挺部隊 レニングラードへの猛進撃 総統指令 21 号「バルバロッサ作戦」によって , 1941 年 6 月 22 日に開始されたドイツ軍の対ソ戦 は , 初めのころ , 崩壊するソビエト軍防衛線を まえに圧倒的な成果を収め , フランス電撃戦の 再来を思わせるかのように進行していた。 レープ元帥の北方軍集団の主力であるヘープ ナー将軍率いる第 4 機甲集団は , 数々の困難に 遭遇しながらもソビエトの果てしない大地を快 進撃し , 9 月 8 日にはシュリュセルプルクを占 領し , さらにウリーックも手中に収めて , レニ ングラードまであと数というところまでせま った。レニングラードはもはや攻略されたも同 然だった。 ( この間の経過については , 本誌バックナンバー 「モスクワ侵略台風作戦」と「レニングラード攻 防戦」に詳しいので参照下さい ) 攻撃を中止せよ ところが 9 月 12 日 , 第 4 機甲集団の全部隊は 耳を疑わねばならなかった。レニングラードは 占領せす , 包囲封鎖せよ , と言うのである。ウ クライナの穀倉地帯に欲を出したヒトラーは , 今になってこの重要な部隊を , 中央軍集団に配 属させることを決定したのだった。 第 4 機甲集団と第 1 航空軍は , こうして 9 月 17 日 , レニングラードを目前にしながら転属の ために , 南進しなければならなかった。 残った部隊には , 攻撃を中止するなどと言う ことは到底考えられなかった。目標はあくまで レニングラードの占領であると信じていた。そ して , 9 月 17 日にはプルコオの丘が , 9 月 20 日 には , 傑作戦車 T34 の製造で知られる大戦車工 場のあったコルピノが , 彼らの手によって占領 された。 クレタの鬼たち 事情が明らかにされるとドイツ軍残留部隊は , このいまいましい命令にあきれながらも封鎖を 徹底し , 堅固な橋頭保を築くための作戦を開始 しなくてはならなかった。 ソ連軍の猛攻撃を少 ない兵力で持ちこたえるには , そうする以外に なかったのである。 ところが , やはり数のうえで圧倒的優勢なソ ビエト軍部隊は , ヘーブナー機甲部隊の移動に 牧村宜治 一流の復讐 ( しゅう ) として , なお一層の地獄を 探して空挺部隊に用意していた。死傷率が高か ったクレタの空挺部隊は , さらに死傷率のひど い東部戦線の凍 ( い ) てつく最前線へ , 外ならぬ 地上部隊として送られることになったのであっ とは言え , ヒトラーの用兵がまんざら誤りと は言えなかった。緊迫する東部戦線では実際の ところ , 優秀な部隊を限りなく必要としていた のである。 55
ラドガ湖 レニングラードと近郊図 レニングラード フィンランド湾 ・ 1941 年 9 月ベトリュシノ プルコオの丘 ウリーック 両橋頭保へのソ連軍の進出 ″ 10 月ウィポルグスカヤ よって生した間隙 ( げき ) をついて , シュリュセ 56 このような激戦はもはや各地で起こっていた。 チフビン進出とルガ橋頭保 ちらかだった。 隊の士官は , 残らす戦死するか負傷するかのど ある。この戦闘でシュテンツラーは戦死し , 大 ぎにし , ソビエト軍を対岸に押しもどしたので 第 2 大隊は , 、ネパ川に進出した橋頭保を根こそ 隊は勇敢に防戦した。高い代償を払いながらも に対して , シュテンツラー少佐の率いるこの大 いたか、 こでも死闘だった。押し寄せる大軍 空挺部隊の行くところ必す激戦が待ち受けて 地を戦い抜いたべテランだった。 彼らはクレタ島最大の激戦地 , マレメと 107 高 部隊突撃連隊の第 2 大隊はそこにいたのである。 たちがいたのだ。マインドル少将指揮下の空挺 言え , ドイツ軍きっての精鋭部隊と歴戦の勇士 しかし , 彼らの前面には , 数こそ少ないとは グラードへの圧迫を取り除くかと思われた。 イツ第 16 軍を押しつぶし , けちらして , レニン 襲った断え間のない波状攻撃は , ムガー帯のド ドイツ軍陣地を に橋頭保を築くのに成功した。 ルプルク南西部でネパ川を渡り , ベトリュシノ シュリュセ丿レプノレク 第 67 軍 ソビエト ネパ川 ムガ ロフ道 ンニャウィノ高地 コノレピノ 力の点で考えるなら , 必すそうなるに違いなか は一挙にたたきつぶされてしまう。そして , 兵 成功すれば , レニングラード前面のドイツ軍 絡をとろうとしているのだ。 せ , ポルホフ戦線の第 59 軍及び第 2 突撃軍と連 ノ高地を奪取してシュリュセルプルクを孤立さ う ) のような激しさでやってきた。シニャウィ なかのシニャウィノ高地に向かって , 怒濤 ( と ヤの橋頭保から進出し , 雪に埋まった原生林の は , ネパ川を渡って再び築いたヴィボルグスカ レニングラード解放をめざすソビエト第 67 軍 険は目に見えていた。 から機甲部隊が離れることになるのである。危 撃を開始した。しかし , ただでさえ手薄な戦線 15 日 , 4 個師団をもってポルホフ川を渡り , 進 完全に封鎖するという大胆な作戦をたて , 10 月 ランド軍と合流し , レニングラード地区の敵を ンを占領後 , スウィリ川に出て , そこでフィン 道も無い北ロシアの森林地帯を突破し , チフビ そこで , シュミット将軍の第 39 機甲軍団は , する脅威はなくならないのである。 全に孤立させないかきり , ドイツ軍橋頭保に対 レニングラード及びその北東のソビエト軍を完 ドイツ第 16 軍
く資 第写真解説〉 く表 、、恒 UND 日今谷月 0 印、 束栄 紙〉、イツ空挺隊員の小休止 くカラー・一フォト〉 一息入れる挺隊員 着地したノーシュータ 空挺部隊下 。ムゾ : リニの救出 ドイツ空挺師団の兵士 く記。事〉 工ノヾン・エ ドイツの空挺自 空からのクレ ドイツの降下 ロ襲作戦 石田仁 ( 24 ) ・ドイツの降下大隊・・・広田厚司 ( 30 ) 撃 杉浦康 ( 36 ) 広田厚司 ( 45 ) レニングラードの空挺部隊 牧村宜治 ( 54 ) 着地寸前のドイツの降 下猟兵の腕には , MP 40 短機関銃がしつかり と握られ , 肩からは手 榴弾 / ヾックなどがさげ られている シチリア島の空挺作戦・ ・・小島克彦 ( 60 ) ドイツ空軍の集団と軍 広田厚司、 ( 63 ) ニ救出作戦・・・ ムソリー ドイツ最後の空挺作戦・・ 、、ツご ・・和見半佐 ( 68 ) ・・・伸源三 ( 80 ) 岩崎馨 ( 88 ) ドイツ売挺部隊の装備機材、三ツ。町 '
すっかり凍りついたラドガ湖の氷上を通って , 補給を得たソビエト第 67 軍が進出していた。 零下 30 度という厳寒の中 , いたる所で激戦が 行われていた。第 7 航空師団の第 1 降下猟兵連 隊や第 3 降下猟兵連隊も , すでにレニングラー ド戦線に投入されて , それぞれ絶望的な戦闘に 参加していた。 もはや , レニングラード地区のドイツ軍には どうすることもできなかったのである。 1941 年 から 42 年にかけての冬の , ソビエト軍の猛攻を 持ちこたえただけでも奇蹟に近かった。 リーバッハ部隊の奮戦 こでも空挺部隊は激烈な戦闘の末に , おび ただしい敵の攻撃をはねのけたのである。シニ ャウィノ高地の塹壕 ( ざんごう ) 陣地を守って ーバッハ少佐の降下工兵大隊は , 信じら れないような猛反撃で , 押し寄せる 10 倍以上の 兵力の敵を逆に後退させたのだった。 いくつもの激戦の経験とかぎりない勇気を持 った彼らは , まちがいなく普通の歩兵部隊の数 倍の働きをしたのである。ネパ川の橋頭保は , 再びドイツ軍の手に戻るほどの戦況となった 1942 年の春 ソビエト軍の大反攻 1942 年の春 , 東部戦線の空挺部隊は戦地から 引き上げられ , ドイツ本国や北フランスにおい 独ソ軍の兵力の差はひらくばかりで , いかん て再編成されることとなった。ひどい損害は , ともしがたかった。チフビンのシュミット率い すでに彼らから戦闘能力を奪っていたのである。 る機甲軍団に対して , スターリンはシベリアか この冬の戦闘で , ・全東部戦線において約 3 , 000 ら移動させた精鋭師団を新たに投入したのであ 名もの空挺部隊将兵が失われていた。そして , る。 T34 の新戦車部隊が殺到した。 11 月 15 日の 彼らの多くは , ノルウェーやオランダ , クレタ ことである。第 39 機甲軍団はボルホフへ敗走し 島と言った各地で戦闘経験をつんだ , かけがえ なければならなくなった。 のない歴戦の勇士たちだったのである。 シュリュセルプルク南方のネパ川地区でも , 円 ~ 42 年の冬を戦い抜く , ドイツ空軍の降下猟兵たち。空を飛ばぬ鷲たちは , 歩兵部隊と同じであった。 ノ第 57
モケイ のペーン ドイツのホルヒ 1 a 大型 軍用乗用車。第二次大 戦の初期より終戦まで , 兵員輸送 , 大砲の牽引 などに広く使われた。 ホルヒ 3 , 800 cc ェンジ ンを搭載し , 最高時速 90km, 4 輪駆動で優れ た機動力を発揮した。 このプラ模型が 1 / 35 ス ケールで , 田宮模型か ら発売されている。 0 ドイツのバラシュ ドイツ空軍の精鋭 0 落下傘兵は , 空挺隊と してナルヴィクの戦い , 工 / ヾン・エマー丿レ要塞 攻田各 , クレタ島侵攻な どに活躍し , グリーン デビル ( 緑の悪魔 ) と呼 ばれた。この落下傘兵 のプラ模型が 1 / 35 スケ ールで , 田宮模型から 発売されている。 〇第 1 号「史上最大のクルスク戦 〇第 2 号北アフリカのロンメル」 〇第 3 号モスクワ侵攻台風作戦 〇第 4 号バトル、オフ・ブリテン 〇第 5 号モントゴメリーの登場 〇第 6 号レニングラード攻防戦 〇第 7 号モンテカッシノの戦い」 第 8 号最後の決闘バルジ作戦 〇第 9 号北アフリカに連合国軍 x 第 10 号大西洋の U ポート作戦 〇第 11 号ノルマンジー上陸作戦 〇第 12 号 ヒトラーとスターリングラード 〇第 13 号壮烈 / ヘルリン攻防戦 △第 14 号ヒトラーと第 3 帝国の興亡上 〇第号ナチス・ドイツ海軍の最期 ロ第 16 号ナチス・ V ロケットと秘密兵器」 △第 17 号ヒトラーと第 3 帝国の興亡下 ロ第 18 号 ドイツ軍 / イタリアで敗走 ロ第四号 ドイツの電撃作戦ーバリ陥落 ロ第 20 号 砂漠の狐ロンメル」 ロ第幻号ナチ最彳麺ライン川突破作戦」 ロ第 22 号激闘 / 東部戦線の情景 ロ第 23 号戦うナチス武装親衛隊 ロ第 24 号奇襲 / ドイツ空挺部隊 * 送料は 1 冊 160 円 , 2 ~ 3 冊 28 円 , 4 ~ 5 冊 240 円 , 6 ~ 7 冊 280 円。 耋グラフィック・第ニ次大戦・アクションバックナンバー れ一 S 4 ☆各 B 5 判定価〇印 430 円 x 印 500 円△印 550 円ロ印 450 円 株式会社文林堂 100
ドイツの空挺 ( てい ) 師団 第 7 空挺師団 : 第 1 連隊 ( FJ R- 1 ) , 第 2 連隊 (FJR-2), 第 3 連隊 ( FJR ー 3 ) とあり , 各 3 個大隊 の降下猟兵兵力を持ち , 司令官はシュトウデント 少将 , ピュッイガ、一少将 , サスマン少将 , べター セン中将などであった。 戦歴 : 1938 年 7 月 , ドイツで創設された最初 の空挺師団で , 当初 , 第 1 連隊 ( プラウアー大佐 ) 第 2 連隊 ( シュトルム大佐 ) の 2 個連隊のみであっ 1940 年 4 月 , 英国に先駆けてノルウェーがド イツ軍に侵略された際 , 同師団の 1 個中隊がノル デンマーク奇襲に参加したのが初 ( うい ) ウェ 陣であった 続いて 5 月 , ヒトラーの西方電撃戦 , ベルギー 攻略に必要なエバン・エマール要塞 ( さい ) 奇襲を 、イドリッヒ大佐の率いる対空 , 敢行した。後に 工作 , オートバイを含む第 3 連隊が新設 , 追加さ れたのであった。 1941 年 4 月 , シュトルム大佐の第 2 連隊は , ギ リシャのコリンズ運河橋の確保に成功し , 続いて 5 月 , 有名なクレタ島攻略戦にも参加 , 初の戦術 作戦を展開したのであった。クレタでは , イギリ ス , ギリシャ , クレタ人の各強兵と戦火を交え , 生き残りは , 後に東部戦線のレニングラード攻防 戦にも投入された。 1942 年 , 主力は北 , 中央ロシアで作戦し , 第 1 降下師団と共に , やがて 1943 年 3 月 , 南フランス へ移動 , 駐留している。砲兵 , 医療 , 通信 , 対戦 車部隊を含む編成であった。 第 22 歩兵空挺師団 : 第 16 歩兵連隊 (IR-16), 第 47 歩兵連隊 ( IR ー 47 ) , 第 65 歩兵連隊 ( IR ー 65 ) とあ 広田厚司 司令官はス ューラー少将 , ポネック少将 , ウォルフ少将 , り , 各 3 個大隊の兵力を有していた。 対戦車部隊を含む兵力であった。 砲兵連隊 , 軽 , 重戦闘中隊 , 偵察 , 通信 , 工兵 , 掃討作戦を行うが , 同年 4 月 , 連合軍に降伏した。 やか、て 1945 年 , ューゴスラビアで対ノヾルチザン で同島に駐留していた 隊となり , 1944 年 8 月まて , ビューゼ大佐の指揮 のチュニジアに送られたが , 後にクレタ島駐留部 動車化偵察 1 個中隊を含む ) , 1943 年 , 北アフリカ 戦闘部隊である第 47 擲弾兵連隊 ( GR ー 47 ) は ( 自 て知られている。 アテネの攻略戦にも参加 , 自動車化空挺部隊とし 参加している。一転して , ギリシャのサロニカ , た , 有名なセバストボリ要塞 ( さい ) の攻略戦にも テル , バグーなどで支援する作戦を展開した。ま および東部戦線で戦うドイツ第 8 軍を , ドニエス 1941 年の春には , ルーマニアの油田地区の防衛 挺師団の支援を行ったりした。 戦に参カ日 , ハーグ , ロッテルタ、、ムなどで , 第 7 空 およびスポネック将軍指揮の北方オランダ降下作 1940 年 , シュトウデント将軍指揮下の空挺作戦 地区の作戦に投入された。 1939 年 9 月 , 第 16 連隊はポーランド侵攻のズラ であった 的に通常の歩兵装備のまま , 空挺部隊とされたの 第 16 擲 ( てき ) 弾兵連隊 ( GR ー 16 ) に改編され , 試験 区の歩兵師団であったが , 第 16 歩兵連隊は 1942 年 , 戦歴 : 1934 年 , ノ、ンプノレグ , プレーメン軍管 クライベ少将 , フリーベ少将などであった ドイツの降下大隊 第 1 1 降下突撃砲大隊 . 1944 年 , 空軍地上勤務 員の志願兵で組織され , フランスで訓練の後 , ナ ンシー付近に投入されて大きな損害を被っている。 1944 年の 12 月 , 再編されて第 5 降下師団の支援に 使われ , アルデンヌの戦いで米第 4 機甲師団と戦 って大損害を受け , 後に , 連合軍に降伏している。 第 12 降下突撃砲大隊 : 第 11 降下突撃砲大隊と 経緯は同しであるが , ノルマンジーのサン・ロー の戦いに出動し , 第 3 降下師団の支援を行う。ま た , ファレーズの激戦で大半の兵力を失い , 壊滅 に頻 ( ひん ) するが再編され , 1944 年の 9 月 , 第 7 降下師団 ( ェルドマン ) の支援活動を行い , ドイツ 本土の防衛戦に参加して , 1945 年の 5 月 , ウイル ヘルムスハーフェンで降伏している。 SS 第 500 / 第 600 降下大隊 : 司令官はリイプカ S S 大尉で , 1943 年秋に , 特別使命を持つ武装親 衛隊として登場している。兵は約半分が第 5()() 大 30 広田厚司 隊から集められ , 訓練はユーゴスラビアのクラル シェポーでイわれたか、 , 1944 年 , 降下学交か、ノ、ン ガリーのパパに移転した 第 1 回の降下作戦は , パルチザンのチトー元帥 率いる山岳師団司令部攻撃であった。降下大隊の 2()() 名が 3 日間にわたり作戦を行ったが , 幹部を捕 える事ができなかった。 1944 年 10 月 14 日 , ヒトラーの直接命令により , ーによるプダベスト ( ルーマニア ) の スコノレ、ソェ 総督ポルティーの誘拐 ( かい ) 作戦は成功している。 後に , 第 60() 大隊と改名 , 1944 年の 12 月 , バルジ ーに率いられて米 の単戈いにおいて , スコノレツェ 軍の服装をし , 後方攪 ( かく ) 乱の特別任務に参加 している。 1945 年 1 月 , オーデル戦線で , ベルリンへ迫る 連合軍と死闘を演じ , SS 第 60() 降下大隊で生き残 った者は , わすか 180 名であった。