を 3 。、。二ずと気 パンテルの陰から , なおも敵戦車をねらって . 5mm 対戦車銃 M 四を構える , ソ連軍装甲親衛隊員たち。 ドイツ軍戦車部隊をいまいましがらせたのは , パック・フロントだけではなかった ソ連軍は 慎重の内にも慎重にと , この対戦車砲陣地の中 に戦車をバラまいたのである。それも , 車体を 地中に入れる壕を堀り , 砲塔だけを地上に出し て , 敵からの目標を小さくした。そして , 後退 すれば自由に行動できるようにしたのであった。 こうした T ー 34 および KV ー 1 戦車は , ドイツ軍に すさましい損害をあたえることになった。 第 2 線塹壕線は , こうした強力な第 1 線陣地 の後ろに , 長長と連なっていた。そして , その 後方には第 2 のパック・フロントが控え , 第 1 線と同様に , 車体を低くした戦車が前方をにら んでいたのである。この陣地は , 更に第 1 線を 支援するための重迫撃砲部隊が , 散開して遮蔽 壕の中にはいり , 中隊本部の指揮下で , 砲撃を 集中することができたのである。 第 3 線の塹壕は , この後ろ 5()0m にあった。 の陣地は , 対戦車砲に守られた大隊本部の掩蔽 ( えんべい ) 壕を中心として , 戦車 , 械関銃座が それに加わっていた ソ連軍はこの単位を , 最 小の単位として戦術の核とし , 地形とうまく組 み合わせ , 2 重 , 3 重の強力な防衛線を作って いたのであった
から 30km ないし 40km の深さになっていた 第 1 防御線中の第 1 線となる歩兵のための塹 壕陣地は , 住民たちの手によって , 夏草のおい 繁った原野や , ようやく黄金色に熟しはしめた 麦畑に沿って村落の近くに , また , 勾配のゆる やかなステップ地帯の高地を巻きながら , いた る所に延びていた。 第 1 線塹壕の前 , 約 5()()m には多数の戦車用地 雷が , 所せまきまでに敷きつめられていた。そ して更にその後方 , 塹壕の目と鼻の先には , コ イル状のピアノ線が , 青青としげつた草のかげ 鉄条鋼といっしょに巧みに並べられていた ソ連軍はこのヒ。アノ線を , 多数使用していた。 これを最初に使用したのは 1939 年の夏 , 中国東 北部を占領していた日本軍と戦いを交えた , カ ル・ハンゴール ( 日本ではノモンハンと呼ふ、 ) の戦闘であった。 日本軍戦車部隊は , この弾力に富んだ新兵器 になやまされた。特に 95 式軽戦車の場合は , 致 草原に堀られた塹壕で , アンテナを立て無線機を操作 する通信兵 , 左腕には通信員のマークがつけられている そのうしろには迷彩カバーをつけた鉄帽 , 飯盒 , 迷彩シ 雑嚢などがみられる。 ェノレター うのに。スターリンはウソをついているのだろ ドイツ軍は不死身なのだろうか。住民た ちは , 後をふり返りふり返り , タ暗の中に消え て行くソ連部隊を見送った。 こは広大なロシアの中央部 , 首都モスクワ の南 400kmo クルスクを守るかのように ドイツ 軍陣内にソ連軍陣地がとび出した戦線の , ちょ うど北の背の部分に当たっていた。 大きなスロープのある広大な麦畑には , 1 本 北のオリヨールと , の鉄道が南北に走っていた。 丘陵の上に造られた都会 , クルスクを結 ロお - : ノ、 だが , オリヨールはドイツ プラインであった 軍の手にあり , 列車はこのポヌイリより北へ行 けなかった。 ポヌイリ駅の給水塔 , 駅舎 , 学校 , それにト ラクターステーションが , 残光を背にして黒い シルエットを見せていた。その右手 , ポヌイリ の東側には , 大きな丘がポッカリ浮かんでいた。 この丘こそ 253.5 高地と呼ばれ , これから約 1 ヵ 月後の、、クルスクの戦闘 ' ' で , 北部戦線の要衝 ドイツ軍およびソ連軍にとって , まさ となり , に血ぞめの丘となるのであった。 暗やみに消えていった兵士たちは , この地区 の防衛に当たるソ連第 307 狙撃兵師団の兵士た ちであった。 1943 年の 5 月も末の 24 日 , ロシアの大地は一 面に緑と美しい花花におおわれ , 短い春と夏が いちどにやってくる一番美しい季節であった。 そして戦線は , まだねむっていた 強固な陣地を構築するソ連軍 住民をまじえての , 3 カ月間のつらい作業は ムタ、、ではなかった。ソ連軍は今までにないはど 強力な防御陣地を構築していたのである。もし , ドイツ軍首脳たちが , この強固な対戦車防御線 を見たとしたら , あの史上最大の殺りく戦。戦 、、ツイタデレ作戦 ' ' はおこら 車の墓場となった なかったに違いない ソ連軍は突出した前線に沿って主防御陣地を この陣地は前線から 2 km ないし 2.5 構築した。 km にわたって作られていた。第 2 防御陣地は , 主防御線の後方 l()km から 12 の地点にあり , 陣 地の深さは , 主防御線と変わらないぐらい強固 なものであった。第 3 防御線は , 第 2 防御線の 後方約 20 に置かれ , 第 1 防御線の主防御陣地 、を
ゲル重戦車 , パンテル中戦車をふくむ 2 , 700 両の 戦車 , 兵員 90 万名を集結させ , 機甲軍団の指揮 は , フランスでの電撃作戦で勇名をはせたハイ ンツ・グーデリアン大将にゆだねられ , 空から この地上部隊を強力に支援する航空部隊の作戦 は , アルベルト・ケッセルリンク大将か彼自身 , 双発の偵察攻撃機フォッケ・ウルフ FW189 の繰 縦桿を握って指揮に当たった。 戦いの序曲 Hs129B のパイロット , プロイス少尉が基地を 発進する何時間もまえの午前 2 時すぎ , 前線で はソ連砲兵部隊の重砲約 500 門と , ロケット砲の いっせい砲撃が始まっていた。ソ連火砲の射弾 は , 砲撃準備中のドイツ砲兵陣地に落下した。 情報は事前にソ連側に洩れていたし , ドイツ軍 の砲撃開始の時間も , 捕虜にしたドイツ兵から 聞き出していたソ連軍の先制パンチである。 一時的に混乱したドイツ軍もすぐに立ち直り , ソ連軍の頭上に砲火のお返しを浴びせかけた。 ドイツ空軍の Ju87D シュッーカ , Ju88 など爆撃 機約 300 機も , ソ連砲兵陣地の上に爆弾の雨を降 らせ , 戦場は炎と爆煙におおわれた。 この日のためにドイツ空軍が集めた作戦可能 の第一線機は , 第 1 航空軍の 1 , 83 幾。その内訳 は地上攻撃を主任務とした第 1 , 第 2 , 第 77 急 降下爆撃航空団 (St. G) の合計 9 個連隊 , 地上 支援航空団 ( Sch. G) の Fw190 2 個連隊にヘン シェル Hs 129 B の 1 連隊 , それに加えて , 戦車攻 撃を主な任務とするプロイス少尉の所属する 4 個飛行中隊の H S129 B が , プルーノ・マイヤー 大尉 ( のちに少佐 ) に率いられて参加していた。 これら攻撃集団の掩護に当たるのは , 第 3 , 第 52 戦闘航空団所属の Bf 109 G の 6 個連隊と , 虎の子的存在だった JG51 と 54 ( 第 51 および第 54 戦闘航空団 ) の Fw190A0 さらに爆撃航空団は 第 1 , 第 3 , および第 51 爆撃航空団のユンカー ス Ju88 5 個連隊 , それにいささか旧式となって はいたが , KG4, 27 , 53 , および 54 の爆撃航空 団から引き抜かれた 1 固連隊が供出された。 このほかに , 第 1 長距離護衛戦闘航空団 (ZG 1 ) から Bf110G ー 2 を装備した戦車攻撃飛行中隊 と , ようやく作戦可能の段階にはいったユンカ ース Ju87G ー 1 ( 37mmFlak18 カノン 2 門を主翼下 にぶらさげて、、タンク・クラッカー ' ' と異名を とった ) の 2 個飛行中隊が , ワイス中佐の指揮 ドイツ空軍のユンカース」 u87 シ、ツーカ のもと , 第 1 , 第 2 急降下爆撃航空団から参加 する , という堂堂たる陣容であった。 ディーター・ゲアハルト中尉は , 乗機 Bf109G のキヤノピー越しに戦場上空を見まわした。敵 機はまだその機影をあらわさない。 「よし , 幸先いいぞ。もっとも , 出て来ても 叩き落とすだけのことだ」 彼はエンジンの回転計 , 燃料残量をチェック する。燃料は充分だ。彼の眼下を高度差 1 , 000m で Ju87D の大群がいなごのように見える。ダイ ムラー・べンツ DB 605A 工ンジンは快調に回っ ている。高度約 5 , 000 皿もうすぐ敵陣地上空だ。 シュッーカがつぎからつぎへと急降下して行く。
政府の不断の配慮と , 活発なオルグ活動によっ 空部隊の支援を得たソ連軍の歩兵 , 戦車 , 砲兵 , この中には , 銃後で働 て著しく増大していた。 工兵は自分の陣地を守り , 敵の連続的な攻撃を いている勤労者の大きな功績がある。 しりぞけた。 ソ連国民は , 自分のカ , エネルギー クルスクの北から攻撃してきた敵の , 主要攻 頭脳 , 才能 , 情熱を , けだかい目的ーーーナチス・ドイ 撃を受けた N ・プーホフ将軍の第 13 軍の将兵は , ツの占領から祖国の土地を解放する なみはすれた堅忍不抜さと勇気を発揮した。 V ・ にささ ジャンジュガワ大佐の第 15 狙撃師団 , A ・ げたのである。労働者の黄金の手で作られた兵 器は , 無限の流れとなって戦線に投入された。 ノフ将軍の第 81 狙撃師団 , M ・エンシン将軍の 第 307 狙撃師団の将兵は , 敵の戦車と歩兵の連続 そのおかげでソ連軍司令部は , 戦車軍団 , 機械 化軍団 , 航空軍団 , 砲兵編合部隊を編成するこ 的な攻撃を撃退し , 陣地を英雄的に守り通した とができた。 のだった 部隊内での全面 , かつ日常の党・政治活動は , 7 月 6 日の朝 , 第 13 軍と A ・ロージン将軍の ソ連軍兵士の戦闘意欲を著しく高めた。兵士は 第 2 戦車軍の編合部隊 , ワシリエフ将軍の第 19 戦車軍団は大砲と飛行機の支援を得て , 敵の主 新しい戦闘を待ち望み , 自分の力と兵器を信し カ集団に反撃を加えた。敵はソ連軍の大胆な攻 ていた。 撃に驚嘆した。 7 月 5 日の朝 , 大量の空軍機の支援を得た敵 の砲撃の後 , 多数の戦車と突撃砲部隊がソ連軍 激烈 , かっ流血の戦闘はクルスク突出部の南 の防衛線を攻撃してきた。戦車のあとには歩兵 でも展開された。 こを攻撃してきたのはドイ が続いてきた。地上と空中で激烈な流血の戦闘 ツ軍の打撃集団であった。強力な攻撃準備の砲 が展開されたのである。 撃の後 , 空軍の支援を受けた多くのティーゲル , 砲弾の炸裂によって舞い上がった炎と煙の雲 パンテル , フェルディナントを含む敵の戦車と は太陽を隠し , 白昼の戦場は薄暗くなった。航 突撃砲は , I ・チスチャコフ将軍の第 6 親衛軍 目標に主砲を向ける無敵のドイツ軍 4 号戦車 J 型。その長砲身 48 口径 75 戦車砲 40 型の 砲口には , 2 重作動式砲ロ制退器がみられる。
ロシアの麦畠に砲列をしく ドイツ軍丐榴弾砲 (SFH) 田型は , ソ連軍陣地に砲弾の雨をあびせる。 ていたのであった 第 1 線部隊の損害は , 予想をはるかに上まわ モーデルもモントゴメ リーも , 不思議なこと った。敵陣の前にバラまかれた地雷の処理は , に共通点が多かった。両者とも防御戦に才能を ドイツ軍では突撃工兵の任務であった。第 18 戦 発揮し , 突破戦に対しては緻密な計算が多く , 車師団の戦車を盾にしながら , 工兵は敏捷に前 大胆さに欠ける面があった ただ , モーデルの 進し , 鉄条網にへばりついた ソ連軍は迫撃砲 場合 , 兵力と兵器の量にひどい制限が加えられ で反撃し , 工兵をしばしば後退させた。 ていた点は別であった 砲火と轟音と , 飛び散った鉄片のため , 地雷 午前 5 時 30 分。クルスクを北から挾撃する , 探知器は訓練の時のようにうまく働かなかった。 第 9 軍の歩兵部隊が進撃を開始した。中央の突 工兵たちは銃剣を手にしながら , 素手で対戦車 撃集団は , 第 47 戦車軍団の第 20 戦車師団を先頭 地雷をさがした。 に , 第 9 , 第 2 , それに第 4 戦車師団と続くこ 夏草におおわれた広大な地雷原は , ソ連軍に とになっていた ーこの戦区では , 歩兵師団は第 さえわからないぐらい複雑で , 判別できなかっ 6 師団がたったの一つと , 極端に戦車部隊が集 た。工兵はしばしば , ハリカ、、ネでむすばれた対 中していた。反面その左翼の第 41 軍団は , 第 86 , 人地雷の犠牲になった。工兵は技術兵であった。 第 292 歩兵師団が二つに対し , 戦車師団は第 18 機械戦争では , どうしても欠かせない重要な人 戦車師団が一つといった , 戦力のアンバランス 材だったのだ。しかし , 損害は増す一方であっ が最初から生じていた 第 41 軍団の第 1 目標は , 第 47 軍団と協力して , ハルペ将軍は自走砲、、フンメル " を出した 第 1 目標であるオルホウアトカ北方の , 274 高地 ソ連の第 1 陣地を猛砲撃しようというのだ。た を占領することであった。だが , 直接南下して ちまち , ソ連の第 1 , 第 2 塹壕陣地は猛火につ 第 1 目標に進出することは出来なかった。とい つまれた。 うのは偵察機から , ソ連軍の強力な部隊が多数 戦車は歩兵を伴なって前進を開始した。だが , の車両を伴なって , 南東よりポヌイリ方向に急 歩兵はソ連陣地からの機関銃で , たちまち射す 進中である , という緊急情報が , 第 41 軍団司令 くめられて , 前進をはばまれた。戦車は歩兵を ハルペ司令官 部にもたらされていたのである。 後に残したまま , 速力を上げて突進する形にな ポヌイリに向 は , 自軍の南下する部隊の先を , った ソ連兵は不死身なのか ? いや違う。かれらと けることに決めた 29
ドイツ軍 6 号戦車ティーゲル IE 型。長砲身 56 口径 88mm 戦車砲 36 は , もともと有名なドイツの 88mm 高射砲田型 から出発したもので , 砲口には円筒型 2 重作動式砲ロ制退器がつけられている。ティーゲル戦車はその厚い装 甲と強力な戦車砲で , ソ連軍兵士を恐怖におとし入れるに十分であった。 て人間なのだ。ただ , 巧みに作られた塹壕陣地 ソ連軍は早くから , ドイツ軍の大攻勢を察知 は後方に連結しており , 一部は強力に遮蔽され し , ひそかに特別訓練をしていたのである。夜 ていたのだ。かれらはこの方法で , 集中砲火を の間に兵士たちを , 塹壕内の完全な戦闘配置に うまくかわしたわけだ。 つかせ , T ー 34 , KV ー 1 重戦車を持ってきて , 防 ドイツ軍戦車は対戦車銃と戦いながら , これ 御陣地の上を縦横に走りまわらせたのである。 を撃破し , 塹壕陣地をじゅうりんした。 ソ連兵士たちに , 戦車の不気味な接近音と , 塹 ドイツ 戦車兵はここでまた , 新たな驚きにぶつかった 壕をのり越える時の恐怖感を無くするための訓 これまでのソ連兵は , 戦車に対して勇敢に抵抗 練であった。かれらは正面から来る戦車に , ど はしても , 戦車が塹壕近くまでくると , 後方に う対処すれば良いか十分に訓練された。その上 , 急いで後退し , 新たな反撃をするのが常だった。 戦車に対する反撃戦法も , 毎夜のごとくに体で また , 多くの兵士は , 手を高く上げるのだった。 おは、えさせられていたのだ。こうしてソ連軍首 今日の敵は違っていた。塹壕からとび出して 脳は , 自軍の兵士たちから , 戦車の恐怖感を一 来ない代わりに , 逃げもしないのだ。ただ頭を 掃するのに成功していたのである。 低くして , ドイツ軍戦車をやりすごしているの 巨象たちの墓場 だ。中には後ろを向いて , 対戦車銃でドイツ戦 車の後部を射撃するものさえあった。 7 月 5 日の午後。ハルペ将軍はいよいよ , と ドイツ戦 車は前方から , ソ連の 76.2mm 対戦車砲にねらわ って置きの第 653 重駆逐戦車大隊に出撃を命し れるばかりか , 左右と後ろから射たれるハメに た。大隊長のシュタインヴァクス少佐は , グー なった。第 18 戦車師団の損害は増加するばかり デリアン将軍からしきしきに激励された , シュ であった ピールマン大尉の率いる第 1 中隊に発進を指令 さてここで , タやみに消えた完全装備のソ連 した。 12 両のエレファント戦車の初陣であった。 第 307 狙撃師団の兵士たちのことを思い出して 現代のハンニバルは , 象を戦場に放ったのであ いただきたい る。
命傷となることが多かった。キャタピラーと起 導輪にまき付き , 動けなくなった所を対戦車砲 でねらい撃ちされたのである。だが , これは単 に戦車だけを目的としたものではなかった。 っそり地雷源をぬけてきた , 敵の偵察隊員の手 足にも巻きついたのである。 ソ連軍はこのピアノ線を , 対ドイツ戦にも多 数使用した。しかし , 不思議なことにドイツ軍 の報告や戦闘記緑などには , ほとんど現われて 主防御線は , 塹壕線が約 500m から 70()m おき に 3 本堀られていた。それは部分的に上部を遮 蔽 ( しやヘい ) したものや , 単に草木でカムフ ラージュしたものなど , さまざまであった。 歩兵 1 個大隊の受持ち幅は , 約 2 km から 2.5 km と , 主防御線の深さと同し長さとなっていた。 第 1 の塹壕の後方には , 土のうを積んだ機関 銃座と , 同し様な陣地に対戦車銃が交互に配置 され , 突破して来る戦車と歩兵を迎撃する戦法 この対戦車銃、、ディフチャーレフ ' ' であった。 および、、シモーノフ ' ' は , 戦車にとってあなど れない敵であった。口径 14.5mm ながら , l()()m の 距離から撃ちぬくはどの高性能を持っていた ドイツ軍は , 緒戦からこの小火器になやまさ れていた。そして 1943 年に , 戦車の弱い側面に 、シュルツェン ' ' と呼ばれる前垂装甲板を取り 付けざるを得なくなったのも , この対戦車火器 が主な原因であった。 ソ連軍防御陣地は対戦車銃の後ろに し、よし、 よ本当の姿を見せはじめる。ドイツ軍戦車の強 敵である。「ラッチ・プム」こと , ソ連軍の強力 な 76.2mm 対戦車砲陣地が 2 重に控えていたので ある。この砲は初速がまことに速いため , 味方 の近くで爆発する音の方が , 発射音より先に聞 こうよばれたのであった。日本流 こえるので , にいってみれば「ドカーン , ドン」とでもいっ たらよいだろう。 約 12 門の戦車の強敵が , 2 個中隊の中にカム フラージュされて配置され , 敵をにらみすえて こで重要だったこと いたのである。しかし , は , この砲の数とその配置だけではなかった。 問題は対戦車戦術だったのである。 ドイツ軍はこれを「パック・フロント」とよ んだ。対戦車砲の集中指揮戦法であった。戦車 が集団となって攻撃してくると , 対戦車砲は恐 怖のため , 遠距離からムダ弾を発砲しがちにな 20 をツ・第 ・をえーをミを・ かった」と書かれている。 のパック・フロントを発見することはむすかし に「先頭の戦車が炎上するか爆発するまで , 敵 ドイツ軍の戦闘記録を見ると , いまいましげ ど目標をはすすことがなかった。 の日標を指示し , 攻撃させたのである。ほとん 隊長が全体を見渡して , 複数の対戦車砲に 1 台 新戦法はこれを補ったものであった。小数の なくなる欠点があった。 かしく , その上 , 戦況全搬を見渡すことができ を定めて射撃するため , 命中させることがむす る。それも , 各砲座がテンデンバラバラに目標 クルスク戦線で , 破壊したドイツの 5 号戦車
シャ ' の発射台 前線に向かう連装ロケット カチュ ンマーで叩くような音を立てている。 キナ臭い コーダイト火薬の匂いが鼻をつく。汗が目にし みて痛い。 やっと逃げきった ソ連のパイロットも格段 にレベルがあがっている。それに中・低速度で は , ヤク戦闘機の方にいくぶんか分がある。油 断大敵だ。基地に帰投したゲアハルト中尉はこ う思った。その日の夕刻になっても , 彼の僚機 だったダイヒマン曹長はついに帰ってこなかっ この日 1 日の空中戦闘で , ドイツ軍の記録で は , ソ連機の撃墜は 120 機余り。また , 有名なハ ンス・ルーデル大尉は乗機 Ju87G ー 1 を駆って , クルスク作戦の南部地区 , ベルゴロド付近に進 出して来たソ連軍戦車集団を攻撃。 2 門の 37mm 砲の威力はすさましく , 彼 1 機だけでも 12 両以 上のソ連戦車を撃破炎上させた。 7 月 5 日の午後も , 空中戦闘はいよいよ激し さを増し , 午後だけでもソ連空軍は 11 ( 職を喪失 した。燃料と弾薬を補給しては , 何度も戦場上 空に出撃したドイツ空軍の被害も次第に増して きたが , まだがまんできる数字だった。 ドイツ陸軍が苦戦 空軍の活躍にもかかわらす地上では , さしも のドイツ機甲軍団も快進撃というわけにはいか ドイツの作戦企図を 3 カ月も前から なかった。 察知していたソ連軍は , クルスク平原の突出部 分から 180km も後方に達する , 全正面にわたって 堅固な縦深防御陣地を構築して待ちかまえてい たのた 合計 1 万 9 , 300 門の大小の火砲と , 920 門のロ ケット砲、、カチューシャ ' ' をすらりと揃え , 対 戦車拠点にはそれぞれ対戦車砲 3 ~ 5 門 , 対戦 車銃 5 挺 , 追撃砲 2 ~ 5 門に , 工兵 , 機関銃分 隊が待ちかまえ , さらに戦線 1 km 当たり , 1 , 500 発の対戦車用地雷 , および 1 , 700 発の対人用地雷 を埋設した地雷原を , 前面に設けていた 7 月 5 日 , モーデル大将のドイツ第 9 軍の戦 車部隊は , クルスクの北からティーゲル戦車 , フェルディナント自走砲を先頭に , 数百両の 4 号戦車と車載歩兵部隊に支援されて前進を開始 だが , 地雷原にはいりこんだドイツ軍戦 車 100 両余りは , たちまち地雷に吹き飛ばされて 0 43
ヤコプレフ Yak ー 9 戦闘機はソ連空軍の第 2 次大戦での主力戦闘機として活躍した。名設計者 A ・ヤコプレフの設 計したヤク系列戦闘機は , ヤクから始まり , ヤクー 3 , ヤクー 7 そしてヤクー 9 まで用途別の性能の向上をはかり , ロシアの上空から , ドイツ空軍機を駆逐していった。ヤクー 9 はスターリングラード戦で大量に出現。クルスク 戦でも , 12 ー 2 , Pe-2 を援護してドイツ空軍機とわたり合った。とくに中・低高度での・性能にすぐれていた。 タンにかかっているのをプロイス少尉は知らな は燃料の欠乏だった。もともと補給線は他国領 かった 内深く伸び切っている。それに空軍決戦の激し ヤクー 3 の 2 黼包 1 門 , 12.7m 充 2 挺がいっせ さは , 当初ドイツ軍指導部の将軍たちが考えて いに火を吹いた。射弾はます左のエンジン・カ いたような甘い判断を越えたものになり , ソ連 ウリングを吹きとばした。工ンジンから発火 , 空軍の力が質・量ともにドイツ空軍を越えはし 次の瞬間防弾ガ、ラスに集中 , キヤノピーは枠を めると , 燃料の欠乏はがぜん急を告げた。 残して飛散した。プロイス少尉は背あての防弾 ドイツ軍飛行場を空襲するソ連機は , その数 鋼板のおかげで直撃されなかったものの , コク を増してきた。昼間はヤクー 9D 戦闘機が , Pe-2, ピット内を跳ねまわった銃弾のために , 数カ所 I ト 2 を援護し , あるいは少数機で飛行場を掃射 して行った。夜間はまた , 旧式の U ー 2 複葉機ま に重傷を負った。 次に攻撃位置を占めた別のヤクー 3 の集中砲火 でが小型爆弾で飛行場を襲撃し , 在地機や燃料 は , 再び左ェンジン付近の主翼に命中 , 大口径 タンクを炎上させ , 兵員を多数死傷させた。 ソ 弾の度重なる打撃に , さしも頑丈な主翼構造も 連空軍には燃料の心配はなかった。 粉砕され , 上方に折れ曲り , 切れて後方に飛び このため , ただでさえ不足がちの航空機を , 去った。すでに多量の出血で意識を失いかけた あちこちの増援・救援に分散して派遣するはめ 少尉は , そのまま機体と共に落下し , ロシアの になったのと重なり , この方面での制空権はし 大地に激突 , 機体は地中に深くめり込み , 彼は だいにソ連空軍の手中に収められ , また , それ によって地上戦闘は , ソ連軍の優勢がいよいよ 戦死した。 明らかになっていった 燃料が足りない / ドイツ軍は大きな犠牲を払って , せつかく獲 得した陣地から退却をするはめになった。 , 激烈な空中戦闘が続き , 可動機数が減る一方 して 7 月 23 日 , ついにヒトラーは、、ツイタデレ のドイツ空軍を悩ませるもうーっの問題 , それ 54
日が続いた。撃墜されれば , パラシュートで降 下しても捕虜になる敵地の上である。未帰還機 が増え , パイロット , 乗員の消耗は補充が追い つかないほど甚だしくなった 7 月 19 , 20 , 21 日とドイツ空軍は Ju88 , He111 , Ju87, HS129 を動員して , 突進してくるソ連戦 車 , 地上部隊の上に砲弾と爆弾の雨を降らせた。 プロイス少尉は 21 日の午後 , 戦闘から帰投中 に機上で戦死した。 2 回目の出撃を終えてプロ イス少尉は , 後方の自軍基地に向かって高度を あげながら全速で飛行した。戦場付近を絶えす うろっくソ連機のおかげでこのあたりは物騒だ ・可、一 0 携行した弾薬を使い果たした機体は軽くなって いるはすなのに , 速度が上がらない。余りにも 酷使されたノーム・ローン・エンジンにガタが 来たのだろうか , 規定の出力はとても出ていな いのだ。スピードは時速 3()()km そこそこた そのときプロイス機を発見した 3 機のヤクー 3 が , 後上方からしのび寄っていた。先頭の 1 機 の光像式照準器 ( OPL ) が , HS129 のオムスビ形 の胴体をとらえ , パイロットの拇指が , 発射ポ リンク降下戦車師団のティーゲル重戦車が , 上 陸部隊を水際で迎え撃ち , 88m 黼包と軍艦とが撃 ち合いを演したのは有名な話である。 連合軍を食い止めるのに , 機甲部隊をどこか らイタリアに送るか。ヒトラーは東部戦線から 以外にはその答えを持たなかった。 こうして北 と南からクルスクをもぎとろうとくいこんだ鉄 の爪は , ソ連軍の鋼鉄のヨロイに打ち当たって 止まってしまった。 ドイツ軍の侵攻作戦が止まっていた突出部北 方で , ソ連軍は逆にドイツ軍部隊の包囲せん滅 をねらって行動を起こした。 ドイツ空軍は作戦 可能の可動機を大いそぎでかき集め , ドイツ軍 陣地を , オリョール付近で突破して前進してく るソ連戦車の進撃を空から叩き , 味方地上軍が 態勢を立ち直す時間を稼ごうとした。 せつかく優勢を保っていた南方の空から , ド イツ空軍機の姿が減っていった。地上攻撃機・ 爆撃機は北方の戦場に急派されたのである。夜 あけから日没までシュッーカや Hs 129 は , ソ 戦車の大群を食いとめるため出撃をくり返す毎 ユンカース Ju88 は , ドイツ空軍の双発爆撃機の代表作だった。大小さまざまの爆弾を積み , ヨーロッパの各戦 線に姿を見せた。その使い良さで , 偵察 , 夜間戦闘 , 急降下爆撃 , 雷撃などの用途に用いられた。 53