のなかで 。そのひとつの通路として井筒俊彦のこの本があった。 述べている。おなじ本のなかではさらに、今道友信との対談で噫 彦 とはいえ、この場合の「東洋」とは何なのか。しかもアジア「共時的構造化された東洋哲学の諸伝統を、どうやって自分自 という言い方ではなく東洋なのである。西洋に対して東洋とい身の思想的エネルギーに転換できるか、それが現時点でのばく 井 うのを掲げてはいるのだろう。そのうえで、東洋というその大の主たる関心事なんです。それだけです。要するに、今までに 雑把なくくりは、とおもわないではない。西洋の思想家を十把自分の中に堆積されてきたものをここでサンクロニー的に平面 評 一絡げにすることができないように、ましてや時間的にも空間 書 に開いてみようというわけです。ディアクロニーでなしに」 的にも広大な東洋をひとつになどとは、と。それでいて、本書 ( 同書「東西の哲学」、一三四頁 ) とも述べる。そしてまた、今道 を読み進んでゆくことによって、意味するところは浮かびあが友信が「比較哲学」について問い掛けたときには、こんなふう ってくる。わからなさの霧がだんだんと晴れてゆく。ときに に「東洋」なる語のありようを提一小している。 は、さっと眺望がみえることさえあるような気になる。しかも 井筒俊彦は西洋的田 5 考を織りこみながら語る。サルトルがあり それは自己の問題を主にするというか、中、いに立てるとい メルローⅡポンテイか、マラルメがありリルケが、招かれて、 、つことに根本的なところがあると田 5 、つんです。つまり自分 こちらの見ているものをより広く、より明るく、部分的かもし を解釈する、解決するということですね。これは宗教的で れないし、その明るさゆえに影もまたはっきりするのだが、照 もあり、同時に哲学的でもあると思います。宗教的である 東洋習学の分析から得た 根元的思パターンを己 れの身にひきうけて主体 化しその基盤の上に新 しい色学を生み出さなけ れはならない。本書はこ うした問題意談を独自の 「共時的構造化」の方法 によって展開した社大な 哲学的営物であるが , そ の出発点には自分の実有の」が東洋にあるという 著者い引 4-93 ) の宿切な自第があった .
簡明に伝えつつ、一著作の重心を見定める。この「意識」とはまたすぐに日常のなかで薄れ、忘れてしまうのかもしれない 「本質」が、じつはそれほどシンプルには結びつかないし、意けれども、だからこそこの本にはときに立ち戻り、ところどこ 識も本質もともにどうとらえるかで大きく異なってくるそのさろではあっても読みかえすことが必要になってくる、未来へと まを描きだしてゆく作業が、本書全体の四分の三強を占め、十投企されることになってくるーーのだけれども。 二の節からなる井筒俊彦「意識と本質ーー東洋哲学の共時的構こうしたことばをつらねてゆくこと、あたまのなかでばんや りとしていることをことばという格子で切ってならべてゆく。 造化のために」である。 本書には「本質直観ーーイスラーム哲学断章」「禅におけるゆかざるをえない。しかしこのことばもまたさまざまな制約を 言語的意味の問題」「対話と非対話ーー禅問答についての一考受けている。文化によって異なった背景があり、そこでの本質 察」の三篇が、冒頭におかれた「意識と本質」で扱われたことも異なっている。そしてそもそも、ばんやりとしている何か、 を、タイトルやサプタイトルからもみてとれるように、部分的漠然としているものというのを、しばしば、忘れている。忘れ索 ているのではないか。そうしたことはたしかに日常的には言わ洋 に掘り下げた補論として収められている。「意識と本質」が、 サプタイトルのとおり、ひじように大きなくくりで東洋的思考れもする。はっきりと言い表せないけれどばんやりとは云々な を概観してゆくなか、概観はけっして上っ面なものではないにどというふうにも常套的には言う。だが、ほんとうにそうか もかかわらず、それが概観であるがゆえにわかっていてもとりあたまのなかでことばにならない状態だって、これまた幾層に こほしたり、故意に大雑把にくくったりしなくてはならないともなっていて、ばんやりとしているなどと言っているのはその本 うちでももっとも表層の部分にすぎないのではないかいや層識 ころを、部分的に補、つとでもいったらいいだろ、つか 「東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関などという言い方そのものもまたある図式化にすぎない。そん から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造なことはわかっているはずなのだが。 化しなおしてみたい」 ( 七頁 ) と本書の冒頭には記されている。 ヨーロッパの哲学・田 5 想にはわずかにふれていたりする。一 だから東洋における「意識」と「本質」をめぐり縦横無尽に論 じる、そうしたことを目指すものであると紹介できはしよう。方で東洋思想は気になっている。わたし、わたしたちが身をお しかしこの一言でまとめてしまう暴力を、本書を読んだ直後でいているのはそうした地域であり、そうした文化的な風土であ しや、それるからだ。しかし、その東洋なるもののとっかかりがっかめな あるなら、なおのことつよく抱かずにはおれない。ゝ
とができる。 で さらに続けて、佐藤は、 ( たんに「生存している」だけではな 中 の く ) 「相互に助け合いながら仕事と所得の場を再建あるいは創 本書は一三人の研究者による論文集であり、そのテーマは、 さ 北方性教育運動、公害教育・環境教育、東日本大震災、農山村建しながら、地域内経済循環を再構築して、自らの生活のみに 困 の の文化運動、社会的企業、子育て、公民館、博物館、大学、発とどまらず地域社会全体として自律的な再生産活動」を実現し そ 展途上国支援、韓国の地域づくり、ドイツ・脱原発への学習とていくことが課題である」 ( 三頁、引用されているのは岡田知弘 る 幅広い。また本書刊行に至るまでの研究活動の中で、編者の佐「災害と開発から見た東北史」〔大門正克他編『「生存」の東北史』大き 生 藤一子は、岩手県遠野市の昔話と山形県荘内地方の魚食文化の月書店、二〇一三年〕、傍点佐藤 ) という。地域内経済循環によ 伝承の取り組みを地域学習という概念を用いて論じている ( 報って実現される「生きる」「働く」「暮らす」が統合された「地地 告書『生活文化の継承と創造的発展における地域学習のネットワー域再生の可能性」、それをさぐりあてることがここでいう地域 ク形成』二〇一五年二月 ) 。 学習の目指すべき方向とされる。生産や労働と学習・教育と 本書において「地域学習 (community learning) 」は次のようを、現代的な状況の中で今一度、関係づけてゆく、その実践と にとらえられている。「住民グループや地域自治組織、行政・理論の枠組みを問い直したいとの意欲が伝わってくる。 公共機関、各段階の学校・社会教育機関、 Zæo ・ ZCO ・協その際、福祉や文化を含む暮らしの「再生産力」、子どもを 同組合などの非営利経済・社会セクター、民間企業あるいはそ産み育てることのできる地域の暮らしを回復できるかどうかか の社会貢献活動部門などの多様な担い手が、単独でまたは相互鍵であるとされる ( 四 5 五頁 ) 。地域にかかわる教育実践の日 に連携・協働して地域再生・課題解決の方途を探り、「維持可本における分厚い積み重ねを再評価し、現在各所で展開される 能な地域」を追求する学び」 ( 二頁 ) 。ここで目を引くのは「地様々な地域づくりの実践や論議へと発信し接続させてゆかねば ならないとの意図もそこにはある。それを端的に示すのが、た 域再生」「維持可能な地域」 ( 傍点引用者 ) という言葉である。 へん広汎な内容からなる、目配りのきいた本書の構成であ 「再生」「維持ーという言葉からは、差し迫る危機的状況、あるい いはいったん死んだ絶望的な状況を経ながらも、それが終焉する。地域学習論の探求過程を戦後の地域教育運動の歴史に即し ることなく、再び息を吹き返して生まれかわる、息絶えそうにて明らかにした部、震災被災地・農山村地域・都市における なりながらも何とか生き続けている、そんな含みを感じとるこ地域課題とそこでの住民の学習や協働を描いたⅡ部、社会教育
の側面のコトバの問題性の主眼点がある」 ( 一三二頁 ) 、と。そなからず一二つの部分に分けられることがある、それを下敷きに してこういう一節で震撼するのである。 したのだろう程度におもっていた。だが、『意識と本質』のこ て め の部分、「Ⅵ。節の最後に遭遇したとき、鈴木大拙の教えを受 索 を たか、いくら無「本質」的といっても、それが存在の分節けたケージが、のつべりとただある一定の時間何も演奏家にさ 洋 東 ( し力ない。 である限りは、コトバを離れてしまうわけによ、 ) せないというのみならず、敢えて三つの部分に分けたことを、 的 神 沈黙はものを分節しないからである。 ( 一三八頁 ) 「沈黙はものを分節しない」と交差させずにはいられなかった のである。これが正しいかどうかはわからない。ケージが意識 質 沈黙はものを分節しない こうして記されてはじめて気づしたかどうかもわからない。たた、こうしたかたちでみると 本 AJ く。沈黙については考えることが少なからずありはした。だ《四分三十三秒》がまた異なった相貌をあらわしてくるのでは 意 か、このように考えたことはなかった、と。そして凡庸であるないか。そんなふうに考えるのである。 彦 ことを承知のうえで記すが、そのときにすぐ想起されたのは、 井筒俊彦は先の文章につづけてこう記す。 ジョン・ケージ《四分三十三秒》であった。あらためて説明す 井 るまでもない。タイトルとなった時間、演奏家が何も演奏しな だから、何とか言わなくてはならない ( 「速やかに言え、 一九五二年に作曲・初演された「沈黙」の作品である。だ 速やかに一一一一口え」 ) 。控杖は「挂杖」という語の意味作用によ が、この作品、出版された楽譜をみればわかるとおり、三つの って、はじめて牲杖として分節される。但し、それを「本書 部分に分かれている。ただずっとその時間、演奏家が何もしな 質」ぬきで、「本質」を喚起せずに、やれというのだ。禅 いのではない。三つの部分を、ピアニストは都合三回、ピアノ 的状况において使われたコトバが、時として著しく不自然 の蓋を閉め、開けるのだ。わたしが本書を読んだのは二十代半 な、歪曲されたもののような印象を与えるのはこのためで ばだが、それまでにケージの作品について少なからず考えてい ある。なぜなら、常識的な言語状況においては、原則とし た。そして、初演の際のエピソードもいろいろなところで読ん て、語の意味作用はすなわち「本質」喚起作用にほかなら だ。一枚ペラの楽譜も持っていた。だが、どうして三つの部分 ないのだから。花を花として「本質」的に固定させずに、 に分けられているのかは考えたことがなかったし、考えようと しかも花として分節することは、普通の人にはほとんど不 さえしていなかった。せいぜい西洋芸術音楽における楽曲が少 可能事だ。この不可能事を、しかし、褝は厳として要求す スロ
デリダについて書いた「デリダにおける「ユダヤ人」」を掲載 したのは「思想』の一九八三年九月号だったし、まさに『意識 て め と本質』の単行本化と並行していたのだった。 を 本書にはまた、「国際化」という語がみえたりする。「いわゆ 洋 東 る国際化の現象が、哲学の領域でも急速に進んで、日本語をも 的 神 ってする日本人の哲学的思考が、その内容においても表現形態 においても、ほとんど完全に西洋化している現代的状况においりを持ち、その深度をも併せもつ、三次元・四次元的なデイメ ては」 ( 『意識と本質』、六二頁 ) といった物言いは、二〇世紀末ンションを持っために、その語り口のわかりやすさにもかかわ質 AJ リゼーシらず、読み手の咀嚼には時間を要する。というより、なかなか から現在に至るまで用いられている世界化、グロー 意 ョンとは異なったニュアンスとして、七〇年代後半から八〇年理解に達さない。しかし著者はつねに、何度も重要なことをく 彦 「にかけて意識され始めたことを、およそ時代性とははなれた りかえし、また復習さえしてくれる。前にも述べたけれども、 俊 筒 なかで思考されていることながらも、その時代生を著者が意識といったように、丁寧にくりかえす。そのうえで、あらたな論 井 していたことを気づかせる符丁として読める。いうまでもなが加えられてゆく。その意味では教育的と言ってもいい。 く、グロー リゼーションが進行するなかで、「九・一一」がそのうえで、忘れてはならないのは、そのフレーズのつくり 起こり、が生まれてくることを、二十年、二十年以上方であり、体言止めなどを多用する文体である。論文の多くを書 の歳月の経過があるにしろ、井筒俊彦がテヘランを離れたこと席巻する、というより、そういう文体のみが無反省に目指され る「である」調を、たしかに使ってはいるものの、随所で自由 とまったく無縁なこととみることはできないだろう。 に変奏させる。ここに内容だけではない表現をも意識する著者 『意識と本質』ほど、先にも記したように、噛み砕いて東洋の姿勢を、『コーラン』の翻訳者の文章に対する姿勢を、西脇 思想を語ってくれる本はない。語り口はかぎりなく平易だし、 順三郎の影響を受けたことばへの姿勢をみることができるかも ロジックをたどっていけば、すんなりと ( その場・そのときは ) しれない。 理解できる、あるいは理解できた気になる。それでいながら、 とはいえ、本書がそもそも語ろうとしているのは、人なるも 扱っていることは平面的ではなく、むしろ思想的な地理的広がのかよくわからないもの、不気味なもの、底に何を秘めている 中村廣治郎 新装版イス一フム思想と歴史 四六判・二八〇頁・二五〇〇円 東京大学出版会 ( 表示は本体価格 )
和子 ) といった具合である。ここからは、学校がすでに地域に界を学びあい、取り戻すべき生活世界の価値を再確認し、つな で 開かれた存在になっていることがうかがわれる。他方、確かがりあうという方法」と意味づける論文 ( 石井山竜平 ) 、チェル に、学校や教師にはらまれる社会の矛盾はむしろ見えづらくなノブイリ後のドイツの市民の動きについて「不確実性に付随すの さ っている、焦点化されなくなっているようにも読めた。 るリスクをコントロールし乗り越えようとする、個人や社会の難 この点、発展途上国の実践ではそれがより見えやすいよう学習の積み重ね」ととらえ、なかでも「感情を直視し適切に取の そ り扱うことによって、個人のなかに主観的に安全と制御可能性 だ。社会開発のためのコミュニティ学習援助の文脈であるが、 「もともと地域は均一でまとまった存在ではなく、そこにも多の感覚を作り上げ」る過程に目をとめる論文 ( 三一五頁、高雄き 生 くの権力構造が存在する。そこで声があげられる者、そうでな綾子 ) 。また、日本の農山村で広がる地域間・世代間の「交流」 い者の政治・社会・経済的構造を無視したままで、結果的に利と「対話的文化運動」 ( 「文化運動を通して人々に対話性や多声性地 へ展開をはかる一連の営み」一〇 権を得られる人にのみ参加型アプローチのメリットが集中してな言語空間を保障し、地域づくり 二頁、岡幸江 ) 、「文化」「仕事」「学習福祉ーの三つの柱の循環 しまう場合も多く、そうなると『参加』は形骸化してしまい、 結局既存の権力関係が再生産され、抑圧が維持されることにもに学習共同体の創出を見る韓国の「マウル」づくり ( 「マウル」 とは「農村における地域」、さらに「人々のつながりや共同体」を指 なりかねない」 ( 二五五 5 二五六頁、大橋知穂 ) との指摘がある。 これはいまだ日本の地域においても当てはまりうることなのです、二七六頁、金侖貞 ) 、社会的企業 (social enterprise) の活動 はないだろ、つか それ自体を「人びとが自らの暮らしの主体者として関わり、意 また、学習といういとなみの多彩さも本書によって強く印象識化するプロセスの総体」 ( 一二八頁、大高研道 ) としてとらえ づけられた点である。「現代日本における地域再生にむきあうる見方にも学習観の広がりが示されている。 このよ、つな意味での学習が、死に絶えそ、つになりながらギリ 学習とは、『人間性の復興』への希望を拓き、『暮らし』をとり もどす共同の知恵と力を身につけていく生き方の追求」 ( 五頁 ) ギリのところで踏みとどまって最後の砦を守っているような人 だと編者・佐藤は述べている。その具体的な展開は、本書でびとの中で行われうるとしたら、それを可能にするのは、どの 様々に描かれている。同じ地域で被災した者どうしが互いのような状況なのだろうか。さらに深く考えてみたいテーマであ 「本音」を聞いて「地域の意志」をまとめてゆく作業 ( 状態調る。 ( つじ・ともこ社会教育学・青年期教育論 ) 査を応用した地域調査学習 ) を「分断を越え、それぞれの生活世
哲学・思想を語るときの独特な語彙につますくことがあった としても、漢字ひとつひとつが持つ意味やニュアンスを想像し てゆくなら、けっしてややこしいことが一言われているわけでは よい。語彙に置れているならむしろ噛んで含めるようにわかり やすい文章である。 意識とは本来的に「 : : : の意識」だというが、この意識 本来の志向性なるものは、意識が脱自的に向っていく ・ : 」 (*) の「本質」をなんらかの形で把捉していなけ れば現成しない。たとえその「本質」把捉が、どれほど漠 いわば気分的な了解のような 然とした、取りとめのない、 ものであるにすぎないにしても、である。意識を「 : : : の 意識」として成立させる基底としての原初的存在分節の意 味論的構造そのものがそういうふうに出来ているのだ。 井筒俊彦『意識と本質ー精神的東洋を索めて』小沼糸 〔書評〕 0 0 て め を 洋 東 的 神 質 本 A 」 >< を「花」と呼ぶ、あるいは「花」という語をそれに適噫 用する。それができるためには、何はともあれ、がなん彦 であるかということ、すなわち >< の「本質」が捉えられて筒 いなければならない。 >< を花という語で指示し、 >* を石と いう語で指示して、 >< をとを言語的に、つまり意識現象 として、区別することかできるためには、初次的に、少な書 くとも素朴な形で、花と石それぞれの「本質」が了解され ていなければならない。そうでなければ、花はあくまで 花、石はどこまでも石、というふうに同一律的にとと を同定することはできない。 ( 井筒俊彦『意識と本質』岩波 文庫、一九九一年、九頁。強調は原文。以下本書からの出典は 頁数のみで示す。 ) 「意識」と「本質」、それぞれの語の意味合いをこのうえなく 1
今月の新刊 〈主要目次〉 新保敦「卞しんばあっこ ( 早稲田大学教育・総合科学学術院教授 ) 序章豊かさへの渇望と閉塞する社会空間 あこともこ ( 東京大学大学院総合文化研究科准教授 ) 阿古智子 第一章英語教育と民族間・地域間の教育格差 第一一章少数民族大学生と就職 第三章移動の中の少数民族家族と文化伝承 超大国・中国のゆくえ⑤ 第四章格差社会の構造 第五章揺れ動く言論空間 勃興する「民」 第六章国境を越えた公共圏の構築に向けて 終章勃興する「民」と社会の再生への道 急速な経済成長の險でさまざまな矛盾を抱え、引き裂かれる中国社会。社会 0 超大国・中国のゆくえ全 5 巻 の断裂はどのように乗り越えられるのか。格差の構造や揺れ動く - 一 = 口論空間 そのなかで苦闘する人々の姿に迫ることを通じて、社会変革を阻む要因を抉【既刊 3 冊】②外交と国際秩序青山瑠妙・天児慧定価 ( 本体一一八〇〇円 + 税 ) り出し、中国社会のゆくえを考える。 【シリーズ全 5 巻 / 第 4 回配本】 / ③共産党とガバナンス菱田雅晴・鈴木隆定価 ( 本体三一一〇〇円 + 税 ) / ④ 四六判・ニ五六頁 / 定価 ( 本体三ニ〇〇円 + 税 ) 経済大国化の軋みとインパクト丸川知雄・梶谷懐定価 ( 本体三〇〇〇円 + 税 ) 一 SBN978 ー 4 ー一 3 占 34295 ー 7 【続刊】①文明観と歴史認識劉傑・村田雄一一郎 〈主要目次〉 大橋雄おおはしやすお ( 中央大学理工学部教授 ) 第 1 章 c.D<(D による生存時間解析の応用にむけて 1 生存時間解析と / 2 はまだちくま ( 東京理科大学工学部教授 ) 浜田知久馬 生存関数とハザード関数 / 3 本書で扱うデータ概要 / 4 ODS Graphics によ 佑 ~ 住龍史うおすみりゅうじ ( 京都大学大学院医学研究科助教 ) るグラフの出力第 2 章生存関数のノンバラメトリックな推定と検定 (—J—LLU.II—W プロシジャ ) 1 ノンパラメトリックな生存関数とハザード関数の推定 / 2 生存関数の群間比較第 3 章コックス回帰によるハサード比の推定とその拡張 (æ 1CCW(5 プロシジャ ) 1 Ⅱプロシジャによる様々な線型仮設に対する 検討 / 2 共変量および多重性の調整 / 3 最大対比法の適用 / 4 モデルの による生物統計 評価 / 5 フレイルティモデルと周辺コックスモデルによるクラスター生存時 生存時間解析の方法論は急速な進歩をとげ、現場におけるØ<U) の重要性も間データの解析第 4 章生存時間解析における例数設計 ( O-OBWC プロシジャ ) 増している。本書は、実務家が実際の臨床試験で活用できるよう、その最新 生存時間解析における例数設計の概要 / 2 フリードマンの方法とショ 1 機能と統計手法について具体例やプログラムをまじえ、詳細に解説するものンフェルドの方法 / 3 プロシジャによる生存時間解析の例数設計 である。Ø<U) の最新バージョンに対応した待望の応用編。 <LO 判・ニ四〇頁 / 定価 ( 本体四八〇〇円十税 ) 一 SBN978 ー 4 ー一 3 ー 0623 一 7 ー 9 0 生存時間解析大橋靖雄・浜田知久馬定価 ( 本体一二六〇〇円 + 税 ) 生存時間解析応用編
る。「這箇を喚んで牲杖と作さば、すなわち是れ礙。喚んらこそケージの禅の影響、禅への傾倒を読みとるべきであるか で牲杖と作さざるもまたこれ礙。此を離れてほかに、畢もしれない。偶然などではなく、むしろ、ケージは意図的に、 竟、如何」と。 ( 一三八頁 ) 意志的にこうした語を使っていたのだ、と。しかし、こちらは ケージをそうしたかたちで読み解くことを望んでいるわけでは また、節があらたまった後、このような文章を読むことがでないし、そうした影響云々で何かをしたいわけではない。そう きる。 した影響や照応はあるかもしれないが、むしろケージをとおし て禅が、あるいは東洋思想が照らしだされるさまを、『意識と 全体的構造としての褝はもっと遥かに動的だ。少なくとも本質』で、『意識と本質』とともに見いだすばかりで事足りる。 第一義的、第一次的には、禅は全体的に、一つのダイナミ いや、本書を読みながら音や音楽とからみあったかたちで考て イヴェント プロセス ックな認識論的・存在論的過程、あるいは出来事、としてえたことは多くある。それについて、しかし、ここではこれ以索 洋 捉えられなくてはならない。そしてそのようなダイナミッ上述べようとはおもわなし牛 : 寺に、「意識」が「本質」を見い 東 的 クな全体像の中に置いて見ると、禅体験の様々な部分的側だすなか、そこに音や音楽が不可避的にかかわらざるをえない 面も決して静かな状態ではなくて、一つ一つが生々躍動す時間の問題がどうなるのかを、わたしは「東洋思想」との関連精 る動的な「出来事ーであることが明らかになってくるのでのなかで思考することができないでいる。あるいは、わたしが 質 ある。 ( 一四二頁 ) 通りに面した窓を開け放したまま自室で、耳にはいってくる音本 A 」 意 ケージの思想、ケージの音楽 ( 作品 ) が脳裡にのこっている イヴェント プロセス 彦 うちにこの文章を読むと、避け難く「過程」「出来事」とい、つ苅谷康太 唔に引っ掛からずにはおれない。ケージがその著書や作品のな イスラームの宗教的・知的連関網 アラビア語著作から読み解く西アフリカ かで用いていた語がまさにここにある。これを、こちらもまた < 5 判・三六四頁・九八〇〇円 ケージの語を用いるなら、偶然、と呼べるのか。偶然というに 評 書 はあまりに出来すぎている。まさに磁石に吸い寄せられるよう フ / にして、集まってくるような語であり概念である。いや、だか 東京大学出版会 ( 表示は本体価格 )
かわからないもの、だということではないか。わかったようで著者はけっしてこの不気味なものを飼いならそうとはしない わからないもの、それが人である、と。だが、人はつねにわかし、それが現れることを期待しまた怖れてもいる。それはどん ってしまうし、わかったようなふりをしてしまう。すくなくとな人にでもおこる可能性があるし、たとえそうしたことにまる ) 、象したこともない人でも、突如として噴出し も井筒俊彦はそれに与しない で関心のなし杰イ てくることかある。 底の知れない沼のように、人間の意識は不気味なもの 本書についてこまかいことを論じてゆくことは、わたし自身 だ。それは奇屋なものたちの棲息する世界。その深みに、 一体、どんなものがひそみかくれているのか、本当は誰もにとっては力不足ゆえに無謀であり、目指してもいない。 ) て 知らない。そこから突然どんなものが立ち現われてくるつか気がついたところをクローズアップするとか、個人的な所 め か、誰し こも予想できない。 感を書きこんでゆくばかりだ。 を 洋 人間のこの内的深淵に棲む怪物たちは、時としてーー大そして、ある一節に目をむけてみる。禅をめぐって記される 東 イマージュ 抵は思いもかけない時にーー妖しい心象を放出する。その「Ⅵー節から引く 「コトバにたいする褝の態度とそれの取的 イマージュの性質によって、人間の意識は一時的に天国に扱い方にはまことに異常なものがある」 ( 一三二頁 ) 。そして精 ここではものの名ーーが、その名の意味するとこ もなり、地獄にもなる。ただ、屋物たちは、ふだんは表に「コトハ 質 姿を現さない。 ということは、彼らの働く場所が、もともろに従って存在を分節し、こうして意味指一小的に切り取られた本 A 」 と、表層意識ではないということだ。だから人間の、ある存在断片を「本質」的に凝結させ固定してしまうところに、こ 意 いは自分の、表層意識面だけ見ている人にとっては、それ 彦 俊 らの蚤物は存在しないにひとしい。屋物たちの跳梁しない 井 表層意識をこそ、人は正常な心と呼ぶ。平凡な常識的人間柳橋博之編 の平凡な意識は、まさに平穏無事。もし怪物たちが自由勝イス一フーム知の ~ 退圧 手に表層意識に現われてきて、その意識面を満たし支配す 評 書 れに至れば、世人はこれを狂人と呼ぶ。 ( 一八〇ー一八一 東京大学出版会 ( 表示は本体価格 ) < 5 判・三六八頁・七八〇〇円