指揮 - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第19号
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1. グラフィックアクション 第19号

この時参加したドイツ軍の機甲師団は 6 個で , グーデリアンの第 19 機甲軍団は 2 個機甲師団を 指揮し , 戦車の集中使用を試みた。そして機甲 師団の持つ戦車の、、突破カ ' ' を , 独創的なやり 方で実証して見せたのだった。 さて , こうしてポーランド戦で見せたドイツ 機甲師団の実力を見て , ヒトラーの命令で増強 された機甲師団は , 1940 年 5 月の , 西部攻勢で フランス侵攻に用いられることとなったのであ フランス侵攻は , 有能なマンシュタイン将軍 の案であるアルデンヌの森林地帯突破の奇襲作 戦をもって行われることになった。 この時参加したドイツの機甲師団は 15 固師団 で , グーデリアンは , 三つの攻勢部隊 ( A, B, C の各軍集団があった ) のうち , アルデンヌ森 林地区を担当する A 軍集団 ( フォン・ルントシュ テット将軍 ) のクライスト機甲集団麾下 ( きか ) に属し , 第 19 機甲軍団を名乗って , 第 1 , 第 2 , 第 10 機甲師団を傘下 ( さんか ) に置き , 電撃作戦 に参加したのだった。 1940 年 5 月 10 日 , グーデリアン機甲兵大将は ルクセンプルクの国境を 第 1 機甲師団と共に 越えた。彼の第 2 , 第 10 機甲師団もフランス軍 の騎兵師団をけちらし , 前進して行った。 5 月 12 日には , 世に知られる強力なマジノ線 の攻撃と , セダン市街の攻防戦が行われた。 の時の渡河作戦では , グーデリアンとレルツア ー空軍大将の周到な作戦準備にもとづいた空・ 地協同作戦が行われたのだった。 ドイツ空軍機 ( シュッーカ急降下爆撃機 ) と 地上の砲兵隊とが呼応して行う空地一体の総攻 撃が , 大きな成功を収めたのは全く新しい形の 、、戦術 ' ' であった。 こうして装甲車両に大きく白色の、、 G ' ' の文 字を書き , 快進撃を続ける機甲部隊の指揮官グ ーデリアンは , 「機甲部隊はカの続く限り突進に つぐ突進を続け , 英仏海峡にいかに早く到達で きるかに全力を傾けるべきだ」とヒトラーに強 力に進言していたのだった 5 月 19 日 , グーデリアンの上級指揮者フォン・ クライスト将軍 ( A 軍集団指揮下にはクライス ト将軍がいて , ラインハルトの第 41 機甲軍団と グーデリアンの第 19 機甲軍団を麾下に置いてい 西部電撃戦 ドイツ機甲部隊の育ての親ハインツ・グーテリアン 将軍。ポーランド電撃戦で陣頭指揮を取り , 革新的 な戦車戦を展開して戦車の持つ力を充分に発揮した。 53

2. グラフィックアクション 第19号

ソビエトの優秀な戦車 T ー 34 / 76 型 ( 写真 ) の出現によって , ドイツでは新型戦車の開発に迫られたのである。 あった ) 麾下の第 2 機甲集団を指揮し , ロシア が発動された。総統指令第 21 号である。 ドイツ国内の戦車の生産力では , ヒトラ 侵攻作戦に精力的に取り組んだのだった。 ーの ドイツ機甲集団の作戦成功の裏には , グーデ 命じた大拡充計画も遅々として進まなかった 、が , リアンが主張するような、、独自の行動 ( 機甲部 ロシアへ侵入時のドイツ機甲部隊は , 数の上で 隊は軍集団の指揮下におかれていた ) ' ' を取っ は 25 固師団にもふくれ上がっていたのだった。 旧型の 1 号 , 2 号戦車は姿を消して , 3 号 , た場合が多かったのである。 4 号戦車が主力に取って代わった。しかし , グ やがてドイツの機甲部隊は , ソビエトの優秀 ーデリアンが後に述べているように , 従来の戦 な T ー 34 型戦車と出会い , きもをつぶすこととな 車の配属数をへらし , 師団の数を増やすという り , あわせて新型戦車の開発を迫られることと やり方では , 最も重要な、、攻撃力 ' ' が半分にな なった。 ってしまうという , 重大な結果をまねいてしま 戦況はドイツ軍に厳しく , レニングラード , ったのである。それでも各種の装甲車両 , 自動 モスクワで攻勢が失敗に終わり , 将軍たちがヒ 車化によって , 当時世界で最も進んだ機甲部隊 トラーの怒りを買い , グーデリアン大将もルン トシュテット元帥と共に更迭されてしまった。 であったと言えよう。 この間 , 戦車 , 装甲車両は大発達をとげ , T- ここに至って各国の陸軍は , この機甲部隊運 34 型ソ連戦車に対抗できるよう開発されたパン 用の組織をまね始めたのだった。こうした折 , テル戦車 , また , ティーゲル重戦車や重駆逐戦 グーデリアン大将はヒトラーの命令で , 機甲部 隊 , 自動車化歩兵師団の編成を熱心に行ってい 車等が開発された。 特にドイツは戦車の不足を補うために , 戦車 たのである。 やがてグーデリアンは , 中央軍集団 ( ロシア の車台に無旋回の砲塔と砲をのせ , 突撃戦車と 侵攻作戦には , 北方 , 南方 , 中央の各軍集団が して多数戦線へ送り出していた。 56

3. グラフィックアクション 第19号

電撃戦の裏で , ー宣伝 ー戦の指揮をと ? なヨヤ , ス ( 右から 3 人目 ) フ ランス戦線では神経戦 も行われにある時 , - フ ランスの首相前線をに 彡、一視察し際にドイツ側 。ーのスピカデが首相の 行動を正確に告げて、貧 たこともあった。 ~ マドイツ A 軍集団の指 ー揮下にあってに第田軍 の指揮をったブッシ ーエ

4. グラフィックアクション 第19号

第第を第物 ま物を ドイツ機甲軍育ての親ハインツ・グーデリアン大将 ( 向かって左 ) と , 工ルウイン・ロンメル将軍。電撃戦 " の 時グーデリアンは , クライスト機甲集団麾下の第円軍団を指揮して機甲戦の神髄を見せた。一方 , ロンメルは 当時少将で , フォン・クルーゲ大将の第 4 軍麾下の第 7 機甲師団を指揮し , 大胆な機甲戦を展開した。 フランス第 2 , 第 9 軍の騎兵部隊は , ミュー くり返すが , フランス・イギリス連合軍は , ズ川防衛線にまで退却した。この際 , 道路を破 アルデンヌ森林地帯は危険区域ではないと判断 壊しないで撤退するというミスをおかした。そ していた。そして , それほど突破不可能である こから 60 北では , ドイツ軍の先鋒 ( せんばう ) と考えられていたアルデンヌの森林を , 突破し がベルギー領でミューズ川に達していた ようとするドイツ軍にも理由はあった。 高低の差がはげしく , 点在する沼沢地と屈折 ロンメル機甲師団のデビュー のはげしい道は , 第一次大戦の時ドイツ歩兵が ポーランド進攻作戦で , それまで熱烈な歩兵 突破した実績がある。今回は歩兵ではなく戦車 論者だったロンメルは , 戦車兵科の持っ可能性 である。だが戦車の通れる道はあったのであ を認識するようになった。そして 2 月 15 日 , ロ る。しかもドイツ軍は , この日のために戦車の ンメルはライン河畔のゴデスプルクにあった第 権威グーデリアン将軍が , 地形的に似ているド 7 戦車師団の指揮をとることになった。ロンメ イツ国内で , ひそかな訓練をつづけていたので ル戦団の誕生である。ロンメルは驚異のスピー ある。 ドで新技術を吸収し , 自分を適応させていった。 5 月 11 日未明 , 驀進 ( ばくしん ) するドイツ機 5 月 13 日 , グーデリアン指揮下のドイツ機甲 甲部隊の前には弱小のフランス軍しかいない。 軍団は , セダン近郊でミューズ川を渡った。ロ ドイツ第 1 機甲師団はプイヨンをまたたく間に ンメル指揮下の戦車師団はディナンの近郊にあ 陥落させ , 24 時間後には , セダン北方でフラン スの国境を越えた。 った。 33

5. グラフィックアクション 第19号

機甲軍の再建と敗北 ヒトラーに罷免されたグーデリアンに , 再び 登場の舞台が回って来たのは 1943 年 2 月のこと であった。グーデリアンを , ヒトラーはしぶし ぶながらのゼスチャーで , 機甲軍総監に任命し たのである。 グーデリアンは自分の考えた、、機甲軍勤務令 ( ここでグーデリアンは , 自分の権能について その範囲を明記した ) ' ' を発令し , こに , スタ ーリングラードでの大敗北をこうむったドイツ 機甲軍の再建に乗り出したのだった。 この時 , 戦線のドイツ機甲師団はたった 50 両 の戦車で作戦する程に戦力は落ちていたのだっ た ( 初期のグーデリアン構想と規定によれば , 1 師団は戦車 561 両が定数であった ) 。 機甲兵監となったグーデリアンは , 持前のす ぐれた統卒力を発揮して装備を改善し , 戦車の 生産方法を統一し , 師団を新設して猛訓練を行 ったのである。その結果 , ドイツは今までにな い大きな機甲戦力を持つに至ったのである。 1943 年 7 月 , ドイツ軍は「ツイタデル作戦 と呼ばれるクルクス突出部の攻撃を行い , 有名 なクルスクの大戦車戦が展開されたのであった グーデリアンの確立した、、機甲部隊は止まっ てはならない / ' ' を , 今度はソビエトの機械化 部隊が学び取ってしまったのである。その結果 , こうしてせっ ドイツ軍は敗れ去ってしまった かくの再建機甲軍は , ロシアの広大な野に消え てしまったのである。 5 ″ 8 ″ 9 ″ この後グーデリアンは , 西部戦線の機甲部隊 の弱体化を補うために , 各地の戦車学校から選 抜した教官と学生で , 戦車教導師団 ( パンツア ・レール ) を作り , 最新のケー ッヒ・ティ ーゲル重戦車を装備した重装備師団とした。 更に , アフリカで歴戦のバイエルライン中将 にその指揮を任せたが , 連合軍のノルマンジー 上陸に続いてカーン前面の戦いで , この強力無 比な機甲師団は徐々に戦力を失い , ついに全滅 してしまったのである。 このように戦争の後半には本来 , 攻撃 , 突破 が目的の機甲部隊も , ヒトラーの干渉で集中使 用ができす , 戦況の推移と共に防衛戦に振り向 ーっ , また けられ , 乗員の質的低下と共に っと , 機甲師団は消えていったのである。 1944 年 12 月 , ドイツは寄せ集めの 9 個の機甲 師団をもって , 1940 年の電撃戦と同じくアルデ ッヒ・ティーゲル重戦 ンヌの森を突破 , ケー 車を多量に投入し , ドイツ本土に迫る連合軍を 反撃することとなったが , つかの間の成功で , この戦いでド ついにカつきて敗北してしまい イツの機甲軍は事実上壊滅してしまったも同然 であった。 1945 年 3 月 , 連合軍がライン川を越えたころ , グーデリアンはヒトラーから , 健康を理由に参 謀総長を罷免されてしまった。これは作戦会議 の席で , たびたびかみついたがためであった。 やがて 2 か月後 , ドイツは崩壊したのだった。 ドイツ機甲軍の育ての親グーデリアンが , 機甲 部隊を指揮する事は 2 度となかったのである。 1939 ~ 1945 年 ; ドイツ軍主要戦車の諸元表 戦車の種類 1 号戦車 B 型 2 号戦車 D 型 3 号戦車 E 型 4 号戦車 H 型 5 号戦車 G 型 6 号戦車 E 型 戦闘重量 装甲 13mm 100 ″ 100 ″ 主武装 7 .92 mm X 2 20mmKwK 38 型 37 mmKwK 75mmKwK 75mmKwK 88mmKwK 36 型 乗員工ンシン 2 名 6 10 19 . 25 44. 56. ton 馬力 IOOFP 300 ″ 300 ″ 180 ″ 650 ″ 700 ″ 速カ 40km/h 38 46 38 55 行動力 180km 160 ″ 160 ″ 180 ″ 160 ″ 90 ″ 57

6. グラフィックアクション 第19号

反面 , ドイツ機甲師団の損失も大きく , 卓越した機甲用兵 に装甲については英軍戦車に比べて弱く , また , 戦車砲についても火力の増強が叫ばれた。 英・仏軍は 4800 両以上の各種装甲車両と戦車 してドイツの機甲部隊は , フランス戦の戦訓に を動員できたが , ドイツ軍の勝利は戦車大隊の よって多くの技術的改良を急に行う必要に迫ら 指揮方法に優れたものがあったからである。 れたが , 戦車装備の面で大きな進歩をとげたの 例えば , 指揮方法では喉頭 ( こうとう ) マイク ロフォンを早くも実用化して , 戦車を効果的に だった。 ドイツ機甲部隊の名声はゲッペルス宣伝相の 集団使用したりしていた。また , 戦車兵の資質 たくみな宣伝によって , 全世界に知れわたって が非常に優秀だった。事実 , ドイツ戦車兵は , ドイツ軍の将兵は今や , 機甲隊部のカ 能力によって選ばれたエリートであったといえ いった をうたがう者は 1 人もいなくなったのである。 ようやく , グーデリアンの 1930 年以来提唱し続 猛訓練を受けた結果 , ドイツの戦車兵は ( 繰 けて来た機甲用兵が , 新しい陸戦の主役として 縦 , 通信 , 砲手 , 車長がいた ) いすれも自分の 登場して来たのだった。それは陸戦の革命とも 持場以外の責任をも果たせた事である。その他 , 整備兵の技術能力の高さは抜群なものであった。 言えるものだったのである。 ドイツ軍は電撃戦の主役を戦車に任せて , 6 世界を相手として 月 14 日 , ついにパリを占領した。当時 , ョーロ 大戦果を目前にして , ヒトラーは機甲部隊の ッパ最大の陸軍国であったフランスが , こんな だが , ドイツ軍の戦場は広が 大拡充を命した。 にあっけなく降伏してしまうとはだれもが信し り , アフリカへギリシャへ , そしてついに 1940 られなかったのである。それだけに機甲部隊の 年 7 月 , ロシアへ侵入の「バルバロッサ作戦」 活躍は目ざましいものだったのである。 ベルリン近郊のキャンプで , 訓練を受けるドイツ軍機甲部隊の兵士たち。 ′きを・物 , を

7. グラフィックアクション 第19号

び 0 加 心ャギッき、、 , せ ・をを一を第イ三 1 を 城光冫 ムロ 的な、、機甲部隊用兵論 ' ' は , 仲々進展を見せな かった。 1935 年 10 月 , ついに国防軍に三つの機甲師団 が創設された。新たに設計された 2 号戦車 , 3 号戦車がばちは、ち配属になった程度で , グーデ リアンの考える完全機械化の戦力には , 程遠い 状況であった。 だが , 徐々にグーデリアンの考える完全な機 械化部隊構想 , すなわち , 全装甲化車両と , 全 無限軌道車化された部隊の実現の方向に大きく 動き始めていったのである。 聲をイ隋の寧 連隊第 2 大隊長等を勤めている。やがて 1922 年 から 1934 年までの 12 年間は , 国防省の交通兵監 部や自動車兵監部等で , 交通輸送高級要員とし て活躍していた 1934 年には大佐に進級し , 翌 35 年には第 2 機 甲師団 ( 前述の三つの機甲師団は第 1 , 第 2 , 第 3 機甲師団と称した ) の師団長となり , 1936 年には少将に昇進し , ョーロッパで風唾当を亠 ・ユ : ヾッし、に 1 げる 1938 年 , 機甲兵大将に昇進している。 やがて第二次大戦のは、つ発と共に , スペイン 内乱にも参加して実戦経験を積んだドイツ機甲 部隊は , 内容を充実させ , 1939 年 9 月 , グーデ リアン将軍自ら装甲車上で指揮を取るという異 色の指揮官として , 第 19 機甲軍団を卒いてワル シャワへ向けて電撃戦を開始した。 ドイツ機甲軍の父グーテリアン グーデリアンは , 1888 年クルムに生まれ , 第 一次大戦中は中尉 , 大尉として従軍 , 第 14 歩兵

8. グラフィックアクション 第19号

第、、物。朝明域第を ~ ド 0 新 ドイツ空軍の猛爆により , 壊滅したフランスの飛行場格納庫 イギリス軍の第 51 スコットランド師団と交替す レイノー首相は翌早朝にもチャーチルに電話 るまでに ドイツ軍の戦力は大幅に減少されて をかけ , 空軍の増援を要請している。同しころ , いた フランス第 9 軍司令官コラープ将軍は更迭され , 後任にジロー将軍が着任 , コラープ将軍は入れ かわって第 7 軍の司令官になった。 同日 , レイノー首相は政府機関がパリを引き はらう可能性があることを関係者に警告してい たのであった レイノー首相の苦悩 ール計画はもはやズタズタになっていた。 当初からがムラン将軍を信用していなかったレ イノー首相は , ガムラン将軍の更迭を決心して いた。さらにこの非常態勢下で , 国民の支持の あるべタン老元帥を副首相として入閣を要請し , ペタン元帥はこれを受け入れた。 5 月 21 日 , 正 式にガ、ムラン将軍は , 総司令官の座を 73 オのマ クシム・ウェイガ、ン将軍にあけ渡した。 実際には 19 日に就任し , 精力的に動いていた ウェインガン将軍は , 第 1 軍集団に対して , 南 へ向けて攻撃し , 倒れるまで戦えと命令してい る。 5 月 20 日のことである。しかし , もうだれ が指揮をとっても , 敗色をぬぐえないはどハン デはついてしまっている。 ウェインカ、、ン将軍は反撃計画が失敗した場合 , 西へ撤退するよう指示せざるを得なかった。不 幸は重なるもので , 21 日 , 第 1 軍集団のビョッ ト司令官が交通事故で死亡した。後任は第 1 軍 司令官プランシャール将軍となった。 大佐シャルル・ドゴール ドゴール大佐が , 近代戦としての戦車戦を提 唱しつづけていたことはすでに述べた。ジョル ジュ将軍はついにその力に期待をかけて , 彼を 新編成の第 4 機甲師団の師団長に任命した。 ド ゴール 50 才である。 5 月 16 日 , 視察中のドゴールははるか西方へ 爆走するドイツ機甲部隊をながめ , これを徹底 的に撃破してやると心に誓っていた。 5 月 26 日 , 第 4 機甲師団はアベビュー南方のドイツ軍橋頭 堡 ( きようとうほ ) を攻撃 , 28 日までに三つの目 標中二つまでを奪取した。 期待した航空支援がなかったので , 完全な成 功とまではいかなかったが , ともかく , 30 日に 36

9. グラフィックアクション 第19号

ドイツ軍戦闘機はこの日 , 全力で休む暇も なく出動し , 89 機の連合軍機を撃墜した。高射 砲も来襲する英・仏の爆撃機を迎撃し , 100 機以 上を撃墜した。フランス空軍はその爆撃機兵力 のほとんど全部をこの戦いで失い , イギリス空 軍も出動した爆撃機の約 60 % を喪失した。 仮橋は遂に落ちす , ドイツ機甲部隊はセダン 地区を席巻 ( せつけん ) して , 英仏海峡に向かっ て進撃した。セダンの仮橋をめぐる空軍どうし の攻防戦は , フランスの運命を決めた戦いでも あった。そしてフランス空軍は , この戦いに敗 れたのである。 5 月 22 日 , フォン・クライスト将軍の指揮す る機甲集団は , セダンからアラスの平原を通っ て英仏海峡へ突進していた。進出の速度は猛烈 に早く , 歩兵や補給部隊が息を切らして追いか けても , なかなか戦車の進撃に追いつかないく らいだった フランス軍戦車部隊は伸び切ったドイツ軍の 側面を攻撃しようと , フランス北部のカンプレ ーで反撃して来た。もしこの反撃が成功してい たら , 英・仏連合軍はドイツ軍を分断して , 逆 に各個撃破していただろう。 この事態を防いで , フランス軍機甲部隊を撃 退したのは空軍のカであったといって良い。急 降下爆撃機 , 戦闘機 , そして高射砲部隊が , つの精密な機械のように協同して , 地上近接支 援戦闘をやってのけたのである。 この日 , フランス軍戦車約 40 台と , 歩兵を乗 せたトラック約 150 両からなる部隊がカンプレ ーに近づいたとき , それを阻止できた兵力は , ドイツ空軍でも旧式機になり始めていたヘンシ ェル HS123 複葉急降下爆撃機の 1 グルッペ ( 連 隊 ) と , 戦闘機 1 グルッペだけだった。 偵察機がフランス軍戦車の動きを知らせ , 地 上襲撃機がフランス軍戦車を攻撃した。搭載爆 弾も 50kg 程度の小型爆弾であったが , フランス 軍戦車のキャタピラーをねらって行動不能にさ せる攻撃は , 実際上の物理的効果もさることな がら , フランス軍の士気をくしいた。戦闘機も 20mm 機関砲でトラックや戦車の後部をねらった。 フランス軍の戦車が 5 , 6 台撃破されたとこ ろで , 88mm 高射砲が威力を発揮した。 88mm 砲が 対戦車砲として高い能力を充分に発揮し , つい にフランス軍戦車部隊によるカンプレー突破作 戦は失敗した。 ドイツ空軍の猛爆により , 廃墟とイヒしたダンケルク 「フランスの戦い」は終わった フランスを南北に引き裂くかたちで , 短時日 のうちに英仏海峡まで進出したドイツ機甲部隊 は , カレーやプーロー ニュなどの海岸の町を落 とし , 大陸派遣イギリス軍と , フランス軍の生 き残り合計約 40 万名弱がダンケルクの海岸に押 しつけられていた。彼らを救出してイギリス本 土に連れ帰ることができるかどうかは , その後 の戦争の行方に大きな影響をもっていた。 ドイツは空軍だけのカで , ダンケルクに包囲 された連合軍を撃滅しようとした。というより , ゲーリング空軍総司令官がヒトラーに対して 大見得をきったことでそれが始まった , と言っ てよかった。地上部隊はダンケルクの手前で足 どめを食った。 76

10. グラフィックアクション 第19号

1940 年 5 月 " 電撃戦 " 時の ドイツ軍機甲部隊の編制 国防軍総司令部 O K W 軍集団 ※輸送大隊は高射砲 12 門 , 燃料中隊 3 , 弾 薬 , 食料中隊 7 , 指揮中隊 1 である。 ※対戦車砲大隊は 37mm 対戦車砲 27 門 , 対戦 車砲中隊 3 である。 Heeres Gruppe Armee 機甲集団 Panzer Gruppe 機甲軍団 Panzer Korps ※工兵大隊は自動車化工兵中隊 1 , 工兵中 隊 1 , その他である。 ※通信隊は電話中隊 1 , 無線中隊 1 , その 他である。 機甲師団 Panzer DiviS1()n ※機甲師団の戦車装備数は , 1941 年から各 師団 160 ~ 250 両程度であった。 通信隊 砲兵連隊 戦車旅団 偵察機甲大隊 輸送大隊 対戦車砲大隊 自動車化旅団 工兵大隊 オート、 イ兵大隊 自動車化 歩兵大隊 第 1 戦車連隊 第 2 戦車連隊 第 1 戦車大隊 第 2 戦車大隊 第 3 戦車中隊 第 2 戦車中隊 第 4 戦車中隊 第 2 戦車中隊 第 4 戦車中隊 第 1 戦車中隊 第 1 戦車中隊 第 3 戦車中隊 52