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検索対象: グラフィックアクション 第24号
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1. グラフィックアクション 第24号

ドイツの降下師団 4 第 1 降下師団 : 第 1 連隊 ( FJR ー 1 ) , 第 3 連隊 (FJR-3), 第 4 連隊 ( FJR ー 4 ) とあり , 各 3 個大隊 の兵力を擁し , 司令官はハイドリッヒ少将 , シュ ルツ少将 ( 1945 年 ) であった。 戦歴 : 1943 年 7 月 , 南フランスからシチリア 島へ移動するが , カタニアで敗れてイタリア本土 に渡り , 連合軍にイタリアを明け渡す 2() か月間 , 激戦を行っている。特に 1944 年 3 ~ 5 月の , モン テ・カッシノのリリー谷の防衛戦は激戦であった。 やがてローマの陥落と共に , アドリア地区に移動 , ポロナの防衛に用いられた。 1945 年に北イタリアで連合軍に降伏。編成は , 砲兵 , 対空 , 工作 , 対戦車部隊であった。 第 2 降下師団 . 第 2 , 第 6 , 第 7 連隊で , 各 3 個大隊を擁し , 司令官はラムケ少将 , ラックナ ー少将 ( 1944 年 ) であった。 戦歴 : 1943 年の春 , 南フランス駐留の旧第 7 空挺師団から移された第 2 連隊は , ローマ近郊に 配備されて , ムソリーニ失脚後のバドリオ政権と 対決した。やがて 9 月 , 東部戦線へ移り , 第 4 パ ート師団と交替するが , 第 6 連隊のはとん フンユ どは東部戦線で壊滅してしまう ( 後に再編される ) 。 1944 年 , 再編された同師団の , フランスはプル ュ地区にあった第 2 , 第 7 連隊は , プレス 第 1 連隊 ( 第 1 降下師団 ) の経験豊かな第 3 大隊を 戦歴 : 1943 ~ 44 年 , フランスのレイム地区で , 3 個大隊の兵力。司令官はシインプ少将である。 第 3 降下師団 : 第 5 , 第 8 , 第 9 連隊で , 各 兵 , 対戦車 , 対空 , 通信 , 機関銃隊などであった。 年 , ルール工業地区で降伏している。編成は , 砲 と共にライン川の防衛戦にも参加し , やがて 1945 れられ , ノルマンジー防衛線に投入された。戦況 再編成された第 6 連隊は第 91 歩兵師団に組み入 ト港の防衛任務についたが , 7 月に降伏した。 中心、として編成され , プルター ュ地区に駐留し 1944 年の 7 月 , ノルマンジー防衛戦に出動し , サン・ローとファレーズで多大の損失を被り , 司 令官はやっと脱出した。 1944 年 1() 月 , オランダのオルデンサールで・再編 された本師団は , 防空第 21 , 51 , 53 の各連隊が中 心、となり , 12 月 , ドイツ西部のアイフェル地区か らアルデンヌ攻勢に出撃 , 機甲部隊を支援した。 1945 年 , 再びアイフェル地区に戻った部隊は , レマーゲン橋 , ルール地区の防衛を行った後 , ド イツ B 軍集団と共に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 通 信 , 重迫撃砲隊で編成されていた。 第 4 降下師団 : 第 IO , 第 11 , 第 12 連隊で , 各 3 個大隊を持ち , 司令官はトレトナー少将である。 戦歴 : 1943 年の 9 月 , イタリアのベルジアで 第 2 降下師団の一部と , イタリア軍のフォルゴー レおよびネムズー歩兵師団の志願者で編成された。 1944 年 1 月 , アンチオで連合軍の上陸阻止戦を 担当し , やがてイタリア各地戦い , 北フローレン スで大きな損失を受け , ポーゼンで米軍に降伏し た。砲兵 , 対戦車 , 対空 , 通信 , 工兵隊であった。 第 5 降下師団 . 第 13 , 第 14 , 第 15 連隊で , 司 広田厚司 ヘルマン少将 ( 1942 年 ) であ 令官はウイルケ少将 , った 戦歴 : 1943 年の 3 月 , 北フランスはレイム地 ュ地区 区にあった教導大隊を中核に , プルター にあった第 3 連隊 , 第 4 連隊の各第 3 大隊をもっ て新編成された。 1944 年 6 月 , ノルマンジーのファレーズ地区で ドイツ , オランダの空軍地上 壊滅したが , 後に 勤務兵で再編され , ルドウィグ・ヘイルマン将軍 が統卒した。最後の戦いは 12 月のアルデンヌ攻勢 ニュルンベルクで降伏している。石包 で , 1945 年 , 兵 , 対空 , 工兵 , 通信 , 重迫撃砲 , 対戦車の各部 隊を擁していた 第 6 降下師団 : 第 16 , 第 17 , 第 18 連隊で , 司 令官はプロッカー少将である。 戦歴 : 1944 年の 6 月 , 北フランスのアミアン 地区で編成され , 7 月にノルマンジー戦線に登場 , 壊滅状態となった。第 16 連隊の幹部は東プロシア に飛び , ヘルマン・ゲーリング機甲部隊の降下擲 ( てき ) 弾兵第 3 連隊指揮下に , 残存部隊は第 7 降 下師団に編入された。後に , ラインラントの戦い を経て , 1945 年の 4 月に米軍に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 対空 , 工兵 , 重迫撃砲部隊等であった。 第 7 降下師団 . 第 19 , 第 20 , 第 21 連隊で , 司 令官はエルドマン少将であった。 戦歴 : 1944 年 , オランダのビエンローにあっ たエルドマン師団と , 第 6 降下師団のパラシュー ト学校の経験者で編成され , 第 2 降下師団の指揮 下にあった。 1945 年 2 月 , 第 30 軍 , 第 3 , 第 51 歩 兵師団とドイツ本土防衛戦を行い , 連合軍のライ ン川渡河後 , 1945 年の 4 月 , ドイツ北西部のオル デンプルクで英軍に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 対 空 , 工兵 , 通信部隊などであった。 第 8 降下師団 : 第 22 , 第 23 , 第 24 連隊で , 各 3 個大隊の兵力。司令官はワーデン少将である。 戦歴 : 1944 年 12 月 , ドイツのケルン地区で編 成され , 第 2 降下集団 ( メインデル中将 ) の指揮下 にあった。終戦直前 , ドイツ本土防衛戦に参加 , 連合軍の第 21 集団軍と戦ったが , 1945 年の 4 月に プレーメンで降伏した。工兵 , 通信部隊である。 第 9 降下師団 : 第 25 , 第 26 , 第 27 連隊で , 司 令官はプラウアー少将である。 戦歴 : 1944 年 12 月に ドイツ空軍の各種部隊 を集めた混成師団で , 1945 年の 2 月 , ベルリン防 衛に投入された。同師団の二つの大隊はプレスラ ウ防衛に使われたが , 5 月に , 同大隊はソ連軍に 降伏した。砲兵 , 対戦車 , 通信 , 重迫撃砲部隊の 編成であった。 第 10 降下師団 . 第 28 , 第 29 , 第 30 連隊で , 司 令官はフォン・ホフマン少将であった。 戦歴 : 1945 年の 3 月 , オーストリアのクレム ス・メルク地区にあった第 1 , 第 4 降下師団の一 部と , 東部戦線ダニュープ峡谷にあった第 30 連隊 で編成され , チェコのモラビアへ移動。第 1 機甲 軍団と共に 5 月にソ連軍に降伏した。不完全な砲 兵 , 戦闘工兵 , 戦闘通信部隊で編成されていた。 45

2. グラフィックアクション 第24号

すっかり凍りついたラドガ湖の氷上を通って , 補給を得たソビエト第 67 軍が進出していた。 零下 30 度という厳寒の中 , いたる所で激戦が 行われていた。第 7 航空師団の第 1 降下猟兵連 隊や第 3 降下猟兵連隊も , すでにレニングラー ド戦線に投入されて , それぞれ絶望的な戦闘に 参加していた。 もはや , レニングラード地区のドイツ軍には どうすることもできなかったのである。 1941 年 から 42 年にかけての冬の , ソビエト軍の猛攻を 持ちこたえただけでも奇蹟に近かった。 リーバッハ部隊の奮戦 こでも空挺部隊は激烈な戦闘の末に , おび ただしい敵の攻撃をはねのけたのである。シニ ャウィノ高地の塹壕 ( ざんごう ) 陣地を守って ーバッハ少佐の降下工兵大隊は , 信じら れないような猛反撃で , 押し寄せる 10 倍以上の 兵力の敵を逆に後退させたのだった。 いくつもの激戦の経験とかぎりない勇気を持 った彼らは , まちがいなく普通の歩兵部隊の数 倍の働きをしたのである。ネパ川の橋頭保は , 再びドイツ軍の手に戻るほどの戦況となった 1942 年の春 ソビエト軍の大反攻 1942 年の春 , 東部戦線の空挺部隊は戦地から 引き上げられ , ドイツ本国や北フランスにおい 独ソ軍の兵力の差はひらくばかりで , いかん て再編成されることとなった。ひどい損害は , ともしがたかった。チフビンのシュミット率い すでに彼らから戦闘能力を奪っていたのである。 る機甲軍団に対して , スターリンはシベリアか この冬の戦闘で , ・全東部戦線において約 3 , 000 ら移動させた精鋭師団を新たに投入したのであ 名もの空挺部隊将兵が失われていた。そして , る。 T34 の新戦車部隊が殺到した。 11 月 15 日の 彼らの多くは , ノルウェーやオランダ , クレタ ことである。第 39 機甲軍団はボルホフへ敗走し 島と言った各地で戦闘経験をつんだ , かけがえ なければならなくなった。 のない歴戦の勇士たちだったのである。 シュリュセルプルク南方のネパ川地区でも , 円 ~ 42 年の冬を戦い抜く , ドイツ空軍の降下猟兵たち。空を飛ばぬ鷲たちは , 歩兵部隊と同じであった。 ノ第 57

3. グラフィックアクション 第24号

ドイツ空軍の集団と軍 第 1 1 航空集団・ ント中将であった 戦歴 : 1940 年 , 司令官がクルト・シュトウデ 空挺 ( てい ) 部隊空輸のため , 第 7 , 第 22 空輸師団が編成され , 1941 年に , レー ル大将の第 4 航空艦隊の指揮下にあった第 7 , 第 5 山岳師団は , クレタ島攻略戦に参加している。 1942 年は空挺隊の拡充期で , 訓練 , 兵器開発が 行われ , 1943 年初期には , ドイツ国防軍総司令部 ( OKW ) の了解のもとに , 南フランスのニイメス に第 2 降下師団が駐留。後に , ローマ防衛に派遣 されている。 1943 年 3 月 , 第 1 降下軍に昇格し , 司令部を中 央フランスのナンシーに置く。その他 , 突撃連隊 ( 輸送 ) , 教導大隊 , 対空機関銃大隊 , 偵察 , 通信 医療 , 工兵部隊などと , イタリアのフォルゴーレ 連隊は , 本集団の指揮下にあった。 第 1 降下集団 : 司令官はシュレムン中将 , イドリッヒ中将であった 戦歴 : 1944 年 , 中央イタリアのアンチオで活 躍した , 第 4 降下師団および第 3 機甲擲 ( てき ) 弾 兵師団 ( 第 14 軍所属 ) をコントロールするのが目的 1945 年 , フローレンス北方で敗れ , 4 であった 月に降伏する。 砲兵連隊 11 , 突撃砲旅団 11 , 対空砲連隊 11 , 機 関銃大隊 11 , 偵察 , 通信大隊 11 , 重迫撃砲大隊 11 が参カ日している。 第 2 降下集団 . 司令官はメインデル中将であ 戦歴 : 1943 年の後半 , 第 13 航空集団司令部の あとに編成され , 旧メインデル師団を中心にして ドイツ空軍の地上部隊としての活動が主目的であ った。後に , 第 3 ( シインプ ) , 第 5 ( ウイルケ ) 降 下師団が編入された。 1944 年 7 月 , ドイツ第 7 軍の指揮下にノルマン ー戦に投入され , オマハ , ュタの海岸で戦った。 後に , ファレーズ地区で壊滅し , 司令官のみ脱出 するが , 捕虜になってしまう。 1945 年 , シュレムン中将の第 1 降下集団の指揮 下に , 第 8 , 第 7 降下師団を中心として再編準備 がなされるが , 不完全編成のままドイツ本土防衛 ノ、 広田厚司 戦に投入され , 連合軍の第 21 集団軍とライン川で 激戦を行う。 砲兵連隊 12 , 突撃砲大隊 12 , 対空連隊 12 , 機関 銃大隊 12 , 通信大隊 12 , 偵察大隊 12 などであった。 ヘルマン・ゲーリング降下機甲集団 司令官 はシュマルッ中 ) 好であった。 戦歴 : 1944 ~ 45 年 , へノレマン・ゲーリング機 甲師団 ( H G- 1 ) およびヘルマン・ゲーリング機甲 擲弾兵師団 (HG-2) を指揮下においていた。実戦 は 1944 年の IO 月 , 東プロシアでソ連軍と対決。翌 年 1 月まで対ソ作戦に従事した。特色として , 機 甲部隊と空挺部隊の、、機動性 " の協調にあった。 ヘルマン・ゲーリング大隊は 1943 年 , Åt アフリ 力のチュニジアで一部が壊滅。シチリア島で 7 月 に再編されて機甲擲弾兵師団となり , コンラス将 軍の指揮下にあった。これが H G ー 2 である。 HG 対空師団 , HG 戦闘工兵大隊 , 通信 , 医療 , 補給部隊などであった。 第 1 降下軍 司令官として , シュトウデント 大将 ( 1944 年 11 月まで ) , シュムント大将 ( 1945 年 3 月まで ) , プルーメントリット大将 ( 1945 年 4 月 I() 日まで ) , シュトウデント大将 ( 1945 年 4 月 28 日 まで ) , ストラウべ大将となっている。 戦歴 : 1944 年 8 月 , シュトウデント将軍の , 東フランスにあった第 11 航空集団が昇格し , 西ョ ーロッパにおける降下師団の新設 , 訓練の責任 , イタリア , ロシアへの補充の責任をもっていた そして , ベルギー , 東オラン・ダ地区の防衛任務に 入っており , 第 2 軍と 2 個歩兵師団を傘 ( さん ) 下 に入れてはいたが , 機甲戦力は弱いものであった しかし , 単独戦力では強力な , 戦車教導師団が含 まれていた 1944 年の 11 ~ 12 月および翌年の 1 月にかけて , 第 1 降下軍はシュムント大将に指揮されて , ドイ ッ H 軍集団 ( シュトウデント大将指揮 ) のもとでラ インの戦いに参カ日し , 4 月 , オルデンプノレクで降 伏している。 突撃大隊 , 機甲連隊の外 , 重迫撃砲大隊 21 , 工 兵連隊 21 と 3 個大隊 , 通信大隊および多数の軍学 校生徒が含まれていた。 63

4. グラフィックアクション 第24号

ラドガ湖 レニングラードと近郊図 レニングラード フィンランド湾 ・ 1941 年 9 月ベトリュシノ プルコオの丘 ウリーック 両橋頭保へのソ連軍の進出 ″ 10 月ウィポルグスカヤ よって生した間隙 ( げき ) をついて , シュリュセ 56 このような激戦はもはや各地で起こっていた。 チフビン進出とルガ橋頭保 ちらかだった。 隊の士官は , 残らす戦死するか負傷するかのど ある。この戦闘でシュテンツラーは戦死し , 大 ぎにし , ソビエト軍を対岸に押しもどしたので 第 2 大隊は , 、ネパ川に進出した橋頭保を根こそ 隊は勇敢に防戦した。高い代償を払いながらも に対して , シュテンツラー少佐の率いるこの大 いたか、 こでも死闘だった。押し寄せる大軍 空挺部隊の行くところ必す激戦が待ち受けて 地を戦い抜いたべテランだった。 彼らはクレタ島最大の激戦地 , マレメと 107 高 部隊突撃連隊の第 2 大隊はそこにいたのである。 たちがいたのだ。マインドル少将指揮下の空挺 言え , ドイツ軍きっての精鋭部隊と歴戦の勇士 しかし , 彼らの前面には , 数こそ少ないとは グラードへの圧迫を取り除くかと思われた。 イツ第 16 軍を押しつぶし , けちらして , レニン 襲った断え間のない波状攻撃は , ムガー帯のド ドイツ軍陣地を に橋頭保を築くのに成功した。 ルプルク南西部でネパ川を渡り , ベトリュシノ シュリュセ丿レプノレク 第 67 軍 ソビエト ネパ川 ムガ ロフ道 ンニャウィノ高地 コノレピノ 力の点で考えるなら , 必すそうなるに違いなか は一挙にたたきつぶされてしまう。そして , 兵 成功すれば , レニングラード前面のドイツ軍 絡をとろうとしているのだ。 せ , ポルホフ戦線の第 59 軍及び第 2 突撃軍と連 ノ高地を奪取してシュリュセルプルクを孤立さ う ) のような激しさでやってきた。シニャウィ なかのシニャウィノ高地に向かって , 怒濤 ( と ヤの橋頭保から進出し , 雪に埋まった原生林の は , ネパ川を渡って再び築いたヴィボルグスカ レニングラード解放をめざすソビエト第 67 軍 険は目に見えていた。 から機甲部隊が離れることになるのである。危 撃を開始した。しかし , ただでさえ手薄な戦線 15 日 , 4 個師団をもってポルホフ川を渡り , 進 完全に封鎖するという大胆な作戦をたて , 10 月 ランド軍と合流し , レニングラード地区の敵を ンを占領後 , スウィリ川に出て , そこでフィン 道も無い北ロシアの森林地帯を突破し , チフビ そこで , シュミット将軍の第 39 機甲軍団は , する脅威はなくならないのである。 全に孤立させないかきり , ドイツ軍橋頭保に対 レニングラード及びその北東のソビエト軍を完 ドイツ第 16 軍

5. グラフィックアクション 第24号

ドイツの空挺 ( てい ) 師団 第 7 空挺師団 : 第 1 連隊 ( FJ R- 1 ) , 第 2 連隊 (FJR-2), 第 3 連隊 ( FJR ー 3 ) とあり , 各 3 個大隊 の降下猟兵兵力を持ち , 司令官はシュトウデント 少将 , ピュッイガ、一少将 , サスマン少将 , べター セン中将などであった。 戦歴 : 1938 年 7 月 , ドイツで創設された最初 の空挺師団で , 当初 , 第 1 連隊 ( プラウアー大佐 ) 第 2 連隊 ( シュトルム大佐 ) の 2 個連隊のみであっ 1940 年 4 月 , 英国に先駆けてノルウェーがド イツ軍に侵略された際 , 同師団の 1 個中隊がノル デンマーク奇襲に参加したのが初 ( うい ) ウェ 陣であった 続いて 5 月 , ヒトラーの西方電撃戦 , ベルギー 攻略に必要なエバン・エマール要塞 ( さい ) 奇襲を 、イドリッヒ大佐の率いる対空 , 敢行した。後に 工作 , オートバイを含む第 3 連隊が新設 , 追加さ れたのであった。 1941 年 4 月 , シュトルム大佐の第 2 連隊は , ギ リシャのコリンズ運河橋の確保に成功し , 続いて 5 月 , 有名なクレタ島攻略戦にも参加 , 初の戦術 作戦を展開したのであった。クレタでは , イギリ ス , ギリシャ , クレタ人の各強兵と戦火を交え , 生き残りは , 後に東部戦線のレニングラード攻防 戦にも投入された。 1942 年 , 主力は北 , 中央ロシアで作戦し , 第 1 降下師団と共に , やがて 1943 年 3 月 , 南フランス へ移動 , 駐留している。砲兵 , 医療 , 通信 , 対戦 車部隊を含む編成であった。 第 22 歩兵空挺師団 : 第 16 歩兵連隊 (IR-16), 第 47 歩兵連隊 ( IR ー 47 ) , 第 65 歩兵連隊 ( IR ー 65 ) とあ 広田厚司 司令官はス ューラー少将 , ポネック少将 , ウォルフ少将 , り , 各 3 個大隊の兵力を有していた。 対戦車部隊を含む兵力であった。 砲兵連隊 , 軽 , 重戦闘中隊 , 偵察 , 通信 , 工兵 , 掃討作戦を行うが , 同年 4 月 , 連合軍に降伏した。 やか、て 1945 年 , ューゴスラビアで対ノヾルチザン で同島に駐留していた 隊となり , 1944 年 8 月まて , ビューゼ大佐の指揮 のチュニジアに送られたが , 後にクレタ島駐留部 動車化偵察 1 個中隊を含む ) , 1943 年 , 北アフリカ 戦闘部隊である第 47 擲弾兵連隊 ( GR ー 47 ) は ( 自 て知られている。 アテネの攻略戦にも参加 , 自動車化空挺部隊とし 参加している。一転して , ギリシャのサロニカ , た , 有名なセバストボリ要塞 ( さい ) の攻略戦にも テル , バグーなどで支援する作戦を展開した。ま および東部戦線で戦うドイツ第 8 軍を , ドニエス 1941 年の春には , ルーマニアの油田地区の防衛 挺師団の支援を行ったりした。 戦に参カ日 , ハーグ , ロッテルタ、、ムなどで , 第 7 空 およびスポネック将軍指揮の北方オランダ降下作 1940 年 , シュトウデント将軍指揮下の空挺作戦 地区の作戦に投入された。 1939 年 9 月 , 第 16 連隊はポーランド侵攻のズラ であった 的に通常の歩兵装備のまま , 空挺部隊とされたの 第 16 擲 ( てき ) 弾兵連隊 ( GR ー 16 ) に改編され , 試験 区の歩兵師団であったが , 第 16 歩兵連隊は 1942 年 , 戦歴 : 1934 年 , ノ、ンプノレグ , プレーメン軍管 クライベ少将 , フリーベ少将などであった ドイツの降下大隊 第 1 1 降下突撃砲大隊 . 1944 年 , 空軍地上勤務 員の志願兵で組織され , フランスで訓練の後 , ナ ンシー付近に投入されて大きな損害を被っている。 1944 年の 12 月 , 再編されて第 5 降下師団の支援に 使われ , アルデンヌの戦いで米第 4 機甲師団と戦 って大損害を受け , 後に , 連合軍に降伏している。 第 12 降下突撃砲大隊 : 第 11 降下突撃砲大隊と 経緯は同しであるが , ノルマンジーのサン・ロー の戦いに出動し , 第 3 降下師団の支援を行う。ま た , ファレーズの激戦で大半の兵力を失い , 壊滅 に頻 ( ひん ) するが再編され , 1944 年の 9 月 , 第 7 降下師団 ( ェルドマン ) の支援活動を行い , ドイツ 本土の防衛戦に参加して , 1945 年の 5 月 , ウイル ヘルムスハーフェンで降伏している。 SS 第 500 / 第 600 降下大隊 : 司令官はリイプカ S S 大尉で , 1943 年秋に , 特別使命を持つ武装親 衛隊として登場している。兵は約半分が第 5()() 大 30 広田厚司 隊から集められ , 訓練はユーゴスラビアのクラル シェポーでイわれたか、 , 1944 年 , 降下学交か、ノ、ン ガリーのパパに移転した 第 1 回の降下作戦は , パルチザンのチトー元帥 率いる山岳師団司令部攻撃であった。降下大隊の 2()() 名が 3 日間にわたり作戦を行ったが , 幹部を捕 える事ができなかった。 1944 年 10 月 14 日 , ヒトラーの直接命令により , ーによるプダベスト ( ルーマニア ) の スコノレ、ソェ 総督ポルティーの誘拐 ( かい ) 作戦は成功している。 後に , 第 60() 大隊と改名 , 1944 年の 12 月 , バルジ ーに率いられて米 の単戈いにおいて , スコノレツェ 軍の服装をし , 後方攪 ( かく ) 乱の特別任務に参加 している。 1945 年 1 月 , オーデル戦線で , ベルリンへ迫る 連合軍と死闘を演じ , SS 第 60() 降下大隊で生き残 った者は , わすか 180 名であった。

6. グラフィックアクション 第24号

ま は MG34 機関銃で攻撃態勢のドイツ空挺隊マシンガン・チーム。壊れた風車がオランダである事を示している。 す無傷であった。地上では , 要塞南部にある兵 舎をかねた建物に守備隊がたてこもり , 猛烈な 機銃火を放っている。 さらに命令が飛び , 近くに残っているトーチ カからの砲弾が , ひとにぎりのグラニート隊を ねらって撃ち出され始めた。ジョトランは自分 の地下壕の頭上を砲撃するよう命じたのだった ト隊第 8 班の班長ウンガ、一軍曹がや られた。部下は制圧したトーチカのなかに逃げ こむ。いまや部隊すべてが浮き足だっているの だった。 70 名にも満たない部隊が必死に防戦す る。危険だ。敵は 10 倍以上の兵力を有している のである。 第 第 ある。 しかし , 彼らは見捨てられなかった。第 2 急 降下爆撃航空団と第 2 教育航空団第 2 ( 襲撃 ) 大 隊の爆撃 , 襲撃機隊が救援に駆けつけてきた。 けたたましいサイレン音をひびかせて Ju87 「シ ュッーカ」が急降下に移り , ベルギー軍の砲兵 陣地が一瞬揺らいで白い煙につつまれる。 この力強い味方の援護を得てグラニート隊は , ふたたび爆破作業にとりかかった。地下通路を 分断し , コンクリート外壁を爆破するのだ。そ して , 部隊は果敢に働いた。 エバン・エマール要塞陥落 アルディンガー高射砲大隊と空軍機の支援に よって確保した橋頭保は , すべてもちこたえた。 翌朝午前 7 時 , 最後まで孤立していたエバン・ ート隊も , 陸軍の先遣部隊で エマーノレのグラ ある第 4 機甲師団第 151 歩兵連隊のミコシュ中 佐率いる第 51 工兵大隊と合流し , 正午に至って , 残りのトーチカ群に対する攻撃が開始された。 そして , ついに午後 1 時 15 分 , 白旗がふられ , ジョトラン少佐とその部下のベルギー軍守備隊 約 1 , 20() 名が , ドイツ軍の前に降伏した。 鉄壁の要寒エバ たひとにぎりの部隊によって , ン・エマールはわすか一日・あまりで陥落したの である。 救援来たる そうしたさなかの午前 8 時 30 分ごろ , 銃砲火 の飛び交うなかをグライダーが 1 機突っ込んで きて着陸した。部隊が捜し求めていた指揮官ビ チヒ中尉のグライダーであった。 ビチヒは早速部隊を掌握したが , 事態は依然 として緊迫していた。アルべール運河では爆破 されてしまったカンネの橋梁を除き , 他の 2 橋 梁は確保に成功して橋頭保を築いていたが , そ れらの上也 . 点とエノヾン・エマールのグラー ート隊 がこもるトーーチカに対して , ベルキ、一軍の猛烈 な砲火が , 絶え間なく降りそそがれていたので 29

7. グラフィックアクション 第24号

挺部隊 レニングラードへの猛進撃 総統指令 21 号「バルバロッサ作戦」によって , 1941 年 6 月 22 日に開始されたドイツ軍の対ソ戦 は , 初めのころ , 崩壊するソビエト軍防衛線を まえに圧倒的な成果を収め , フランス電撃戦の 再来を思わせるかのように進行していた。 レープ元帥の北方軍集団の主力であるヘープ ナー将軍率いる第 4 機甲集団は , 数々の困難に 遭遇しながらもソビエトの果てしない大地を快 進撃し , 9 月 8 日にはシュリュセルプルクを占 領し , さらにウリーックも手中に収めて , レニ ングラードまであと数というところまでせま った。レニングラードはもはや攻略されたも同 然だった。 ( この間の経過については , 本誌バックナンバー 「モスクワ侵略台風作戦」と「レニングラード攻 防戦」に詳しいので参照下さい ) 攻撃を中止せよ ところが 9 月 12 日 , 第 4 機甲集団の全部隊は 耳を疑わねばならなかった。レニングラードは 占領せす , 包囲封鎖せよ , と言うのである。ウ クライナの穀倉地帯に欲を出したヒトラーは , 今になってこの重要な部隊を , 中央軍集団に配 属させることを決定したのだった。 第 4 機甲集団と第 1 航空軍は , こうして 9 月 17 日 , レニングラードを目前にしながら転属の ために , 南進しなければならなかった。 残った部隊には , 攻撃を中止するなどと言う ことは到底考えられなかった。目標はあくまで レニングラードの占領であると信じていた。そ して , 9 月 17 日にはプルコオの丘が , 9 月 20 日 には , 傑作戦車 T34 の製造で知られる大戦車工 場のあったコルピノが , 彼らの手によって占領 された。 クレタの鬼たち 事情が明らかにされるとドイツ軍残留部隊は , このいまいましい命令にあきれながらも封鎖を 徹底し , 堅固な橋頭保を築くための作戦を開始 しなくてはならなかった。 ソ連軍の猛攻撃を少 ない兵力で持ちこたえるには , そうする以外に なかったのである。 ところが , やはり数のうえで圧倒的優勢なソ ビエト軍部隊は , ヘーブナー機甲部隊の移動に 牧村宜治 一流の復讐 ( しゅう ) として , なお一層の地獄を 探して空挺部隊に用意していた。死傷率が高か ったクレタの空挺部隊は , さらに死傷率のひど い東部戦線の凍 ( い ) てつく最前線へ , 外ならぬ 地上部隊として送られることになったのであっ とは言え , ヒトラーの用兵がまんざら誤りと は言えなかった。緊迫する東部戦線では実際の ところ , 優秀な部隊を限りなく必要としていた のである。 55

8. グラフィックアクション 第24号

工 / ヾン・エマール要塞奇襲や , クレタ島襲撃に用いられたドイツの輸送用グライダー DFS230 。乗員は操縦士一 名で , 9 名の空挺隊を一列縦隊に乗せ , ユンカース J u52 / 3 m やハインケル Hel Ⅱ , ヘンシェル Hsl 26 , メッサー シュミット Bf Ⅱ O, ユンカース」 u87B 型機などに曳航されて活躍した。 佐指揮するべルキ、一軍要塞守備隊が深夜から警 電撃戦の開始されるその日の午前 4 時 30 分。コ 戒態勢をとり , それぞれの部署について監視の ッホ突撃部隊の 42 機のグライダーはそれぞれ Ju52 型輸送機に ( えい ) 航され , ケルン郊外 目を光らせていた しだいにあたりが明るくなってくる。 5 時少 の二つの飛行場から大空へと飛び立った。 し過ぎ , 突然に高射機銃が火を吹いた。怪鳥が あたりはまだ暗く夜の闇 ( やみ ) だったが , 音もなく空から舞い降りてくるのだ。高射砲陣 一定の距離を保って地上から燈火を発し , その 地も撃ちだす。だがもう遅い。グライダーは着 光によって目標上空への道案内をするという準 備がなされていて , グライダーは集結して編隊 地寸前であった ものすごい大音響をたててグライダーが地面 を組むと , 次々と西へ向かった。 をすべる。数 m で停止してすぐにドアが開き , こで思いがけない事故が起こっ ところが , 兵士たちが次々ととびだす。 2 機が破損したも た。ビチヒ中尉の乗ったグライダーが , 曳航し のの , 9 機とも着陸に成功したのだった。 ていた Ju52 が不意に高度を下げたために加わっ シュマイサー短機関銃が火を吹き , 重機関銃 た張力によってその丸航索が切れ , 不時着して の発射音がそれに応え , 手榴 ( りゅう ) 弾がそ しまったのだ。そして , さらにグラニート隊の の陣地めがけて炸 ( さく ) 裂する。降下工兵た もう 1 機も , 離脱信号の見誤りからドイツ国内 ちは手はすどおり , 各所のトーチカにとりつい に舞い下りてしまった て爆薬を仕掛け , そしてまた放りこむ。 こうしてグラニート隊はその指揮官をはるか あちこちではげしい爆発音が鳴りひびいた 後方に残したまま , たった 9 機でエバン・エマ とくに新型爆薬 ( 50kg ホローチャージ炸薬 ) の ールを目ざすことになった。そして , 高度 2 , 60()m 威力がすごく , グラニート隊は着陸後わすか 10 で 9 機はそれぞれ Ju52 から離脱し , 発進してか 分で , 10 もの砲塔 , 砲座を沈黙させた。 らおよそ 35 分後には要寒上空に到達し , 着陸に 移った。 グラニート隊の危機 飛来する怪鳥 エバン・エマールはまだ生きていた。地下に ある要寒防衛司令室は彼らをまったく寄せつけ ・方・、エノヾン・ ョトラン少 ールでは , ン 28

9. グラフィックアクション 第24号

ノルマンジー上陸作戦に際し , 大挙して接岸したアメリカ軍の輸送船団。上空に要塞気球を上げ , ドイツ空軍 機の低空進入を防いでいる。しかしドイツ空軍の反撃は無かったと言ってもよいくらいであった。 への補給線が延びたためで , いすれはドイツ国 2 波のニーヴ・グループの 42 機はバラバラにな 内になだれ込んで来るに違いなかった。 り , 目的地から 10 も離れたところに降りた機 ヒトラーは , 守勢を続けていてはドイツは消 5 月 10 日の夜明け前 4 時 20 分の作戦 もあった こで大攻勢に転す 耗し切ってしまうと考え , 開始から 10 時間以上もたって , ようやく二つの ることで局面の打開を図った。その突破口は , グループは合流できる始末だった。 1940 年のフランス侵攻の突破口であったアルデ ウイトリーは午後 1 時に占領されたが , ベル ンヌ地方である。 ギーの第 1 アルデンヌ連隊との間に激戦が交わ アルデンヌに進出していたアメリカ軍の兵力 された。ベルギー軍の救援にフランスの第 5 機 は , 歩兵 4 個師団と弱小であった。アルデンヌ 甲連隊が駆けつけるなど , 一時はドイツ軍も苦 から突出して , アメリカ第 1 軍と第 3 軍の間に 戦したが , グーデリアンの第 1 機甲師団の先頭 楔 ( くさび ) を打ち込み , 西進して連合軍の重 がウイトリーに達して , ベルギー フランス〕車 要な補給基地であったアントワープを占領し , 合軍は後退した。 こうして第二次大戦の緒戦で , イギリス , カナダ軍をベルキ、一とオランダの国 アルデンヌはドイツ軍の進撃に道を開く重要な 境に追い・こんでしまう , という大胆な作戦であ 鍵 ( かぎ ) となったのであった。 った 1944 年 12 月 16 日早朝 , ドイツ軍地上部隊はい っせいに前進を開始した。 1 , 000 台近くの戦車 , 突撃砲 , 機甲 9 師団を含む 28 師団の大兵力を投 入した大作戦だったが , 1940 年当時との大きな 違いは , ドイツ空軍の弱体化に対して , 連合軍 の航空兵力がはるかに強大になっていたことで あった。しかし , 12 月 15 日からの深い霧と悪天 候は 5 日間続き , この間 , 連合軍の活動をほと んど全面的にはばんでいた。 4 年前と違って , 弱くなっていたドイツ空軍 ではあったが , アルデンヌの大攻勢に空挺部隊 は投入された。 12 月 15 日の夜 , ュンカース Ju52 二発輸送機ーー各戦線からかき集められて来 の大群は , 約 1 , 000 名の降下部隊をアメ た / ヾノレジの戦い 戦局はいよいよドイツに不利であった。連合 軍はノルマンジー上陸以後 , フランスを解放し , ベルギーのアントワープ , その他の地域からド イツ軍を追い立て , ドイツの守りであるライン 川まで達していた。東部ではソ連軍が大攻勢を 開始し , ルーマニア , プルガ、リアを開放した 1944 年 8 月ごろには , 戦争はほば終わったとい う感しを , 当のドイツの将軍たちの中でも持ち 始める者があった ドイツ軍は西部戦線で 50 万の兵員を失い , 戦 車 , 火砲 , 車両のはとんどを失っていた。西部 戦線での連合軍は , ライン川を境にドイツ国境 で進撃を停止していたが , これは後方から前線 82

10. グラフィックアクション 第24号

△クレタ島のイラクリ オン飛行場付近の上空 で , イギリス軍対空砲 火の命中弾を浴びて火 を吹く , ドイツのユン カース」 u52 / 3m 輸送機。 着地したドイツ軍の空 挺隊員。一三五五と集 結し , 地上戦へと突入 して行く。