敵に砲火をひらく , ソ連軍の 27 口径 203mm 重 榴弾砲 M 四 37 。 クルスク突出部。ベルゴロド = ハリコフ街道 で , ソ連軍の工兵はドイツ軍の地雷を探す。
7 日の間続いた ドイツ軍は一部の 地区で , ソ連軍の防衛線に深さ 10 ~ 35km の楔を 打ち込むことに成功した。クルスク戦の頂点は , 7 月 12 日のプロホロフカ地区の戦車戦であった。 双方約 1 , 200 両の戦車が参加し , この戦闘でド イツ軍は , 取り返しのつかない大損害をこうむ った 7 月 12 日 , ソ連軍は反攻に転し , 8 月 5 日に はオリョール市とベルゴロド市が解放され , 8 月 23 日にはハリコフ市が解放された。 この解放 でクルスク会戦は終った。 50 日間にわたる死闘の結果 , ドイツ国防軍は クルスク地区 , ベルゴロドにおける市街戦。 50 万人あまりの将兵 ( 30 個師団ーーうち戦車師 団 , 自動車化師団 7 ) , 約 1 , 500 両の戦車 , 3,000 門の火砲 , 3 , 700 機あまりの飛行機を失った。 W ・チャーチル英首相 「クルスク , オリ ョール , ハリコフの 3 大戦闘は , 東部戦線にお けるドイツ軍の破局を意味するものだった」。 F ・ルーズベルト米大統領ーー「大戦闘の 1 カ月間に , ソ連軍はその技能 , 勇敢さ , 自己犠 牲 , ねばり強さを発揮して , ドイツ軍が長い間 もくろんできた攻撃を阻止したばかりでなく , 遠大な結果をもつ成功的な反攻をも始めた・ 1
大きな爆弾搭載量 , すばらしい急降下速度と頑丈な機体で , 東部戦線のドイツ軍地上部隊 本機が急降下にはいると , 当時のドイツ戦闘機はほとんど追いつけなかった。円 44 年には ドイツに対する , ソ連の空からの反攻の原動力となった名機といえよう。 そのほかソ連機は , ドイツ機が前線にくる途 るために , ゲーリングはまだ第 2 戦線のなかっ 中を待ち受けて打撃を加えた。 とくに激烈な空 た西部 ドイツ , フランス , オランダーーー - 力、 戦が行なわれたのは , ドイツ空軍のクルスク鉄 ら飛行部隊を移入し , また , レニングラード付 道拠点の爆撃の際である。敵爆撃機はときたま 近や東部戦線の他の地域からも , 航空兵力を引 クルスクに突入して , わが方に損害を与えたが , き抜いてこなければならなかった。こうしてや その代償は非常に高くついた っと , 第 6 , 第 4 航空軍の保有機数は 2 , 000 機 たとえば 6 月 2 日の昼間と夜間爆撃の際 , ド に達した。 イツ空軍はソ連戦闘機のねばり強い攻撃と , 適 オリョール , プリャンスク , ハリコフ , ポル 確な対空地上砲火によって 145 機を失っている。 タワの飛行場には , 7 月はじめ , ドイツ空軍の ドイツ空軍はクルスクの近郊だけでなく , 優秀な空軍部隊が集結した。 ドイツ軍司令部の 独戦線の他の地区でも重大な損害をこうむった。 もくろみによると , これらの航空部隊は戦車師 夏季攻勢準備中 , ドイツ空軍は息つく間もな 団とともに , 夏季攻勢の主役を演ずる予定であ かった。損害は苦労のあげくやっと補充された。 った クルスク突出部の攻撃に参加する航空集団を作 ソ連最高司令部は , 空陸で鉄壁の守りをかた 73
4 KV2 型重戦車 , ドイツはこの重戦車を " 巨人 ( ギガント ) " とか怪物 ( モンスツルム ) " と呼んだ。 期間にやってのけなければならなかったので , 大変な苦労だった。そのうえ前線に召集される 人がいたので , さらに苦労はふえた 開戦当初 , 党員はほとんどみんな前線行きを 志願し , 何千という従業員もそれにならった。 しかし , 工場は 1 日たりとも休むわけにはいか なかった。平時の何倍という仕事が待っていた し , 前線にどんどん戦車を送り出さねばならな かった 1941 年 10 月はじめ , チェリャビンスク・トラ クターエ場はキーロフ工場と改称され , レニン グラードのキーロフ工場のほかハリコフ・デ ィーゼル工場 , モスクワのクラースヌイ・プロ レターリーエ場とフライス盤工場 , 少しおくれ てスターリングラード・トラクターエ場の一部 が , チェリャビンスク工場の中にはいった こうして短期間に , チェリャビンスク工場は タンクグラード ( 戦車都市 ) といわれる大企業 になり , フルに力を発揮できるようになった。 1941 年 9 ~ 12 月の期間に , 前線から遠いチェ リャビンスクに八つのトラクターエ場 , ~ / 、つの 車体工場 , 二つのディーゼル工場が集まって操 業を始め , たえす生産を増強していった。 10 月 22 日 , はやくもチェリャビンスク製の重 戦車 KV は , モスクワ方面に突入してきた敵軍 の行く手を阻んだ。一方 , チェリャビンスクで は戦車増産の戦いがもえさかっていた。企業確 立期にでてきたさまざまな困難を乗りこえて , 従業員は生産に情熱を傾けた。 1942 年の夏 , 敵はカフカズ ( コーカサス ) と ポルガ方面に侵出 , そのころチェリャビンスク 工場には KV 戦車の生産や , 近代化された KV ls の生産習熟と同時に , T34 戦車の大量生産を はじめるという重大な使命が与えられた。 8 月 22 日 , 最初の T 34 が送り出され , 8 月末 までに 30 台の T34 を前線に送った。近代化され た重戦車も生産されはしめた。 1942 年にソ連は , 2 万 4 , 668 両の戦車を生産 してドイツの 9 , 300 両を追い越し , 戦車生産に おけるドイツの優位を破る条件を作った。戦争 89
ポヌイリ地区図 オリ ョーノレ 第 41 戦車軍団 フィンランド 第 4 / 戦車軍団 第 46 戦車軍団 ソ連軍主防線 丘 253.5 △ パルト海 ホヌイリ 丘 274 レニングラード △ オリホバトカ ドビナ川 スモレンスク ◎ モスクワ 2 プリャンスク オリョール プリペット川 クルスク ホロネシ サラトフ キエフ - べノレコロド / 、リコフ ドニエプル川 0 ( スターリングラード ) ポルゴグラード ドネッ川 ドニエストル川 アゾフ海 ポルガ川 カスピ海 25
当 : ツ 1 0 クルスク郊外でソ連軍は反撃に転じ , ドイツ軍の拠点を占領した。 7 月 12 日 , 西部方面軍とプリャンス に転じた。 における大会戦の一つ一一一でのソ連軍の勝利は , ク方面軍の左翼部隊 , 7 月 16 日にはポロネジ方 前線と銃後の大勢の英雄の , 毎日の献身的行為 面軍が攻撃に移った。 によって達成されたのである。ソ連軍の将兵と 敵の防衛線は相次いで突破され , 8 月 5 日 , すべてのソ連国民の力は , 全社会の未曽有の精 ソ連軍はベルゴロドとオリョールを解放した。 神的・政治的統一と , 国内の民族の友好 , そし この日 , わが祖国の首都モスクワでは , 勝利を て国民と軍の固いきずなを作り出した社会主義 記念して独・ソ戦史上初めて祝砲が打ち上げら の物質力と , 前線に必要な物すべてを確保した れた。 8 月 23 日 , ソ連軍はハリコフも解放した。 国の巨大な経済力によって強化された。 ドイツ軍はクルスク会戦で大損害を受けた。 もちろん , 偉大なレーニンによって鍛えられ クルスク会戦には最終的に ドイツ軍の 7 固師 た共産党が , 国民の先頭に立って進んだことが 団 ( 全師団の 1 / 3 ) が参加したが , そのうちの 30 前線と銃後の英雄の力と無敵さを高めた。党は ドイツ軍を粉砕するため , あらゆる努力をはら 個師団が粉砕された。 50 日間の戦闘でドイツ軍 った。国民は党の努力を知り , それを支持し , は , 150 万人以上の将兵を失ったのである。ドイ 党が示した道を堅実に進んだ。そして敵は粋砕 ツはもうこの大損害をうめることはできなかっ (APN) た。これで力関係はソ連軍に有利となり , 戦略 されたのである。 の主導権をにぎった。 クルスク会戦において 10 万人以上の将兵が勲 A ・ワシレフスキー元帥は 1895 年生まれ , 章やメタ、、ルを受け , 18 万人以上がソ連英雄の称 第 2 次大戦中はソ連軍参謀総長 , 戦後 , 国 号を受けた。クルスク会戦ーーー第 2 次世界大戦 防相 , ソ連英雄 2 回 66
ドイツ軍が戦場に持ちこんだのは、、フライヤ・ この初期のレータ、、一がものをいい レーダー プラウン管にうつったソ連機の大群のエコーを 見るや , ドイツ空軍は直ちに全戦闘機を離陸さ せ , 来襲するソ連機を空中で捕捉 , ドイツ側の 己録では約 40() 機のソ連機を撃墜した。この先制 の一撃で , 南部地区では , 一時的にではあった がドイツ軍が制空権を握り , 以後の作戦に有利 な立場を獲得した。 この戦場上空の制空権に守られたドイツ地上 部隊は , 第 48 機甲軍団のティーゲル重戦車 , ンテル中戦車を主軸に , クルスクに向かって , 南方からその鉄の爪をソ連軍の横腹に食いこま せ始めた。北方戦線で苦闘するドイツ軍とは対 称的に , 南から北へと攻め上げる機甲部隊は , つぎつぎにソ連軍の防衛線を突破していった。 7 月 8 日の朝 , 第 48 機甲軍団の先頭部隊は , ク ルスクまであと 80km のペナ川の南岸に達した。 7 月 8 日 , ハンス・プロイス少尉は愛機 Hs 129 B ー 2 で出撃をくり返した。彼の所属する第 1 地 上支援航空団第 8 中隊は , プルーノ・マイヤー 第 3 機甲師団は 270 両の戦車を破壊されて , 2 , 000 名の兵士が死傷という大損害を , 2 時間連 続の対地攻撃で受けた。第 17 機甲師団は 4 時間 にわたる絶え間ない攻撃がようやく終わったと き , 300 両の戦闘車両のうち 240 両が炎上し , あ るいは天にも届く黒煙を上げるスクラップと化 し , もはや戦闘部隊としての能力を完全に失っ ていた ドイツ空軍先制のパンチ ゲアハルト中尉か機上で聞いた「全戦闘機 , 迎撃せよ」という交信は , クルスクから南へ 150 km にあるハリコフ周辺のドイツ空軍基地のもの であった ソ連空軍は航空作戦の定石どおり , ドイツ空 軍を地上で撃破しようと作戦開始の 7 月 5 日 , ドイツ機が最初の出撃を終わって , 燃料の補給 , 弾薬の積み込みの終わる時間を見はからって , 多数の爆撃機を発進させたのである。ところが , こでドイツ軍にレーダーが装備されていた一 とまではソ連軍も知らなかったのである。 一三ロ 見事命中。もくもくと天に昇る黒煙の彼方を行く戦車は , 敵か味方か。
ヨーロッパに第 2 戦線か作られていないと言 この作戦を可能にした。ヒトラー司 うことが , 令部はフランスとドイツから , オリョール以南 , ハリコフ以北の地域へ , さらに補充して数師団 を移した。また , フランスから 5 個飛行部隊を そこへ移した。大増援部隊が東部戦線の部隊へ 加わったのである。 攻撃を計画するにあたってヒトラー司令部は , 新しい兵器一一一ティーーゲルとパンテルと名づけ られた戦車ー - ーと強力な武器をそなえ , 厚く装 甲された自走砲フェルディナントに大きな期待 をかけた。新しい型の軍用機ーーー戦闘機 Fw190 A と爆撃機 HS129 ーーーに大きな役割りがふりあ てられた。 敵の意図はソ連司令部によって見破られた。 ソ連軍は戦略的主導権と , 兵力および兵器での 若干の優勢さを持っていたので , ヒトラー軍が 攻撃へ移る前に先手を打っことができたであろ うが , しかし , 総司令部は違った計画をとった。 十分に準備され , 奥深く展開された防衛線でフ アシスト軍の攻撃を迎え , ねばり強い防衛戦闘 で敵の兵力を消耗させ , その後で逆襲に転じ , 弱まっている敵を撃滅することが決定された。 結果においてこの決定の正しさは確証された。 7 月 5 日にヒトラー軍は攻撃へ移った。約 5 ( ) 日 , 戦争全体を通して最大の戦車戦をも含めた 緊張した戦闘が行なわれた。双方からのべ 400 万人を越える兵力 , 約 7 万門の大砲と迫撃砲 , 約 1 万 3 , ()()() 両の戦車と自走砲 , 1 万 2 , 000 機弱 の軍用機がこの戦闘に参加した。 ヒトラー司令部は最も戦闘能力のある約 10() 個師団を連続してこの戦闘へ投入したが , 彼等 の努力はことごとく奏効せす , ドイツ・ファシ スト軍はひどい敗北をこうむった。ヒトラー軍 の損失は 50 万人を越える人質 , 1 , 500 両におよ ぶ戦車 , 3 , 0()0 門の火砲 , さらに 3 , 0()0 機を越え る軍用機におよんだ。戦闘に参加したヒトラー 軍のメレンチン元師は「戦闘で・・ ・・ドイツ軍の 優秀部隊が滅亡した」と書いた ファシスト軍の死にもの狂いの攻撃を撃退し たソ連軍は , 計画通りに反撃に転し , 西ョーロ ッパに向かって成功裏に前進をはしめた。同時 にソ連軍は , 他の戦線でも攻勢を開始した。時 間と方向で綿密に計画化された強力な打撃は , 敵の機動力を発揮する能力を奪い , 敵はいたる ところで敗北した。 ソ連軍は冬ばかりか , 夏で 4 も攻撃することができることを証明した。 1943 年夏のソ連の勝利は , ファシスト・プロ ックを根底までゆるがし , その崩壊の過程を早 めた。フィンランドではマンネルハイム将軍が , ヒトラーがすすめたフィンランド・ドイツ両軍 の総司令官の地位を , これ見よがしにけとばし た。スペインの統治者フランコは , ナチとたも とを分かち , 打ち破られた、、空色の師団 ' ' の敗 残兵を , 急いで東部戦線から撤退させた。 広範な不満がルーマニアの住民をとらえ , 西 ヨーロッパの諸国 , とくにユーゴスラビアとア ルバニアで , ファシズムにたいするレジスタン 1943 年 9 月のファシスト・ スが活発になった。 イタリアの降伏は疑いもなく , クルスク近郊の ヒトラー軍の敗北が直接の結果であった。 クルスクでの戦闘で特筆すべきことは , 連合 軍諸国からその意義を高く評価されたことであ ルーズベルト米大統領 る。 1943 年 8 月 6 日に はソ連政府首相あての特別親書の中で次のよう
☆ ロケット弾 , 機関砲弾の雨を浴びせ , ドイツ兵から恐れられた 編隊。この機は厚い防弾 , 強力な武装で , 超低空で地上の目標 戦車 , 車両 , 歩兵 , 陣地など に爆弾 , 円 45 年 5 月ドイツ敗戦の年 , 破壊されたベルリン上空を低空で飛ぶイリューシン 1 2 ー 2 M 3 「シュトルモビク」の いに消え去った。 ソ連空軍の制空権は , オリョール , ベルゴロ ノ、リコフ方面のソ連軍の反攻中に , 最終的 に強化された。反攻には五つの航空軍と , 遠距 離行動の航空編合部隊が参加した。 ソ連空軍は 敵の航空集団の 2.5 倍以上の戦力をもち , 最も 積極的な行動方法をとって , 敵の空軍とたえす 活発に戦った。戦闘機は敵の占領地域に大胆に 侵入し , 敵機を求めてせん滅した。また , しば しば敵の飛行場を封鎖したり , 爆撃を加えたり されたうちからも数百機を失った の戦力全部を完全に失ったばかりでなく , 補充 これらの航空軍の飛行連隊は , の間に こうして 1 航空軍は 3 , 70() 機を失った。 8 月 23 日までのクルスク会戦中に , 第 6 , 敵空軍の損害はどんどん増え , 7 月 5 日から はじめ カ月半 第 4 もよらなかったといえよう。ましてドイツでは , 万 8 , 813 機であったから , 空軍の増強など思い 当時のこれらの飛行機の生産機数は , 年間 1 を失った。 ドイツ側爆撃機 , 襲撃機 , 戦闘機 1 万 7 , 495 機 い , 1 年間だけで , ドイツ軍側の発表によると , 1943 年下半期中にドイツ空軍は 1 万 180 機を失 の空軍は東部戦線であいついで敗北をなめた ソ連空軍は制空権をにぎって離さなかった。敵 クルスク会戦後展開されたソ連軍の総攻勢で , 飛行要員の不足がひどかったので , ドイツ空軍 は深刻な危機にぶつかった。それをハッキリ小 したのが , 8 月 19 日の空軍参謀長イェショネク 大将の自殺である。 したがって , クルスクの戦闘でソ連空軍は , ドイツの、、空軍戦略 ' ' を崩壊させ , ファシスト その後第 2 次大戦で , ドイツ空軍を敗北させる にいたったほどの空の勝利を得たと言えよう。 クルスク突出部におけるドイツ空軍の行動は , まさにファシスト空軍の白鳥の歌であったわけ である。 こで指摘しておきたいのは , 1943 年の地中 海水域における連合軍の行動 , 1944 年の連合軍 のフランス上陸は , ドイツ空軍のたいした反攻 もなく行なわれたということである。ドイツ空 軍の主要勢力はソ・独戦線にあって , しかもこ の戦線で , 事実上粉砕されたのである。 クルスク戦でソ連空軍は , 他の兵科の部隊と 協同行動をとり , 敵に勝利を得た。敵撃滅と言 う共同の目的をとげるために , あらゆる兵科の 部隊が , たえす協同動作をとったことこそ , ド イツ軍に対するソ連軍の勝利を確保した最も重 要な要因のひとつであった。 (APN) 筆者は第 2 次大戦中 , 第 16 航空軍司令官 , 戦後 , 空軍総司令官代理 , ガガーリン記念 空軍大学学長。 75