ムソリーニの没落 連合軍の反攻で , さしもの猛威をふるったナ チス・ドイツのヨーロッパ支配に , あちこちで 穴があき始めた 1943 年 , イタリアの支配者へ ニはめつきり弱気になっていた この年の 5 、月 , 北アフリカのドイツ・イタリ ア枢軸軍の残存部隊はチュニジアに追いつめら れて降伏し , イタリアにおけるファシズムはい まや崩壊しようとしていた。国内にも軍の内部 68 1943 年の 7 月 10 日には , 英米軍はシチリアー 識人の間に拡大していたのである。 反ファシズムの統一戦線が , 労働者 , 学生 , にも厭 ( えん ) 戦 , 反戦気分が広がっており 知 0 0 上陸 , 戦争はイタリア本土に足をかけて来た。 7 月には , 戦争が始まって以来はしめて首都ロ ーマが連合軍の昼間爆撃を受けている。 いまや , イタリアのファシズムは完全に国民 の信頼を失いつつあった。ファシスト党員から ニは見捨てられ , かってムソリ さえもムソリ ニ自身が得意げに率いていたファシスト党の 会議そのものさえ , ムソリーニの指導の誤りを 非難し , 議会制立憲民主主義への復帰と国防軍 の指揮権を , 国王に返還する事を求める決議を 行ったのである。 1943 年 7 月 25 日 , ムソリーニは国王に呼び出 され , ドゥーチェ ( 指導者 ) の地位を罷免され て手もなく逮捕され , 彼の身柄は救急車で警察
ドイツ空軍の集団と軍 第 1 1 航空集団・ ント中将であった 戦歴 : 1940 年 , 司令官がクルト・シュトウデ 空挺 ( てい ) 部隊空輸のため , 第 7 , 第 22 空輸師団が編成され , 1941 年に , レー ル大将の第 4 航空艦隊の指揮下にあった第 7 , 第 5 山岳師団は , クレタ島攻略戦に参加している。 1942 年は空挺隊の拡充期で , 訓練 , 兵器開発が 行われ , 1943 年初期には , ドイツ国防軍総司令部 ( OKW ) の了解のもとに , 南フランスのニイメス に第 2 降下師団が駐留。後に , ローマ防衛に派遣 されている。 1943 年 3 月 , 第 1 降下軍に昇格し , 司令部を中 央フランスのナンシーに置く。その他 , 突撃連隊 ( 輸送 ) , 教導大隊 , 対空機関銃大隊 , 偵察 , 通信 医療 , 工兵部隊などと , イタリアのフォルゴーレ 連隊は , 本集団の指揮下にあった。 第 1 降下集団 : 司令官はシュレムン中将 , イドリッヒ中将であった 戦歴 : 1944 年 , 中央イタリアのアンチオで活 躍した , 第 4 降下師団および第 3 機甲擲 ( てき ) 弾 兵師団 ( 第 14 軍所属 ) をコントロールするのが目的 1945 年 , フローレンス北方で敗れ , 4 であった 月に降伏する。 砲兵連隊 11 , 突撃砲旅団 11 , 対空砲連隊 11 , 機 関銃大隊 11 , 偵察 , 通信大隊 11 , 重迫撃砲大隊 11 が参カ日している。 第 2 降下集団 . 司令官はメインデル中将であ 戦歴 : 1943 年の後半 , 第 13 航空集団司令部の あとに編成され , 旧メインデル師団を中心にして ドイツ空軍の地上部隊としての活動が主目的であ った。後に , 第 3 ( シインプ ) , 第 5 ( ウイルケ ) 降 下師団が編入された。 1944 年 7 月 , ドイツ第 7 軍の指揮下にノルマン ー戦に投入され , オマハ , ュタの海岸で戦った。 後に , ファレーズ地区で壊滅し , 司令官のみ脱出 するが , 捕虜になってしまう。 1945 年 , シュレムン中将の第 1 降下集団の指揮 下に , 第 8 , 第 7 降下師団を中心として再編準備 がなされるが , 不完全編成のままドイツ本土防衛 ノ、 広田厚司 戦に投入され , 連合軍の第 21 集団軍とライン川で 激戦を行う。 砲兵連隊 12 , 突撃砲大隊 12 , 対空連隊 12 , 機関 銃大隊 12 , 通信大隊 12 , 偵察大隊 12 などであった。 ヘルマン・ゲーリング降下機甲集団 司令官 はシュマルッ中 ) 好であった。 戦歴 : 1944 ~ 45 年 , へノレマン・ゲーリング機 甲師団 ( H G- 1 ) およびヘルマン・ゲーリング機甲 擲弾兵師団 (HG-2) を指揮下においていた。実戦 は 1944 年の IO 月 , 東プロシアでソ連軍と対決。翌 年 1 月まで対ソ作戦に従事した。特色として , 機 甲部隊と空挺部隊の、、機動性 " の協調にあった。 ヘルマン・ゲーリング大隊は 1943 年 , Åt アフリ 力のチュニジアで一部が壊滅。シチリア島で 7 月 に再編されて機甲擲弾兵師団となり , コンラス将 軍の指揮下にあった。これが H G ー 2 である。 HG 対空師団 , HG 戦闘工兵大隊 , 通信 , 医療 , 補給部隊などであった。 第 1 降下軍 司令官として , シュトウデント 大将 ( 1944 年 11 月まで ) , シュムント大将 ( 1945 年 3 月まで ) , プルーメントリット大将 ( 1945 年 4 月 I() 日まで ) , シュトウデント大将 ( 1945 年 4 月 28 日 まで ) , ストラウべ大将となっている。 戦歴 : 1944 年 8 月 , シュトウデント将軍の , 東フランスにあった第 11 航空集団が昇格し , 西ョ ーロッパにおける降下師団の新設 , 訓練の責任 , イタリア , ロシアへの補充の責任をもっていた そして , ベルギー , 東オラン・ダ地区の防衛任務に 入っており , 第 2 軍と 2 個歩兵師団を傘 ( さん ) 下 に入れてはいたが , 機甲戦力は弱いものであった しかし , 単独戦力では強力な , 戦車教導師団が含 まれていた 1944 年の 11 ~ 12 月および翌年の 1 月にかけて , 第 1 降下軍はシュムント大将に指揮されて , ドイ ッ H 軍集団 ( シュトウデント大将指揮 ) のもとでラ インの戦いに参カ日し , 4 月 , オルデンプノレクで降 伏している。 突撃大隊 , 機甲連隊の外 , 重迫撃砲大隊 21 , 工 兵連隊 21 と 3 個大隊 , 通信大隊および多数の軍学 校生徒が含まれていた。 63
シチリア島の空挺 上最大の大攻撃である。 「ハスキー作戦」の総指揮官はドワイト・アイ ゼンハワー将軍で , 海軍関係の責任者はカニン がム提督。そして , アーサー・テッダー空軍大 将が , 地中海戦線の連合軍の全航空部隊の指揮 をとっていた 有名なパットン将軍のアメリカ第 7 軍と , モ ントゴメリーのイギリス第 8 軍で編成された第 60 れていた。上陸部隊と空挺 ( てい ) 部隊による史 されてからわすか 2 か月後には , 攻撃が開始さ そして , その分裂した見解の一つの結論が承認 見解が、ともかくまとまった 1943 年 5 月である。 戦」が実施と決定されたのは , 何回も分裂した 連合軍によるシチリア島進攻の「ハスキー作 史上最大の空陸大攻撃 にもサポテンが繁っている。 な地中海に浮かぶシチリア島では , 。・砲煙の巷 シチリア島の山岳部における戦闘光景。温暖
円 40 年 5 月日 , シュトウテント将軍指揮下 のドイツ空軍空挺部隊は , ロッテルダム及び ハーグ付近の飛行場と橋梁を制圧すべく , オ ランダ戦線に投入された。 み朝′朝川物物第い塒 Ju52 / 3m 輸送機の黒いシルエット。そこから 次々と大空 ~ 飛びだす降下猟兵 ( パラシュー ター ) 。彼らにとって着地までの数十秒はまさ に死と直面する一瞬である。
ドイツ空挺師団の兵士。 パラシュート部隊用の スチーノレ・ヘ丿レメット は改良型のツ / ヾの矩い もので , 側面に , 飛ん でいる鷺をテサインし た言己章をつけている。 マ円 43 年 9 月貶日 , オ ットー・スコノレツェ ー SS 大尉指揮のもと , イタリアのアベニン山 脈中にあるグラン・サ ッソに捕われの身とな っていた統領べニト ムソリーニの救出作戦 が敢行された。写真は 救出されたムソリー を乗せ , フイゼラー シュトルヒ連絡機が救 出隊員の見送りを受け て , 山腹より出発せん とするところである。
オランダに向かうユンカース Ju52 輸送機内のドイツの降下猟兵たち。笑顔の中にも緊迫した空気が漂う。 戦における全ドイツ軍のすべてがかけられた , 師団がそれに充てられた。 この上もな この重大で , 大胆で , そしてまた , シュトウデントは待望の目標ともいえる作戦 く困難な作戦に投入されることになったのであ 任務に賛同したが , ヒトラーは , さらに驚くべ る。当失敗は許されなかった。 き構想を立てていた。エバン・エマール要塞と アルべール運河の橋梁群は , 小数のグライダー 「グラニート」突撃隊 部隊によって奇襲 , 制圧する。そして , そのた 指揮官コッホ大尉は , 作戦にあたって自分の めの精鋭突撃部隊を至急編成せよ , という命令 部隊を四つに分けた。そのうち三つの突撃隊 が下されたのである。 シャハト少尉の指揮する「ベトン」 , アルト トなどでは見込みのないエバン・ ノヾフンユ マン中尉の「シュタール」 , それにシュレヒタ エマールへの奇襲。それを , 空軍技術局長工 . ル 少尉の「アイゼン」 は , それぞれアルべール ンスト・ウーデットが手塩にかけて開発した秘 運河にかかる三つの橋ーーーーベルトウェッェルト , 密兵器 , 輸送グライタ、、一によって音もなく要寒 ビレンホーベン , カンネーーの爆破を阻止し , 内に確実に着陸し , それに乗った特殊部隊によ その橋頭保を , 陸軍先遣部隊の到着まで死守す ってトーチカ群を破壊させる , というこの作戦 る任務に充てられた。 はとてつもなく危険なものであり , その準備は エバン・エマールの制圧には , ルドルフ・ビ 極秘のうちに進められた。 チヒ中尉の率いる降下工兵小隊 85 名が 11 機の D 1940 年 1 月 10 日 , メヘレン事件が起こり , す FS230 型グライタ、、一とともにあたることになっ べての作戦計画は変更されねばならなくなった た。そして , その名は他の隊と同様 , 暗号名で が , 作戦計画書にも記載されていなかったエバ 「グラニート」突撃隊と呼ばれた。 ン・エマールへの作戦は , そのままで実行され ることとなった。 訓練にはげんできた極秘のグライダー部隊の こうして , フランス侵攻作 コッホ突撃部隊は , コッホ部隊発進 / 1940 年 5 月 10 日 , 世界を震憾 ( かん ) させた 27
工 / ヾン・エマール要塞奇襲や , クレタ島襲撃に用いられたドイツの輸送用グライダー DFS230 。乗員は操縦士一 名で , 9 名の空挺隊を一列縦隊に乗せ , ユンカース J u52 / 3 m やハインケル Hel Ⅱ , ヘンシェル Hsl 26 , メッサー シュミット Bf Ⅱ O, ユンカース」 u87B 型機などに曳航されて活躍した。 佐指揮するべルキ、一軍要塞守備隊が深夜から警 電撃戦の開始されるその日の午前 4 時 30 分。コ 戒態勢をとり , それぞれの部署について監視の ッホ突撃部隊の 42 機のグライダーはそれぞれ Ju52 型輸送機に ( えい ) 航され , ケルン郊外 目を光らせていた しだいにあたりが明るくなってくる。 5 時少 の二つの飛行場から大空へと飛び立った。 し過ぎ , 突然に高射機銃が火を吹いた。怪鳥が あたりはまだ暗く夜の闇 ( やみ ) だったが , 音もなく空から舞い降りてくるのだ。高射砲陣 一定の距離を保って地上から燈火を発し , その 地も撃ちだす。だがもう遅い。グライダーは着 光によって目標上空への道案内をするという準 備がなされていて , グライダーは集結して編隊 地寸前であった ものすごい大音響をたててグライダーが地面 を組むと , 次々と西へ向かった。 をすべる。数 m で停止してすぐにドアが開き , こで思いがけない事故が起こっ ところが , 兵士たちが次々ととびだす。 2 機が破損したも た。ビチヒ中尉の乗ったグライダーが , 曳航し のの , 9 機とも着陸に成功したのだった。 ていた Ju52 が不意に高度を下げたために加わっ シュマイサー短機関銃が火を吹き , 重機関銃 た張力によってその丸航索が切れ , 不時着して の発射音がそれに応え , 手榴 ( りゅう ) 弾がそ しまったのだ。そして , さらにグラニート隊の の陣地めがけて炸 ( さく ) 裂する。降下工兵た もう 1 機も , 離脱信号の見誤りからドイツ国内 ちは手はすどおり , 各所のトーチカにとりつい に舞い下りてしまった て爆薬を仕掛け , そしてまた放りこむ。 こうしてグラニート隊はその指揮官をはるか あちこちではげしい爆発音が鳴りひびいた 後方に残したまま , たった 9 機でエバン・エマ とくに新型爆薬 ( 50kg ホローチャージ炸薬 ) の ールを目ざすことになった。そして , 高度 2 , 60()m 威力がすごく , グラニート隊は着陸後わすか 10 で 9 機はそれぞれ Ju52 から離脱し , 発進してか 分で , 10 もの砲塔 , 砲座を沈黙させた。 らおよそ 35 分後には要寒上空に到達し , 着陸に 移った。 グラニート隊の危機 飛来する怪鳥 エバン・エマールはまだ生きていた。地下に ある要寒防衛司令室は彼らをまったく寄せつけ ・方・、エノヾン・ ョトラン少 ールでは , ン 28
フイゼラー F 日 56 「シュトルヒ」。当時のドイツ機中でも傑作機の一つで , 短距離離着陸性能は抜群であった。 うの方法では近寄ることが困難であった。アベ ニン山脈の最高峰 , グラン・サッソ・デイタリ ア ( 標高約 2 , 800m ) の山頂近くのホテルであ る。山麓 ( ろく ) からはケープル・カーが唯一 の交通機関である。ふもとからではとうてい目 的は達せられない。 ドイツ軍は現地の空中偵察をもとに , 空挺作 戦による救出の計画を練った。鳥しか通わぬ山 頂には , やはり空からの救出しか方法はない。 この離れ業的な救出作戦を敢行するのには , 人 と機材の両方が重要であった。 ます「人」の面では , SS の大尉であったオ ーがその機知 , 才能を買 スコノレツェ われて指揮官に選ばれた。スコルツェニーはオ ーストリア出身で , 後のバルジの戦いでもその 悪知恵を発揮する男である。 空挺隊はグライダーで山頂近くに着陸し , ム ニを監視しているイタリア警察の要員を 制圧する。ただし , ムソリーニ自身を救出後 , どうやってその場所から連れ出すかになると問 題は困難になって来る。こで , この救出作戦 にうってつけの「機材」が登場する。フイゼラ ー Fi 156 「シュトルヒ」である。 ・シュトルヒ ( こうのとり ) は , フイゼラー 今日的ないい方をすれば STOL 機 ( 短距離離着 陸機 ) である。 12.8 / h の向かい風があれば約 50m で離陸でき , 18m もあれば着陸できる性能 は , 当時の世界でも傑出したものである。強い 向かい風の中では文字通り宙に浮かんで , ヘリ コプターのようにホバリングしたという位であ った。山頂の限られたスペースで離着陸するこ の救出任務は , シュトルヒがあったからこそ可 育旨だったといえる。 空挺隊の兵員輸送用には DFS230C グライダ ー数機が使用された。 このグライダーの機首に は減速用の前向きに噴射するロケット ( プレー キ用 ) が取りつけられており , グラン・サッソ 山頂の , 小さな三角形の空地への着陸は完全に 成功した。 1943 年 9 月 13 日 , スコルツェニーの率いる空 挺隊は , 数機の D F S 230 C グライダーに分乗し てグラン・サッソ山頂に飛んだ。グライダーの パイロットたちは山頂めがけて急速降下し , 着 陸予定地の手前で尾部の減速シュートを開き , 着陸寸前に機首のプレーキ・ロケットを次々に 噴射し , みごとに着陸した。ムソリー を臣を本本 第圧フ J ・く していたイタリア警察は , さぞあっけにとられ たに違いない ドイツ空挺隊の姿を見たイタリア兵はほとん ど大部分が逃走し , わすかに残った者も , ムソ リーニの制止とスコルツェニーの呼びかけで , ついに 1 発の銃声も聞かれぬまま , この救出劇 は無血で完了した。グライダーに同行した「シ ュトルヒ」はムソリ ニを乗せ , 過荷重ながら 無事に離陸した。 この空挺作戦は , 第二次大戦でドイツ軍が行 った空廷部隊による作戦の中で , おそらく最も 成功した数少ないうちのひとつであろう。
0 クレタ島に向かう輸送機内のドイツ第 5 山岳猟兵師団の兵士。山岳部隊の兵士たちは , 陸軍型に準じた上着と ズボンを着用し , 帽子はヒサシ付きで , 左右にタレプチの付いた独特の山岳帽をかぶっていた。 ヒトホーフェン将軍 ) , 第 11 航空兵団 ( 司令官は ドイツ軍のクレタ島攻撃決定から実際の った 攻撃実施まで , 約 1 か月程経過している。 シュトウデント将軍 ) が入り , 必要に応じて第 10 航空兵団および第 12 軍地上部隊も待機してい ドイツ空挺 ( てい ) 部隊 たのである。 5 月の初旬から , しつように爆撃をくり返し ドイツ軍の攻撃力のすごさを知るために , そ ていたドイツ軍の攻撃が , これまでのものと違 の兵力のあらましを記しておこう。 第 8 航空兵団 うと気が付いた時 , クレタ島の空はドイツの航 空機でいつばいになっていた。イギリス軍がそ Ju88 型 , He 111 型 , Do 17 型爆撃機約 280 機 , の事に気付いた時には , 機銃掃射 , 急降下爆撃 Ju87 型シュッーカ急降下爆撃機 150 機以上。 がたえまなく , 防衛軍の上に降りそそいでいた Bf109 型単座戦闘機 100 機以上。 Bf110 型双発戦 1941 年 5 月 20 日である。 闘機 100 機 , 偵察機約 50 機などである。 第 1 1 航空兵団 イギリス軍総司令官フライバーグ将軍は , Ju52 型 ( 輸送用 ) 機 500 機 , グライダー 70 機 の時の光景をこう述べている。「作戦の雄大さ 以上。 3 個落下傘ライフル連隊および援護部隊 に心を奪われた。数百機の航空機が , いくつも からなる第 7 落下傘師団 1 万 3 , 000 名 , 1 個特別 の層を作ってわれわれの方にやってくる・・ 攻撃連隊 ( 3 個大隊の落下傘部隊と空挺歩兵 1 そして , それが地上わすか数百フィートのとこ 個大隊 ) , 第 5 山岳師団 2 個連隊 , 第 6 山岳師 ろに来ると , まるで手品のように白い粒々が , 団 1 個連隊と 1 個機甲大隊 , 1 個自転車大隊と ほかの色とましってそれらの機体の下に現れた。 落下傘 ( さん ) 兵は雲の一団となって , ゆっく これに付属する高射砲部隊 , 以上の約 2 万 2 , 750 名である。 り地上へ下降してきた」 ドイツ軍の圧到的な空の優位はこのような形 ドイツ軍の総指揮官はアレクサンダー・レー でなっていた。しかし , 海軍力はほとんど皆無 ル元帥である。かってユーゴとギリシャで陸軍 を掩 ( えん ) 護した第 4 航空艦隊の司令官で , にひとしかった。 4 万人以上の部隊で防衛されている島を , 1 その指揮下にドイツ第 8 航空兵団 ( 司令官はリ
ドイツの空挺 ( てい ) 師団 第 7 空挺師団 : 第 1 連隊 ( FJ R- 1 ) , 第 2 連隊 (FJR-2), 第 3 連隊 ( FJR ー 3 ) とあり , 各 3 個大隊 の降下猟兵兵力を持ち , 司令官はシュトウデント 少将 , ピュッイガ、一少将 , サスマン少将 , べター セン中将などであった。 戦歴 : 1938 年 7 月 , ドイツで創設された最初 の空挺師団で , 当初 , 第 1 連隊 ( プラウアー大佐 ) 第 2 連隊 ( シュトルム大佐 ) の 2 個連隊のみであっ 1940 年 4 月 , 英国に先駆けてノルウェーがド イツ軍に侵略された際 , 同師団の 1 個中隊がノル デンマーク奇襲に参加したのが初 ( うい ) ウェ 陣であった 続いて 5 月 , ヒトラーの西方電撃戦 , ベルギー 攻略に必要なエバン・エマール要塞 ( さい ) 奇襲を 、イドリッヒ大佐の率いる対空 , 敢行した。後に 工作 , オートバイを含む第 3 連隊が新設 , 追加さ れたのであった。 1941 年 4 月 , シュトルム大佐の第 2 連隊は , ギ リシャのコリンズ運河橋の確保に成功し , 続いて 5 月 , 有名なクレタ島攻略戦にも参加 , 初の戦術 作戦を展開したのであった。クレタでは , イギリ ス , ギリシャ , クレタ人の各強兵と戦火を交え , 生き残りは , 後に東部戦線のレニングラード攻防 戦にも投入された。 1942 年 , 主力は北 , 中央ロシアで作戦し , 第 1 降下師団と共に , やがて 1943 年 3 月 , 南フランス へ移動 , 駐留している。砲兵 , 医療 , 通信 , 対戦 車部隊を含む編成であった。 第 22 歩兵空挺師団 : 第 16 歩兵連隊 (IR-16), 第 47 歩兵連隊 ( IR ー 47 ) , 第 65 歩兵連隊 ( IR ー 65 ) とあ 広田厚司 司令官はス ューラー少将 , ポネック少将 , ウォルフ少将 , り , 各 3 個大隊の兵力を有していた。 対戦車部隊を含む兵力であった。 砲兵連隊 , 軽 , 重戦闘中隊 , 偵察 , 通信 , 工兵 , 掃討作戦を行うが , 同年 4 月 , 連合軍に降伏した。 やか、て 1945 年 , ューゴスラビアで対ノヾルチザン で同島に駐留していた 隊となり , 1944 年 8 月まて , ビューゼ大佐の指揮 のチュニジアに送られたが , 後にクレタ島駐留部 動車化偵察 1 個中隊を含む ) , 1943 年 , 北アフリカ 戦闘部隊である第 47 擲弾兵連隊 ( GR ー 47 ) は ( 自 て知られている。 アテネの攻略戦にも参加 , 自動車化空挺部隊とし 参加している。一転して , ギリシャのサロニカ , た , 有名なセバストボリ要塞 ( さい ) の攻略戦にも テル , バグーなどで支援する作戦を展開した。ま および東部戦線で戦うドイツ第 8 軍を , ドニエス 1941 年の春には , ルーマニアの油田地区の防衛 挺師団の支援を行ったりした。 戦に参カ日 , ハーグ , ロッテルタ、、ムなどで , 第 7 空 およびスポネック将軍指揮の北方オランダ降下作 1940 年 , シュトウデント将軍指揮下の空挺作戦 地区の作戦に投入された。 1939 年 9 月 , 第 16 連隊はポーランド侵攻のズラ であった 的に通常の歩兵装備のまま , 空挺部隊とされたの 第 16 擲 ( てき ) 弾兵連隊 ( GR ー 16 ) に改編され , 試験 区の歩兵師団であったが , 第 16 歩兵連隊は 1942 年 , 戦歴 : 1934 年 , ノ、ンプノレグ , プレーメン軍管 クライベ少将 , フリーベ少将などであった ドイツの降下大隊 第 1 1 降下突撃砲大隊 . 1944 年 , 空軍地上勤務 員の志願兵で組織され , フランスで訓練の後 , ナ ンシー付近に投入されて大きな損害を被っている。 1944 年の 12 月 , 再編されて第 5 降下師団の支援に 使われ , アルデンヌの戦いで米第 4 機甲師団と戦 って大損害を受け , 後に , 連合軍に降伏している。 第 12 降下突撃砲大隊 : 第 11 降下突撃砲大隊と 経緯は同しであるが , ノルマンジーのサン・ロー の戦いに出動し , 第 3 降下師団の支援を行う。ま た , ファレーズの激戦で大半の兵力を失い , 壊滅 に頻 ( ひん ) するが再編され , 1944 年の 9 月 , 第 7 降下師団 ( ェルドマン ) の支援活動を行い , ドイツ 本土の防衛戦に参加して , 1945 年の 5 月 , ウイル ヘルムスハーフェンで降伏している。 SS 第 500 / 第 600 降下大隊 : 司令官はリイプカ S S 大尉で , 1943 年秋に , 特別使命を持つ武装親 衛隊として登場している。兵は約半分が第 5()() 大 30 広田厚司 隊から集められ , 訓練はユーゴスラビアのクラル シェポーでイわれたか、 , 1944 年 , 降下学交か、ノ、ン ガリーのパパに移転した 第 1 回の降下作戦は , パルチザンのチトー元帥 率いる山岳師団司令部攻撃であった。降下大隊の 2()() 名が 3 日間にわたり作戦を行ったが , 幹部を捕 える事ができなかった。 1944 年 10 月 14 日 , ヒトラーの直接命令により , ーによるプダベスト ( ルーマニア ) の スコノレ、ソェ 総督ポルティーの誘拐 ( かい ) 作戦は成功している。 後に , 第 60() 大隊と改名 , 1944 年の 12 月 , バルジ ーに率いられて米 の単戈いにおいて , スコノレツェ 軍の服装をし , 後方攪 ( かく ) 乱の特別任務に参加 している。 1945 年 1 月 , オーデル戦線で , ベルリンへ迫る 連合軍と死闘を演じ , SS 第 60() 降下大隊で生き残 った者は , わすか 180 名であった。