ぜんめつ 八月三十一日、テニアン・グアムの日本軍全滅する。十月二十日、米軍の主力部隊、レイテ島 せいかいくうナん に上陸する。これで日本海軍の中部太平洋における制海空権は完全に米軍の手にわたる。十一月 ′、、つしゅう 二十四日、東京へ第二回目の空襲がある。これを皮切りに、米軍の日本本土空襲はいよいよ本格 イしていった。 むか 昭和二十年 ( 一九四五 ) のお正月を、わたしは東京の家で、父、母、妹たちと迎えた。ないない ぞうに にのみや すくしのお正月だったが、わすかばかりのおもちでの雑煮もできた。わたしの二宮の友だちの家 らっかせい よめ ひもの で売ってもらったみかんや落花生もあった。お嫁さんが持たせてくれたあじの干物もあり、ごち そうだった。 二宮にいる時は、いつも長女という責任から、なにかと妹たちのことに気をつかい、毎日毎日 が神経の張りつめつばなしだった。だけど、お正月っていいなあ、両親のそばにいるって、こん なにうれしいものかなあ : : : なんて子ども心にもしみじみ思った。 冬休みも今日で終わって、あすはまた二宮に帰るという前の晩、わたしは母によばれた。 「この中に千円入っているの。これは大金で、子どもに持たせる金額ではないかもしれない。千 ぶたい
東海道のコンクリート道路の照り返しは、今日もとても強い。父とわたしは汗をふきふき歩い 約一年間生活したこの町とも今日でお別れ。そう思うと道の両側の見なれた風景が、せつな く感じられる。空を見ると空はどこまでも真っ青で、太陽がギラギラ照りつけている。父が、 じゅんちょう くうしゅう 。汽車が順調に東京へ着けば、夕方には上野をたっことができる。 「空襲がなければよいが : そうすれば明日の夕方までには、新潟に着くものなあ。」 と、言った。わたしも、ああいよいよ明日の晩には新潟かと思うと、不安よりも、何か楽しいこ とが待っていてくれるという感じがしてきた。 きたい こんどこそ父といっしょに毎日生活できると思うと、まだ見ぬ新潟に、子ども、いにも期待で胸 ゝつばいになった。知らない土地で大変だろうけど、父といっしよなんだから大丈夫と、自分 , 刀し せなか にいい聞かせた。そう思うと背中いつばいの重い荷物も、すこし軽く感じられた。 二宮駅につくと、相変わらす駅は、荷物を背負った人びとでごったがえしていた。東京、横浜 しよくリよう 方面から食糧の買い出しに来た人達だ。リュックサックを背負い、そのうえ両手に持てるだけた おく くさんの荷物を持ち、上りの列車を待っている。汽車はなかなかこない。遅れているのだ。予定 時間はとっくに過ぎているのに。わたしはなんだか、とても、い配になってきた。 あせ むね
しせんとしてわからなかった。でも父もわたしも、 た、と喜んでくれた。しかし母たちの消息は ~ 母たちが死んだとは思いたくなかった。どこかに必す生きている。大けがをして、とんでもない 遠い所の病院にいるとか、だれかに助けられて、その人といっしょだと信じたかった。 たくさん くうしゅう くる きおく 父は、あの空襲のひどさで、気が狂ってしまった人や、記慮をなくしてしまった人も沢山いる と つか と言った。そして、また一晩だけ泊まって東京に帰っていった。その後ろ姿は、とても疲れてい いちもくさん 力。今日こそはと毎 わたしは毎日、学校の授業が終わると一目散にかけて西山さんの家に帰っこ 日、母や妹を待った。 三月二十五日、わたしは二宮町国民学校を卒業した。三月三十一日、明日の入学式に間にあう ようにと父が、女学生用の服を持って来てくれた。父の知り合いの娘さんのおふるだと言ったが、 えり こんうわぎ 下はもちろんもんべである。チビのわたし 紺の上着で、衿には真白なへちまえりがついていた。 には少しぶかぶかだったが、とてもうれしくて、 「お父さん、ありがとう。どおつ、わたしに似合う ? 0 むすめ
と書いてあった。わたしはがっかりしてしまった。毎日毎日このような生活が三月まで続くのか なみだ と思うと、やりきれない気持ちだった。でも仕方がない、わたしには帰る家がないんだから。涙 がポロポロこばれた。 思いきり泣いてしまうと、あきらめることができた。わたしには、やらなければならない仕事 がたくさん待っているんだ。泣いてなんかいられない。 それから何日かして、兄から長靴が送られてきた。黒いゴム長靴だけど、これがあれば百人 力、雪の日も大丈夫だと思った。 そうぞう 十二月に入るとまもなく、いよいよ雪が降りはじめた。想像はしていたが、大変な大雪となっ 水くみに行く時は、すべらないように、長靴のかかとの部分を荒緲でしばって行く。もう山 羊を表に出せなくなった。 わたしは山羊とすっかり仲よしになり、わたしの二番目の友だちになっていた。わたしが小屋 のそばを通るだけでも、 「メエー、メエー。」 とないたりした。山羊は毎日、せまい小屋の中に入れられつばなしだ。餌は秋の間に、裏山から 0 ながぐっ えさ うらやま
「教えて下さい。覚えますから。」 「あたり前よ。覚えなかったら、これから用事が足りやしないものね。」 何個目かのジャガイモをむくうちに、なんとかうまくむけるようになった。 一週間は、あっと思う間に過ぎてしまった。加代子さんは原の町の家に帰って行った。 るす 秋もだんだん深くなってきた。伯母は、買い出しやら何やらで、ほとんど毎日出かけて留守だ ひるま った。伯父をはじめ他の人は、もちろん昼間は留守である。わたしもやっと毎日の仕事になれて、 なんとか一生けんめい早く片づけて、昼間二時間くらい勉強する時間を作った。でも伯母から一言 いっかった用事がたくさんある日は、勉強できない そんな毎日の中で、一人の女の子と友だちになった。同じ年位で、向かいがわの棟に住んでい た。名まえを千代ちゃんといって、とても活発な、元気のよい子だった。両親と弟、妹が四人い る家の長女である。わたしが井戸へ水くみに行ったとき知り合った。わたしが相変わらすの、ヘ っぴり腰で水を運んでいるのを見て、 「貸してごらん。運んでやっから。」 むね 123
昭和二十年 ( 一九四五 ) 五月七日、ドイツ軍が、米・英・ソ・仏・オランダの連合軍に無条件降 ばくげきき だいくうしゅう 伏をする。五月二十五日、四爆撃機により東京山の手方面が大空襲される。これで東京は完全 に焼土となる。六月八日、いよいよ本土決戦の断命令下る。六月一一十一日、軸緲の日本軍、全 めつ 滅する。 せんリよう 米軍が上陸占領したというニュースは、大変なショックだった。東京は毎日のように、夜とな くうしゅう ひらっか く昼となく空襲され、横浜も平塚もやられた。全国の主要都市のほとんどが五月、六月に空襲さ ちょうきよりゆそう れ、物資の長距離輸送が止まる。二宮海岸一帯も中学生や町にのこっている男の人たちで、敵が たけやり あなほ 上陸して来た時のためにと、落とし穴掘りがはじまる。家々では竹槍も用意した。毎日毎日が重 苦しい日々の連続だった。 ふく ガラスのうさぎ いったい こう
もリばちおきもの わたしの家は戦争がはじまる前は、盛鉢、置物、時計のわくなどを、ガラスで工芸品を作るエ えいせいざいリようほんしよう してい けっちんかん 場だった。しかし、戦争がはじまると、軍の命令で陸軍衛生材料本廠の指定工場となり、血沈管 らゆうしやき こうと - つく や注射器を製造することになった。本所と深川 ( 現在の江東区 ) の工場は、毎日毎日その製造に追 われて大変だった。 ぜんめつ こちどく どうめい 昭和十八年 ( 一九四三 ) の五月、アツツ島の日本軍が全滅する。九月、印独伊の同盟国のひとっ むじようけんこうふく カくとしゆっじんそうこう力い 伊 ( イタリア ) が無条件降伏する。十月、全国の理科系をのぞく大学生の学徒出陣の壮行会が、神 ぐうがいえん 宮外苑で行なわれる。 く・わ 戦況はますます暗くなり、大学生たちも陸軍や海軍に入隊して、戦地に行くことになった。 せいふくせいばう この日は一日じゅうすごい雨だった。学生たちは制服、制帽にゲートルを足にまいて、それぞ せんきよう 再会を約束して やくそく
えつ、これもわたしの毎日の仕事。いやだ、いやだ。わたしはこわくてできない。だいいち気 持ちが悪い。ぐすぐすしていると、 「早くやってごらん。なんだって練習だよ。覚えないと自分がこまるよ。」 ち . 京さ おそ と、すこしきつい声になった。わたしは恐るおそる山羊の乳房を両手でにぎった。やつばり気持 ちが悪い。でもがんばらなくちゃと田 5 い、肩に力をいれ、目をつぶってしばる。じゅうじゅうと 音がする。ああできた。でも、やつばりまだ気持ちが悪い。 シャガイモの皮むきをいいっかる。家 終わって山羊を小屋に入れる。あとは夕飯の手伝いだ。。 にいた時はもちろん、西山さんにいた時も台所仕事をしたことがなかった。さあこまった。加代 子さんが、 「あんた、ジャガイモの皮もむけないの」 わたしはだまってうなすいた。 「しようがないわね、まったく。」 恥すかしかった。なぜって、今までやる必要がなかったので、だれも教えてくれなかったから だ。覚えよう。これから兄さんと二人で生活する日のためにも。 かた 122
釜状一枚で兵隊に召集されていった。わたしたち子どもは、少国民と呼ばれるようになり、毎日 しゆっせ、 のように出征兵士を送りに行き、そして、出征兵士の家の前に整列し、兵士を送る歌をうたった。 おおきみ わが大君に召されたる 、のちは 生命栄えある朝ばらけ たたえて送る一億の かんこは高く天を衝く いざ一丁けつわもの : ていこ、つ 声高らかに、みんなで歌った。なんの不自然さも抵抗もなく、むしろ力強く、精いつばい歌っ まも た。わたしたちは、「日本の国は、米英軍からアジアや日本を守るために戦っているのだ、アジ ーアルリやく いちおくいっしん アの子どもたちは、みな兄弟なんだ、一億一心となって米英軍の侵略を、防がねはならない。み らゆうぎ こうこく んな、国を思い、天皇に忠義をつくせ。」と教えられていた。そして、皇国日本を守るために、み な兵隊さんになって行くのだと、ただただ純粋にそう思っていた。 め っ しルんすい ふせ
と毎日放課後、彼女らの友情あふれるシゴキが始まった。終わるとみんな、 「おなかすいたあ。」 ちょうど帰り道にあるシバ子の家に、みんなでドャドャ押しかける。シバ子のお母さんは、 つもニコニコして、 「あらあら、また来たの、腹ペコ女学生さん。」 ちそう むか と、心よく迎えてくれて、蒸しバンだの、さつまいものふかしたのをご馳走してくれた。 よせん いよいよ予選の日が来た。わたしは四人の応援団に守られて、へと出かけた。新橋駅を しんちゅっぐん 出ると改札口付近に、若い進駐軍の兵隊がたくさんいるのに、ますびつくりした。みんなで固く 手をにぎり合い、あんまり兵隊の方を見ないように歩いた。 「ヘイ、おじようさん ! 」 「ヘイ、カモンー などと口々に叫んでいる。わたしたちは学校でも家でも進駐軍の兵隊に声をかけられたら、決し てニコニコしてはいけないと教えられていたので、みなうっ向きかげんでモクモクと歩いた。 人の兵隊がツカッカとそばに寄ってきて、リナ子にチョコレートを差し出した。わたしたちはび かた 165