三月に入ってすぐ、行雄兄は秋保に出かけていった。わたしがだまって出て来たことのおわび と、わたしを預かっていただいたお礼のためだった。兄は、わたしが残して来た荷物の、半分し か持ってこなかった。わたしが勝手をしたのだし、お礼もしなければならないのだから、だまっ わた て、渡された荷物だけを受け取って来たのだという。 あと つねお たいわん ふくいん それから数日たったタ方、ひょっこり巨夫兄が台湾から復員して来た。焼け跡に立てておいた たてふだ れんらくさき 連絡先を書いた立札を見て、わたしたちの住所を知ったのである。 ほんとうにうれしかった。これで生き残った三人が、い っしょに力を合わせて生きて行ける。 しよう、わい しようそく むちゅう 兄たちは夢中になって、お互いの別れてからの消息を話しあい、そして将来の工場再建につい たの て、夜おそくまで語り合っていた。こうなると、女の子のわたしは、ただ二人の兄たちの頼もし 長い冬から春へ あきふ 138
しつかり守っているんだね。」 わた ふくろ と言って、白い布を細長く袋のようにぬったものを渡してくれた。この袋に実印を入れて、体に いんかん 巻きつけておきなさい、ということだった。わたしは父のカバンの中から三つの印鑑を出し、教 えられた通り袋の中に入れて体に結びつけた。カバンの中にはたくさんの書類も入っていた。今 わたしは、これがどんな書類かわからないけれど、きっと大事なものにちがいないと思った。い つかお兄さんが帰るまで、しつかり持っていなくてはと思った。 ふとん かや 同じ蚊帳の中に蒲団を二つ敷き、一つに父の遺体、もう一つのにわたしが眠ることになった。 わたしは父の遺体の顔にかぶせられている白い布を、そっと取ってみた。今はもの言わぬ人とな ほうたい った父の頭に巻かれた包帯の右のこめかみの辺に、赤黒く血がにじんでいる。父の死顔を見てい : 、カた むね かな しカ ると、悲しみと怒りが胸にどっとこみ上げてきた。何事もなかったら今ごろは、父と新潟に向か う夜行列車に乗っていたはすだ。だのに、こんなことになるなんて、だれが想像できただろう。 兄たちの居場所も、生死もわからないというのに、なぜわたしばかりこのような辛い思いをしな ければならないのだろう。神様、仏様って、ほんとうにこの世にいるのだろうか。ひどい、ひど わたしから父をうばうなんて。いやだ、いやだ、わたしも死んじゃおう。そう思ったら、悲 ぬの からだ ねむ
がわ 海岸通りから東海道線の踏切りをわたり、山側にある役場にたどりついたわたしは、町役場の 受け付台に背のびしてやっと顔を出し、大きな声で頼んだ。 まいそうきよかしょ かル、、つば 「埋葬許可書を下さい。明日火葬場に行くんです。あっ、それから火葬許可書というのも下さい しーうしんだんしょ お願いします。これが死亡診断書です。父は、さっきの二宮駅の空襲で死んだんです。」 「あんた一人 ? お母さんは ? 子どもじゃあねえ : わたしはむっとしてしまった。だれか、ほかにいれば、わたしなんかが来るわけないと、どな りたくなるのを、ぐうっとがまんして、 「いません。お母さんは三月十日、東京の空襲で死にました。兄さんは二人とも兵隊に行って、 いません」 ・ 8 死のうとしていたんだ ふみき たの
かく、日本人まで靴を磨かせているなんて、とても許せない思いだった。何だか激しいいきどお りが胸にこみ上げてきて、どなりたい気持ちだった。 兄はわたしの気持ちがわかったのか、 「仕方がないよ。親がいなければ、自分で働いて食べていかなければならないんだから。」 すわ と一一一一口った。 六年生位の男の子のそばに、二年生位の女の子がちょこんと坐って泣いていた。わた しは思わす妺の光子を思い出し、手さげの中に入れてきた、今日のお弁当のバンを、包みごと女 の子に差し出して、 「これを上げるから泣かないで。」 なみだ といいながら、自分が涙声になってしまった。男の子が、さっと手を出して、 「ありかとう ! と言った。その真っ黒に汚れた顔の中で、目だけがきらっと光った。わたしは思わす、 「お兄ちゃん、がんばってね。」 と、言ってしまった。お寺に着くまで、わたしは胸がいつばいで、ひとことも兄と話をしなかっ くっ みが 155
まだ店の大戸はしまっていた。仕方なく戸をどんどんたたき、大きな声で、 ひろさき 「広崎さあーん、広崎さあーん。」 ひん とさけぶと、すぐに品の良いおばさんが出てきて、 「どなたさん ? 「わたし、東京の江井です。兄の手紙で、こちらに参りました」 といって、わたしはびよこんと頭を下げた。 「ああ江井さんの妹さん、一人で来やはったの。よく来やはったねえ」 むか むかし しんせき まるで昔からの知り合いか親戚のように、おばさんは心からわたしを迎えてくれた。 「さあさ上がんなさい。午後になるとお兄さんも見えなさるからね。それまで食事をして、ひと やすみしなさい。夜汽車でつかれたでしよう。でも一人でよくねーー」 かんしゃ わたしは家の事情を話し、母からのお礼の品を渡した。母が広崎さんに、どんなに感謝しても、 った しきれないと言っていたことを伝えた。そして、この材料で " おしるこ。を作って、兄に食べさ たの せて下さい、と頼んだ。 るすかぞく この家の、ご主人も、出征兵士として南方に行っていて留守家族であった。おばあさんと奧さ わた おく
わた だ。山とは反対の方にすこし歩くと線路に出た。そこを渡って、なおも行くと、なんという木だ か同じような木が、うっそうと茂っていた。わたしはその横の道を、どんどんとかけ足で降りて 行った。急な坂なので二回もころんだ。やつばり昨夜聞いた水音は、川の音だった。青いくらい に澄んだきれいな水が、はげしく曲がりくねって流れている。両側は荒あらしい岩ルを見せてい る。あとでわかったのだがここの石は有名で、石切り職人が時どきハッパをかけては切り出すの だそうだ。 帰りはゆっくり登って、線路ぞいに、昨夜電車を降りた所まで行って見た。丸太棒が建ってい えき て、「磊々峡」と書いてあった。すいぶんおもしろい名前の駅だなあと思いながら家にもどって きた。伯母が入口の所に立って、わたしを呼んでいる。わたしは急いでもどっていった。 「どこへ行ったんかと心配したよ。まだ一人で出歩いてはだめだよ。あとで加代子に連れていっ てもらいな。」 と、言われた。わたしは、 「うん。」 と、こっくりした。 まるたんばう 112
切れてしまったはすなのに、急にこんなことになって、父の遺体を運びこみ、お通夜までしてい 十 / キ / し / どこの家でも、 いまは自分たち家族のことだけで精いつばいな時代なのに、まったくの他人で まごころ あるわたしたちのために、こんなにまで親切にして下さるなんて。これこそ人の真心というもの であろう。同情だけで出来ることではない。 「ほんとうにありがとうございました。わたしは今、子どもで何もお礼が出来ません。でも一生 おんわす このご恩は忘れません。いつの日か改めてまたお礼にまいります。」 おばあさんは、 「そんなこと、これもみんな、今まで敏子さんのお父さんやお母さんが、わたしたちに良くして えん 下さったお礼のしるしです。これも何かのご縁だよ。それより、これから東京に行き、何か困る えんりよ ことがあったら、かならすこの家に帰っておいで。ここを敏子さんの家だと思ってね。遠慮はし ないことだよ。それから、これは大事なことなんだけど、さっき敏子さんが見せたカバンの中の わた はだみ じついん 実印、あれはとっても大事なものなのよ。やたらと人に預けたり、渡したりしてはだめ。肌身は なさす、お守りのようにして持っているんだよ。お兄さんたちが帰ってくるまで、敏子ちゃんが行 0 つうや
「はい、 そうさせていただきます。」 よめ お嫁さんは、きつばりいってくれた。うれしかった。地獄で仏とはこのことだと思った。ほん じようたい とうにわたし一人ではどうしたらよいかわからない状態だったのだから。 「おばさん、ありがとう」 また泣き出してしまった。父を運んで来てくれた駅員さんが、 たく 「このカバン、お父さんの遺体のそばにあったのだが、お宅のかね。」 わた と、父が大切にしていた黒いカバンを渡してくれた。 「まい、 父のです。どうもありがとうございました。」 ほんとうにありがたかった。これがなかったら、わたしは母から預かった千円の郵便貯金だけ になってしまうわけで、駅員さんが気がついて持って来てくれなかったら、どうなっていたこと だろう。わたしは心からお礼をいった。 こっ しばうしんだんしょ そかいしゃ 「これが死亡診断書。疎開者じゃ、遺体を骨にしなければ運べないね。役場にこの書類を持って まいそうきよかしょ かそう いき、埋葬許可書と、火葬許可書をもらいなさい。火葬許可書がないと、火葬場は受け付けてく まき れないからね。それから火葬場は小田原で、薪を持って行かないと、火葬してくれないからね。 ほとけ
ぜんめつ 八月三十一日、テニアン・グアムの日本軍全滅する。十月二十日、米軍の主力部隊、レイテ島 せいかいくうナん に上陸する。これで日本海軍の中部太平洋における制海空権は完全に米軍の手にわたる。十一月 ′、、つしゅう 二十四日、東京へ第二回目の空襲がある。これを皮切りに、米軍の日本本土空襲はいよいよ本格 イしていった。 むか 昭和二十年 ( 一九四五 ) のお正月を、わたしは東京の家で、父、母、妹たちと迎えた。ないない ぞうに にのみや すくしのお正月だったが、わすかばかりのおもちでの雑煮もできた。わたしの二宮の友だちの家 らっかせい よめ ひもの で売ってもらったみかんや落花生もあった。お嫁さんが持たせてくれたあじの干物もあり、ごち そうだった。 二宮にいる時は、いつも長女という責任から、なにかと妹たちのことに気をつかい、毎日毎日 が神経の張りつめつばなしだった。だけど、お正月っていいなあ、両親のそばにいるって、こん なにうれしいものかなあ : : : なんて子ども心にもしみじみ思った。 冬休みも今日で終わって、あすはまた二宮に帰るという前の晩、わたしは母によばれた。 「この中に千円入っているの。これは大金で、子どもに持たせる金額ではないかもしれない。千 ぶたい
かけたんだと思うわ。それを今さら、遺産を分けてもらって仙台に帰るだなんて、弟や妹を残し て行く気 ? 向こうに行ってしまったら、お墓参りも出来なくなってしまうわよ。それでお兄さ んは、なくなったお父さんやお母さんに、顔向けができると思うの ? 」 わたしは言っているうちに、どんどん感情がたかぶってきて、ついに泣き出してしまった。わ けんまくおこ たしがあまりすごい剣幕で怒るものだから、行雄兄がそばから、 「敏子、仕方がないよ。巨夫兄さんだって、よくよく考えてのことだろうから。おまえのこと は、このおれがめんどう見るから心配するな。巨夫兄さんの気持ちが、もう仙台に行ってしまっ ている以上、とめようはないよ。」 結局兄たちの間でどんな話し合いがあったのか、巨夫兄は遺産の三分の一を持って、仙台に行 ってしまった。これでもう工場建設の夢は、消えてしまった。この時、巨夫兄が十九歳、行雄兄 が十八歳、わたしが十三歳だった。 こんらんき 戦後の混乱期、まさに生き馬の目をぬくような激しさで移り変わる社会の中で、大人でも生き て行くことが大変な時に、一番たよりにしていた上の兄が、わたしたちと別れて仙台に行ってし ほんじよ わた まったのである。いつの間にか、本所の土地も深川の土地も人手に渡ってしまった。ましてや新 ゅめ さん うつ さん