アドルフ・ヒトラー - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第23号
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1. グラフィックアクション 第23号

ナチス・ドイツ帝国を崩壊に追いやったアドルフ・ ヒトラー第一次大戦で伍長であったオーストリア 生まれの彼は , 円円年に国家社会主義労働党 ( ナチ 党 ) に入党し , 円 23 年にミュンヘン一揆に失敗して 投獄され , 翌年に出獄してからは国会を目ざし , つ 四 28 年に議席を獲得するに至った。円 33 年に 首相となり , 円 34 年に総統の地位を得て全権を握っ た彼は , 円 45 年の敗戦の日まで , 円 25 年に創設した 親衛隊 ( S S ) を駆使して , 自分に敵する者を片端 から葬り , 勝手気ままな一生を終えている。 武装 SS の終末 昌 ヒトラーが , ハンガリー中央部での戦局回復を くる者は誰もいなかった。武装 S S とその指揮官 ねらった祈るような作戦は , 1945 年の 2 月に開始 たちは , すでにヒトラーを見捨てていた 41 個の されている。ヴィーキング , ドクロ両師団に加え , 武装 S S 中 , 解散したもの 6 , 全滅 2 , 残りは , アルデンヌの月戉いで打ちのめされたアドルフ・ヒ 消滅したもの以外ははとんど降伏している。 トラー ダス・ライヒ , ホーヘンシュタウフェン , ヒムラーが連合軍と内通しているのを知ったヒ ヒトラー・ユーゲントの各師団と , s s 長官師団 トラーの身辺には , 信頼できる人物は誰もいない。 を加えたものである。 1945 年 4 月 30 日 , ヒトラーの自室からピストルの この全戦力を使い尽くして , 結局 , 3 月の下・旬 音を聞いたのは , 彼の狂気の日々に最も多く身辺 までに若干の地域確保はしたものの , ソ連が大攻 にいたドイツ人ではなく , 武装 S S の外人義勇兵 勢をかけてくるや , それも無残に崩れて行った。 だった。 4 月になると , ヒトラーの眼にすら敗色はひた 1 か月も経たない 5 月 , イギリス軍に捕えられ ひたと押し寄せるのが明らかだった。ヒトラーは たヒムラーも , 毒を飲んで自らの人生にピリオド それでも戦争をやめなかった。 ただ彼について を打っている。 99

2. グラフィックアクション 第23号

、を、第物い朝 これもライプスタンダルテ・アドルフ・ヒト ラー師団に所属するタイガーエ E 型戦車であ る。夏期用迷彩塗装が施されており , 砲塔側 面にスペア・トラックが取り付けられ , それ にスチーノレ・ヘノレメットがかけられている ライプスタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師 団の 6 号重戦車タイガーエ E 型。表面のギサ ギサはツインメリット・コーティング ( 対磁 気地雷用塗装 ) をしたもので , セメントと石 膏をませ合わせたものである ー、一、最しをい 、を一 ' を朝 物縁こト鵞 を」 ( 邉 ~ 寧第

3. グラフィックアクション 第23号

1 万 5 , 000 名が殺されているが , 彼らから押収し た銃は人員の 1 割にも満たない , ライフル銃が 1 , 100 丁だけだったと言う無残さだった。いかに 武器を持たない無実の人が多く殺されているか が伺い知れる。 「バルバロッサ作戦」開始時 この戦いを , できるだけ短期間で結着をつけ るつもりでいたヒトラーだったが , その意図に 反して , 機甲 , 自動車化師団の手持ち兵力はじ ゆうぶんと言うには程遠かった。当然のことな がら , 完全に自動車化された武装 S S にその負 担がのしかかってくる。それは , 彼らの兵力に 比してかなり重いものであった。 アドルフ・ヒトラー師団とヴィーキング師団 が南方軍集団に , 中央軍集団にはダス・ライヒ 師団が , 北方軍集団にはドクロ師団と警察師団 がそれぞれ配属されていた。 北方軍集団に配属された 2 個師団は , 当初 , 予備軍として参加していたが , 作戦後期になる とレニングラード近くで包囲されて , 数か月を 送っている。ドクロと警察師団はその名前のせ いもあるのか , どうも陰気なムードをただよわ せ , 最後までそれを押し通しているようだ。 中央軍集団のダス・ライヒ師団は , 東部戦線 中央でかなりの戦果を挙げている。スモレンス クの大包囲戦 , さらにキエフの攻防戦にも参加 し , 最後にはモスクワを目前にして涙をのんだ あの戦いにも , グーデリアンの手足となって活 躍している。 栄光のアドルフ・ヒトラー師団とヴィーキン グ師団は , キエフ攻略を目標に参戦し , アドル フ・ヒトラー師団はここでも驚異的な前進力を 見せ , 8 月から 11 月の間に , 黒海沿岸からドン 川流域のロストフに達している。 冬将軍到来 冬したくの無いドイツ軍が , 雪と氷の中から ソ連軍に押し戻されるのには , それ程時間はか からなかった。数百万の将兵を失っても , ソ連 軍の力は冬と共に復活し , 11 月の末になると , アドルフ・ヒトラー師団はロストフから撤退さ せられ , ソ連側によるウクライナの失地回復も 始まっていた 退却するドイツ軍の中での武装 S S は目だっ た存在であった。彼ら程ねばり強く , しぶとく 鈴木のりひさ 第 る。構えている機関銃はチェコ製のものである。 常に主力部隊と行動し , その上 , 北方 , 中 は , 央 , 南方の 3 軍団すべてに配属されていた。当 然 , 彼らの行動はドイツ陸軍全部に知れわたる ことになる。 多くの無実の人々を含めたパルチザン掃討作 戦での殺りくは , 第 1 線のドイツ軍部隊から選 ばれた武装 S S の隊員によって行われたが , 特 パルチザン専門と言ってよいーっの武装 S S 旅団がある。ディルレワンガー旅団である。 オスカー・ディルレワンガー博士が設立した この旅団の凶暴さは格別だったらしく , 百戦錬 磨 ( れんま ) の命知らすの兵隊でも , 彼らの名を 聞いただけで震え上がったと言っ。 1943 年ペリク湖付近のパルチザン掃討で , 約 物、物を第をいド尋

4. グラフィックアクション 第23号

ー第 い恭ををいを ・アアヱアア上上ア上 第一 ss 戦車軍団に属した第一 ss 機甲師団ラ イプスタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師団 の 6 号重戦車タイガー I E 型。円 44 年の初夏 , 風雲急をつげるノルンジー地区 ~ 急行する ところである。

5. グラフィックアクション 第23号

0 円 40 年 6 月 , フランスへの電撃戦を行うドイツ軍戦車隊。戦車は 3 号戦車で , 当時のドイツの中核をなした戦 車である。武装親衛隊も国防軍に協力し , ロンメルの機甲部隊と , ドクロ師団の協力戦は良く知られている。 攻の際の武装 SS は , すでに兵力としては主要 は , 1940 年の 4 月には最終段階に入っていた。 軍事力の中核をなしていた。戦史上明らかのよ 作戦目的はカレーとルアープルの中間に進撃し , うに , ポーランド侵攻は・ドイツ軍の力を示すに 連合軍の兵力を寸断 , 粉砕することにある。 はあまりにもあっけなく終わっている。 中央突破を強行しようとするのはルントシュ 理由は簡単である。ドイツ軍に比格してポー テットの A 軍集団とポックの B 軍集団で , B 軍 ランド軍の兵力は , その数においても装備にお 集団は連合軍兵力をできるだけ北方へ誘導する いても , 全く問題外の劣勢であったからである。 役目を持ち , A 軍集団の成否はこれにかかって したがってこの戦いでは , 武装 S S の戦力をチ この理由から B 軍集団には いると言ってよい ェックすることはできない。 機械化された兵力が割り当てられ , 武装 S S も この作戦に参加している。 ポーランドでの戦闘は 18 日間で終了したが , ドクロ ( トーテンコプ ) 師団はライン川沿岸の この直後にハインリヒ・ヒムラーは , ヒトラー から武装した S S 師団強化の了解を得ていた。 陸軍総司令部予備軍。警察師団は C 軍集団の予 備軍。そして , アドルフ・ヒトラー連隊 ( 後に 武装 S S のデビュー 師団に拡大 ) がアムステルダム , ュトレヒト , 武装した S S が , 正式に Waffen- S S ( 武装親 ーグの各都市を包囲してオラ ロッテノレダム , ノ、 衛隊 ) と命名されたのは 1940 年で , ヒムラーに ンダ中部への奇襲を行い , 交通のポイントを確 よってである。そして , 命名されて間もない武 保することになっていた 装 S S が , その初陣を飾ったのも同し年のこと 武装 S S の初てがらは , アドルフ・ヒトラー であった。 連隊によって挙げられることになるのだが , フランスおよびベネルクス 3 国への攻撃態勢 れは機械化された部隊による , 機械化されない

6. グラフィックアクション 第23号

←をを ilJ?YtERBuR 1 を縊第 ノルマンジー戦区へ向かう第一 S S 戦車軍団の第一 S S 機甲師団ライプスタンダルテ・アドルフ・ヒトラー部 隊の 6 号重戦車タイガー I E 型とシュビムワーゲン戦車乗組員はカバーオール迷彩服を着たりいダブルのコ ートを着たり , 色々の服装をしている。ワーゲン乗員の左腕には , S S 鷲章 , 師団標識章が見られる。 20

7. グラフィックアクション 第23号

第↓驪置 . 第 半装軌式兵員輸送車 Sd. Kfz . 2 引月に乗り組んで , ロシア戦線を行く武装親衛隊員。車両側面にかけられた鉄カ プトに S S の記章が見える。正面の機関銃は , ドイツの誇る M G 34 機関銃である。 生き残った部隊は無かった。ヒトラーにとって せることにし , ハリコフのソ連軍突出部で強烈 は頼もしい限りの部隊である。 な反撃を試みる決意を固めた。 ドイツの戦力再編制の筆頭に挙がった武装 S この攻撃作戦に , 機甲師団 12 個師団が編制さ S は戦線から大きく後退し , 機甲師団の穴埋め このうちの 3 個師団が武装 S S 機甲師 れたが , になるべくフランスで再編制を受けることにな 団で , アドルフ・ヒトラー , ダス・ライヒ , ド る。装備もキャタピラー付き兵員輸送車を多用 クロの機甲師団であった。 し , さらに援護の戦車隊も補充された。 1942 年の 2 月初旬 , アドルフ・ヒトラー , ダ このような状況下でも , 装備の補強を ス・ライヒ両師団は , ハリコフ攻撃で大きな痛 ただ しただけで前線に残された師団があった。 A 軍 手を被り , ドクロ師団もフランスから到着早々 集団の一員として , 冬中参戦していたヴィーキ の 2 月 29 日に , 師団長であり , 最初の強制収容 ング師団である。 所長であったテオドール・アイケを失っている。 この師団は常に第一線におかれ , スターリン この 3 個師団の武装 S S 軍団が , 合体して攻 グラード遠征にも加えられていたが , 武装 S S 撃を加えたハリコフ攻防戦は , 3 月 14 日 , ソ連 にとってその評価を維持することができた理由 軍のハリコフ放棄で幕を閉したが , 武装 S S 師 の一つに , スターリングラードでの敗戦に参加 団の被害も大きく , 死傷者約 1 万 2 , 000 人にも達 していなかったことが挙げられる。 していた ともかく , 武装 S S の存在は再認識され , ま たもや , 次期作戦での重要な役割が課せられる ことになるのであった。 このころ , ロンメルは北アフリカ戦線をあき らめており , バルカン諸国は分断され , ベルリ ン空襲をはじめ , ドイツ本土への連合軍の空爆 ー第ふ 武装 SS 連合のハリコフ攻撃 スターリングラードの惨敗で自信を失ったヒ トラーは , 南方軍集団指揮官のマンシュタイン 将軍に指揮権を与えた。 1942 年の春である。マ ンシュタイン将軍は , 防衛力を攻撃力に転換さ 52

8. グラフィックアクション 第23号

西部戦線の武装 SS き義新譏哲書単き巒 、みす ドイツ第 S S 機甲師団ヒトラー・ユーゲントを視察する西方防衛総司令官フォン・ルントシュテット元帥と その一行。円 43 年に編成されたヒトラー・ユーゲント師団はその名の通り若者の師団であった。連合軍のノル 後半の武装 S S 師団は , 増員 , 装備の補充も 大戦後半の武装 SS 満足に行われてはいなかったようだ。 にもかか わらす , 彼らの任務は逆に , 日に日に加重され 1933 年に編成された最も歴史のある武装 S S て行っている。 アドルフ・ヒトラーから , 1943 年までに編成さ 西部戦線では , 特にノルマンジー作戦 , アル れた武装 S S はおよそ 17 である。さらに 1944 ンヘムの戦い , アルデンヌの戦いの 3 大戦闘の 年から最終編成師団までが 24 個ある。そのうち , 中で , ドイツ軍の救援作戦の中心的な任務を遂 1940 年までには 6 個の師団ないし連隊しか編成 行している。それだけに , 後半に見られるよう されていない。 な国防軍と S S との反目は , 1944 年ごろには , 最初から数字を出して申しわけないが , これ 少なく共現地の兵隊同士では全く無かったと で見る限りでは , 戦争末期に編成された 5 割以 える。 上を占める武装 S S は , ドイツ第二帝国の逆転 かってのヒムラーの理想とする S S 像は無く 劇を演じさせるにはいささか遅きに失したと言 なり , 外観も慣習も陸軍と全く同じになろうと える。事実 , あまり役立ってはいない。

9. グラフィックアクション 第23号

をすを、姦飄を こ叮 . ドイツ軍最後の大攻撃を行った「アルデンヌの戦い ( / ヾルジの戦い ) 」における光景。そばにはアメリカ軍の M 3 ハーフ・トラックが燃えている。その前にはジープも置き去りにされ , アメリカ軍の敗走を物語っている。 と , 引き続くショックからわすかでも立ち直っ トリヒである。アドルフ・ヒトラー イ ・ユーゲント両師団を第 1 陣とし , ダス・ たとすれば , アルンヘムでモントゴメリーが強 行した , 連合軍空挺 ( てい ) 部隊の降下作戦をく ライヒ , ホーヘンシュタウフェンの 2 師団を第 2 陣として行われる , 大規模な戦力である。 いとめたことだろう。 運よく , 激戦の後の休息にきていたホーヘン 1944 年 12 月 16 日の朝 , 第 1 陣が進撃を開始し シュタウフェンとフルンズベルク両師団が , 降 た。不意をつかれた前面の米軍は統制がとれす , 下に成功したイギリス空挺部隊と交戦し , 4 日 慌てふためいて敗走した。順調なスタートで前 間の激戦の末に勝利をおさめたのである。とり 進したドイツ軍にとって , たちまちそれをスト あえず , イギリス軍が北方からドイツへ侵入す ップさせる悪い条件が二つ発生したのである。 るのをくいとめたことになる。だが , 命連尽き ーっは , アルデンヌの地形が防衛に向いた地 ようとしているドイツの , それはわずかなまた 形で , 機甲部隊の急進撃には適さなかったこと と , アドルフ・ヒトラー師団に捕えられた米軍 たきにしかならない。 捕虜 90 名が , 機関銃で虐殺されたと言うニュー スが米軍部隊の闘志を強烈に燃え立たせたこと である。 米軍の反撃力が , これを原因として大きくふ くらんだことは当然であったろう。 8 日後の 12 月 24 日 , 戦局は再び連合軍の優位に変わって行 った。第二次大戦の終局まで , 後 4 か月ばかり が残されているだけであった。 武装 S S 最後の大攻撃 ドイツ軍が大攻勢をかけることによって , 少 しでも戦局が好転するのではないか , と言うヒ トラーのむなしい試みは , かって 1940 年に行わ れたアルデンヌで , 再び攻撃を開始することで あった。 作戦の指揮は , 武装 S S の指揮官ゼップ・デ 62

10. グラフィックアクション 第23号

ー物 フランス戦線のナチス武装親衛隊員。左腕に S S 鷲章が見える。点検しているのはフランスのルノー F T 型戦 車で , 電撃戦でフランスに侵攻した際に捕獲したものであろう。 敵への勝利であった。オランダ軍の行動は思っ に比してかなりの被害を受けている。 たよりも敏速であったが , アドルフ・ヒトラー ドクロ師団の捕虜大虐殺ーラバラティ 連隊はそれを上回る機動力で , オランダ軍を追 ダンケルクでのイギリス軍の撤退作戦で , ド ってスピーディに移動し , 進撃を成功させた。 戦闘開始 1 日目で , アドルフ・ヒトラー連隊の イツ軍に与えたイギリス軍の反撃はすさましか った。イギリス第 2 師団の歩兵部隊も , ドイツ 進出した距離は 216 であった。 武装 S S はオランダ侵攻の後に , 引き続きフ 軍を手こすらせたイギリス軍の一つである。 中でも , ラバラディの農家に立てこもって反 ランスへ移動の命令を受けた。そこでは , ドイ 撃を繰り返すイギリス第 2 師団第 2 ノーフォー ツ軍がアルデンヌの高原地帯を突破し , 当初の 作戦通りに , 連合軍の兵力を寸断する状態であ と言われてい ク大隊の奮闘はめざましかった , る。しかし , その大隊も中隊以下の戦力となり , った。 弾薬も無くなってきた。そして , 降伏の白旗が ドクロ師団も前線に向かっていた。 1940 年 5 月 19 日 , カンプレーに到着してロンメル将軍の ふられた。 98 名のイギリス兵がドクロ師団第 2 ドクロ連 指揮下に入り , 有名な第 7 機甲師団と合流して 隊の捕虜となった。数分後にイギリス兵を待っ いる。ドクロ師団は元来 , 強制収容所の警備を ていたのは , 機関銃のメッタ撃ちの轟 ( ごう ) 音 主とする師団なのだが , この時には , 強制収容 と焔で , それが生ある最後のながめだった。撃 所長兼務のテオドール・アイケも参加して , ロ たれてもまだ息のある者は , 銃剣でトドメを刺 ンメルと行を共にしたのだった ロンメルの危機の一つ「アラスの戦い」では , されたと言う。これを命令したのは第 2 ドクロ ドクロ師団が受けた損失は , その戦闘参加時間 連隊のフリツツ・クノッホラインであった。 39