った。左側を見ると、山ぎわの方に、ほっぱっと二つ三つ灯が見える。水の流れる音が聞こえて くる。近くに川があるのかな、なんだかすいぶん山の中だなあと思った。足元の暗い道を一歩一 あと 歩ふみしめながら、伯母の後について行く。十分くらい歩いただろうか、やっと伯母の家に着い いとこ た。わたしが知っているのは和夫さんという従兄だけだ。和夫さんは学生のころ、バスケットボ ールの選手で東京に試合にやってきた時、わたしの家に泊まったので覚えている。背のすごーく 高いお兄ちゃんだった。 「ただいま」 伯母さんは、大きな声で入口の重そうな木の戸をあけた。中の人たちが一せいにわたしの方を 見ている気がして恥すかしかった。わたしは、 こんばん 「今晩は。」 と、あいさっした。伯父が、 つか 「さあさあ疲れただろう。早くお上がり。」 と、言ってくれた。 「はいつ」
しんばう れまでは辛抱するんだ。それから学校のことは、よく伯母さんに頼んでおいた。 転校がきまった ら、書類はすぐ送るからな。がんばって勉強するんだよ。東京の家で住めるようになったら、三 月まで待たなくても、すぐ迎えに行くからな」 兄は上り上野行きの列車に、わたしは伯母さんと、下り仙台行の列車に、また別れ別れに住ま わたしはまた一人ばっちにな なくてはならなかった。家が焼け、住む家がないばっかりに : むね ってしまった。ほんとうに兄は、三月にわたしを迎えに来てくれるだろうかと、不安な思いが胸 なみだ ) つばいにひろがった。わたしは走り去って行った上り列車の赤いランプを、涙でにじんだ目で 見つめた。 あきふ わたしは伯母と、仙台より手前の長町という駅で降りた。国鉄の駅を出て、秋保電鉄の乗り場 おじ へと急いだ。最終電車に間に合わなければと、二人でかけ出した。やっと間に合った。伯父は、 この私鉄の会社に勤めているそうだ。 くら まど 電車の窓の外は真っ暗で約一時間以上乗っただろうか、わたしは、伯母さんにうながされて電 車を降りた。降りた人は、わたしたちだけだった。あたりは、しーんとしていて、とても駅など 右側に大きな林があ という感じではなく、細い電柱があって電球が一つほっと、ともっていた。
「教えて下さい。覚えますから。」 「あたり前よ。覚えなかったら、これから用事が足りやしないものね。」 何個目かのジャガイモをむくうちに、なんとかうまくむけるようになった。 一週間は、あっと思う間に過ぎてしまった。加代子さんは原の町の家に帰って行った。 るす 秋もだんだん深くなってきた。伯母は、買い出しやら何やらで、ほとんど毎日出かけて留守だ ひるま った。伯父をはじめ他の人は、もちろん昼間は留守である。わたしもやっと毎日の仕事になれて、 なんとか一生けんめい早く片づけて、昼間二時間くらい勉強する時間を作った。でも伯母から一言 いっかった用事がたくさんある日は、勉強できない そんな毎日の中で、一人の女の子と友だちになった。同じ年位で、向かいがわの棟に住んでい た。名まえを千代ちゃんといって、とても活発な、元気のよい子だった。両親と弟、妹が四人い る家の長女である。わたしが井戸へ水くみに行ったとき知り合った。わたしが相変わらすの、ヘ っぴり腰で水を運んでいるのを見て、 「貸してごらん。運んでやっから。」 むね 123
しんせき でも兄は、他人に預けるよりは、親戚にと考えていたようだった。 かな そして三日目、夜行列車で帰ることにきめた。この打ちのめされたような悲しみの心は、理屈 ではないのだ。何はともあれ、この土地を早く離れたかった。 昼すぎ、ひょっこり仙台に住んでいる伯母が見えた。この伯母は、わたしの父の一番上の姉 せいば で、わたしたち兄妺の一番上の兄の生母である。もっとも、このことをわたしが知ったのは、父 が死ぬ前の晩、父に聞いて初めてわかったことである。 わたしが女学校に入学するとき学校に提出した戸籍にかんする書類に、長男が養子で、次男が 長男と記入されているのを見つけ、約五か月の間、すっと疑問に思っていたので、父に聞いたの 「それは、その通りなんだよ。お父さんとお母さんが結婚して八年間、子どもが生まれなかっ あとと 事業の方も順調にいき、大勢の人を使う身になったが、子どもがいない。跡取りがいないと さび いうことは、とても寂しいことなんだ。そんな時、仙台の家で四番目の子が生まれる所だったの で、あちらはもう男の子もいることだし、もし、その生まれた子が男の子だったら、養子にもら えないかと頼んだんた。幸い男の子が生まれたので、赤ちゃんの時もらって、お母さんが一生け たの さいわ りくっ
つねお んめい育てた。その子が恒夫兄さんだよ。そして、一年後に生まれたのが行雄兄さんなんだ」 と、話してくれた。いま思うと父は虫が知らせたのか、その時の事情をくわしく話してくれたの である。わたしはびつくりした。一番上の兄が養子だったなんて、ぜんぜん知らなかった。恒夫 けんどう 兄はわたしより六つ年上で長男として大変いばっていたし、剣道がとっても強く、体もがっちり たの していて、とても頼もしかった。父は、 ちが 「おまえの生まれる前の話だし、おまえのお兄さんには違いはない。 巨夫は長男で行雄は次男だ。 今まで通りでいいんだよ」 と、話してくれた。その伯母が、一昨日からのわたしのことを聞いて、 むか うち 「行雄が迎えに来るまで、敏子はうちで預かって上げるよ。わたしの家も焼け出されて、今は仙 あきふむら 台からすうーっと入った名取郡秋保村といって、秋保温泉の近くに住んでいるのだけど : ろいろとわが家も大変なんだが、まあ敏子一人くらい何とかなるだろうよ。そのかわり、敏子の 食費は毎月きちんと送ってくれるね」 と、言ってくれた。さっそく話がきまり、その日の夕方中村駅を立っことになった。兄は、 むか 「伯父さん、伯母さんの言うことをよく聞くんだぞ。三月初めには必す迎えに行くからな。そ からだ 105
「敏子です。よろしくお願いします。」 「これが長男の和夫。仙台の小学校で先生をしているだよ。こっちは、その姦さんの祝子。やっ ばり小学校の先生。次に加代子。夫が戦死して、嫁ぎ先の福島県の原の町の家と、こっちの家と 事 / - し を行ったり来たりしている。その子どもの和子。次が三女の孝子、仙台第二高女の四年生。 たいこんな所かな。敏子も早く、この山の中の生活になれることだね」 しようかい ぞう と、伯父がばそばそした話し方で、みんなを紹介してくれた。その夜は伯母さんといっしょに雑 炊を食べてねた。もう十二時近かった。この三日間の、なんとあわただしく落ち着かなかったこ ねむ とか。今日も重い荷物を背負って、歩きつづけたという感じの一日だった。もうただただ眠りた かった。 朝、目がさめたら、太陽がへやいつばいにさしこんでいた。なんだか、しばらくばんやりと天 くろ 井をながめていた。真っ黒にすすけた天井、柱、山小屋のような家だなあと思いながら起き上が る。ああわたしは昨夜、この家に来たんだ。それにしても、だれもいないようだ。何時ごろなの ふとん かしら。みんなどこに行っちゃったんだろうと、蒲団の上にすわる。そこへ伯母が入ってきた。 ねむ まくらもと 「まあ、よく眠っていたね。枕元を行ったり来たりしても、ちっとも起きないんだもの。みんな すい とっ たかこ てん 110
と言う。この水くみを十回もやるのかと思ったら、わたしはもう東京に逃げて帰りたくなった。 でも、こんなことでヘこたれたら、やつばり東京もんはだめだね、といわれそうなので、なんと してもがんはらなきゃあと思った。 伯母か 「敏子、畑に行くよ。」 しかごを背負い と、表の方でどなっていた。わたしは急いで表にまわった。伯母は大きなしょ ) あと 手には鉀を持って、わたしを待っていた。わたしは伯母の後について、谷川の方に行く道を降り ていった。 「ここの畑は、こっちに来てから開墾して作ったんだよ。もうすぐ大根ができるよ。そしたら、 だいこんづけ それを干して、たくさん大根漬を作っておくの。ここらへんは冬が来ると、そりゃあすごい雪だ つけもの からね。漬物は何よりのおかすなんだよ。」 いいながら伯母は、大根に土をよせていた。わたしは伯母の手元を見ていた。 「敏子、そこの菜っ葉をぬいて。今夜つかうんだから」 といわれた。わたしは菜っ葉をぬいた。それを籠に入れると、谷川へ持っていって、流れのゆる かいこん か ) 一 119
かさを感じた。 翌日から、いろいろの仕事がわたしを待っていた。ますみんなが出かけるとせんたくだ。加代 子さんについて、昨日行った井戸へせんたく物を持っていく。伯父や伯母や、孝子さんや、自分 の分を大きな籠に入れ、片手にはたらいを持って。 加代子さんは、和子ちゃんと自分のを手ぎわよくせんたくして、 「全部終わったら、すぐもどってくるのよ。し場を教えるからね。」 にのみや よめ といって、帰っていった。二宮にいた時は、お嫁さんがやってくれたし、東京に帰って来てから、 初めて自分の物をせんたくするようになったばかりなので、まごっいてしまった。やっと終わっ てもどると、加代子さんに、 「すいぶんゆっくりだね。もっと一生けんめい、早くやらないと日が暮れちゃうよ」 と言われた。それからせんたく物を急いで干して、やれひと息と思ったら、 「敏子ちゃん、こんどは山羊の世話のしかた教えるからね」 うらぐち と、呼ばれた。裏口の方にとんで行くと、なるほど、小屋の中に山羊がいた。わたしはそのころ、 一メートル四〇センチ位しかなく、その上、やせつほっちだったので、山羊がとても大きく感じ か ) ) たかこ 114
やぎ と言って、加代子さんは、さっさと帰ってしまった。わたしはしはらく山羊をながめながら、た め息をついていた。 それから家に帰って、そうじをした。これはなんとかわたしにも、しかられすに出来た。 「お昼にしよう。」 すがた と、伯母が声をかけてくれた。今まで、伯母の姿は見えなかった。どこに行っていたのだろう か、わたしはきいてみた。 「伯母さん、どこへ行っていたの。」 「畑に大根の手入れをしに行ってたんだよ。」 けっこう 昼はカボチャのふかしたのだった。お塩をつけながら食べる。ほかほかしていて結構おいしい 力いこん 「このカボチャも家で開墾した畑で作ったんだよ。昼から敏子も畑へ連れていってあげるよ」 と言った。その時、加代子さんから、 「敏子ちゃん、山羊を移動させた ? 」 と、きかれた。わたしは「あっと、さけんで外にとび出した。でもやつばりこわくて、山羊に は近づけない。またもどって来た。
と返事をして、伯母の方を見た。伯母は福島から背負って来たリュックサックを降ろし、中から 米だの麦だの、いろいろの包みを出していた。従姉カ ぬく 「お母さん、夕飯まだなんでしよう。すぐ温めるからね。あんたも、早く上がんなさい」 といった。わたしは土間に下駄をぬいだ。 「すみません。ぞうきん貸して下さい。足がとっても汚れているんです。」 ざしき わたしはぞうきんで足をふき、座敷に上がった。そして従姉に案内されて、台所に行き、手と しよう力い 顔をあらった。座敷にもどると伯母が、わたしを紹介した。 つねお 「この子が直夫の妹の敏子。今日、相馬の家に行ったら、行雄と敏子が東京から来ていてね。 ふくいん あ、そうそう、行雄はぶじ復員して来たんだ。内地にいたんだって。巨夫はまだらしい。外地に いるらしいって。それから両国の竹雄夫婦と、この子の妹たちは空襲で死んじゃったんだって。 もちろん家は焼かれてしまい、二人は住む所がなく、家が建つまでの間、敏子を預かってほしい と、相馬の家に来てたというわけ。だけど、みんなが預かれないというので、行雄が困っていた んだよ。それで、まあしばらくの間、家で預かってやるからといって連れてきたのよ。行雄とは しいですね。みんなもそのつもりで、仲よくしてあげて。」 中村の駅で別れたの。お父さん、 そうま 8