こう。社会契約は国家を設立する契約である。国家の存在しな impératif 」という制度を導入すべきだと主張してきた。そう い自然状態で人類が遭遇するさまざまな困難を解決するためしないと、法律の制定に人民が関与しているとは言えないか 0 ら、というのがその理由である に、人々は結集して社会契約を締結し、国家を設立する。 ただ、社会契約論の共通点はここまでで、それから先は、論 ところが日本国憲法では、国会が唯一の立法機関とされてい 者によっていろいろである。自然状態で人類が遭遇する問題はるため ( れ条 ) 、法律を直接に国民投票で制定することはでき 何か、どんな統治のあり方が正しいかは人によって答えが違ないというのが通説だし、命令委任も、国会議員が「全国民の う。ルソーの場合、社会契約の解決すべき問題は、国家に服従代表ーだ ( つまり各選挙区の有権者の代表ではない ) という憲法 して暮らす人々が、それでも自然状態の下と同様に自由に生き条に違反するため導入できないとされている。これでは、国 A 」い、つの」かルソ 1 ・ ることができるためには、社会契約の内容はどのようなもので民は本当の意味で自由であるとは言えない、 なければならないか、であった。 嫡流を称する人々の主張である。 ルソーが与えた答えは、大まかに言えば、次のようなものでまことにもっとものように思われるが、すべての法律を国民 ある。国家は人々が作り出した約束事である ( 法人である ) 。こ投票で決める国家は、直接民主政と形容されるべきであろう。 の約束事は、法律に基づいて行動する。だから法律の制定にすところがルソーは、『社会契約論』第 3 篇第 4 章で、「民主政と べての人々が関与するよう制度を仕組んでおけば、国家に服従いうことばの意味を厳密に解釈するなら、真の民主政はこれま する人民は、結局のところ、自分たち自身が制定した法律に基で存在しなかったし、これからも決して存在しないだろう」と づいて行動する国家に服従していることになる。つまり、人々述べるだけでなく、「もし神々からなる人民があれば、その人 は自然状態と同様、自分の意思にのみ従っているという意味で民は民主政をとるだろう。これほどに完全な政府は人間には適 自由だ いろいろとアナのある議論ではあるが、それなりにしない」と一一一一口、つ。 筋の通った物語にはなっている。 ちょっと待ってくれ、という声が聞こえる。ルソーの一一一口う政 は、統治を誰 ルソーの議論をまじめに受け止める憲法学者は、法律の制定体分類論ーー君主政、貴族政、民主政の区別 には人民が直接に関与しなければならないとか、すべての法律が担当するかの分類であって、主権、つまり立法権を誰が担う を国民投票で決めるのが無理だとしても、国会議員の発言・表かの問題とは別だ。主権は人民自身が担うべきもので、他者に 決を出身選挙区の有権者たちが拘東できる「命令委任 mandat 委譲することはできない。だから、民主政は通常の人民には不 [ 法の森から一一一 <A Letter from the Forest of Law 〉 ] 1 ルソーの loi は法律か ? 2
の規制、特定の地域の災害復旧、特定の人々に対する社会保障ギリシャの都市国家は奴隷労働が支えていた。人民集会で熱 給付など、ルソーであれば「統治」に分類すべき事柄に関わっ心な討議が行なわれたのは戦争と平和の問題であり、一旦敗戦 律 ていることはすぐに分かる。人民集会も間をおいて集会するもすれば自らが奴隷となり、自由と財産のすべてを失うからであ 法 ので、こうした「法律、の制定に携わるわけではない。憲法をる。奴隷が退場し、市民が分業して経済を支える近代社会で、 の 制定し、統治担当者を決定した後は、人民は各自、日常の市民古代ギリシャと同様の直接民主政治はあり得ない。民主政は、 ソ 神々のごとき人民にとってのみ可能だとルソ 1 が主張するの 生活に戻っていく。 こうしたルソーの想定は、ジュネーヴ市民に宛てられた『山も、そのためである。しかし、これがルソーの描くあるべき国 家の姿だと言われても、腑に落ちない人は多いであろう。まず からの手紙』第 9 書簡の次の叙述にも示されている 思い浮かぶ疑問は、『社会契約論』第 3 篇第燔章におけるイギ スの国制に対する批判をどう説明するのか、というものであ 古代の人民は、もはや現代の人民にとってのモデルとはなリ らない ・ : 君たちジュネーヴ市民は、ローマ人でもなける。 : 君た ればスパルタ人でもない。アテネ人でさえない 主権は不可譲であるが、その同じ理由によって主権は代表 ちは商人、職人、プルジョワで、私的な利益、仕事、取引 され得ない。主権は本質的に一般意思に存するが、意思は や稼ぎで頭が一杯だ。自由でさえ、あなた方にとっては、 : だから人民の代議員は、人民の代表 *-% 代表され得ない 差し障りなく安全に物を獲得し所有するための手段にすぎ 、 0 。皮らは使者でしかなく、何一つ決定し得 ではあり得ない彳 オし ・ : 古代の人民のように余暇を持ち合わせない君た しかない。だからこ ない。人民が自ら承認しない法のすべては無効であり、法 ちは、統治に間断なく関わるわけには、 ら 、刀 ではない。イギリス人民は、自由だと信じているが、彼ら そ、政府による策謀を監視し権限濫用に備えるよう政府を 森 の は自らを欺いている。彼らが自由なのは議員の選挙期間中 設定する必要がある。君たちのためである公的な務めは、 法 だけで、選挙が終われば人民は奴隷であり、何者でもな 君たちにとって負担となり、君たちがやりたがらないもの ) 0 であるから、それだけ簡便に遂行できるようにする必要が ある。 この有名な一節は、ルソーが国会議員に対する命令委任を要
可能だというルソーの言明も、法律の執行にあたる業務を人民 ( 第 3 篇第章 ) 。①主権者〔人民〕は現在の統治形態の維持を 自身が直接に行なうことは、現実には不可能だし、歴史上その望むか、②人民は現在の統治担当者に今後も統治を委任する 例もないというだけの話で、とくに不田 5 議な言明ではない。 か。①は立法の、②は統治の問題である。立法が統治形態の決 ルソーが主権と統治とを区別していること、そして主権が立定に関わることは、同じ章の次の叙述からも分かる。 、刀 法権であり、法律制定権限であるというのはその通りである。 律 しかし、そこで言っている「法律 loi 」とは何なのか。ルソー 人民が集会して一連の法 (loix) を承認し、憲法を定める法 0 (fixé la constitution de l'Etat) だけでは十分ではない。継続 によれば、統治業務を誰に委託するかの決定でさえ法律の制定 の ではない。それは「誰に」という個別の対象に関する決定で、 的な政府を設営し、政府構成員の選任についての定めを置 一般的対象しか持ち得ない立法権の範囲を超える。統治業務を いただけでは十分ではない。予期せぬ状況に応ずるための レ 委託する決定も、もちろん人民集会が行なうのだが、この決定 非常の集会に加えて、廃止したり延会したりすることので は立法権の行使ではない。 この問題についてだけは、人民集会 きない定期の集会が、予定されるべきである。 は統治権を行使しているというのが、ルソーの回答である ( 第 0 3 篇第片章 ) 。 現代国家で議会が日々行なっていることを想起すれば、それ その人民集会は、次の二つの事項に関する決定を必ず行なうが真の意味で一般的対象を持っことは稀で、むしろ特定の職業 0 し賭こ 最科真 かるの 停ル文 支恐る 品論の ) ・治ま社 8 カ 析 ン にをた 4 一とよ 6 、外迫囲 、べを 述明る 戦作化学国政渡と 分 地業見 記をれ房 兆学進文 \ 災詩も集め生現と訳た、一主ノ繁訳史者訳 の系ら権書靦 6 文を較訳禾か育、系学 への史比か丑ハの きう。び明しべ人。的理歴のの著子 西学るほ 料・据新本号ム体く復 君 どか人宏宀木 翻リすに書す額 降長た限き吶をるく井 以、し極 」期えゅ原繁 , の、。読〈の鴛学鬚 物 のよナ在か [ み ( 災び達。へ ( 末迎に 船資移乱。 は繁テ者 シ古し分。 ) ( モロら治 制反史 現ヤには夫郷 学析に究 弋生ラ賞る 呈震運到地すく終う死「 しデ樋か政論 2 9 をに境 ゅど、ライがスポ受探士一ル一強と洋 ~ 只 3 4 ⅸ = = ロ 一意藤文目 又力量抗西 造足いい死にアをくド 界テタ瞰鰤と 近根プ一賞に 剛もつな 死ン時描間ハ のルコ学換女ィ大抵大 世ツ一俯紀相山日ブ、い徹 のレ 増どての ワのが人 デた、し レデら世 ウ念。を せ草工の済転 そ 士ロノ、けと ハらみか ガ期医のなフ滞経化 レえ布黒 モをか幻 田ド理で会 3 [ 法の森から
くびき 古典を読むのは難しい。ついつい、現代に生きる自分たちの軛を課す。人間性を変革された人民は、一般意思の実現を追求 用語法に引きつけて読み込んだり、分からないところは無意識する偉大な国民となる。 立法者と言うよりは、憲法立案者と呼ぶべきもののように思 に読み飛ばしたりしがちである。 ジャンージャック・ルソーの『社会契約論』は、泣く子も黙われる。なぜ立法者なのだろうか。不思議だと思いつつもとり る古典中の古典で、憲法学者も読む ( 少なくとも読んだ振りはすあえず先に進もう、と読み進んでいるうちに、その疑問も忘れ てしま、つ る ) 。ところが困ったことに、いろいろ分からない占かある。 たとえば、第 2 篇第 7 章に現れる「立法者一ég a ( eu 「」がそれしかし、この疑問を真剣に取り上げてみると、それがもう一 つの疑問につながることが分かる。「立法者、が立案するのは である。 立法者と言っても、現代流の立法議会でもなければ、原案を「法律一 0 一」である。しかし、ルソーの言う一。一は、我々が考え 作る起草者のことでもない。それは人民全体に制度の枠組みをる「法律」なのだろうか。しかも、この問題は、『社会契約論』 与え、人間性を変革してしまうほどの天才的存在で、歴史上、の第 3 篇でルソーが強調する「主権 uv 。「 a 一 n 。 ( 0 」と「統治な ら リュクルゴス、モーゼ、モハメッド、力し 、し政府 gouvernement 」の区別と直結している可能性がある 稀にしか出現しない ルヴィンがその例で、彼らの考はあまりにも深遠なので、目 ( ということを最近読んだ R 一 cha 「 dTuck. The s 一 0 ~ ・ = gSo ミ「森 法 先の利害に目の眩んだ一般人は、それを理解することができな ( c mb ュ dgeUn 一 ve ( yp 「 0 に 0 こ ) から教わ 0 た ) 。 リこ、『社会契約論』全体の構造を復習してお その話に入る前 ( そこで彼らは、宗教の力を借りて人民を心服させ、制度の 0 新連載法の森からーー〈 A Lette 「→「 om the FO 「 est 0 → Law 〉 ルソーの一 0 一は法律か ? 長谷部恭男 <A Letter from the Forest 0f Law 〉 ] 1 ルソーの 10i は法律か ?
仲間がユダヤ系の店主の商店を襲い、人質をとり立てこもり、 マスメディアが「これは〇〇〇問題だ」と言い、オーディエン 計一七人の犠牲者を出したのが、シャルリ・ で エブド事件。そのスがそれを信じこむとき、その被構築性に気付く第三者 ( 研究 一〇カ月後、ベルギー内で—co 系組織によって準備され、同じ者など ) が、それは虚偽問題だ、見かけ上の問題だ、と指摘すの く移民出自のフランス人の実行犯が、パリ市内のコンサートホることはありうる。 A 」 ール、飲食店、郊外の国立サッカー場などで、連続的に銃乱 なぜこんなことを書くかというと、今日欧米ではテロ、移民合 射、爆破を行い市民約一三〇名を死亡させたのが、同時多発テの若者の非行、暴動が論じられるとき、安易に「イスラーム問 ロ事件である。 題。などと言ってしまうが、それは表面的な問題把握と一方的 7 後 の 憎むべき犯罪で、表現の自由の観点からすればその圧殺であな単純化であることが少なくないからである。シャルリ事件の そ 、ら り、「ジハーディスム」なる自死によって聖化されると錯覚す直後、さんざん単純化と混同の議論を聞かされてきたアプデー 、カ 機 る許しがたい大量殺戮であることは論をまたない。事件の犠牲ル・ヴィダル ( 哲学者 ) はこう語る。「ムスリムと、イスラー 危 者は直接の死傷者の数百の市民だけではない。事件後、予想にムの名を語り文明と宗教を抹殺するテロリストを混ぜこぜにし 年 たがわすモスクやイスラーム系団体に脅迫が寄せられたり、投てはならない。若干の血迷った者の犯した罪業を、不当にもム 五 石による破壊もあり、外出も恐れた人々もいる。森氏が光をあスリム全体に負わせることがあってはならない。さらに、イス 〇 てたように、ムスリム移民個々人の経験したゆえなき恐れと苦ラームは『本質からして』暴力的で過激だとして、イスラーム 悩は、無視されるべきではない。 とイスラミスムを混同するのは、なおさら問題だ」 E 第 2L 、 2 2015 ) 。「イスラミスムーとは、イスラーム原理主義を指 問題の「構築」という視点 すフランス独特の言い方である。 しゆったい ただ、これらは複雑な文脈のなかで出来した出来事であり、 現代のフランスの移民の状況に触れておきたい。ただし、 単一のネーミングで語ったり、二項対立的に単純な敵対関係で「移民」といわれるものも自明のタームのようにみえて、議論 説明するのは危険だ。社会学の視点からはよく「問題の構築」の余地のあるものであることから始めたい。 という言い方がなされるが、諸要素のからみ合う複雑な事象 移民第ニ世代の時代へ を、単称で「△△△問題」などと表現すると、問題の恣意的な 構築になるおそれがある、ということなのだ。だから、政治やこの国の人口統計上の「移民。とは、「外国生まれ人口」と [ 「イスラーム問題」の構築と移民社会一一
ほば同義で、その数は約七三〇万人に達する。外国人人口約四などと同定しているかどうかは別である。さらに、親の一人だ 〇〇万人をかなり上回ることから、帰化や結婚による国籍の取けが移民である子どももここに含むから、文化や身体的特徴も 得か多いことが推定できる。だが、これは最狭義の移民で、通多様な個人を含むことになる。それはともかく、二つを合計し た、広い意味での「移民」は一四〇〇万人を超え、総人口の二 常、移民の子ども ( 第二世代 ) も、社会的位置や文化的条件に おいて移民的境遇を受け継いでいることが多く、そこまでを割強に達する。なお、親の出生地がフランス ( 現、旧の植民地 ) 「移民」とみなすことが多い。その数も、親の出生地にもとづであるため、統計上区別して取り出せない実質移民第二世代 き推算されるようになり、二〇〇八年で約六七〇万人とされても、相当数いる。 いる ( * z (-12 『フランスにおける移民と移民の子どもたち』二 〇一二年 ) 。フランスに限らずヨーロッパ諸国では大量の外国 では、ムスリムの人口は ? と問、つとき、簡単に答えが出る 人労働者が受け入れられたのが高度経済成長期の一九六〇年代 で、七〇年代半ばから定住と家族呼び寄せが進み、子どもの出と考えてはならない。まず、右の広義の移民のうち三分の一は イタリア、スペイン、ポルトガル等のヨーロッパ内出身者で、 生も増え、今では移民の中心はこの第二世代に移っている。 といっても、アメリカやイギリスと違い、国勢調査では民族ムスリム人口とは関係がない。次に、その他の移民のうち、常 的所属 ( 感 ) を尋ねないので、本人が自分を「移民」、「 5 系」識的に「イスラーム教国」とされる国々の出身者と、サハラ以 をの円 べの初円 9 弓 葉世表円 川家兆円 1 ム純彦る本抜 景自活鬼一 す ) 界 食森る英辺克づ見税町印 ( 世 にくれ田渡中ち◎格巻肥 する既背離文ジ , ・発うくすし 生諄 を中 号岡 / 田砂価睡 博。直和がに ロ乱学秋よ綜新て の内研 月 / 秀 / 三硺 ) 示「日 一知 緒一ら ス山田 2 ズ善者 な期。年 モめ科今 る人錯、 じ 学 しそっ正 詩のめ 読 殳七 ~ 一」コす を前剖物を才瞽陬呈 冊フい東冊工期編 一受挑 学、疫、 究上足 0 ) 」上戦力と 青 分朴私の後 別ド使尾伊別ジ也田 ( ジでこ ・ま〉最 雄詩免 ) / 子料ガ東 ッ木編子 正一邦暴た史昭生を書 喇造一身聰自女アの 富社雄たン 進明読ク ン都 に剛メ全果 西形購ッ→ 初」キん イ由大大宣のい代正人年の 田科富し久 ウ篤工尺 ? スさ 田の十身 田橋レ、い増イをに 中尾間ヴ替ム 安カて / / 年誌刊振 佐るイ女月刊 古上ら七渾多多架「 ー吉一界現 上中 ジ彦 幸子権し 藤原店 「ムスリム移民」という括り方の問題 29 [ 「イスラーム問題」の構築と移民社会一一二〇一五年パリ危機からその後へ ] 1 統合と排除の間で
オテュッセイアの航路 0 0 ⑤アイオロス王 ⑨セイレーン ①トロイ ⑩パイアキア人 ②キコン人⑥ライストリュゴネス⑩スキュラとカリュブティス⑩イタケ ③蓮喰い人⑦キルケー ⑩ヘリオス ④キュクロプス⑧黄泉の国 ⑩カリュプソ http://www.classics.upenn.edu/myth/content/homer/mu ltimap. htm ーを加筆修正 く央適になったし、スマホを通じてネットでコミュニケーショ ンできる。それでも、自らと異質な者に自らの知力でどう対峙海 航 の してゆくかは、時代と言語を問わず人々の大きな課題であっ 法 米 た。そして、人々や共同体の本質は、それが異質なものと対峙 英 した時に顕れる。 信託の大航海 移動手段が発達すれば、地図の規模は大きくなる。冒険者た ちが、地球が丸いことを命がけで発見した、いわゆる「大航海 時代」。その航路を地図に描くと、どこかオデュッセイアを彷 彿とさせる。線が陸地にぶつかる諸点では、神や妖精や魔物で はないにせよ、異質な者同士の対峙が想像され、これに続く支 配ー被支配の構図にも考えが及ぶ。 スペインやポルトガルに、オランダ、フランス、イギリスか 続いた。後続の国々は先発の国を駆逐しつつ、支配を奥地へと 伸ばしていった。アメリカには、例えばコーネル大学のある街 など「イサカ」という町がいくつかある。植民者はオデュッセ ウス ( ュリシーズ ) に自分を重ねたのでは、と私は想像する。 イギリスの世界進出と重ねて、私がこれから研究を進めよう としているのが、信託法である。人を信じて財産を託す取引 は、日本でも街の「信託銀行」や資産運用として活用される 「投資信託」の名で知られているだろうか。キャメロン首相も、 亡き父がオフショア信託を保有していたことがパナマ文書で明
リや魚やシロアリや射手の役柄が順番に登場するイダという儀 礼が二日以上かけておこなわれた。儀礼は何かの目標を達成す るというよりも、これらの役柄をベース・アナログにしてみずせつかく科学との関係を書いたので、ウメダの人々の「民族 からが理解すべき対象であるターゲット・アナログになってい科学」とも呼ぶべき思考様式とアナロジーについて検討を進め る。だからジェルは、この儀礼をどう理解するのかをテーマとよう。このテーマと深くかかわるのは、科学のメカニカルな性 して民族誌『ヒクイドリの変態 ( ミミミ。 e C s ミき、・質か彼らによる生物ー物理の理解とどのようにつながるのかで ) 』を著さなければいけなかった。とはいえ、儀礼は彼やウある。マイケル・トマセロをはじめとする発達心理学者は、人 メダの人々に対して、世界を理解するためのモデルとして働い 間がすでに言語習得の段階から意図の理解とパターンの発見の ていたのも確かなようだ。〈私こそがモデルである〉とい、つメ両方を身につけている点を明らかにしている ( トマセロ『こと タメッセージで演者を圧倒しながら、儀礼は外側の現実を理解ばをつくる』ほか ) 。人類には動く事象の背後に何らかの意志を するべース・アナログになろうとする。儀礼と日常という区分読みとる性向ともに、その事象をパターン化する能力がそなわ は、互いをベースとして作用しあう非対称的なアナロジーによっている。科学が前者と決別しながら後者を探究する道をきわ って成り立つのである。 めてきたのはいうまでもない。 類似の認識方法は、ウメダの民族誌にもみつけることができ っ説招すー 編頁円印 4 0 もらでる章 三 2 0 祚 3 4 g のかまあ 0 さ界の 3 彩世心全 中本 ばし典島体 こ多の関る とも事ーーを こ、 近思起。て 身不き待べ ことばの 思想家 50 人 マーガレット・トマス著 中島平三総監訳 A5 判 320 頁 本体 6 , 400 円 ( 51048-5 ) 8 月下旬刊行 プラトン・アリストテレスや 世宗大王から , イエスペル セン , チョムスキーまで , 古 今東西の人物が集う , 燦た る「ことばの饗宴」。 重要人物からみる言語学史 朝倉書店 〒 162-8707 新宿区新小川町 6-29 容 03-3260-7631 FAX03-3260-0180 http://www.asakura℃O.jp 15 アナロジーの非対称性から考える意図とパターン
化されている反面、両領域の区分がみえにくいのである。ここターンに意図をもって働きかけるパターンは、物理法則のよう ン での主眼は儀礼 / 日常に関する議論と同じであり、意図とパタにいつどこにでも働くわけではない。村落や住居から遠ざかる タ ーンが対等にべース・アナログとして機能しあうこと、そしてにつれ、親族関係が薄まるにつれて、未知のパターンが強まり 相手をもって自己の基盤に据えていることにある。 A 」 支配的になるのである。 「自然」と「文化ーが対置されて関係づけられるよりも、相 ますはウメダ村から少し離れた場所に隠遁する老人たちをみ意 る え 互補完的に存在を保証しあうという状態は、私たち人類の長いると、諸霊との距離が近くて村人の知らない呪術を有するのが 歴史を貫いてみられるのではなかろうか。なぜだか私たちは、わかる。彼らよりもはるか先に住むプンダ村の人々は、ウメダら パターンを意志に類比させる表現には寛容だが、逆に意志をパ人を「見えない矢」で殺す方法をもっし、その矢を抜き取る治慨 ターンに類比させる表現に対しては慎重である。一方は文学的療ができる。ウメダ人の祖先はココナツだが彼らの祖先はヒク対 非 の に評価するが、他方は非科学的だとしりぞける傾向にある。殺イドリであり、そのヒクイドリの骨の短刀でみえないように犠 ジ しを意図する邪術に対しては、とくにそうなる。「ネイティヴ牲者の肉を剥ぐ。ヒクイドリはウメダ人にとって、森林の奥深 は正しい」という公準を受け入れる人類学者は、この呪術の解くに住む謎に充ちた動物である。きわめて射止めにくいだけでナ ア 釈に余計に頭を悩まさなければいけないようだ。けれどもメラなく、 ハーメルンの笛吹き男のように他の動物たちを引き連れ ネシアの民族誌は、少なくとも私には呼びかける。意志の察知て去っていく。要するに、生物ー物理のパターンも意図をもっ とパターンの認知の間に、あらかじめ序列をつくることはやめてそれに働きかけるパターンも、村落からの距離が開くにつれ よう。そして、一方から他方へのアナロジーと他方から一方へて不可知性を高めていく。すでに私たちは、ヾ ノターン相互の類 のアナロジーという相互に変換不能な二つは、等しく扱うべき比が非対称であり共通の法則に服さないことを確認したが、こ だ。どちらも私たち人間にはお馴染みのはずであり、少しばかの点に加えて、パターン自体が森林やよそ者という外部に対し り科学に親しんだからといって、騒ぎたてることはない。 て、非知なるままに開かれていることを受け入れなければなら オし ここで、冒頭に紹介したイダという儀礼に戻ろう。儀礼では ウメダの人々の「民族科学」の検討をもう少し進めて、本稿ウメダの村の男たちが、ヒクイドリから順番にサゴ、魚、シロ を閉じることにしたい。生物ー物理的パターン、およびそのパ アリ、諸霊などの役柄を広場で演じたのち、体を赤く塗った射
今月の新刊 縮小の時代を乗り越える、新しい都市ビジョンの創造へ 大野秀敏 おおのひでとし ( 東京大学名誉教授 / 建築家 ) MPF ( メトロポリタン・フォーラム ) ファイバーシティ 縮小の時代の都市像 B5 判・ 200 頁 / 定価 ( 本体 2900 円十税 ) 旧 BN978-4-13-066855-2 「ファイバーシティ」とは、都市の線状要素を操作することで都市の流れと場所を制御し、縮小の時 代を乗り切り、実り豊かな時代とするための都市計画理論である。本理論は、 2000 年代初めに著者 らにより提案され、国内外で広く注目を集めてきた。本書はその決定版である。和英併記。 住要目次〉 第一部観察と分析 第一章深い危機 1 長く続く縮小 . / / 2 縮小の時代の都市 第二章モダンの都市、ポストモダンの都市 1 モダンの都市 / 2 ポストモダン都市 第三章 21 世紀の都市のための 10 箇条 第四章日本の都市の診断書 1 隙間に息づく自然 / 2 線形性好み / 3 人工物と自然の混成系 / 4 芝生・スポーツ・ ショッピング・アメリカ / 5 土地神話の崩壊 / 6 新築依存症 / 7 日本橋と二条城 / 8 ハコモノ / 9 孤立と互恵性 / 10 お一人様支援技術 / 11 遠く、速く、大量に / 12 自 家用車過依存 / 13 狭い道路 / 14 立派な交通基盤と貧弱な連携 / 15 水上交通は都市の 宝石 / 16 地方都市のダイナミズム / 17 都市の住宅と家族 / 18 死者の眠る場所 / 19 多島海化する日本 / 20 コンパクトシティは目標足りうるか 第ニ部理論とデサイン 第一章流れと場所の計画論 縮小の時代の都市理論 1 流れも場所も / 2 見取り図 / 3 ファイバーシティとは何か 第二章デザイン・プロジェクト 結語「重建設主義」と「大きい流れ」に打ち勝っために