第 653 重駆逐戦車大隊の母体は , 第 197 突撃砲大 隊であった。 この大隊は 1940 年 10 月 , イエーテ ルボクに誕生した。突撃砲が初めて戦場に現わ れたのが , 1940 年 5 月のフランス戦のことであ ったことを考えると , この部隊編成はかなり早 ことになる。 かれらの初陣は , 1941 年 3 月のバルカン戦争 であった。岩山の多いユーゴスラビアとギリシ アは , 戦車には向かない地帯だった。それにパ ルチザンとも戦わなければならなかった。かれ らの初陣は , 決して楽なものではなかった。 だかれらをささえたのは , 歩兵の示す突撃砲に 対する強い信頼感であった。 1941 年 6 月 22 日 , 対ソ戦開始。第 197 突撃砲大 隊は南部軍集団の中にあった。突撃砲の前部装 甲板には , 白字の K が誇らしげに描かれていた かれらの任務は , あくまでも歩兵部隊を , 後か ら支援するものであった。 ソ連軍は , 今までかれらが経験したフランス 軍 , イギリス軍と比べものにならない激しい抵 抗を示した。ソ連軍のトーチカは , 最後の一兵 になるまで反撃してきた。それに T ー 34 戦車は悪 夢であった。何両かの戦友の突撃砲が犠牲にな った キエフの包囲戦 , ドニエプル河の渡河と , 大 隊は東へ東へと進んだ。そして初めて経験する 暗いロシアの冬。撤退と再編成の季節であった。 1942 年。名将マンシュタイン大将に率いられ て , セバストボリを攻撃した。このクリミヤ半 島の大要塞は 1 カ月間 , 頑強に抵抗したが , っ いにドイツ軍のものとなった 1942 年 12 月 23 日。隊員たちはクリスマスで心 はうきうきしていた ただ , スターリングラー ドの戦友を思うと心が痛んだ。そんな中で突殃 大隊は古巣のイエーテルボクに帰還せよとの命 令を受ける。重突撃砲戦車で再編成せよという ものであった。隊員に対する大きなクリスマス プレゼントになったのである。休暇もそこそこ に , 将校 , 車長および操縦士たちは , 新しい兵 器になれるために , それを製造した一 ー / くノレン ゲン工場のある , オーストリアのセント・ヴァ レンティンに向かった 1943 年 4 月 1 日。第 197 突撃砲大隊は正式に 解隊され , 新しく第 653 重駆逐戦車大隊と改称 した。かれらの新しい兵器。これこそ当時最強 の , 43 型 88mm 対戦車砲を搭載した無砲塔の重戦 た 車であった。正式には、、エレファント ( 象 ) ' ' とよ ばれたが , この重戦車を設計したポルシェ博士 の名前を取って、、フェルディナント " ともよばれ 突撃砲の経験者ばかりの隊員は , この重戦車 にすぐになれた。ただ , 不整地走行速度が遅い のは不満だった。かれらが今まで乗っていた 3 号突撃砲は , 時速 24km で走れたのに この大物 は 10km がやっとだった。しかし , 重量が戦闘状 態で 68t もあり , 3 号突撃砲の 2 倍もあった を考えると , しかたがないことであった。 それは正に巨象であった。そして走る姿を描 写すれば , 巨象が「のっし」「のっし」と力強く 大地を踏んでかっ歩する風情があった。巨象は また強力な戦車であった。それはすでに「戦場 の女王」として実証すみの 88mm 砲だけではなか った。前面装甲板の厚さは , 当時としては信し られないほどの厚さの 20()mm もあった。連合軍 の持っている , いかなる対戦車砲でも貫通不可 能なョロイであった べテランの隊員は戦闘訓練を積んで行く内 , この巨象にも弱点があることに気がついた 号突撃砲のように , 車体上部に械関銃架が無い ということであった。かれらの経験からすると , 歩兵と協同作戦する間でもこの機関銃が役立っ た。時には歩兵が乗って撃ったりしたのだった。 隊員は , こっそり 42 型軽機関銃を車内に持込ん でいたのである。これを実際に使うことになる とは , まだ「神のみぞ知る」時期であった。し かし , べテラン隊員のこの鋭い「勘」は , 不幸 にも適中することになるのであった。 ふりかえって 5 月 25 日。ノイスドール演習場 でグーデリアン将軍が視察の 2 日目。将軍の目 の前で実弾射撃訓練が行なわれた。最新式 71 ロ 径の 88mm 砲 43 型は , すさましい威力と命中率を 上げた。中でも光ったのは第 1 中隊であった。 中隊長のシュピールマン大尉は , グーデリアン 将軍から賛辞と激励を受けた。 第 653 重駆逐戦車大隊の意気は上がった。そ れは , 今から約 2200 年前の紀元前 216 年。カルタ ゴの勇者ハンニバルに率いられたカルタゴの大 軍団が , 象をひきつれてはるばるアルプス山脈 を越え , カンネーの戦いで , ローマ軍団を撃威 したときの気概であった。 ノ、ンニバルの巨象は ローマ軍の盾を並べて前進してくる重歩兵たち をしゅうりんし , ローマ軍の戦術を混乱させた 3 23
手中にあった。 が命中したのだ。中隊長シュピールマン大尉は 7 月 7 日 , ポヌイリをめぐる戦闘は最高潮に 重傷を負って脱出したが , 気を失った。操縦十 ドイツ軍は , 第 653 重駆逐戦車大隊を 達した。 と通信員がとび出して , 隊長を戦車の陰にひき 全部出動させる一方 , 15()mm 目走砲、、フンメル " づってくる。巨象は集って円半に並んだ。だが , の第 216 突撃戦車大隊も出撃させて , 沖幕を張 これは更に危険だ。巨象の集団は手負いの象を らせた。目標はポヌイリの丘であった 残して後退したのであった。 ソ連軍の兵力も , ドイツ軍にまけすに強化さ 傷ついたエレファント戦車の救援は , 大隊首 れていた。ロコソフスキー将軍は激戦で消耗し 脳部も , 戦前から頭をいためた問題であった。 つつある第 307 狙撃師団に対し , 強力な援軍を , 巨大な戦友 , ティーゲル I 型戦車は , まだ 18 ト 6 月 6 日の夜送り込んでいた。それは第 5 突撃 ン・ハーフトラックのフアモーで引っはれた。 砲師団 , 第 13 対戦車砲旅団 , 第 11 迫撃砲旅団 , だから 68 トンもある巨象は , 18 トンのフアモー それに第 22 親衛ロケット砲旅団であった。 どうしてもけん引する でも手に負えなかった。 血ぞめの丘 253 高地の激戦は , 同じ戦区のオ 場合は , 2 両の 18 トン・フアモーでやらねばな リホヴァトカの 274 高地とともに , 北方から挾撃 らなかったのである。これは弾丸の飛びかう戦 するドイツ軍の , 運命を決する大戦闘となった 場では , とてもできない芸当であった。 7 月 6 日 , ポヌイリの村が戦いの焦点となっ のである。 ポヌイリの北方に , ソ連軍兵士セードフ曹長 た。その日は空からの支援があった。第 6 航空 の指揮する , ソ連最高司令部予備第 540 軽砲連 団のシツーカ急降下爆撃機であー。た。「キー 隊所属の対戦車砲小隊がいた。かれの小隊は , 「キー」と , かん高い音を立てて , 地上の敵を圧 ドイツ戦車が 2()()m に近すいた時 , 発砲を開始 倒するかのように群がった。 した。先頭の戦車は , グラグラッとして煙につ 第 653 重駆逐戦車大隊を中心に , 第 18 戦車師 つまれた。 2 番目の戦車は炎上した。戦闘は数 団の 3 号 , 4 号戦車をまじえて , ポヌイリの郊 時間つづき , 砲手は正確に , また正しく行動し 外にいた。その東側には , 重要目標となってい ドイツ軍戦車 8 両と約 l()() 名の歩兵を , この る 253 高地があた。ポヌイリは , まだソ連軍の 6 号戦車ティーゲル I 型を牽引するドイツ軍 Sd. Kfz. 9 型田トン牽引車。この牽引車はにシリンダー , 出力 250 田のエンジンを積み , 牽引力も強くて , 56 トンもあるティーゲル重戦車をゆうゆう牽引する事ができた。 ムい第いオ : 32 ー 1
クルスク戦線で , 図 . 5mm 対戦車銃 M 円で敵戦車をねら うソ連軍の兵士たち。手前の銃は 7. 62mm 狙撃銃 M 絽 9 レ 300 左の上部に 45mm 対戦車砲 M 円 42 が構えている。 クルスク突出部の戦いで , 歩兵を援護するソ連軍の SU ー 76 自走砲。
ロシアの麦畠に砲列をしく ドイツ軍丐榴弾砲 (SFH) 田型は , ソ連軍陣地に砲弾の雨をあびせる。 ていたのであった 第 1 線部隊の損害は , 予想をはるかに上まわ モーデルもモントゴメ リーも , 不思議なこと った。敵陣の前にバラまかれた地雷の処理は , に共通点が多かった。両者とも防御戦に才能を ドイツ軍では突撃工兵の任務であった。第 18 戦 発揮し , 突破戦に対しては緻密な計算が多く , 車師団の戦車を盾にしながら , 工兵は敏捷に前 大胆さに欠ける面があった ただ , モーデルの 進し , 鉄条網にへばりついた ソ連軍は迫撃砲 場合 , 兵力と兵器の量にひどい制限が加えられ で反撃し , 工兵をしばしば後退させた。 ていた点は別であった 砲火と轟音と , 飛び散った鉄片のため , 地雷 午前 5 時 30 分。クルスクを北から挾撃する , 探知器は訓練の時のようにうまく働かなかった。 第 9 軍の歩兵部隊が進撃を開始した。中央の突 工兵たちは銃剣を手にしながら , 素手で対戦車 撃集団は , 第 47 戦車軍団の第 20 戦車師団を先頭 地雷をさがした。 に , 第 9 , 第 2 , それに第 4 戦車師団と続くこ 夏草におおわれた広大な地雷原は , ソ連軍に とになっていた ーこの戦区では , 歩兵師団は第 さえわからないぐらい複雑で , 判別できなかっ 6 師団がたったの一つと , 極端に戦車部隊が集 た。工兵はしばしば , ハリカ、、ネでむすばれた対 中していた。反面その左翼の第 41 軍団は , 第 86 , 人地雷の犠牲になった。工兵は技術兵であった。 第 292 歩兵師団が二つに対し , 戦車師団は第 18 機械戦争では , どうしても欠かせない重要な人 戦車師団が一つといった , 戦力のアンバランス 材だったのだ。しかし , 損害は増す一方であっ が最初から生じていた 第 41 軍団の第 1 目標は , 第 47 軍団と協力して , ハルペ将軍は自走砲、、フンメル " を出した 第 1 目標であるオルホウアトカ北方の , 274 高地 ソ連の第 1 陣地を猛砲撃しようというのだ。た を占領することであった。だが , 直接南下して ちまち , ソ連の第 1 , 第 2 塹壕陣地は猛火につ 第 1 目標に進出することは出来なかった。とい つまれた。 うのは偵察機から , ソ連軍の強力な部隊が多数 戦車は歩兵を伴なって前進を開始した。だが , の車両を伴なって , 南東よりポヌイリ方向に急 歩兵はソ連陣地からの機関銃で , たちまち射す 進中である , という緊急情報が , 第 41 軍団司令 くめられて , 前進をはばまれた。戦車は歩兵を ハルペ司令官 部にもたらされていたのである。 後に残したまま , 速力を上げて突進する形にな ポヌイリに向 は , 自軍の南下する部隊の先を , った ソ連兵は不死身なのか ? いや違う。かれらと けることに決めた 29
歩兵を伴なって戦車は前進した。工兵たちが に発砲を開始した。 T ー 34 もいる。 命がけて作った地雷原の通路を通って第 3 塹壕 エレファント戦車も 88mm 砲の射撃を開始した。 陣地までは楽楽と進んだ。そこには第 18 戦車師 この戦車砲にねらわれたら最後なのだ。 T ー 34 も 団の戦車と , 第 86 歩兵師団の兵士たちが , めい KV-I も , すべて血祭に上げられるのだ。敵 , 味 めい敵の塹壕の中で待期していた 方の徹甲弾が飛びかった。 88m Ⅳ砲はすさまじい ソ連軍はこの第 2 陣地にへばりついて , 要衝 威力を発揮し , 低い姿勢の T ー 34 を見つけ出して となるべきポヌイリを守っていた は , 討ち取った パンツアー・フォー ( 戦車月リへリ」 ソ連軍の「ラッチ・プム」は , 今やドイツ軍 ドイツ軍はエレファント戦車を中心に の 37mm 対戦車砲と同様 , 「ドア・ノッカーーにな を開始した。 った。 2()()mm 厚の前面装甲板は無敵であった。 ソ連軍の重迫撃砲が , 前進する戦車をカーテ しかし , ソ連軍も巨象の強固な装甲に気がっく ンのごとく包み , 歩兵をねらう機関銃火があれ と , 直ちに弱い足をねらう戦法に変えはじめる。 狂った。歩兵は前進を止めた。しかし , 怖るべ 戦車 112 が止まった。キャタピラーをやられた き敵の「ラッチ・プム」は , まだとんでこない。 のだ。戦車兵は外にとび出さない。外は戦車砲 だがわらっていることは間違いない。先頭の戦 と迫撃砲の鉄火場なのだ。だが , 傷ついた戦車 車は敵の第 2 陣に 8()()m とせまった。 はねらわれやすい。なお悪いことに , 止まった ノヾック」「ノヾック」「 ノヾック」 戦車を野砲がねらい出した。 「 11 ウアー ! ( 対戦車砲 11 時方向 ) 」 戦友の戦車が救援に向かう。これもわらわれ シュピールマンのヘッドホーンがなる。その る。 112 戦車の乗員が後部のエスケープ・ハッチ 時 , 先頭の戦車に徹甲弾が命中した。それも数 から次次ととび出した。 5 名 , 全員収容。 発つづけて食らった。 その時 , 戦車 101 の足にも敵弾が命中した。戦 「やられた」と誰もがそう思った。しかし , 巨 車はぐるりと半回転して傾いて止まった。 象は依然として , 例のゆっくりとした歩調で前 すい」象は横腹を見せているのだ 進をつづけていた。「ホッ」と一息。それもつか 「全員脱出せよ」 の間 , ソ連対戦車砲はそれが合図であったよう 瞬間 , 巨大な砲室は炎と化した。 2 発のリ単丸 ドイツ軍の一撃に , 76.2 。戦車砲の砲塔ごと完全に吹き飛ばされたソ連軍の誇る T34 / 76 型中戦車。かたわらを ドイツ軍小型軍用車が通り過ぎて行く。 前進
4 KV2 型重戦車 , ドイツはこの重戦車を " 巨人 ( ギガント ) " とか怪物 ( モンスツルム ) " と呼んだ。 期間にやってのけなければならなかったので , 大変な苦労だった。そのうえ前線に召集される 人がいたので , さらに苦労はふえた 開戦当初 , 党員はほとんどみんな前線行きを 志願し , 何千という従業員もそれにならった。 しかし , 工場は 1 日たりとも休むわけにはいか なかった。平時の何倍という仕事が待っていた し , 前線にどんどん戦車を送り出さねばならな かった 1941 年 10 月はじめ , チェリャビンスク・トラ クターエ場はキーロフ工場と改称され , レニン グラードのキーロフ工場のほかハリコフ・デ ィーゼル工場 , モスクワのクラースヌイ・プロ レターリーエ場とフライス盤工場 , 少しおくれ てスターリングラード・トラクターエ場の一部 が , チェリャビンスク工場の中にはいった こうして短期間に , チェリャビンスク工場は タンクグラード ( 戦車都市 ) といわれる大企業 になり , フルに力を発揮できるようになった。 1941 年 9 ~ 12 月の期間に , 前線から遠いチェ リャビンスクに八つのトラクターエ場 , ~ / 、つの 車体工場 , 二つのディーゼル工場が集まって操 業を始め , たえす生産を増強していった。 10 月 22 日 , はやくもチェリャビンスク製の重 戦車 KV は , モスクワ方面に突入してきた敵軍 の行く手を阻んだ。一方 , チェリャビンスクで は戦車増産の戦いがもえさかっていた。企業確 立期にでてきたさまざまな困難を乗りこえて , 従業員は生産に情熱を傾けた。 1942 年の夏 , 敵はカフカズ ( コーカサス ) と ポルガ方面に侵出 , そのころチェリャビンスク 工場には KV 戦車の生産や , 近代化された KV ls の生産習熟と同時に , T34 戦車の大量生産を はじめるという重大な使命が与えられた。 8 月 22 日 , 最初の T 34 が送り出され , 8 月末 までに 30 台の T34 を前線に送った。近代化され た重戦車も生産されはしめた。 1942 年にソ連は , 2 万 4 , 668 両の戦車を生産 してドイツの 9 , 300 両を追い越し , 戦車生産に おけるドイツの優位を破る条件を作った。戦争 89
ドイツ軍 6 号戦車ティーゲル IE 型。長砲身 56 口径 88mm 戦車砲 36 は , もともと有名なドイツの 88mm 高射砲田型 から出発したもので , 砲口には円筒型 2 重作動式砲ロ制退器がつけられている。ティーゲル戦車はその厚い装 甲と強力な戦車砲で , ソ連軍兵士を恐怖におとし入れるに十分であった。 て人間なのだ。ただ , 巧みに作られた塹壕陣地 ソ連軍は早くから , ドイツ軍の大攻勢を察知 は後方に連結しており , 一部は強力に遮蔽され し , ひそかに特別訓練をしていたのである。夜 ていたのだ。かれらはこの方法で , 集中砲火を の間に兵士たちを , 塹壕内の完全な戦闘配置に うまくかわしたわけだ。 つかせ , T ー 34 , KV ー 1 重戦車を持ってきて , 防 ドイツ軍戦車は対戦車銃と戦いながら , これ 御陣地の上を縦横に走りまわらせたのである。 を撃破し , 塹壕陣地をじゅうりんした。 ソ連兵士たちに , 戦車の不気味な接近音と , 塹 ドイツ 戦車兵はここでまた , 新たな驚きにぶつかった 壕をのり越える時の恐怖感を無くするための訓 これまでのソ連兵は , 戦車に対して勇敢に抵抗 練であった。かれらは正面から来る戦車に , ど はしても , 戦車が塹壕近くまでくると , 後方に う対処すれば良いか十分に訓練された。その上 , 急いで後退し , 新たな反撃をするのが常だった。 戦車に対する反撃戦法も , 毎夜のごとくに体で また , 多くの兵士は , 手を高く上げるのだった。 おは、えさせられていたのだ。こうしてソ連軍首 今日の敵は違っていた。塹壕からとび出して 脳は , 自軍の兵士たちから , 戦車の恐怖感を一 来ない代わりに , 逃げもしないのだ。ただ頭を 掃するのに成功していたのである。 低くして , ドイツ軍戦車をやりすごしているの 巨象たちの墓場 だ。中には後ろを向いて , 対戦車銃でドイツ戦 車の後部を射撃するものさえあった。 7 月 5 日の午後。ハルペ将軍はいよいよ , と ドイツ戦 車は前方から , ソ連の 76.2mm 対戦車砲にねらわ って置きの第 653 重駆逐戦車大隊に出撃を命し れるばかりか , 左右と後ろから射たれるハメに た。大隊長のシュタインヴァクス少佐は , グー なった。第 18 戦車師団の損害は増加するばかり デリアン将軍からしきしきに激励された , シュ であった ピールマン大尉の率いる第 1 中隊に発進を指令 さてここで , タやみに消えた完全装備のソ連 した。 12 両のエレファント戦車の初陣であった。 第 307 狙撃師団の兵士たちのことを思い出して 現代のハンニバルは , 象を戦場に放ったのであ いただきたい る。
1 ソ連の誇る T34 戦車を , 見事しとめた殊勲のドイツ軍 3 号突撃砲。炎上する戦車から脱出をはかった T34 戦車搭 乗員も , ドイツ軍の機銃にあえなく倒された。突撃砲は回転式砲塔を持たないため射角が制限される不利はあ ったが , 車体に比較して大型の砲を装備できるなど , 利点もあった。 小隊は撃滅したのであった。 ポヌイリの丘をめぐる戦いでは , セードフ曹 長のような小隊はいたる所にいた。また , それ 以上に頑強に抵抗して戦死したソ連兵士は , 数 え切れなかった。 この日の戦闘も , ソ連軍のペースで進められ た。戦車を支援して前進してくる歩兵は , ソ連 軍の砲火で , その度に追い返された。戦車はや むなく単独で前進することになった。 ドイツ軍 3 号および 4 号戦車は「ラッチ・プ ム」のスクリーンを突破できなかった。 ソ連軍 の火砲の前には , ドイツ戦車魂も勇気も無駄で あった 結局 , エレファント戦車が先頭を切らねばな だが , 旋回砲塔を持たない駆逐戦 らなかった。 車は , 強力な陣地を突破するための戦車ではな いのだ。敵戦車をたたきつぶすために この重 戦車は徹甲弾を多く携えて出動したが , 皮肉に も相手は対戦車砲と迫撃砲ばかりだった。徹甲 弾で砲をねらうことは , まるで中世時代のカッ ボールで大砲をねらうのと同じであった。当殃 高性能炸薬の榴弾で射つべきであった。直撃弾 でなければ砲は無傷なのだ。 巨象の砲手は , たちまち全弾を射ちつくした。 こうした戦場で全弾を射ちっくすことはご法度 だったが , 兵士は忘れてしまったのである。戦 場では混乱はつきものであった。 戦車兵たちは最後の手段をとった。 42 型機関 銃を射ったのである。それも 88mm 砲の内腔を通 して射撃したのだ。しかし , これは気やすめで しかなかった。 巨象は後退しなければならなかった。それも , 出撃した時の数はもどらなかった。ポヌイリの 丘を目の前にして , 多くの巨象が倒れていた。 あるものは炎に包まれ , あるものは弱点の足を 狙われて自爆していた 空には , 死せる巨象たちを弔うかのように 黒煙が高高とまい上がり , 暗雲のごとく地上の 修羅場をおおいかくしていた。ポヌイリの丘は まだソ連軍の手中にあった。 33
冷間型鍛造 , 高性能の工作機械 , 治具や工具 , その他多くの新しい工夫が広く採用された。ま ソ連の戦車工業ではじめて高周波電流によ た る部品の焼入れが実施された。ふつうの熱処理 だと , 炉内での部品の加熱に数時間もかかるが , 高周波電流を使えばほんの数秒ですむ。この方 法のおかげで高合金鋼を節約し , また , 労力 , 設備 , 生産面積をも浮かすことができた。 第 2 次大戦中 , チェリャビンスク工場は 1 万 8 , 000 両の戦車と自走砲 , 数万の戦車用ディー (APN) ゼル・エンジンを生産した 装甲が強力で , ドイツ軍を圧倒したソ連軍の KV ー A 型戦車。 マクルスク戦に初登場したソ連の目走砲 SU85 型。 85mm 砲を搭載した。 丁ー ? 4 の足まわりを利用し , 直前に開発された T34 , KV 戦車は , ドイツ軍 の戦車に質的にまさっていた ドイツはいそいで戦車更新措置をとらねばな 1943 年にドイツ軍は , 5 号戦車ハ らなかったも ンテル , 6 号戦車ティーゲル , 自走砲フェルデ イナント ( エレファント ) に期待をかけた。 れらの戦車は T34 , KV 戦車の諸元を土台にし て設計したもので , パンテルは T 34 戦車の車体 の形をそっくりまねていた。 こちらも対 敵が新型戦車を作ったからには , 抗策をとらねばならなくなった。ます T34 と K V1s 戦車に 85mrr 戦車砲をとりつけ , 火力の優勢 を期待したドイツ軍の鼻つばしをへし折った。 次ぎに T34 をベースにした自走砲 SU85 , SU 122 を開発した。さらに KV1s をベースにした S U 152 を 25 日間で開発 , 設計した。クルスクの 戦いで , これらの戦車や自走砲は大きな戦果を あげ , 152mm のその砲弾は , 敵の戦車や自走砲 の装甲板を貫き , 砲塔をふっとばした。 チェリャビンスク工場はさらに JS 1 , 次いで JS 2 , 自走砲 JSU122 と JSU152 を開発した。 れらの戦車 , 自走砲は , これまでのもののよい 点をすべて集めたものである。装甲や装備 ( JS 2 は 122mm 砲装備 ) はさらに強力になったが , 重量はこれまでのものよりも重くはならなかっ た。それは動力伝達装置がコンパクトなものに なったおかげである。 JS 2 はそのはか , 戦場で 修理がしやすくなった。 ソ連の戦車工業は , ドイツのそれに対して決 定的な勝利を収めた。 1942 ~ 43 年の 2 年間に ソ連の戦車工業は 4 万 8 , 668 両の戦車と自走砲 を前線に送ったのに対し , ドイツとその従属諸 国はわすかに 2 万 9 , 100 両の戦車を生産したに すぎなかった。 戦場ではソ連の 5 戦車軍 , 24 の戦車軍団と 13 の機械化師団 , 80 の独立戦車旅団 , 106 の独立 戦車連隊と 43 の自走砲連隊が活躍し , 勝利を収 めた。 戦時中 , チェリャビンスク工場は技術的に大 きく成熟した。 1943 年には T34 戦車製造設備全 体の約 90 % , KVü車 , JS 戦車用重要部品の機 械加工ラインの 50 % が流れ作業で動き , さらに 1944 年 8 月には , 重戦車組立コンべャーが運転 されるにいたった。 45 トン戦車がコンべャーで 生産されるなどは , 世界の戦車工業史上ではし めてのことだった。 92
クルスクの平原での戦いは , 独・ソ両軍の戦車どうしの 空の戦いでもあった。戦場から立 決戦であると同時に ち昇る煙の柱は , 戦車を弔う香煙にも似ている。 メッサーシ、ミット Bf ロ 0 の機首に , 第一長距離護衛戦闘航空団第 5 中隊のマークである「蜂マーク」を 描く整備員。機首から突き出ているのは 7.9mm 機銃 , 下に並んだニつの穴は , 20mm 機関砲の砲ロである。