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検索対象: ガラスのうさぎ
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1. ガラスのうさぎ

よめ お嫁さんも、それはほんとうによく世話してくれた。 麦ごはんだったが、そのころにはめすらしく、三度三度食べられたし、おやつには、さつまい くたもの らっかせい もや落花生だの、果物なんかも食べさせてもらった。海岸なので、なんとか魚も食べられ、畑も やさい あって、野菜は家で食べるくらいは作っていたようである。 しんせき そ力いしゃ 当時疎開者は、みんな食べ物にこまり、親子・親戚であっても、なかなかわけてはもらえす、 それは苦しく、みじめな思いの連続だった。わたしたちは、その点とてもしあわせだった。おば めんどう よめ あさんも、お嫁さんも大事な子どもを預かっているという感じで、わが子同様に面倒をみてくれ 学校でも疎開っ子の転校生なのに、クラスのみんなが仲よくしてくれた。担任は若い女の先生 で、村沢先生といって、とても明るく、きびきびした感じの張りきった先生だった。雨が降って、 体操の時間がつぶれたりすると、よく「お話し会」というのをやった。わたしは小さい時から本 が好きだったので、お話をたくさん知っていた。 ばり ほんしょ ある時、「本所七不思議」の一つ『おいてけ堀』の話をしたことがある。 ほんじよ 「所はお江戸の本所にあったお話です。ある町人が、ほろよいきげんで魚釣りの帰り、すこしば四 0 っ たんにん

2. ガラスのうさぎ

昭和二十一一年 ( 一九四七 ) 。 むか けっこん にもの お正月を兄と二人で松江で迎えた。三月に兄と結婚することになったきみ子さんが、煮物や、 たす まつど やおや おもちなど、たくさん持って訪ねてきてくれた。きみ子さんの家は、千葉県松戸の八百屋さんな しよくリようなん ので、この食糧難の時でも食べ物はたくさんあった。兄とわたしの生活では、材料もない上に、 すいじわかリ まだ料理らしい料理も出来ないわたしが炊事係なので、お正月といっても、いつもと変わらない ものを食べていた。だから、まさに、 ちそう 「大ご馳走さまのお出ましだー 当とう という感じだった。何年ぶりかで食べた豆きんとんのおいしかったこと。ちゃんとお砂糖入りだ った。とってもうれしかった。そしてわたしは、一日も早くお兄さんたちが結婚して、わたしを 太陽の文面 161

3. ガラスのうさぎ

加代子さんとタ方水くみに行った。家から十分くらい歩いた所に井戸があり、そこから運ぶの てんびんばう だ。加代子さんは、じようすに天秤棒の両方に桶をつるして、ひょいと水を運ぶ。 おぼ 「明日から水くみは、あんたの仕事だから、よく覚えなさいよ。」 と、いわれた。片方の桶を、ます両手で持ってみた。なんとか持ち上げたが、わたしにはとても これを二つなんて運べない。でもなぜか、出来ませんとは言えない感じだった。さあ大変、明日 からどうしよう。でも出来るようにならなければ ここの家においてもらうためには、辛抱 して一生けんめい練習しなければ 夜になるとみんな、つぎつぎに帰って来て、にぎやかになった。たとえ食べる物は、野菜のた ぞうすい くさん入った雑炊でも、みんなで食べるのはうれしかった。なんだか、久しぶりに家庭のあたた ニ人だけの秘密 ひみつ おけ おけ 113

4. ガラスのうさぎ

と、すいすい足どりも調子よく、手伝ってくれた。千代ちゃんは、すごくたのもしかった。いっ幻 うらやま しょに裏山にたきぎを取りに行っても、軽くわたしの倍は背負い籠に取ってくる。山の中では二 人とも、いつも大きな声で歌をうたう。わたしは父の死以来あまり歌をうたわなかった。あんな たいす わす に大好きな歌だったのに、いまでは歌を忘れたカナリヤになってしまっていた。 おば だけど千代ちゃんと山に入った時は別だ。ラジオで覚えたての「リンゴの歌」が大好きだっ ひみつ た。それは二人だけの小さな秘密だった。またわたしに " あけび。という木の実を教えてくれた のも千代ちゃんだ。つる状の低木で、わたしたちの手のとどく所に、ほっかり口をあけた木の実 うすちゃ あま である。薄茶にすこし紫のまじった外皮の中に、白色の甘い実が入っていた。 甘いものなど口に することのできないころだったので、これを見つけて食べている時は、とてもしあわせだった。 きのこ取りに行って山ですべって、足を痛くしたこともあった。でも兄と別れて、ひとりばっ あきふ ちの秋保の生活の中で、千代ちゃんの友情は、わたしにとって大変な救いであった。 兄から久しぶりに手紙がきた。 「学校の方、どうなっているんだ。早く転校して通学しないと、休学になっちゃうぞ」 といってきた。わたしは伯母にきいた。 むらさき しようていばく

5. ガラスのうさぎ

ふとん た。その夜、みどりさんと色々の話をしながら一つの蒲団で寝た。 ちとせからすやま こつおさ 八月八日、午前中に叔父さんと二人で千歳烏山 ( 世田谷区 ) の寺に、父の遺骨を納めに行った。 みようじゅじ 妙寿寺のご住職も大変びつくりし、 しよぎようむしよっ 「三月十日の大空襲で、お父さんはせつかく助かったのにね。諸行無常とはこの事だ。お母さん そうしき たちのお葬式をしてまだ一か月もたたないというのに。しかし、こんな地獄のような日が、そん ぜんめつ なに長く続くとは思われないけど。現に八月六日には広島に、一発で市内が全滅するような新型 ばくだん 爆弾が投下されたそうだ。もう戦争は終わりだ。政府だって考えはじめているだろう。 仲良しの恵子もいることだし、あんたもしばらく寺にいたらどうだね。着替えは恵子のを着れ ばよいし、食べ物は分けあって食べればよい。」 むすめ と、おっしやった。恵子さんというのは、ご住職の娘で、わたしより一つ下。幼いころからの仲 良しだった。叔父さんとも相談して、夏休み中でもあるし、父や母たちのお墓まいりが日に何回 も出来るから、しばらく寺においていただくことにした。それで、叔父さんは一人で両国に帰っ て行った。 東京なのに、この辺は畑が多いせいか、それとも、もう空襲する所がなくなってしまったため

6. ガラスのうさぎ

たよりになる先生だった。 学校生活の中で、どうしても忘れられない思い出が一つある。それはお弁当の時間だ。家で炊 あさねばう 事当番のわたしは、朝寝坊して食事のしたくが出来ないときは、朝飯食べす、弁当持たすという 日が何回かあった。そんな時は、例のグループのピョ子のお弁当を半分もらって食べたりした。 、バンは配給品で、店では売っていない もちろん牛乳なんて、とん そのころは売店などなく くら仲よしで でもない。「茶腹もいっ時というから、あとは水を飲んでがまんするのだ。い も、人のものをもらって食べるというのは、とても恥すかしく、みじめだった。ピョ子は、 「エイちゃんは、お弁当作る人がいないんだから仕方ないよ。」 といってくれたが、やつばりつらかった。この頃は、皆お弁当のふたを半分位しかあけすに食べ ′じゃがいも / 〃かばちゃ″の蒸したのを持って来る人。また大 ていた。それは〃さつまいもみ こんば 小麦粉の 皮の部分 根葉入りご、ふすま ( ) 入りバンと、まともなお弁当を持って来れなかったからである。 つうしよう なかには通称〃ぎんしやり″といった白米ご飯の子も二、三人はいた。ふだん明るい教室が急に ひっそりして、だれもかれも黙々と食べている。みんなは少しでも早くお弁当を食べて、教室の ん 外に出ようとしていた。暗い雰囲気から一刻も早く逃げだしたいというように。 ころ 150

7. ガラスのうさぎ

かんそう 食事の量が少ないので、ひもじさのあまり、近くの農家の柿や、庭先に下してあった乾燥いも ぬす を盗んで食べてぶたれたり、また、親が面会に来てくれるのが待ちきれす、線路づたい ( こ、何人 だっそう だいす かで夜中に脱走してつかまったり、面会の時に邨った大豆を、お手玉の中に入れて持ってきても ふとん らい、夜中に蒲団をかぶって糸をほどき、ひとつぶすっ口にふくんで食べたという。 かな 後になって、その時の悲しさを集団疎開に行った友だちが話してくれた。 かき

8. ガラスのうさぎ

り、そんな自分をましてみたりで、心の中は東京に帰れる喜びよりも、不安でいつばいだった。 とみおか 列車はまた動きだした。そして富岡という所で、やっと席があいた。隣りの席には、四十歳位 のおばさんがすわっていた。わたしは、やっと、さつまいもを食べることができた。またいっ食 べられるかわからないので、二本食べて、二本残しておいた。とうとうこの列車は〃平〃止まり とな になってしまった。隣りのおばさんが、 「あんた、どこまで行くの。」 と聞いた。 「上野です。そこで乗りかえて、両国に行きます。」 と答えると、おばさんは、 「これからすぐ乗りかえたとしても、上野に着くのは、夜中になってしまう。女の子一人ではあ と ぶないよ。よかったら、おばさんのうち″勿来″だけど、一晩泊まって明日の朝、一番の列車で 帰んなさいよ。そうしなさい。その方がいいから。」 と言ってくれた。農家のおばさんのような、感じのよい、ほんとうにわたしのことを心配してく ばうけん れているようすなので、すすめに従うことにした。いま思うと大変な冒険であり、無鉄砲だっ なこそ とな

9. ガラスのうさぎ

ゆきお 「まあ、いつまでそんな所に立っているのよ。さあさあ行雄さん、おしるこができているのよ。 さとう 敏子ちゃんが、はるばる東京から、おもちと、あんこを持って来てくれたのよ。本物のお砂糖入 りよ。」 「うへエー、おしるこ、何年ぶりかなあ。」 「さあ、いつばい召し上がれ。お母さんの味がするはすよ。」 あま 「おばさんも食べて下さい。甘いですよ。敏子も食べろ。」 まも と、兄は目に涙をうかべながら笑った。わたしは、母から預かってきたお守りを、兄に差し出し 「お兄ちゃん、これ、お母さんから預かってきたお守りよ。絶対に死んじゃだめだって。どんな ことがあっても、きっと、きっと、生きて帰っておいでって。」 たし 「うん、確かにいただいた、でも生きて帰れるかどうかわからない。攻隊員だからな。もうお れの命はお国にささげたのだから、死なねばならない時は、りつばに死にたい。その時は敏子た のむぞ。」 しばらくして兄は帰隊していった。その時兄は、まだ十七歳だった。 なみだ とっこう

10. ガラスのうさぎ

と頼んで外に出た。約五か月住んでいたこの家と、みんなに、喜びと悲しみの心をこめて、「さ ようなら」と頭を下げた。 しゅんちょう 長町駅までは順調に来た。駅前は人でごった返していた。あっちへぶつかり、こっちへぶつか きつぶ かいさつぐち りして、やっと改札口を見つけた。長い列ができていて、切符を買う人でいつばいだった。しか 福島県の市。現 在のいわき市 し、長距離はもう売り切れで切符は ( ) までしか買えなかった。 ようし、行ける所まで行こう。そして、また買い足して行けばよいと、上りの列車に乗りこん だ。すごいこみようで、しばらくは、列車のトイレの戸の前に立ったままだった。 " 中村 , で、す こし中の方にはいれた。が今度は、何か事故があったらしく、すこしも動かない。だんだん心細 くなってきた。朝ご飯を食べたきり、もう一二時をすこし過ぎたのに、立ち通しでは何も食べるわ ( に。いかない。長町駅前で買ったさつまいものふかしたのを持っていたのだが : そのうちに少し動き出したが、また止まった。ここはいったいどこなんだろう。今日じゅうに 何とか東京に着きたい。だが、夜中に上野駅に着いたらどうしよう。その時は、その時だ。朝一 番の国電が出るまで、上野駅にいればよいのだ。 おこ 兄さんは怒るだろうな。伯母も怒るだろうなあ。こうなって見ると、いろいろと、い配になった たの