連合軍 - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第1号
93件見つかりました。

1. グラフィックアクション 第1号

に書いた。「大規模な戦闘の 1 カ月間に貴国軍 隊は , 自分の手腕 , 勇気 , 自巳犠牲 , 頑強さを もって , 以前から計画されているドイツの攻撃 を阻止したばかりでなく , 遠大な結果をもって 反攻を開始し , 成功を収めた 英国の将軍であり , 歴史家でもあるフラーは 「クルスク近郊での敗北はドイツ人にとて , スターリングラード近郊での壊滅と同様の破局 であった , と言ってもけっして誇張ではないだ ろう」と書いている。 しかし , 現代の西側の歴史家の中には , クル スク近郊でのソ連軍の勝利の意義を低めようと , よからぬ目的を立てた連中もいる。彼等は一般 に , クルスク突出部での壮大な戦闘を黙殺しよ うとしているか , それともその意義を過小評価 しようとしている。手口のひとつは , ほとんど 同し時期に他の戦線で行なわれた英・米軍の一 部の , 本質的に 2 次的な行動に対するありとあ らゆる賛辞である。とくにシチリア島への連合 前線に出動する T ー 70 戦車と , ソ連予備兵群。 軍の上陸の役割りがひじように強調されている。 言うと , その上陸はクルスク近郊の ついでに 戦闘の後にはじまり , 規模で , したがて意義 でもまったくくらべものにならないものである。 連合軍がシチリア島へ侵攻したときには , わす かイタリアの 9 個師団とドイツの 2 個師団がい たに過ぎない。ヒトラー軍の損害は , こで 3 万 2 , ()00 名の戦死傷者を出しただけだった。 この上陸の成功は , 東部戦線での事件の成り 行きにかかっていた ことはまったく明らかであ る。ナチス国防軍の主力がクルスクの戦闘に釘 づけにされ , 膨大な損害をこうむったからこそ , 連合軍は地中海水域での行動を活発化すること ができたのである。 クルスクの戦闘は第 2 次世界大戦の最大の戦 闘のひとつであり , 自力で , ファシスト・ ッとその衛星国を壊滅する能力を全世界に証明 した。これは社会主義国家とその軍隊の威力の 新たな勝利であった。 ( APN) 83

2. グラフィックアクション 第1号

☆ ロケット弾 , 機関砲弾の雨を浴びせ , ドイツ兵から恐れられた 編隊。この機は厚い防弾 , 強力な武装で , 超低空で地上の目標 戦車 , 車両 , 歩兵 , 陣地など に爆弾 , 円 45 年 5 月ドイツ敗戦の年 , 破壊されたベルリン上空を低空で飛ぶイリューシン 1 2 ー 2 M 3 「シュトルモビク」の いに消え去った。 ソ連空軍の制空権は , オリョール , ベルゴロ ノ、リコフ方面のソ連軍の反攻中に , 最終的 に強化された。反攻には五つの航空軍と , 遠距 離行動の航空編合部隊が参加した。 ソ連空軍は 敵の航空集団の 2.5 倍以上の戦力をもち , 最も 積極的な行動方法をとって , 敵の空軍とたえす 活発に戦った。戦闘機は敵の占領地域に大胆に 侵入し , 敵機を求めてせん滅した。また , しば しば敵の飛行場を封鎖したり , 爆撃を加えたり されたうちからも数百機を失った の戦力全部を完全に失ったばかりでなく , 補充 これらの航空軍の飛行連隊は , の間に こうして 1 航空軍は 3 , 70() 機を失った。 8 月 23 日までのクルスク会戦中に , 第 6 , 敵空軍の損害はどんどん増え , 7 月 5 日から はじめ カ月半 第 4 もよらなかったといえよう。ましてドイツでは , 万 8 , 813 機であったから , 空軍の増強など思い 当時のこれらの飛行機の生産機数は , 年間 1 を失った。 ドイツ側爆撃機 , 襲撃機 , 戦闘機 1 万 7 , 495 機 い , 1 年間だけで , ドイツ軍側の発表によると , 1943 年下半期中にドイツ空軍は 1 万 180 機を失 の空軍は東部戦線であいついで敗北をなめた ソ連空軍は制空権をにぎって離さなかった。敵 クルスク会戦後展開されたソ連軍の総攻勢で , 飛行要員の不足がひどかったので , ドイツ空軍 は深刻な危機にぶつかった。それをハッキリ小 したのが , 8 月 19 日の空軍参謀長イェショネク 大将の自殺である。 したがって , クルスクの戦闘でソ連空軍は , ドイツの、、空軍戦略 ' ' を崩壊させ , ファシスト その後第 2 次大戦で , ドイツ空軍を敗北させる にいたったほどの空の勝利を得たと言えよう。 クルスク突出部におけるドイツ空軍の行動は , まさにファシスト空軍の白鳥の歌であったわけ である。 こで指摘しておきたいのは , 1943 年の地中 海水域における連合軍の行動 , 1944 年の連合軍 のフランス上陸は , ドイツ空軍のたいした反攻 もなく行なわれたということである。ドイツ空 軍の主要勢力はソ・独戦線にあって , しかもこ の戦線で , 事実上粉砕されたのである。 クルスク戦でソ連空軍は , 他の兵科の部隊と 協同行動をとり , 敵に勝利を得た。敵撃滅と言 う共同の目的をとげるために , あらゆる兵科の 部隊が , たえす協同動作をとったことこそ , ド イツ軍に対するソ連軍の勝利を確保した最も重 要な要因のひとつであった。 (APN) 筆者は第 2 次大戦中 , 第 16 航空軍司令官 , 戦後 , 空軍総司令官代理 , ガガーリン記念 空軍大学学長。 75

3. グラフィックアクション 第1号

いを 当き物 クルスク突出部のカサチェ , リシッア地区でのソ連軍の攻勢。 T34B 型中戦車 " ロジーナ " は隊列を組んで出動。 根本的転換の完了 クルスクの戦闘 コス・ロフ スビャトスラフ・ したという理由からも , この戦闘はとくに重要 な意義をもっていた ドイツ国防軍の軍団のひとつを指揮したマン シュタイン元帥は , ヒトラーへの報告書で次の ように書いている「クルスクでわれわれが勝利 を収めれば , 過去のすべての一時的な敗北はお ぎなわれるだろう」。 ヒトラー司令部は , 東部戦線への第 3 次戦略 的攻撃をひしように重視していたので , 兵力と 兵器を惜しまなかった。ヒトラー軍のエルフル ト将軍はこう指摘した「ドイツ軍が集めること のできたすべての攻撃力が、、ツイタデレ ( 城堡 ) 作戦の実施へ投入された」と。 クルスク突出部でのヒトラー軍の壊滅は , 第 2 次世界大戦の動きと結果に , 決定的な影響を およは、した特筆すべき出来事のひとつであった。 この壊滅は , 戦争の動きを反ヒトラー連合に有 利にかえたモスクワ近郊と , とくにスターリン グラード近郊での勝利の当然の結果であった。 ソ連の戦略の観点からして , 1942 年 , 43 年の それぞれの攻撃作戦で達成された転換を確実に 定着させ , いっそう発展させる心要があった。 こうした問題を解決 そしてクルスクの戦闘は , したのである。さらにファシスト・プロックが , この戦闘で戦略的な主導権の奪還に最後の賭け を行ない , 過去の敗北にたいして報復しようと

4. グラフィックアクション 第1号

ドイツ空軍は燃料が不足して , 飛べない機体が続出した。 作戦 " を中止する , と命令を出した。 エピローグ 戦闘機パイロット , ゲアハルト中尉は部隊と ともに 9 月まで , ロシア平原の上空を押し寄せ るソ連空軍機と血みどろの戦いを続けた。彼の 撃墜スコアは連・日の出撃数とともに確実に増え , 31 機に達した。しかし , 戦闘の疲労はしだいに たまり , 彼はこの 2 カ月で , 3 年も年をとった ような顔になった。このころには , 作戦開始前 にドイツが占領していたオリョール , ベルゴロ ドを始め , 他の町町はソ連軍に奪回され「解放」 されていた 戦いに疲れたゲアハルトたち戦闘機パイロッ トに , 転進命令が出たのは 9 月にはいってから であった。 6 個戦闘航空団は東部戦線から引き 揚げ , 激しさを増している連合軍のドイツ本土 空襲を撃退する , 本土防衛の任務にまわること になったのである。 ドイツ本国に帰るのを喜ばない者は誰もいな かった。しかし , 誰もの顔は意外に無表情だっ た。多くの戦友たちの血を吸ったロシアの大地 , 捕虜となって帰らぬ友。彼らは黙黙と帰国準備 をし , 冬のきざしを見せはじめた中央ロシアの 大平原に , 土ほこりを残して離陸していった。 あとがき この戦線でドイツ空軍は , この年いつばい戦 いを続けたが , もはや地上の戦局を決定的に挽 回する実力を失っていた。ソ連軍の攻勢でドイ ッ空軍の守備範囲はさらに拡がり , しかも , 多 くの戦闘航空団をドイツ本土に持って行かれ , あとに残ったのは , 大部分が陸軍直協機と偵察 機の僅か 500 機ほどであった。 こうしてヒトラーの大きな賭け、、ツイタデレ 作戦 " は , クルスク大戦車戦という歴史の大ド ラマを残してドイツ軍の敗北に終わった。 作戦こそ , 東部戦線での最後の , そして大規模 の地上戦闘であったのである。 クルスクはその磁力で , 独・ソ両軍の戦車・ 航空機を吸い寄せ , 平原一面にその残骸を散ら ばらせ , 最も良く出血に堪えぬいたものが攻勢 に転する , 歴史の壮大なドラマの回り舞台をま わす大きな歯車の役を果たしたのであった。 55

5. グラフィックアクション 第1号

戦いでもドイツ空軍は , 制空権を決定的に自軍 のものとすることがどうしてもできなかった。 そもそも作戦開始にあたってドイツ空軍参謀 長イェショネク大将は , 東部戦線のドイツ空軍 が持つ , 第一線機の約半数をクルスク前面に引 き抜いて配備した。作戦開始の 7 月 5 日の 24 時 間に , 廷べ 3 , 000 回の出撃 , シュッーカ部隊にい たっては 1 日に 6 回も出撃を行なった。日がた つにつれてこのペースは落ちたが , それでも 7 月中の平均出撃回数は 1 日に 1 , 000 回というハ だが , ドイツ空軍のこの努 イベースであった 力も , ソ連空軍の払った同様の努力と , 数の上 での優勢をはね返すことは , 結局できなかった のである。 何とか Bf109 を高度 5 , ()()()m 以下の戦闘に引きこ もうとくいついてゆく。 地上で炎上する両軍の戦車は , しだいにその ドイツ軍 数を増した。やがて日没も近くなり , の増援部隊が戦場に到着し , 戦況はようやくド ドイツ軍は戦場を確保 イツ軍に有利に傾いた。 し , ソ連軍は主目的とした S S 機甲軍団の撃滅 は達成できす , ソ連戦車は戦場を離脱した。 両軍ともにそれぞれ 300 両以上の戦車を失い , 燃える両軍の戦車が吹き上げる黒煙は , 戦場の あちこちでくすぶる撃墜された航空機の煙とと もに , 夕暮れの空に死者を弔う焼香の煙のよう に立ち昇った。 この日行なわれた史上最大といえる戦車どう しの戦いは , ソ連軍の反撃を撃退したドイツ軍 の戦術的な勝利であったが , この勝ちが , 実は 戦略的な敗北につながる皮肉なものだった。 戦いが終わって , 戦闘に参加したソ連第 5 親 衛戦車軍には 500 両の手持ち戦車が残ったのに 対して , フッサー将軍の S S 機甲軍団の残存戦 闘可能の戦車は , 350 両に過ぎなかった。空の ソ連軍反攻ーーー " ツイタテレ作戦 " 中止 クルスク南方で , 両軍戦車軍団が激しく衝突 した 7 月 12 日 , 戦線北西部からは新手のソ連軍 が , ドイツ軍を分断しようと反攻を開始した。 その 2 日前の 7 月 10 日には , 連合軍がイタリア 南部のシチリア島に上陸した。ヘルマン・ゲー ドイツ軍にとって早急に対処を迫られる問題だった。 押し寄せるソ連戦車の大群を , どうやって撃破するか , 解決法のひとつは , 空から攻撃することだ。主翼にぶら下げた 37mm 砲の威力はききめがあった。写真はユンカ ス J u87 に 37mm の Fla k 田高射機関砲を装着し , はじめて言式射を行なったときのもの。 52

6. グラフィックアクション 第1号

敵影を求めて飛行する F 。円 0 。その横顔はスマートで , しかも機能的に美しい。すぐれた加速とパンチカ ( 武 裝 ) の強さは , 特に中・低空での空戦で連合軍にとっての驚きだった。 めていた樹木のかげから飛び出し , 全速でドイ ツ軍戦車に接近して行く。近い距離ではさしも ぶ厚い l()()mm 正面装甲も , 初速の大きな T ー 34 の 76mm 砲弾の直撃を受ければたまったものではな ハッチの蓋が内部からの爆発で吹きとび , そこから炎と猛煙が吹き出してくる。 戦場ところせましと機動する , 戦車群のまき 起こすもうもうたる土ばこり , 火がついて狂っ たように走りまわる , 被弾した戦車がまき散ら す黒煙で , 目もあけられないあり様である。間 断ない戦車砲の発射音 , 耳をつんざく爆発音 鋼鉄のキャタピラーのキリキリという音が , ェ ンジンのうなりとともに , 巨大な昆虫の襲いか かる雄たけびに聞こえる。 キャタピラーを打ち砕かれて立ち往生する両 軍の戦車 , 至近距離からの命中弾で砲塔を数十 m もの高さに吹きとばされ , ぐれんの炎をあげ る戦車。その間を縫うように , 砲身をほとんど 水平に構えて走りまわりながら間断なく射撃を 続ける。砲声は戦場をおおった。 戦車を火葬にするかのような黒煙が立ち昇る 上空では , 独・ソ空軍の死闘が続いた。地上 攻撃に出動した Ju87 や HS129 を , そうはさせし と追いまくるヤクー 9 戦闘機。直掩の Bf 109 も , 自分に有利な高高度からヤクを追って高度を下 げないわけにはゆかない。シュトルモビクがパ ンテルに命中弾を与え , 擱座炎上させる。 1 ト 2 に追いついてその主翼を吹きとばして撃墜する Fw190A0 空中戦闘の輪は戦場上空に果てしも なく広がっていった ドイツ戦闘機の直掩の傘を破って戦場にとび こんだヤクー 9T 攻撃・戦闘機が , 後方のドイツ 軍 4 号戦車を 1 両また 1 両と , プロペラ軸を通 して発射する 11P37 37mm 対戦車砲弾で炎上さ せる。この一群に Fw190 が追いつき , 4 門の 2() m 包 2 挺の 7 , 9m 充の砲火を集中させ , アッと いう間に 4 機を地上に叩きつけた。 上空の Bf109 に軽量戦闘機ヤク -3(Yak-3) が ,

7. グラフィックアクション 第1号

らされた 1 享の防弾鋼板を , 下からっき上げ 大尉の指揮下にある他の 3 個中隊の HS129 とと るような衝撃 , 対空砲火だ。彼は急いで各計器 もに , 進撃するドイツ軍を阻止しようとソ連軍 を点検する。各部異状なし。 のくり出す T ー 34 中戦車 , KV ー 1 重戦車群を攻撃し 次の目標 , これも T ー 34 だ。ノーム・ローン た。出撃・攻撃・帰投 , 補給 , そしてまた , 出 工ンジンを全開にして突っこむ。照準器に T- 34 撃のくり返しであった の尾部をとらえた。少し遠いが 30mm モーター ソ連軍の陣地をしゅうりんして前進する , フ カノンの射撃開始。 3 発目の徹甲弾が 2 本の排 ッサー親衛隊大将の指揮する SS 戦車擲弾兵 3 気管の間に小さな射入孔を開ける。猛烈な爆発 個師団の後方を脅やかす , 旅団規模の T- 34 戦 が起こって , あたり一面 , ヒンジからもぎ取ら 車の大群に対し , 4 個飛行中隊の H s 129 のリレ れたエンジン・カバーの破片か飛び散る。オレ ー攻撃が威力を発揮したのはこの時である。 ンジ色の火炎と黒煙の中を , 低空で , 無我無中 プロイス少尉は T- 34 戦車の側面に突進した。 で飛び抜ける。 T- 34 の低いシルエットが , レビ照準器いつば 幸い上空にヤク戦闘機の姿はない。「戦車を いに広がる。発射ボタンを押す指先に思わす力 料理する間 , 連中を追っぱらっていてくれよ」 がはいる。にぶい振動を機体に残して , 胴体下 プロイス少尉は掩護してくれる Bf109 の傘が破 面の張り出しに納められた 3 師 mMk103 対戦車砲 れないようにと祈りながら , 次の獲物を地上ス の砲口から , 砲弾か T34 に吸いこまれてゆく。 レスレに追撃した。余りの損害にたまりかねた 「やった / か , ソ連戦車はいっせいに後退を始めた。 Mk103 車体後部のエンジン部分から火炎が吹き出すの の携行弾数は僅か 30 発。もう余り残弾はない。 が見える。とたんにコクピット下面に張りめぐ ヘンシェル H 引 29B ー 2 / 日 2 。連合軍からは「空飛ぶ缶切り」と恐れられた対地・対戦車攻撃機だった。クルスク 平原の戦車の戦いでは , 殺到するソ連戦車を多数撃破した。垂直尾翼に 8 個の「戦車キル・マーク」をつけた この機は , 「歴戦の勇士」である。

8. グラフィックアクション 第1号

日が続いた。撃墜されれば , パラシュートで降 下しても捕虜になる敵地の上である。未帰還機 が増え , パイロット , 乗員の消耗は補充が追い つかないほど甚だしくなった 7 月 19 , 20 , 21 日とドイツ空軍は Ju88 , He111 , Ju87, HS129 を動員して , 突進してくるソ連戦 車 , 地上部隊の上に砲弾と爆弾の雨を降らせた。 プロイス少尉は 21 日の午後 , 戦闘から帰投中 に機上で戦死した。 2 回目の出撃を終えてプロ イス少尉は , 後方の自軍基地に向かって高度を あげながら全速で飛行した。戦場付近を絶えす うろっくソ連機のおかげでこのあたりは物騒だ ・可、一 0 携行した弾薬を使い果たした機体は軽くなって いるはすなのに , 速度が上がらない。余りにも 酷使されたノーム・ローン・エンジンにガタが 来たのだろうか , 規定の出力はとても出ていな いのだ。スピードは時速 3()()km そこそこた そのときプロイス機を発見した 3 機のヤクー 3 が , 後上方からしのび寄っていた。先頭の 1 機 の光像式照準器 ( OPL ) が , HS129 のオムスビ形 の胴体をとらえ , パイロットの拇指が , 発射ポ リンク降下戦車師団のティーゲル重戦車が , 上 陸部隊を水際で迎え撃ち , 88m 黼包と軍艦とが撃 ち合いを演したのは有名な話である。 連合軍を食い止めるのに , 機甲部隊をどこか らイタリアに送るか。ヒトラーは東部戦線から 以外にはその答えを持たなかった。 こうして北 と南からクルスクをもぎとろうとくいこんだ鉄 の爪は , ソ連軍の鋼鉄のヨロイに打ち当たって 止まってしまった。 ドイツ軍の侵攻作戦が止まっていた突出部北 方で , ソ連軍は逆にドイツ軍部隊の包囲せん滅 をねらって行動を起こした。 ドイツ空軍は作戦 可能の可動機を大いそぎでかき集め , ドイツ軍 陣地を , オリョール付近で突破して前進してく るソ連戦車の進撃を空から叩き , 味方地上軍が 態勢を立ち直す時間を稼ごうとした。 せつかく優勢を保っていた南方の空から , ド イツ空軍機の姿が減っていった。地上攻撃機・ 爆撃機は北方の戦場に急派されたのである。夜 あけから日没までシュッーカや Hs 129 は , ソ 戦車の大群を食いとめるため出撃をくり返す毎 ユンカース Ju88 は , ドイツ空軍の双発爆撃機の代表作だった。大小さまざまの爆弾を積み , ヨーロッパの各戦 線に姿を見せた。その使い良さで , 偵察 , 夜間戦闘 , 急降下爆撃 , 雷撃などの用途に用いられた。 53

9. グラフィックアクション 第1号

ヨーロッパに第 2 戦線か作られていないと言 この作戦を可能にした。ヒトラー司 うことが , 令部はフランスとドイツから , オリョール以南 , ハリコフ以北の地域へ , さらに補充して数師団 を移した。また , フランスから 5 個飛行部隊を そこへ移した。大増援部隊が東部戦線の部隊へ 加わったのである。 攻撃を計画するにあたってヒトラー司令部は , 新しい兵器一一一ティーーゲルとパンテルと名づけ られた戦車ー - ーと強力な武器をそなえ , 厚く装 甲された自走砲フェルディナントに大きな期待 をかけた。新しい型の軍用機ーーー戦闘機 Fw190 A と爆撃機 HS129 ーーーに大きな役割りがふりあ てられた。 敵の意図はソ連司令部によって見破られた。 ソ連軍は戦略的主導権と , 兵力および兵器での 若干の優勢さを持っていたので , ヒトラー軍が 攻撃へ移る前に先手を打っことができたであろ うが , しかし , 総司令部は違った計画をとった。 十分に準備され , 奥深く展開された防衛線でフ アシスト軍の攻撃を迎え , ねばり強い防衛戦闘 で敵の兵力を消耗させ , その後で逆襲に転じ , 弱まっている敵を撃滅することが決定された。 結果においてこの決定の正しさは確証された。 7 月 5 日にヒトラー軍は攻撃へ移った。約 5 ( ) 日 , 戦争全体を通して最大の戦車戦をも含めた 緊張した戦闘が行なわれた。双方からのべ 400 万人を越える兵力 , 約 7 万門の大砲と迫撃砲 , 約 1 万 3 , ()()() 両の戦車と自走砲 , 1 万 2 , 000 機弱 の軍用機がこの戦闘に参加した。 ヒトラー司令部は最も戦闘能力のある約 10() 個師団を連続してこの戦闘へ投入したが , 彼等 の努力はことごとく奏効せす , ドイツ・ファシ スト軍はひどい敗北をこうむった。ヒトラー軍 の損失は 50 万人を越える人質 , 1 , 500 両におよ ぶ戦車 , 3 , 0()0 門の火砲 , さらに 3 , 0()0 機を越え る軍用機におよんだ。戦闘に参加したヒトラー 軍のメレンチン元師は「戦闘で・・ ・・ドイツ軍の 優秀部隊が滅亡した」と書いた ファシスト軍の死にもの狂いの攻撃を撃退し たソ連軍は , 計画通りに反撃に転し , 西ョーロ ッパに向かって成功裏に前進をはしめた。同時 にソ連軍は , 他の戦線でも攻勢を開始した。時 間と方向で綿密に計画化された強力な打撃は , 敵の機動力を発揮する能力を奪い , 敵はいたる ところで敗北した。 ソ連軍は冬ばかりか , 夏で 4 も攻撃することができることを証明した。 1943 年夏のソ連の勝利は , ファシスト・プロ ックを根底までゆるがし , その崩壊の過程を早 めた。フィンランドではマンネルハイム将軍が , ヒトラーがすすめたフィンランド・ドイツ両軍 の総司令官の地位を , これ見よがしにけとばし た。スペインの統治者フランコは , ナチとたも とを分かち , 打ち破られた、、空色の師団 ' ' の敗 残兵を , 急いで東部戦線から撤退させた。 広範な不満がルーマニアの住民をとらえ , 西 ヨーロッパの諸国 , とくにユーゴスラビアとア ルバニアで , ファシズムにたいするレジスタン 1943 年 9 月のファシスト・ スが活発になった。 イタリアの降伏は疑いもなく , クルスク近郊の ヒトラー軍の敗北が直接の結果であった。 クルスクでの戦闘で特筆すべきことは , 連合 軍諸国からその意義を高く評価されたことであ ルーズベルト米大統領 る。 1943 年 8 月 6 日に はソ連政府首相あての特別親書の中で次のよう

10. グラフィックアクション 第1号

第 653 重駆逐戦車大隊の母体は , 第 197 突撃砲大 隊であった。 この大隊は 1940 年 10 月 , イエーテ ルボクに誕生した。突撃砲が初めて戦場に現わ れたのが , 1940 年 5 月のフランス戦のことであ ったことを考えると , この部隊編成はかなり早 ことになる。 かれらの初陣は , 1941 年 3 月のバルカン戦争 であった。岩山の多いユーゴスラビアとギリシ アは , 戦車には向かない地帯だった。それにパ ルチザンとも戦わなければならなかった。かれ らの初陣は , 決して楽なものではなかった。 だかれらをささえたのは , 歩兵の示す突撃砲に 対する強い信頼感であった。 1941 年 6 月 22 日 , 対ソ戦開始。第 197 突撃砲大 隊は南部軍集団の中にあった。突撃砲の前部装 甲板には , 白字の K が誇らしげに描かれていた かれらの任務は , あくまでも歩兵部隊を , 後か ら支援するものであった。 ソ連軍は , 今までかれらが経験したフランス 軍 , イギリス軍と比べものにならない激しい抵 抗を示した。ソ連軍のトーチカは , 最後の一兵 になるまで反撃してきた。それに T ー 34 戦車は悪 夢であった。何両かの戦友の突撃砲が犠牲にな った キエフの包囲戦 , ドニエプル河の渡河と , 大 隊は東へ東へと進んだ。そして初めて経験する 暗いロシアの冬。撤退と再編成の季節であった。 1942 年。名将マンシュタイン大将に率いられ て , セバストボリを攻撃した。このクリミヤ半 島の大要塞は 1 カ月間 , 頑強に抵抗したが , っ いにドイツ軍のものとなった 1942 年 12 月 23 日。隊員たちはクリスマスで心 はうきうきしていた ただ , スターリングラー ドの戦友を思うと心が痛んだ。そんな中で突殃 大隊は古巣のイエーテルボクに帰還せよとの命 令を受ける。重突撃砲戦車で再編成せよという ものであった。隊員に対する大きなクリスマス プレゼントになったのである。休暇もそこそこ に , 将校 , 車長および操縦士たちは , 新しい兵 器になれるために , それを製造した一 ー / くノレン ゲン工場のある , オーストリアのセント・ヴァ レンティンに向かった 1943 年 4 月 1 日。第 197 突撃砲大隊は正式に 解隊され , 新しく第 653 重駆逐戦車大隊と改称 した。かれらの新しい兵器。これこそ当時最強 の , 43 型 88mm 対戦車砲を搭載した無砲塔の重戦 た 車であった。正式には、、エレファント ( 象 ) ' ' とよ ばれたが , この重戦車を設計したポルシェ博士 の名前を取って、、フェルディナント " ともよばれ 突撃砲の経験者ばかりの隊員は , この重戦車 にすぐになれた。ただ , 不整地走行速度が遅い のは不満だった。かれらが今まで乗っていた 3 号突撃砲は , 時速 24km で走れたのに この大物 は 10km がやっとだった。しかし , 重量が戦闘状 態で 68t もあり , 3 号突撃砲の 2 倍もあった を考えると , しかたがないことであった。 それは正に巨象であった。そして走る姿を描 写すれば , 巨象が「のっし」「のっし」と力強く 大地を踏んでかっ歩する風情があった。巨象は また強力な戦車であった。それはすでに「戦場 の女王」として実証すみの 88mm 砲だけではなか った。前面装甲板の厚さは , 当時としては信し られないほどの厚さの 20()mm もあった。連合軍 の持っている , いかなる対戦車砲でも貫通不可 能なョロイであった べテランの隊員は戦闘訓練を積んで行く内 , この巨象にも弱点があることに気がついた 号突撃砲のように , 車体上部に械関銃架が無い ということであった。かれらの経験からすると , 歩兵と協同作戦する間でもこの機関銃が役立っ た。時には歩兵が乗って撃ったりしたのだった。 隊員は , こっそり 42 型軽機関銃を車内に持込ん でいたのである。これを実際に使うことになる とは , まだ「神のみぞ知る」時期であった。し かし , べテラン隊員のこの鋭い「勘」は , 不幸 にも適中することになるのであった。 ふりかえって 5 月 25 日。ノイスドール演習場 でグーデリアン将軍が視察の 2 日目。将軍の目 の前で実弾射撃訓練が行なわれた。最新式 71 ロ 径の 88mm 砲 43 型は , すさましい威力と命中率を 上げた。中でも光ったのは第 1 中隊であった。 中隊長のシュピールマン大尉は , グーデリアン 将軍から賛辞と激励を受けた。 第 653 重駆逐戦車大隊の意気は上がった。そ れは , 今から約 2200 年前の紀元前 216 年。カルタ ゴの勇者ハンニバルに率いられたカルタゴの大 軍団が , 象をひきつれてはるばるアルプス山脈 を越え , カンネーの戦いで , ローマ軍団を撃威 したときの気概であった。 ノ、ンニバルの巨象は ローマ軍の盾を並べて前進してくる重歩兵たち をしゅうりんし , ローマ軍の戦術を混乱させた 3 23