by ・岩堂憲人 さて , ドイツに戻ったドライゼは , こんどは自分独自 のカて後装銃へのアフローチを開始ヴることになる。当 フォンと員族の柧号を持らなガら , ドライゼの若い頃 時 , 後装銃というものはあしなべて危険視されていた。 や家族などについては , 伝えられていることガあまりな いうまてもな < 銃尾のガス閉鎖ガ不完全てあったガらて , い。ただ , 1810 年ころには , フランスの著名な銃砲研究家 いつ射手を傷つけるガもしれない銃 , という目て見られ てあったホーリー大佐について , フランスて新型銃の研 ていたのて , それはまた当然てもあった。それだけに 究 ( こたヴさわっていことガ知られている。ガなり若い 銃器研究者には , それを克服ヴるのガ夢てあった。夢ガ ころガら銃器界に入っていたことになり , 以後約 50 年は 実現ヴれは , 巨利を手にヴることも , また夢てはなくな どを銃器開発と製造て生涯を過こしてあり , ドライゼの ることはいうまてもない。 会社はさらに息子のフランツに引き継ガれて , 第 2 次大 さて , ドイツに戻ったドライゼは 1827 年 , 1 つの銃を 戦時代まて営業ガ続けられてい。 つくりあけ , 翌年に特許を取得している。この銃はま それはさてあき , ドライゼガ , ハリのホーリー大佐の 前装式だったガ , 銃尾ガら長い撃針 ( 二一ドル ) て装薬を もとて学んだのは銃器製造もだガ , 発火剤に関ヴる化学 貫通し , 弾丸の底にある発火剤を突いて発射ヴる機構と 知者にも及んていることは注目される。当時のフランス なっていた。後年 , ドライゼの二一ドル・カンと呼はれ は化学にあいてはヨ - ロッパ第一流のレベルを誇ってあ る由来となった機構の誕生てある。 り , 彼ガそこて得た化学知識は , 後年独自のカートリッ この最初の特許を受けた前装銃を継いて , 彼は後装と ジを創作ヴるのには大いに役立ったろうと思われる。 / ヴる工夫に没頭ヴる。そして多くの試行錯誤の後 , 1838 年 , つまり 10 年にわたる研究の成果として , 画期的な機 構の後装銃を完成しをのだった。 ドライセとその銃 ドア・ホルトの機構を導入した画期的なボルト・アワション銃であ るドライゼのニードル・ガン機関部。 ボーリー大佐が設計に関与していたと考えられるフランスの軍用後 装ライフル。ピン・ファイア型のカートリッジには 2 本のピンガ見 間もなく。ドライゼの二一ドル・カン " と呼はれるこ られるが , 上の長いピンは薬室ガら抜き出すエキストラワト用で , とになるこの銃のユ二一ワな機構は , 銃尾の開閉にドア 下の短いピンが撃発用。 A が銃身 , B ガ上下する尾栓 , C が撃発金 , ・ホルトの原理を応用したことにあった。ドア・ホルト F が引き金スプリング , E が引き金。図は D を引きあろしてコッワ した状態を示してあり , 引き金を引くと D ガ B を押し上げて薬室を の取っ手を起倒しスライドして , ドアをロッワしり開 閉鎖し , 同時に C ガビンを突いて発火する。 いをりヴる金具てある。この取っ手部分にあるホルト ドライゼガホーリー大佐のもとにいのは , それはど ・ハンドルを起こヴことて , 遊底は開放され , それを引 長期てはなガつを。というのは , 1815 年 , ナホレオン < と薬室は開ガれる。閉鎖は逆にヴれはよい。これは銃 の終末となっワーテルローの戦いのとき , 彼はヴてに 砲史上に初めて出現した実用的ボルト・アワション・ラ ドイツに戻っているガらてある。ついてなガら , この時 イフルてあり , フロシア陸軍はいらはやく制式化を決定 代にホーリー大佐ガ設計に関 5 したと考えられる後装ラ している。 1840 年に試験的に採用 , 1848 年に制式化とい イフルを , フランス陸軍ガ少量だガ製造 , 装備している。 うステッフてあった。 に示したのガそれて , 機構的にも不完全 , 危険て , と 尼ガ , この画期的なドライゼの二一ドル・カンにも 2 ても十分な実用性のある軍用ライフルにはなりえない銃 大欠陥ガ潜在 , いや顕在していた。それは撃針ガ折損し てあったことはを見てもわガると思う。見方を変えれ やヴいことと , やはり完全てなガった銃尾閉鎖の問題て は , このような不完全なものても車用に装備してみると あつ。 いうはど , 後装ライフルへの願望ガ強ガった , といえよ ードル・カンはその名のように , 弾丸の底にある発 火剤を , 長い撃針ガ発射薬を貫通して突き , 発火させる。 つ。 1982 年 6 月号 1 19
の後装砲は試作したものの , 注目を受けることなく敗退 せざるをえなガった。世の中はそれはど甘くないという ことを , 若いモーゼル兄弟は身をもって体験したことて あったろう。 次に彼らガ着眼したのは , ドライゼの二一ドル・カン てあった。なにガと舌情の多いこの銃を , より実用的に 改良てきないガと考えたのは , 順序としては当然てあっ たガもしれない。 このころ , つまり 1864 年にはホールも軍務ガら解放さ れてあり , 相変わらす生活に追われなガらも , 研究にさ ける時間に多少の余裕もてきていた。 「新しい後装ライフルをという研究は , 2 つの方向て 進めた。 1 つは弾薬てあった。当時の後装式の銃をいろ いろ調べたガ , 共通ヴる欠点はます弾薬にある。完全な 弾薬てなくては , 完全な機能の銃はありえない。参考に なったのは薬莢 ( ケース ) を用いるカートリッジ型のもの てあった。もしドライゼの弾薬をカートリッジ型にヴれ は , 銃尾閉鎖の問題は解決ヴるだろうと思われた。そし てもう 1 つは , ドライゼのものよりも安定した改障のな い機関部にヴることだつを」 後年 , ホールはこのよう ( こ記してあり , これによって 彼の設計方針ガうガガえる。 ( こもガなわらヴ , 彼ガ最初に開発したのは , ドライゼ と同様な二一ドル式の銃てあつを。ただし , ホルトはハ ンドルを起こヴことてカ乙によりコッワされる , 現代の ホルト・アワションの基本型となってあり , この点はド ライゼよっ 1 歩進んだものとなっていを。それてもなあ , ードル式を脱せないていたのは , いガに新型カートリ ッジの開発ガ困難てあったガを物語っていよう。 だガ幸いなことに , 時代はようやくそれを可能にして いたのだった。強力な蒸気機関と各種フレス工作機ガそ れてある。そして , モーゼル兄弟の能力・・・・・・ウイルヘル 乙はセールスマンとしてのオ能を発揮ヴることになる・・・ ・・・は , それらを駆使して実用的なセンター・ファイアの 78 , 603 と記されたモーゼル・ライフルの最初の特許。最初の特許 はアメリカで取られている。 ードル式を捨てることにそれ カートリッジを開発し , はどの時間は要さなガった。ドライゼを田体にした近代 ホルト・アワション・ライフルの誕生てあつを。 こて出会っのガ米国レミントン社のセールスマン , サ ところて , このモーゼルの実用ライフル第 1 号はモー ミエル・ノリスという人物てあった。ノリスは , 前装銃て ゼル・ノリス 67 ー 69 と呼はれ , その最初の特許はドイツ フロシアに手痛い敗北を喫したオーストリアに , 同社の てなくアメリカて取得されている。これには少しばガり ローリンク・フロッワ・ライフルの売り込みに来ていた わけありなのて , それについて説明ヴる必要ガある。 のてあった。そしてモーゼル兄弟のライフルに目をとめ 新型のホルト・アワション , ライフルを完成したモー という次第だったのてある。 ゼル兄弟は , ますフロシア陸軍に採用を診したガ , そ これはいける " と百感したノリスは , モーゼル兄弟 の反応はたいものてあった。優秀なドライゼ・ライフ に資金の提供を申し出て , そのガわりにフランスのシャ ルて十分というのてある。前線の兵主らガ欠陥て苦労し スホーのメタリッワ・カートリッジ式への改造を求める。 ている兵器を , 上層部ては , 優秀なものと信して疑わな 。可能だろう " というモーゼル兄弟の吾えて , 彼らはべ いのは , 旧日本軍以外にもよくある話て , これもまたそ ルギーに行き , 計画を進めるガ , この間種々の事情て計 の 1 例といってよい。 画は挫折 , ノリスの員金も続ガなくなり , ウヤ乙ヤにな 次に彼らはオーストリアにアフローチヴる。そしてそ ってしまう。この間に , モーゼル兄弟の発明をノリスと 1982 年 6 月号 ~ ヾ、トいヾ、 君瑁は髜 , ーーク S. NORRIS & W. & P. MAUSER. B 代 00h - し o•di 鷓日代 - A 「 m. P 気 0 ed 」な気ー違 . No ・ , 23 ・ 1 0 3 121
取 Heroes St0ry ガン・ヒーロー・ストーリー ドライゼ力。らモーゼルへ 近代軍用ライフルを生んだ人々 フォン・ドライゼ。 近代軍用ライフル の祖父であった。 ボール・モーゼル。 近代軍用ライフル の父といってよい。 0 ジョアン・二コラウス・フォン・ドライゼ。この長い この定義に異論ガ起きるてあろうことは承知のうえて 名の人物は 1787 年 11 月 20 日 , ドイツのエルフルト近郊に ある。なせなら , モーゼルガこの型式の軍用ライフルを 生まれ , 1867 年 12 月 9 日に同地て世を去っている。 完成した時代には , ホルト・アワション以外にも , 実用 そして , ピーター・ホール・モーゼルは 1838 年 6 月 27 化され , 軍用ライフルとなって採用された型式のライフ 日 , やはりドイツの美しいネッカー河のはとりの町 , オ ルは少なくない。たとえは , トラッフドア・スフリンクフ ベルンドルフに生まれ , 1914 年 5 月に 76 歳て世を去っ。 ィールドと呼はれた米陸車のライフル , レミントンのロ ドイツガ近代的な統一国家として形成される以前 , つ ーリンク・フロッワと呼はれたライフル , 英軍のマーテ まつまフロシアてあったころ , ここに相次いて生まれ イ二・ヘンリー・ライフルなど , みなホルト・アワショ たこの 2 人の人物は , 近代車用 ( モタン・ミリタリー ) ラ ンてはないガ , 当時として実用性は十分な軍用ライフル イフルの祖父と父ということガてきる。もらろん , ドラ だった。そこて , 「なにもホルト・アワションだけガ近代 イゼガ祖父てあり , モーゼルガ父てある。 軍用ライフルの条件とはいえないのてはないガ」という それては今ロは , この 2 人ガ近代的な軍用ライフルの 反論も , 当然といえはいえよう。 開発に , どのよう ( こ苦心しなガら取り組み , そしてどの こて見方を変えてみる。第 1 次大戦はもとより , 第 ような過程を経て , どのようなライフルを完成ヴるに至 2 次大戦ても車用ライフルの主役はホルト・アワション ったガについて見ていくことにしよう。 てあった。唯一の例外ガ米軍の M 1 ライフルガ , これ ところて , 話の本筋 ( こ入る前に , 近代車用ライフルと は米国の巨大な工業カガあって実現しえた , あくまて例 いうものの定義づけをしてあく要ガある。近代車用ラ 外と者えなくてはならない。この第 1 次 , 第 2 次大戦の イフルとは , いついどんな銃をさヴのガということて 主力軍用ライフルガ , ホルト・アワションてあったとい うこの事実ガ , そのルーツてあるモーゼルの , さらには ある。 こて筆者の多少の独断と偏見を恐れすに定義してみ ドライゼの手になるライフルを , 近代軍用ライフルを実 るなら , それは。金属弾薬包 ( メタリッワ・カートリッ 現させる基盤となったものといってよい。したガって , ジ ) を使用ヴる後装式ホルト・アワション・ライフル " 同時代の他型式の軍用ライフルは , いわは過渡的な存在 ということになる。 なのてあった。 Gun 1 18
普仏戦争での後装銃 , シャスポー・ライフル ( 上 ) と , ドライゼ・ライフル ( 下 ) 。 のアイテアなどにガなりのオ能を発揮して , 先輩たちを これによって撃針は高熱 , 高圧の火薬カスにさらされ , 感させたということてある。 ヴくに折れてしまうのてあった。また銃尾のカス・タイ このような境遇のなガ , 腕を磨いていたホールも成人 トも不完全て , 発射時に銃尾ガら吹き出ヴカスて兵主ら となり , 1859 年には徴兵され軍隊に入る。兵種は砲兵て は連続射撃に嫌悪感を覚え , 命中度を乱ヴのも小さ < な あつを。だガ , 12 月には幸運にもそれまて働いていたオ い欠点てあった。 ベルンドルフェ付きを命せられ , 以前と同様な仕事に ガ , このような欠陥を持らなガらも , プロシア・オー 戻っている。軍としては , 彼の能力を工て生ガヴべき ストリア戦争は , 後装銃ガ前装銃に対ヴる絶大な気力を と者えをのガもしれない。 証明ヴる戦いとなった。後装銃の張る絶え間のない火線 いすれにせよ , ホールには , 軍隊の内部ガら兵器を見 は , 終始オーストリアの前装銃を圧イ到しさったのてある。 て 1 つの構想ガ固まっていた。それは銃砲の後装化と取 これは 1866 年のことてあった。 り組むことてある。ドライゼは後装てはあったガ , 前述 次いて 1 870 年に起こった普仏戦争は , 史上最初の後装 した欠陥ガら兵主の舌情は絶えなガったし , 砲といえは 銃同主による戦いとなった。ドライゼに対ヴるフランス 前装ガヴべててあったガら , それと取り組む価値は十分 のシャスホー・つイフルガそれてある。 にあると者えたの。 戦いはナホレオン三世ガ捕虜になり , フロシアの圧倒 的勝利て終結ヴるガ , この戦いの結果を , 両者のライフ ルの性能に帰ヴることは適当てない。なせなら 1 866 年 , ドライゼよりガなり遅れて制式となったアントン・アル フォンソ・シャスホーのこのライフルは , ドライセの流 れをくむホルト・アワションの二一ドル・カンて , 性能 的にもそれはど優劣ガつけガたいガらてある。ライフル という面ガらこの戦いを評価ヴるなら , それは双方の二 ードル・カンの欠点をより以上に顕在化し , より実用的 なホルト・アワション・ライフルに進むきっガけになっ たということてある。 この結果 , フランス軍はシャスホーをカートリッジ型 に改造 , クラス・ライフルとヴるガ , ドイツはモーゼル ・ライフルを取得ヴることになる。 ボールの片腕とな って商オを発揮し たヴィルヘル乙・ モーゼル ( 1834 ~ 1882 年 ) 。 モーゼルとそのライフル ホール・モーゼルは父アンドレアスの 13 番目の末子と して生まれてあり , アンドレアスは兵器工緻て働 < 銃工 この構想を実現ヴるため , ホールは 4 歳年上の兄ヴィ てあった。 13 人の子供を抱えて生活は楽てな < , ホール ルヘル乙の協力を求め , 工厰の一隅を借り , 車務後の時 も 12 歳のときガら工緻に働きに出ている。結果として , 間をさいて研究にら込むことになり , そして , まヴ小 これガホールの持つ技術者としてのタレント性を早くガ 型の後装砲の開発ガ目標とされた。 ら引き出ヴことになったようてある。自画自員はあるに しガし , モーゼル兄弟のこの選択は失敗てあった。な しても , 社史によると , 当時のモーセルは工て若手に せなら , 小型とはいっても , 火砲の改良は大きな労力と 似あわす , 各種工具の改良や生産工程の肖リ減 , 品質向上 資金力を必要とヴるガらてある。結局 , 彼らは一応小型 G un 120
モーゼル・ノリス 6 / ー 69 。長く続くモーゼル・シリーズの第 1 号ラ イフル。石下の図は遊底を開 ( 上 ) 閉 ( 下 ) した断面図。 共同名義てアメリカに特許申請したのった。たぶん裏 にはビジネスマンてあるノリスの目算と強引な口説きガ このことについて , モーゼルはすっ あったのだろう・・ と口を閉さしたままてあったのて , 頁相は不詳のままて ある。相をあガさないのは , モーセルにとってはあま りよい記檍てはないてきことガ介在していことを示し ていよう。 ガ , ノリスガモーゼル兄弟ガら去るにあをつて , 1 つ よいことを残している。それは , 彼ガ試作銃を王立フロ シア射撃学校に提出していをことてあった。 こてモーゼルの銃はテストされ , そのイ憂秀な成に 驚嘆した学校イ則は , ヴぐにモーゼル兄弟をスハン・ 9 つ国 立兵器に呼んている。むろんモーセル・ライフルの制式 化についての予備交渉のためてあっ。 こうして 1871 年 12 月 2 日はモーゼル兄弟 , とくに実際 に銃を手ガけてきをホール・モーゼルにとって記念ヴべ き日となった。 プロシア陸軍のモーゼル第 1 号ライフルとなった M71 。 フロシア陸車・・・・・・それは間もなくドイツ陸車となるこ 火薬の時代に入っても基本的にはなんの改良も必要とし とガ約東されていた・・・・・・のドライセに次ぐ制式ライフル ないて使用に耐え , 近代車用ライフルの誕生てあっ。 として採用ヴることガ , 正式に決定されたガらてある。 以後モーゼル・ライフルは , 世界中の車用ライフル界 たし , 制式化に際しては , 車ガらは多少の注文ガつ を文字通り席巻してい < 。ヨーロッハの各国はもとより , けられている。と < に安全装首に関して更に機能を完全 アメリカ , 南米 , アジアやその他の多 < の国に , モーゼ なものにと要求されていを。 ルそのものとして売られ , あるいはロイヤリティー契約 この要求に応して改良された銃ガ車に納入されたのは , て国産化され , そうてないものもモーゼルの設計の影響 翌年 2 月 14 日のことてあり , M71 と命名されたフロシア ガら脱ヴることはてきなガった。 陸軍のモーゼル・つイフルの生産は , 実質的にはこの日 ドライゼガらモーゼルへ , これガ近代車用ライフルの 以後になる。 ルーツてある。また , 以後の発展こついては稿をガえて M71 , 口径 11 mm, 鉛弾 , 黒色火薬なガら , 以後無煙 見ていくことにしたい。・ Gun 122