ノルマンジー上陸作戦に際し , 大挙して接岸したアメリカ軍の輸送船団。上空に要塞気球を上げ , ドイツ空軍 機の低空進入を防いでいる。しかしドイツ空軍の反撃は無かったと言ってもよいくらいであった。 への補給線が延びたためで , いすれはドイツ国 2 波のニーヴ・グループの 42 機はバラバラにな 内になだれ込んで来るに違いなかった。 り , 目的地から 10 も離れたところに降りた機 ヒトラーは , 守勢を続けていてはドイツは消 5 月 10 日の夜明け前 4 時 20 分の作戦 もあった こで大攻勢に転す 耗し切ってしまうと考え , 開始から 10 時間以上もたって , ようやく二つの ることで局面の打開を図った。その突破口は , グループは合流できる始末だった。 1940 年のフランス侵攻の突破口であったアルデ ウイトリーは午後 1 時に占領されたが , ベル ンヌ地方である。 ギーの第 1 アルデンヌ連隊との間に激戦が交わ アルデンヌに進出していたアメリカ軍の兵力 された。ベルギー軍の救援にフランスの第 5 機 は , 歩兵 4 個師団と弱小であった。アルデンヌ 甲連隊が駆けつけるなど , 一時はドイツ軍も苦 から突出して , アメリカ第 1 軍と第 3 軍の間に 戦したが , グーデリアンの第 1 機甲師団の先頭 楔 ( くさび ) を打ち込み , 西進して連合軍の重 がウイトリーに達して , ベルギー フランス〕車 要な補給基地であったアントワープを占領し , 合軍は後退した。 こうして第二次大戦の緒戦で , イギリス , カナダ軍をベルキ、一とオランダの国 アルデンヌはドイツ軍の進撃に道を開く重要な 境に追い・こんでしまう , という大胆な作戦であ 鍵 ( かぎ ) となったのであった。 った 1944 年 12 月 16 日早朝 , ドイツ軍地上部隊はい っせいに前進を開始した。 1 , 000 台近くの戦車 , 突撃砲 , 機甲 9 師団を含む 28 師団の大兵力を投 入した大作戦だったが , 1940 年当時との大きな 違いは , ドイツ空軍の弱体化に対して , 連合軍 の航空兵力がはるかに強大になっていたことで あった。しかし , 12 月 15 日からの深い霧と悪天 候は 5 日間続き , この間 , 連合軍の活動をほと んど全面的にはばんでいた。 4 年前と違って , 弱くなっていたドイツ空軍 ではあったが , アルデンヌの大攻勢に空挺部隊 は投入された。 12 月 15 日の夜 , ュンカース Ju52 二発輸送機ーー各戦線からかき集められて来 の大群は , 約 1 , 000 名の降下部隊をアメ た / ヾノレジの戦い 戦局はいよいよドイツに不利であった。連合 軍はノルマンジー上陸以後 , フランスを解放し , ベルギーのアントワープ , その他の地域からド イツ軍を追い立て , ドイツの守りであるライン 川まで達していた。東部ではソ連軍が大攻勢を 開始し , ルーマニア , プルガ、リアを開放した 1944 年 8 月ごろには , 戦争はほば終わったとい う感しを , 当のドイツの将軍たちの中でも持ち 始める者があった ドイツ軍は西部戦線で 50 万の兵員を失い , 戦 車 , 火砲 , 車両のはとんどを失っていた。西部 戦線での連合軍は , ライン川を境にドイツ国境 で進撃を停止していたが , これは後方から前線 82
ま は MG34 機関銃で攻撃態勢のドイツ空挺隊マシンガン・チーム。壊れた風車がオランダである事を示している。 す無傷であった。地上では , 要塞南部にある兵 舎をかねた建物に守備隊がたてこもり , 猛烈な 機銃火を放っている。 さらに命令が飛び , 近くに残っているトーチ カからの砲弾が , ひとにぎりのグラニート隊を ねらって撃ち出され始めた。ジョトランは自分 の地下壕の頭上を砲撃するよう命じたのだった ト隊第 8 班の班長ウンガ、一軍曹がや られた。部下は制圧したトーチカのなかに逃げ こむ。いまや部隊すべてが浮き足だっているの だった。 70 名にも満たない部隊が必死に防戦す る。危険だ。敵は 10 倍以上の兵力を有している のである。 第 第 ある。 しかし , 彼らは見捨てられなかった。第 2 急 降下爆撃航空団と第 2 教育航空団第 2 ( 襲撃 ) 大 隊の爆撃 , 襲撃機隊が救援に駆けつけてきた。 けたたましいサイレン音をひびかせて Ju87 「シ ュッーカ」が急降下に移り , ベルギー軍の砲兵 陣地が一瞬揺らいで白い煙につつまれる。 この力強い味方の援護を得てグラニート隊は , ふたたび爆破作業にとりかかった。地下通路を 分断し , コンクリート外壁を爆破するのだ。そ して , 部隊は果敢に働いた。 エバン・エマール要塞陥落 アルディンガー高射砲大隊と空軍機の支援に よって確保した橋頭保は , すべてもちこたえた。 翌朝午前 7 時 , 最後まで孤立していたエバン・ ート隊も , 陸軍の先遣部隊で エマーノレのグラ ある第 4 機甲師団第 151 歩兵連隊のミコシュ中 佐率いる第 51 工兵大隊と合流し , 正午に至って , 残りのトーチカ群に対する攻撃が開始された。 そして , ついに午後 1 時 15 分 , 白旗がふられ , ジョトラン少佐とその部下のベルギー軍守備隊 約 1 , 20() 名が , ドイツ軍の前に降伏した。 鉄壁の要寒エバ たひとにぎりの部隊によって , ン・エマールはわすか一日・あまりで陥落したの である。 救援来たる そうしたさなかの午前 8 時 30 分ごろ , 銃砲火 の飛び交うなかをグライダーが 1 機突っ込んで きて着陸した。部隊が捜し求めていた指揮官ビ チヒ中尉のグライダーであった。 ビチヒは早速部隊を掌握したが , 事態は依然 として緊迫していた。アルべール運河では爆破 されてしまったカンネの橋梁を除き , 他の 2 橋 梁は確保に成功して橋頭保を築いていたが , そ れらの上也 . 点とエノヾン・エマールのグラー ート隊 がこもるトーーチカに対して , ベルキ、一軍の猛烈 な砲火が , 絶え間なく降りそそがれていたので 29
ををう第こ 石田仁 薬がとりつけられて , 敵の侵入が起きた場合即 座に爆破のスイッチが押される準備がなされ , 運河一帯の守備部隊であるべルギー第 7 歩兵師 団の監視哨 ( しよう ) も強化されて , 24 時間監 ベルギー軍防衛線 視が続けられていた。そして , さらにそれを背 後から援護するのがエバン・エマール要寒であ 1940 年初頭 , 予期されるドイツ軍の侵攻に対 った してベルギー軍の総司令部である大本営は , オ エバン・エマール要塞は , 1930 年代になって ランダ国境に近いアルべール運河でドイツ軍部 からアルべール運河と共に作られた近代的な要 隊の渡河を阻止し , エバン・エマール要塞の砲 要塞システムの北の端に位置 火をもって敵を運河の対岸地点でたたいて , 救 塞で , リエージュ し , その機銃火はカンネの橋梁を含めたアルべ 援に出動する予定の英仏連合軍主力部隊の到着 ール運河一帯をその射程内に置いていて , 砲火 まで , 敵を首都プリュッセルへ寄せつけない , はさらに遠方を制圧することが可能だった。 という防衛構想をたてていた。 要寒は 2 辺だけが長い 5 角形をしていて , 南 アルべール運河にかかる橋梁群にはすべて爆 ルギー国内アルべール運河の橋梁群と , ベルギ ーが世界に誇る国境の近代的大要塞エバン・エ マールの制圧であったのだから。 25
ル要塞と近郊図 アルトマンの シュターーノレ」 グライダー 10 機 0 エバン・エマール要塞 アルべール運河 (llJW140m) ースト マ - べノレト べツェノレト シャノ、トの ーくトン」 グライダー 1() 機 ( 高さ 40 m ) レ ハマ塞 工工要 カンネ コッホ部隊 本部機 ビレン ホーベン シュレヒターーの ビチヒの グライダー 1() 機「グラニ グライダー 11 機 「アイゼン」 0 : 回転砲塔 北に約 910m , 東西の幅約 730m で , 最長辺であ る北東のコンクリート防壁は , それがそのまま 運河の岸をなし , 約 40m の高さにそそり立って いつばう , 1939 年 9 月末にポーランド戦を終 えたヒトラーと国防軍総司令部は , 来たるべき いた そこからは巧みに運河の水が引き込まれてい 対フランス侵攻のための作戦の立案にとりかか て北西面には深い堀 ( はり ) が作られ , また , り , 作戦計画の検討を開始していた。奇襲効果 その他の面の防壁は , 水は無かったがきわめて をねらって , 今までひたすら隠し続けてきた降 深く , 幅の広い壕 ( ごう ) と鉄条網にとりまか 下部隊を , いつどこへ投入するかがその焦点と なっていた れていた クルト・シュトウデント少将指揮下の第 7 航 そして , これらの高さ 7 m にも及ぶ分厚いコ 空師団を初めとする空挺部隊は , 当然ポーラン ンクリート壁の内側 , すなわち要塞の内部には , ド戦に参加するはすだったが , 秘密がもれるの 75m 包 , 120m 包 , 6 徹寸戦車砲 , 速射砲 , 高射 をひたすら恐れるヒトラーは , 急きよその投入 砲 , 野砲 , 重機関銃といったさまざまな火器が , を禁止したのだった。しかし , 目前にせまった 各種のトーチカや回転砲塔 , あるいは陣地など 大戦争には空挺部隊の働きがどうしても必要で に設置され , 約 1 , 000 名とも 1 , 200 名とも言わ あり , ヒトラーもその点はしゅうぶんに理解し れる歩兵および砲兵から成る守備隊が , それぞ れの部署に詰めていた。 ていた 各トーチカ間には地下壕と地下通路がはりめ ぐらされ , サーチライトを装備した各監視哨は 昼夜活動し , そのうえ , 孤立しても単独で戦闘 が継続できるよう 2 か月分の水と食糧が蓄えら れている。というのが要塞エバン・エマールの 姿だった。そして , ベルギー軍は防衛に絶対の 自信をもっていた。 霧のなかの空挺 ( てい ) 部隊 ウーデットの秘密兵器 1939 年 10 月 27 日 , シュトウデント将軍がベル リンへ呼び寄せられた。そして , ヒトラーのロ から空挺部隊をベルギーへ投入することが告げ られた。目標はレディ・ナショナル要寒とその 一帯で , 彼の第 7 航空師団と第 22 歩兵 ( 空挺 ) 26
ドイツ最後 アノレテン 火力 , 空軍による地上支援の総合的な運用とい う , 電撃戦を侵攻作戦の中心に据 ( す ) えてい た 高速の戦車を中心とし , 十分な火力を備えた 砲兵を伴う , 機械化された軍が嵐のように突進 し , ドイツ空軍がその行手にある障害物を , 自 慢の急降下爆撃機によるピンポイント爆撃で切 り開いてゆくこの戦法は , すでにポーランドで 成功のうちに実験すみであった。 ドイツ軍のプリツツ・クリーク理論の中心は 「隠密 , 迅速 , 猛攻」である。敵の意表をつき , 敵が予期しないところに集中兵力を速やかに集 結させ , 敵に最初の痛手から立ち直るひまを与 えす , 攻撃を集中することがその秘訣 ( けっ ) であった はじめに ベルギーのアルデンヌ地方はドイツとの国境 に近く , 第二次世界大戦では 1 度ならす 2 度ま でドイツの戦争遂行上 , 重要な舞台となったと ころである。アルデンヌは , 戦争初期にはドイ ツ軍の快進撃の通路になり , 戦争の末期には , ドイツの戦局挽 ( ばん ) 回の夢をかけた大ばく ち的作戦の舞台となったのである。 1940 年 5 月 ポーランドを得意の電撃作戦 ( プリツツ・ク リーク ) で 1939 年 9 月に征服したドイツ軍は , い よいよ 1940 年には西方の諸国に襲いかかる準備 を整えていた こでもドイツ軍は機動性と強 、 - 0 80
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ドイツ空軍の集団と軍 第 1 1 航空集団・ ント中将であった 戦歴 : 1940 年 , 司令官がクルト・シュトウデ 空挺 ( てい ) 部隊空輸のため , 第 7 , 第 22 空輸師団が編成され , 1941 年に , レー ル大将の第 4 航空艦隊の指揮下にあった第 7 , 第 5 山岳師団は , クレタ島攻略戦に参加している。 1942 年は空挺隊の拡充期で , 訓練 , 兵器開発が 行われ , 1943 年初期には , ドイツ国防軍総司令部 ( OKW ) の了解のもとに , 南フランスのニイメス に第 2 降下師団が駐留。後に , ローマ防衛に派遣 されている。 1943 年 3 月 , 第 1 降下軍に昇格し , 司令部を中 央フランスのナンシーに置く。その他 , 突撃連隊 ( 輸送 ) , 教導大隊 , 対空機関銃大隊 , 偵察 , 通信 医療 , 工兵部隊などと , イタリアのフォルゴーレ 連隊は , 本集団の指揮下にあった。 第 1 降下集団 : 司令官はシュレムン中将 , イドリッヒ中将であった 戦歴 : 1944 年 , 中央イタリアのアンチオで活 躍した , 第 4 降下師団および第 3 機甲擲 ( てき ) 弾 兵師団 ( 第 14 軍所属 ) をコントロールするのが目的 1945 年 , フローレンス北方で敗れ , 4 であった 月に降伏する。 砲兵連隊 11 , 突撃砲旅団 11 , 対空砲連隊 11 , 機 関銃大隊 11 , 偵察 , 通信大隊 11 , 重迫撃砲大隊 11 が参カ日している。 第 2 降下集団 . 司令官はメインデル中将であ 戦歴 : 1943 年の後半 , 第 13 航空集団司令部の あとに編成され , 旧メインデル師団を中心にして ドイツ空軍の地上部隊としての活動が主目的であ った。後に , 第 3 ( シインプ ) , 第 5 ( ウイルケ ) 降 下師団が編入された。 1944 年 7 月 , ドイツ第 7 軍の指揮下にノルマン ー戦に投入され , オマハ , ュタの海岸で戦った。 後に , ファレーズ地区で壊滅し , 司令官のみ脱出 するが , 捕虜になってしまう。 1945 年 , シュレムン中将の第 1 降下集団の指揮 下に , 第 8 , 第 7 降下師団を中心として再編準備 がなされるが , 不完全編成のままドイツ本土防衛 ノ、 広田厚司 戦に投入され , 連合軍の第 21 集団軍とライン川で 激戦を行う。 砲兵連隊 12 , 突撃砲大隊 12 , 対空連隊 12 , 機関 銃大隊 12 , 通信大隊 12 , 偵察大隊 12 などであった。 ヘルマン・ゲーリング降下機甲集団 司令官 はシュマルッ中 ) 好であった。 戦歴 : 1944 ~ 45 年 , へノレマン・ゲーリング機 甲師団 ( H G- 1 ) およびヘルマン・ゲーリング機甲 擲弾兵師団 (HG-2) を指揮下においていた。実戦 は 1944 年の IO 月 , 東プロシアでソ連軍と対決。翌 年 1 月まで対ソ作戦に従事した。特色として , 機 甲部隊と空挺部隊の、、機動性 " の協調にあった。 ヘルマン・ゲーリング大隊は 1943 年 , Åt アフリ 力のチュニジアで一部が壊滅。シチリア島で 7 月 に再編されて機甲擲弾兵師団となり , コンラス将 軍の指揮下にあった。これが H G ー 2 である。 HG 対空師団 , HG 戦闘工兵大隊 , 通信 , 医療 , 補給部隊などであった。 第 1 降下軍 司令官として , シュトウデント 大将 ( 1944 年 11 月まで ) , シュムント大将 ( 1945 年 3 月まで ) , プルーメントリット大将 ( 1945 年 4 月 I() 日まで ) , シュトウデント大将 ( 1945 年 4 月 28 日 まで ) , ストラウべ大将となっている。 戦歴 : 1944 年 8 月 , シュトウデント将軍の , 東フランスにあった第 11 航空集団が昇格し , 西ョ ーロッパにおける降下師団の新設 , 訓練の責任 , イタリア , ロシアへの補充の責任をもっていた そして , ベルギー , 東オラン・ダ地区の防衛任務に 入っており , 第 2 軍と 2 個歩兵師団を傘 ( さん ) 下 に入れてはいたが , 機甲戦力は弱いものであった しかし , 単独戦力では強力な , 戦車教導師団が含 まれていた 1944 年の 11 ~ 12 月および翌年の 1 月にかけて , 第 1 降下軍はシュムント大将に指揮されて , ドイ ッ H 軍集団 ( シュトウデント大将指揮 ) のもとでラ インの戦いに参カ日し , 4 月 , オルデンプノレクで降 伏している。 突撃大隊 , 機甲連隊の外 , 重迫撃砲大隊 21 , 工 兵連隊 21 と 3 個大隊 , 通信大隊および多数の軍学 校生徒が含まれていた。 63
ドイツの空挺 ( てい ) 師団 第 7 空挺師団 : 第 1 連隊 ( FJ R- 1 ) , 第 2 連隊 (FJR-2), 第 3 連隊 ( FJR ー 3 ) とあり , 各 3 個大隊 の降下猟兵兵力を持ち , 司令官はシュトウデント 少将 , ピュッイガ、一少将 , サスマン少将 , べター セン中将などであった。 戦歴 : 1938 年 7 月 , ドイツで創設された最初 の空挺師団で , 当初 , 第 1 連隊 ( プラウアー大佐 ) 第 2 連隊 ( シュトルム大佐 ) の 2 個連隊のみであっ 1940 年 4 月 , 英国に先駆けてノルウェーがド イツ軍に侵略された際 , 同師団の 1 個中隊がノル デンマーク奇襲に参加したのが初 ( うい ) ウェ 陣であった 続いて 5 月 , ヒトラーの西方電撃戦 , ベルギー 攻略に必要なエバン・エマール要塞 ( さい ) 奇襲を 、イドリッヒ大佐の率いる対空 , 敢行した。後に 工作 , オートバイを含む第 3 連隊が新設 , 追加さ れたのであった。 1941 年 4 月 , シュトルム大佐の第 2 連隊は , ギ リシャのコリンズ運河橋の確保に成功し , 続いて 5 月 , 有名なクレタ島攻略戦にも参加 , 初の戦術 作戦を展開したのであった。クレタでは , イギリ ス , ギリシャ , クレタ人の各強兵と戦火を交え , 生き残りは , 後に東部戦線のレニングラード攻防 戦にも投入された。 1942 年 , 主力は北 , 中央ロシアで作戦し , 第 1 降下師団と共に , やがて 1943 年 3 月 , 南フランス へ移動 , 駐留している。砲兵 , 医療 , 通信 , 対戦 車部隊を含む編成であった。 第 22 歩兵空挺師団 : 第 16 歩兵連隊 (IR-16), 第 47 歩兵連隊 ( IR ー 47 ) , 第 65 歩兵連隊 ( IR ー 65 ) とあ 広田厚司 司令官はス ューラー少将 , ポネック少将 , ウォルフ少将 , り , 各 3 個大隊の兵力を有していた。 対戦車部隊を含む兵力であった。 砲兵連隊 , 軽 , 重戦闘中隊 , 偵察 , 通信 , 工兵 , 掃討作戦を行うが , 同年 4 月 , 連合軍に降伏した。 やか、て 1945 年 , ューゴスラビアで対ノヾルチザン で同島に駐留していた 隊となり , 1944 年 8 月まて , ビューゼ大佐の指揮 のチュニジアに送られたが , 後にクレタ島駐留部 動車化偵察 1 個中隊を含む ) , 1943 年 , 北アフリカ 戦闘部隊である第 47 擲弾兵連隊 ( GR ー 47 ) は ( 自 て知られている。 アテネの攻略戦にも参加 , 自動車化空挺部隊とし 参加している。一転して , ギリシャのサロニカ , た , 有名なセバストボリ要塞 ( さい ) の攻略戦にも テル , バグーなどで支援する作戦を展開した。ま および東部戦線で戦うドイツ第 8 軍を , ドニエス 1941 年の春には , ルーマニアの油田地区の防衛 挺師団の支援を行ったりした。 戦に参カ日 , ハーグ , ロッテルタ、、ムなどで , 第 7 空 およびスポネック将軍指揮の北方オランダ降下作 1940 年 , シュトウデント将軍指揮下の空挺作戦 地区の作戦に投入された。 1939 年 9 月 , 第 16 連隊はポーランド侵攻のズラ であった 的に通常の歩兵装備のまま , 空挺部隊とされたの 第 16 擲 ( てき ) 弾兵連隊 ( GR ー 16 ) に改編され , 試験 区の歩兵師団であったが , 第 16 歩兵連隊は 1942 年 , 戦歴 : 1934 年 , ノ、ンプノレグ , プレーメン軍管 クライベ少将 , フリーベ少将などであった ドイツの降下大隊 第 1 1 降下突撃砲大隊 . 1944 年 , 空軍地上勤務 員の志願兵で組織され , フランスで訓練の後 , ナ ンシー付近に投入されて大きな損害を被っている。 1944 年の 12 月 , 再編されて第 5 降下師団の支援に 使われ , アルデンヌの戦いで米第 4 機甲師団と戦 って大損害を受け , 後に , 連合軍に降伏している。 第 12 降下突撃砲大隊 : 第 11 降下突撃砲大隊と 経緯は同しであるが , ノルマンジーのサン・ロー の戦いに出動し , 第 3 降下師団の支援を行う。ま た , ファレーズの激戦で大半の兵力を失い , 壊滅 に頻 ( ひん ) するが再編され , 1944 年の 9 月 , 第 7 降下師団 ( ェルドマン ) の支援活動を行い , ドイツ 本土の防衛戦に参加して , 1945 年の 5 月 , ウイル ヘルムスハーフェンで降伏している。 SS 第 500 / 第 600 降下大隊 : 司令官はリイプカ S S 大尉で , 1943 年秋に , 特別使命を持つ武装親 衛隊として登場している。兵は約半分が第 5()() 大 30 広田厚司 隊から集められ , 訓練はユーゴスラビアのクラル シェポーでイわれたか、 , 1944 年 , 降下学交か、ノ、ン ガリーのパパに移転した 第 1 回の降下作戦は , パルチザンのチトー元帥 率いる山岳師団司令部攻撃であった。降下大隊の 2()() 名が 3 日間にわたり作戦を行ったが , 幹部を捕 える事ができなかった。 1944 年 10 月 14 日 , ヒトラーの直接命令により , ーによるプダベスト ( ルーマニア ) の スコノレ、ソェ 総督ポルティーの誘拐 ( かい ) 作戦は成功している。 後に , 第 60() 大隊と改名 , 1944 年の 12 月 , バルジ ーに率いられて米 の単戈いにおいて , スコノレツェ 軍の服装をし , 後方攪 ( かく ) 乱の特別任務に参加 している。 1945 年 1 月 , オーデル戦線で , ベルリンへ迫る 連合軍と死闘を演じ , SS 第 60() 降下大隊で生き残 った者は , わすか 180 名であった。