将軍 - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第24号
23件見つかりました。

1. グラフィックアクション 第24号

のない作戦である。そして , これまでにない大 規模な空挺部隊がこれに連動する。すなわち , アメリカ空挺部隊 1 個連隊とイギリスのグライ ダー部隊 1 個連隊が , 上陸作戦の前夜に降下し , これを助ける事である。 作戦 小島克彦 防衛する者 1 万 6 , 000 余平方のシチリア島を守る者は , ニ将軍のイタリア第 アルフレッド・グッツォ 6 軍で , 司令部は島の中央ェンナにあった。島 の防衛態勢のアキレス腱 ( けん ) は , 砂浜と主要 港を含む約 780 の海岸線だが , これをイタリ アの 6 個沿岸師団と特設海軍守備隊が一任され ていた 沿岸師団は主として予備役の将兵を中心に編 成され , 近代装備も無く , 全く機動性を欠いた 言わば恍惚 ( こうこっ ) 部隊である。頼りがいの 無い部隊にしても , ともかく数において言えば , シチリア島の防衛力は大変なものである。 総兵力 25 ~ 30 万人 , 驚異の兵力である。その 3 分の 1 が機械化されており , また , 総数の 8 分 の 1 がドイツ軍であった。しかし , 8 分の 7 の イタリア軍は退廃的で , 首までトップリと敗北 感にひたっていたのである。 止まり木のないドイツ空軍 シチリア島に対する連合軍の大進攻は , ヒト ラーを除いては意外な事ではない。 夜明けに海岸に見えた大艦隊は防衛軍を驚かせ はしたが , と言って全くの奇襲 , 予想外の攻撃 ではなかったのである。 イタリア駐留のドイツ空軍司令官ケッセルリ ンク元帥が , この年 ( 1943 年 ) の 1 月に地中海全 域のドイツ軍部隊の総司令官になって以来 , 島 には警戒態勢が敷かれていた。 6 月 20 日には , ゲーリング機甲師団も送り込 まれ , すでに島内にあったドイツ軍 1 個師団と 合流していた。さらに , 連合軍の進攻直前 , ド イツ , イタリア両軍の偵察機が , 連合軍の輸送 船さえ発見している。にもかかわらす , あの精 鋭ドイツ空軍が , 連合軍をたたく事ができなか ったのである。 理由は簡単である。攻撃に先立っ 2 か月程前 から , 連合軍によるドイツ空軍対策が繰り返し て実施されていたからである。連合軍空軍は , 15 集団軍司令官は , サー・ハロルド・アレクサ ンダー将軍である。 第 15 集団軍は , シチリア島東南部のシラクサ 北方からリカタ西方に至る約 160km 以上の海岸 線を集中攻撃して , 重要な飛行場群の占領を第 1 目標としていた この上陸作戦は , 8 個師団に近い兵力で海岸 に , それも , 開けた海岸に上陸を敢行する前例

2. グラフィックアクション 第24号

シチリア島の空挺 上最大の大攻撃である。 「ハスキー作戦」の総指揮官はドワイト・アイ ゼンハワー将軍で , 海軍関係の責任者はカニン がム提督。そして , アーサー・テッダー空軍大 将が , 地中海戦線の連合軍の全航空部隊の指揮 をとっていた 有名なパットン将軍のアメリカ第 7 軍と , モ ントゴメリーのイギリス第 8 軍で編成された第 60 れていた。上陸部隊と空挺 ( てい ) 部隊による史 されてからわすか 2 か月後には , 攻撃が開始さ そして , その分裂した見解の一つの結論が承認 見解が、ともかくまとまった 1943 年 5 月である。 戦」が実施と決定されたのは , 何回も分裂した 連合軍によるシチリア島進攻の「ハスキー作 史上最大の空陸大攻撃 にもサポテンが繁っている。 な地中海に浮かぶシチリア島では , 。・砲煙の巷 シチリア島の山岳部における戦闘光景。温暖

3. グラフィックアクション 第24号

和見半佐 ドイツとドイツ占領下のフランスは , 連合軍の 進撃の前に柔かな下腹を露呈してしまうではな し、カ、 少なくともムソリーニの身柄さえドイツが押 えていれば , イタリアのファシズムはもう 1 度 ナチス・ドイツの友邦として連合軍と戦うよう にできる , とヒトラーは考えていた。もっとも ドイツの将軍連は , ムソリーニなどはもう役に 立たない代物だと見切りをつけていた。この見 方が正しかったことは後でわかる。 しかし , ヒトラーのこの希望は , ムソリー の失脚でもろくもくずれてしまった。とくにバ ドリオ政府が , ドイツとの同盟関係を捨てて連 合国側と単独講和をしようとしたので , ドイツ の留置場に移された。ムソリーニの失脚ととも に , あれほど強大に見えたイタリア・ファシズ ムも音をたてて崩れ去ったのである。 ファシスト党は解体され , 政治犯は刑務所か ら解放された。政権は将軍や官僚を中心とする 超党派内閣の手に移り , ピエトロ・バドリオ元 帥が首班となった。 ムソリーニ救出計画 0 ヒトラーは弱気のムソリーニを 1 度ならす引 きすって , イタリアの支配者としてふるい立た せようと努力した。ヒトラーにとって盟友であ るという理由からだけではない。ファシスト・ イタリアという南のつつかえ棒がなくなれば ,

4. グラフィックアクション 第24号

円 40 年 5 月日 , シュトウテント将軍指揮下 のドイツ空軍空挺部隊は , ロッテルダム及び ハーグ付近の飛行場と橋梁を制圧すべく , オ ランダ戦線に投入された。 み朝′朝川物物第い塒 Ju52 / 3m 輸送機の黒いシルエット。そこから 次々と大空 ~ 飛びだす降下猟兵 ( パラシュー ター ) 。彼らにとって着地までの数十秒はまさ に死と直面する一瞬である。

5. グラフィックアクション 第24号

0 クレタ島に向かう輸送機内のドイツ第 5 山岳猟兵師団の兵士。山岳部隊の兵士たちは , 陸軍型に準じた上着と ズボンを着用し , 帽子はヒサシ付きで , 左右にタレプチの付いた独特の山岳帽をかぶっていた。 ヒトホーフェン将軍 ) , 第 11 航空兵団 ( 司令官は ドイツ軍のクレタ島攻撃決定から実際の った 攻撃実施まで , 約 1 か月程経過している。 シュトウデント将軍 ) が入り , 必要に応じて第 10 航空兵団および第 12 軍地上部隊も待機してい ドイツ空挺 ( てい ) 部隊 たのである。 5 月の初旬から , しつように爆撃をくり返し ドイツ軍の攻撃力のすごさを知るために , そ ていたドイツ軍の攻撃が , これまでのものと違 の兵力のあらましを記しておこう。 第 8 航空兵団 うと気が付いた時 , クレタ島の空はドイツの航 空機でいつばいになっていた。イギリス軍がそ Ju88 型 , He 111 型 , Do 17 型爆撃機約 280 機 , の事に気付いた時には , 機銃掃射 , 急降下爆撃 Ju87 型シュッーカ急降下爆撃機 150 機以上。 がたえまなく , 防衛軍の上に降りそそいでいた Bf109 型単座戦闘機 100 機以上。 Bf110 型双発戦 1941 年 5 月 20 日である。 闘機 100 機 , 偵察機約 50 機などである。 第 1 1 航空兵団 イギリス軍総司令官フライバーグ将軍は , Ju52 型 ( 輸送用 ) 機 500 機 , グライダー 70 機 の時の光景をこう述べている。「作戦の雄大さ 以上。 3 個落下傘ライフル連隊および援護部隊 に心を奪われた。数百機の航空機が , いくつも からなる第 7 落下傘師団 1 万 3 , 000 名 , 1 個特別 の層を作ってわれわれの方にやってくる・・ 攻撃連隊 ( 3 個大隊の落下傘部隊と空挺歩兵 1 そして , それが地上わすか数百フィートのとこ 個大隊 ) , 第 5 山岳師団 2 個連隊 , 第 6 山岳師 ろに来ると , まるで手品のように白い粒々が , 団 1 個連隊と 1 個機甲大隊 , 1 個自転車大隊と ほかの色とましってそれらの機体の下に現れた。 落下傘 ( さん ) 兵は雲の一団となって , ゆっく これに付属する高射砲部隊 , 以上の約 2 万 2 , 750 名である。 り地上へ下降してきた」 ドイツ軍の圧到的な空の優位はこのような形 ドイツ軍の総指揮官はアレクサンダー・レー でなっていた。しかし , 海軍力はほとんど皆無 ル元帥である。かってユーゴとギリシャで陸軍 を掩 ( えん ) 護した第 4 航空艦隊の司令官で , にひとしかった。 4 万人以上の部隊で防衛されている島を , 1 その指揮下にドイツ第 8 航空兵団 ( 司令官はリ

6. グラフィックアクション 第24号

ドイツ軍空挺部隊の育ての親クルトシュ・ト ゥテント将軍メルクール作戦の立案も彼の 手によるもので , クレタ戦ては第Ⅱ航空・軍団 長として全降下部隊を率いて作戦を行た た . 44 年 7 月日 , 空・軍上級大将となる 少将 , - 円 44 年以降は降下猟兵軍司令官なっ 月 , 新編成の第 7 航空師団長となり , 〔略歴〕絽 90 年 5 月に日に生まれ , 同時に 円 38 年 6

7. グラフィックアクション 第24号

ラドガ湖 レニングラードと近郊図 レニングラード フィンランド湾 ・ 1941 年 9 月ベトリュシノ プルコオの丘 ウリーック 両橋頭保へのソ連軍の進出 ″ 10 月ウィポルグスカヤ よって生した間隙 ( げき ) をついて , シュリュセ 56 このような激戦はもはや各地で起こっていた。 チフビン進出とルガ橋頭保 ちらかだった。 隊の士官は , 残らす戦死するか負傷するかのど ある。この戦闘でシュテンツラーは戦死し , 大 ぎにし , ソビエト軍を対岸に押しもどしたので 第 2 大隊は , 、ネパ川に進出した橋頭保を根こそ 隊は勇敢に防戦した。高い代償を払いながらも に対して , シュテンツラー少佐の率いるこの大 いたか、 こでも死闘だった。押し寄せる大軍 空挺部隊の行くところ必す激戦が待ち受けて 地を戦い抜いたべテランだった。 彼らはクレタ島最大の激戦地 , マレメと 107 高 部隊突撃連隊の第 2 大隊はそこにいたのである。 たちがいたのだ。マインドル少将指揮下の空挺 言え , ドイツ軍きっての精鋭部隊と歴戦の勇士 しかし , 彼らの前面には , 数こそ少ないとは グラードへの圧迫を取り除くかと思われた。 イツ第 16 軍を押しつぶし , けちらして , レニン 襲った断え間のない波状攻撃は , ムガー帯のド ドイツ軍陣地を に橋頭保を築くのに成功した。 ルプルク南西部でネパ川を渡り , ベトリュシノ シュリュセ丿レプノレク 第 67 軍 ソビエト ネパ川 ムガ ロフ道 ンニャウィノ高地 コノレピノ 力の点で考えるなら , 必すそうなるに違いなか は一挙にたたきつぶされてしまう。そして , 兵 成功すれば , レニングラード前面のドイツ軍 絡をとろうとしているのだ。 せ , ポルホフ戦線の第 59 軍及び第 2 突撃軍と連 ノ高地を奪取してシュリュセルプルクを孤立さ う ) のような激しさでやってきた。シニャウィ なかのシニャウィノ高地に向かって , 怒濤 ( と ヤの橋頭保から進出し , 雪に埋まった原生林の は , ネパ川を渡って再び築いたヴィボルグスカ レニングラード解放をめざすソビエト第 67 軍 険は目に見えていた。 から機甲部隊が離れることになるのである。危 撃を開始した。しかし , ただでさえ手薄な戦線 15 日 , 4 個師団をもってポルホフ川を渡り , 進 完全に封鎖するという大胆な作戦をたて , 10 月 ランド軍と合流し , レニングラード地区の敵を ンを占領後 , スウィリ川に出て , そこでフィン 道も無い北ロシアの森林地帯を突破し , チフビ そこで , シュミット将軍の第 39 機甲軍団は , する脅威はなくならないのである。 全に孤立させないかきり , ドイツ軍橋頭保に対 レニングラード及びその北東のソビエト軍を完 ドイツ第 16 軍

8. グラフィックアクション 第24号

を・ 0 山道をゆくドイツ空挺部隊。 5 月幻日夕刻には , リンゲル中将率いる第 5 山岳兵師団もマレメへ投入された。 領しなければならないと。 ものである。 計画は変更され , 今 , うまくいっているとこ それには , 二つの重要な点が明らかにされて ろに力を集中することになった。攻撃の中心は ーっは , 後続攻撃が空と海から来ること , 0 二つは , ドイツ軍が攻撃第 1 日目で , マレメ , マレメ飛行場である。 5 月 21 日の夜明けに , 攻 撃連隊とタブロニチス川沿岸の部隊に弾薬を補 カニア , レテイムノンを占領したい , と考えて 給し , 次に残存するすべての落下傘部隊を降下 いることである。 することにした。 5 月 20 日の夜 , アテネのグランド・プルター 1 機の Ju52 型機がタブロニチス川西方の海岸 ニュ・ホテルの 1 室 . で , レール , シュトウデン に着陸し , 数機がこれに続いた。しかし , この ト両将軍は、、情勢は好ましくない ' ' と思っていた 補給部隊が到着する前に , 攻撃部隊は攻撃を開 空挺作戦にありがちな分散と混乱 , そして , 始し , マレメ飛行場のはとんどと , さらに飛行 数時間は不可能となる統制と連絡が , この日の 場を見おろす高地を占領し , イギリス兵を掃討 ドイツ軍の被害をより多くしたと言える。 していた。そして , 午前 8 時 10 分 , 1 機の Ju52 マレメ飛行場をねらえ / 型機がマレメ飛行場に着陸している。 もうーっの試みである海からの輸送は , 強力 なイギリス海軍により失敗に終わっていた。 22 日は一日中 , ドイツ山岳師団の 2 個歩兵大隊 , 1 個工兵大隊 , 落下傘砲兵隊を乗せた輸送機が , マレメとその近くの海岸につぎつぎに到着した。 一方 , イキ、リス軍の反撃も , 戦車こそあまり ドイツ軍の攻撃計画を予定通りに なかったが , はさせていない。日が西に傾くころ , ドイツ軍 はやっと前進をはしめている。 シュトウデント将軍は , こう考えた。タブロ ニチス川浴岸およびマレメ飛行場の西側のドイ ッ部隊と , カニア南西方プリズン谷のドイツ部 隊 ( ハイトリッヒ大佐指揮 ) だけが唯一のまと まった部隊である。 マレメとイラクリオンを対象にした海上輸送 による上陸は , それぞれ 5 月 21 , 22 日まで計画 されていなかったので , ドイツ軍は , 必要物資 を積んだ輸送機を着陸させる一つの飛行場を占 42

9. グラフィックアクション 第24号

抜けるような青空のもと , 地獄の島クレタへの侵攻上陸作戦が開始された。円年 5 月 20 日のことである。 ダーはまだしもだったと言える。たまたまニュ 万人は落下傘 , 750 人はグライダー , そして 5 , 000 ージーランド軍の上に降下してきた落下傘兵た 人は航空機で , 7 , ()00 人は海路から上陸させ , ちは , まるで鴨 ( かも ) を散弾で撃ち落とすよ 征服しようと言う作戦である。 いや , むしろもっと確実に , トミ ンの餌食 ( えじき ) になっていた。 この日 , クレタ島防衛軍の武器は , ドイツ軍 の戦利品で見ちがえるように強化された。島の 住民が武器にしていた 1()0 年前のフリント式銃 は , シュマイザー式小型機関銃に早変わりし , スーダ湾とカニアは , まだ確実にイギリス軍の 手の中にあった。 この日 , フライバーグ将軍はドイツ第 3 落下 傘連隊の作戦命令を手に入れて読んでいた。ク レタ攻撃についてのドイツ軍の計画を要約した 1 941 年 5 月 20 日 スーダ湾と , カニアからマレメにかけての空 ドイツ空軍のグライダー大隊 750 名 を覆った , の空からの降下は , 午前 8 時 15 分から 45 分まで 行われた。グライダーの中からは , オートバイ , 火炎放射器 , 臼 ( きゅう ) 砲などで重装備した 兵たちがはき出された。 しかし , すべてのグライダーが円滑に着陸し たわけではなかった。着陸寸前に燃え上がった 機 , 高射砲の直撃を受けた機などだが , グライ

10. グラフィックアクション 第24号

クレタ島へ向かう輸送機内のドイツ軍降下部隊の兵士たち。向かって右端には曹長がすわっている。 がである。 ではなく , 上層部にあった」 クレタの戦闘は , その色とりどりの人種の集 戦史の上から , クレタ島の空からの戦いは , 団が戦闘に参加したと言う点でも , ごくまれな それ以前にも以後にも全くみられないーっの島 戦闘だったと言える。島の , 勇敢できわめて反 が , 空軍力で征服された戦闘のケースである。 ドイツ的な住民マオリ族 , オーストラリア人 , しかし , 戦うべくして戦われた戦闘であるとは , ギリシャ人 , パレスチナ人 , キプロス人 , など 少なくとも戦略上では言えない戦闘であった。 である。 クレタ島へのアプローチ ギリシャの軍隊 , 準軍隊の合計は 1 万 5 , 000 名 , そのうち 1 万 1 , 000 名が軍隊 , 約 3 , 000 名が 1941 年 4 月の終わり , イギリスのウェーベル 武装憲兵 , 残りがギリシャの士官候補生からな 将軍がクレタ島を訪れている。 3 週間以内に っていた。人員の点でのクレタ防衛軍の総数は ドイツ軍のクレタ島攻撃が開始されることを将 約 4 万 2 , 000 名で , その内 , イギリス兵は 1 万 軍は予期していた 7 , 000 名余りである。 ギリシャの勝利に酔っていたドイツ軍は , め ドイツ諜報部の調査より , はるかにクレタ島 すらしくその秘密主義をゆるめ , その間げきを 防衛軍の人数は多かったが , 武器 , 弾薬の不足 縫ってイギリスの諜 ( ちょう ) 報網が暗躍した。 たとえば , は極端にはげしいと言ってよかった。 ドイツ第 11 航空団の活発な動きと , ドイツ側が , 最も多い時の航空機数で 36 機 , しかも , その大 ギリシャ諸港で小舟艇を集めている , との情報 半はギリシャ作戦で破損したもので , 使用に耐 ドイツ側の状況はほば推定でき をきっかけに えられるのは半数にも満たなかった。 たのである。 せまい海をへだてて , ドイツ軍は勝利の自信 しかし , クレタ島ではすべてが混乱していた に満ちみちている。ドイツ空軍とイギリス海軍 イギリス軍および本国から撤退したギリシャ軍 , の対決は , このような状況下で始まることにな そして , 島内のさまざまな人種の集団などなど