きた で、ひとりばっちになったわたしを心配し、励ましに来てくれた。同じ女学校に通いはじめた北 そかいしゃ 詰さんの光子さんとお母さん。鈴木さんといって、同じ疎開者で同じ女学校に行っていた広子さ んと、そのお母さんやお兄さんの顔も見えた。受験勉強の時、よく広子さんの家に行き、お兄さ んから勉強をみていただいたものだった。広子さんのお母さんは、わたしの手をとり、 こま れんらく 「敏子さん、何か困ることがあったら、かならず連絡するのよ。みんな、いつでも待っています からね、きっとですよ」 と、励ましてくれた。 広子さんのお兄さんも、 「一日も早く、いつもの元気な敏子ちゃんになるんだよ。どんなことにもくじけず、がんばるん だよ。」と、言った。 くや ほんとうにみんなが心から心配し、励ましてくれた。やがてみに来てくれた人々も帰って、 静かになった。わたしは改めて、西山さんのおばあさんとお嫁さんにお礼を申し上げた。わたし たち親子は、 にいがた 「長い間お世話になりました。これから新潟に行きます。」とあいさっしたことで、いちおう縁は えん
そかいしゃ しんせき 「疎開者かね。今までいた所は親戚じゃないの ? 」 しよう力い そ力い 「まい。 他人です。知り合いの人の紹介で疎開してたんです。今日まで : 。今日これから新潟 へ行くところだったんです。」 「でも、しようがないなあ。とりあえすその家に、遺体を運はせてもらうんだね。」 よめ そんなことを話している時、西山さんのお嫁さんが、隣りの石屋のおじさんと、お兄さんとで 来てくれた。わたしは思わす、 「おばさんー なみだ と、抱きついてしまった。今まで張りつめていた気持ちが一気にゆるんでしまい、涙がほとばし るように流れた。泣くなんて泣くなんて、敏子のいくじなしーーと、自分を自分でしかってみて も、も、つと、つにもならない 「敏子ちゃんは大丈夫だったのね。どこも、けがしていないのね。敏子ちゃんを知っている人が 知らせてくれたのよ。やつばりお父さんは、だめだったのね。」 しばらくしたあと、お医者さんが言った。 たく 「お宅に遺体を引き取っていただけますか。」 とな
か、毎日何回となくあった空襲も、数えるくらいになった。寺には、本所、深川で焼け出された 檀家の人々が、へやを借りて住んでいた。その中には生前わたしの両親と親しかった人もいて、 何かとわたしをなぐさめ、親切にしてくれた。お寺でも、よかったら、すうっといて、ここから 学校に行けば良いとまでいってくれた。恵子さんも、仲良くしてくれた。 まんこっ せんせんふこく 八月九日、ラジオのニュースで、ソ連が対日宣戦布告をしたと伝えた。ソ連軍が満州のソ満国 きんむ 一」うげき きようせんとつば 境線を突破し、攻撃を開始したということだ。父の妹で満鉄にご主人が勤務している春子おばさ きくよ ん、また朝鮮にご主人といる菊代おばさんたちは、どうなるのだろうか わたしは寂しくなると、庭の草花をつんで、裏の墓地に行き、墓の前で、ひとりごとをいいな しゅぎよう わか がら過ごした。あとは朝夕、お兄さんのような修行中の若いお坊さんといっしょに庭をそうじし ろうか たり、長い廊下をふいたりして過ごした。 八月十一日、ご住職が、 もう今度こそ戦争は終わりだ。敏 「こんどは九日、長崎に広島と同じ爆弾が投下されたらしい 子ちゃんのお兄さんたちは、かならす生きて帰って来る。だから、これからは心をしつかり強く : ご両親は、かな 9 持って生きなければだめだよ。ご両親もそれを祈り、願っているにちがいなし だんか ここのか ねが した
く、つしゅう と 「ガラスがこんなに溶けてしまうのだからなあー。敏子、三月十日の空襲の激しさが想像つくだ ろう。母さんたちのこと、おまえにはあきらめきれないだろうけど、もうあきらめるんだなあ。 あれから四か月もたっているんだ。」 わたしはこのガラスのうさぎを、大事に手さけ袋に入れた。ああ、ほんとうにわたしの家がな なみだ くなっちゃったんだ。住む家が焼けてしまったんだと思うと涙が急にこみあけてきて、声をあげ ふくさっしんこく て泣き出してしまった。そんなわたしを、父はだまって見ていた。父の方がもっと複雑で深刻な 気持ちだったであろう。 だんな 「江井さんの旦那さん ? 」 という声がした。 「あっ、渡辺さんのお姉さん ! 」 「やつばり旦那さん。あら敏子ちゃんね。敏子ちゃんは無事だったのね。ほんとうによかったわ ねえ。それでお母さんたちは、あれつきり見つからないの。やつばりねえ : お姉さんはため息をついて、 「あの日、 ・ : あの経戒報が出てね、わたしはいつものように敏子ちゃんのお母さん、信ちゃ ぶくろ
つねお んめい育てた。その子が恒夫兄さんだよ。そして、一年後に生まれたのが行雄兄さんなんだ」 と、話してくれた。いま思うと父は虫が知らせたのか、その時の事情をくわしく話してくれたの である。わたしはびつくりした。一番上の兄が養子だったなんて、ぜんぜん知らなかった。恒夫 けんどう 兄はわたしより六つ年上で長男として大変いばっていたし、剣道がとっても強く、体もがっちり たの していて、とても頼もしかった。父は、 ちが 「おまえの生まれる前の話だし、おまえのお兄さんには違いはない。 巨夫は長男で行雄は次男だ。 今まで通りでいいんだよ」 と、話してくれた。その伯母が、一昨日からのわたしのことを聞いて、 むか うち 「行雄が迎えに来るまで、敏子はうちで預かって上げるよ。わたしの家も焼け出されて、今は仙 あきふむら 台からすうーっと入った名取郡秋保村といって、秋保温泉の近くに住んでいるのだけど : ろいろとわが家も大変なんだが、まあ敏子一人くらい何とかなるだろうよ。そのかわり、敏子の 食費は毎月きちんと送ってくれるね」 と、言ってくれた。さっそく話がきまり、その日の夕方中村駅を立っことになった。兄は、 むか 「伯父さん、伯母さんの言うことをよく聞くんだぞ。三月初めには必す迎えに行くからな。そ からだ 105
「もうやめてよ。渡辺さん ! 」と、父はカのない声で言った。 がっしよう それから三人は焼け跡に立って、だまって合掌した。渡辺さんのお姉さんと別れて、わたした せたがやちとせからすやま ちは世田谷の千歳烏山に向かった。寺町通りにわが家の菩提寺がある。午後から父とわたしとで、 ル、、つしき あと こっ ひん 母たちのお葬式をすることになっていた。遺骨ならぬ遺品を納めるのである。さっき焼け跡から ちやわん 集めてきたお母さんの茶碗のカケラや、妺たちのままごとの茶碗を、墓石の下に住職さんに立ち おさ 会っていただいて納めた。父は、 「三人の死は、まだとても信じたくないけれど、あの劫火の中だ。とても助からなかっただろう。 そうしき もう四か月もたっていることだし、死んでいたら、いつまでもお葬式をしてあげないことには、 しようぶつ 成仏できない。生きていることを祈りながら、敏子と二人で拝もうじゃないか」 がっしよう と言った。わたしはだまってうなすき、心の中では死んでない、死んでないと叫びながら合掌し と よくじっ ろうか た。その夜は寺に泊めてもらい、翌日午前中、父と寺の広い庭に面した廊下にすわり、これから のことを話し合った。 ーしカた あぶ 「一日も早く、お父さんといっしょに新潟に住めるようにする。それに二宮もだんだん危なくな よめ そかい ってきたし、この間西山さんからの手紙では、子どもたちをお嫁さんの実家へ疎開させたいと思 あと おが
かけたんだと思うわ。それを今さら、遺産を分けてもらって仙台に帰るだなんて、弟や妹を残し て行く気 ? 向こうに行ってしまったら、お墓参りも出来なくなってしまうわよ。それでお兄さ んは、なくなったお父さんやお母さんに、顔向けができると思うの ? 」 わたしは言っているうちに、どんどん感情がたかぶってきて、ついに泣き出してしまった。わ けんまくおこ たしがあまりすごい剣幕で怒るものだから、行雄兄がそばから、 「敏子、仕方がないよ。巨夫兄さんだって、よくよく考えてのことだろうから。おまえのこと は、このおれがめんどう見るから心配するな。巨夫兄さんの気持ちが、もう仙台に行ってしまっ ている以上、とめようはないよ。」 結局兄たちの間でどんな話し合いがあったのか、巨夫兄は遺産の三分の一を持って、仙台に行 ってしまった。これでもう工場建設の夢は、消えてしまった。この時、巨夫兄が十九歳、行雄兄 が十八歳、わたしが十三歳だった。 こんらんき 戦後の混乱期、まさに生き馬の目をぬくような激しさで移り変わる社会の中で、大人でも生き て行くことが大変な時に、一番たよりにしていた上の兄が、わたしたちと別れて仙台に行ってし ほんじよ わた まったのである。いつの間にか、本所の土地も深川の土地も人手に渡ってしまった。ましてや新 ゅめ さん うつ さん
昭和二十一一年 ( 一九四七 ) 。 むか けっこん にもの お正月を兄と二人で松江で迎えた。三月に兄と結婚することになったきみ子さんが、煮物や、 たす まつど やおや おもちなど、たくさん持って訪ねてきてくれた。きみ子さんの家は、千葉県松戸の八百屋さんな しよくリようなん ので、この食糧難の時でも食べ物はたくさんあった。兄とわたしの生活では、材料もない上に、 すいじわかリ まだ料理らしい料理も出来ないわたしが炊事係なので、お正月といっても、いつもと変わらない ものを食べていた。だから、まさに、 ちそう 「大ご馳走さまのお出ましだー 当とう という感じだった。何年ぶりかで食べた豆きんとんのおいしかったこと。ちゃんとお砂糖入りだ った。とってもうれしかった。そしてわたしは、一日も早くお兄さんたちが結婚して、わたしを 太陽の文面 161
がんばるんだよ」 すぐだろう。しつかり勉強して合格しなければ : べんとう よくじっ 父は翌日、三食分の弁当を作ってもらい、また東京に出て行った。その夜からわたしは母たち のことが心配で心配で、ねむれなくなってしまった。もしゃ夜中に負傷した体をひきすって来や しないかと かな わたしの家は焼けてしまった。もう東京には帰る家がないと思うと、悲しいやら、くやしいや なみだ らで、ほんとうに心から米英軍が贈いと思った。そして、あとからあとから涙が出てきて、どう ねむ しても眠ることができなかった。わたしは東京の方に向かって手を合わせ、 どうぞ神さま、仏さま、母さんや妹たちを助けて下さい。もし、けがをしているのなら、 と、 どうか父に会えるようにして下さい。お願いします。どうぞ無事でいてくれますように 心の底から祈った。わたしに出来ることといったら、それしかなかった。 れんぞく それからの毎日は、不安な日々の連続だった。父からは何のたよりもなく、わたしは一人で大 磯の女学校の入学試験を受けに行った。何日かして合格通知を受け取ったが、お祝いを言ってく よめ れたのは、西山さんのおばあさんとお嫁さんだけだった。 一一日後、やっと父が東京からもどって来た。入学試験に合格したことを、何はともあれよかっ 0 ほとけ ふしよう からだ 0 おお
まだ店の大戸はしまっていた。仕方なく戸をどんどんたたき、大きな声で、 ひろさき 「広崎さあーん、広崎さあーん。」 ひん とさけぶと、すぐに品の良いおばさんが出てきて、 「どなたさん ? 「わたし、東京の江井です。兄の手紙で、こちらに参りました」 といって、わたしはびよこんと頭を下げた。 「ああ江井さんの妹さん、一人で来やはったの。よく来やはったねえ」 むか むかし しんせき まるで昔からの知り合いか親戚のように、おばさんは心からわたしを迎えてくれた。 「さあさ上がんなさい。午後になるとお兄さんも見えなさるからね。それまで食事をして、ひと やすみしなさい。夜汽車でつかれたでしよう。でも一人でよくねーー」 かんしゃ わたしは家の事情を話し、母からのお礼の品を渡した。母が広崎さんに、どんなに感謝しても、 った しきれないと言っていたことを伝えた。そして、この材料で " おしるこ。を作って、兄に食べさ たの せて下さい、と頼んだ。 るすかぞく この家の、ご主人も、出征兵士として南方に行っていて留守家族であった。おばあさんと奧さ わた おく