ドイツの降下師団 4 第 1 降下師団 : 第 1 連隊 ( FJR ー 1 ) , 第 3 連隊 (FJR-3), 第 4 連隊 ( FJR ー 4 ) とあり , 各 3 個大隊 の兵力を擁し , 司令官はハイドリッヒ少将 , シュ ルツ少将 ( 1945 年 ) であった。 戦歴 : 1943 年 7 月 , 南フランスからシチリア 島へ移動するが , カタニアで敗れてイタリア本土 に渡り , 連合軍にイタリアを明け渡す 2() か月間 , 激戦を行っている。特に 1944 年 3 ~ 5 月の , モン テ・カッシノのリリー谷の防衛戦は激戦であった。 やがてローマの陥落と共に , アドリア地区に移動 , ポロナの防衛に用いられた。 1945 年に北イタリアで連合軍に降伏。編成は , 砲兵 , 対空 , 工作 , 対戦車部隊であった。 第 2 降下師団 . 第 2 , 第 6 , 第 7 連隊で , 各 3 個大隊を擁し , 司令官はラムケ少将 , ラックナ ー少将 ( 1944 年 ) であった。 戦歴 : 1943 年の春 , 南フランス駐留の旧第 7 空挺師団から移された第 2 連隊は , ローマ近郊に 配備されて , ムソリーニ失脚後のバドリオ政権と 対決した。やがて 9 月 , 東部戦線へ移り , 第 4 パ ート師団と交替するが , 第 6 連隊のはとん フンユ どは東部戦線で壊滅してしまう ( 後に再編される ) 。 1944 年 , 再編された同師団の , フランスはプル ュ地区にあった第 2 , 第 7 連隊は , プレス 第 1 連隊 ( 第 1 降下師団 ) の経験豊かな第 3 大隊を 戦歴 : 1943 ~ 44 年 , フランスのレイム地区で , 3 個大隊の兵力。司令官はシインプ少将である。 第 3 降下師団 : 第 5 , 第 8 , 第 9 連隊で , 各 兵 , 対戦車 , 対空 , 通信 , 機関銃隊などであった。 年 , ルール工業地区で降伏している。編成は , 砲 と共にライン川の防衛戦にも参加し , やがて 1945 れられ , ノルマンジー防衛線に投入された。戦況 再編成された第 6 連隊は第 91 歩兵師団に組み入 ト港の防衛任務についたが , 7 月に降伏した。 中心、として編成され , プルター ュ地区に駐留し 1944 年の 7 月 , ノルマンジー防衛戦に出動し , サン・ローとファレーズで多大の損失を被り , 司 令官はやっと脱出した。 1944 年 1() 月 , オランダのオルデンサールで・再編 された本師団は , 防空第 21 , 51 , 53 の各連隊が中 心、となり , 12 月 , ドイツ西部のアイフェル地区か らアルデンヌ攻勢に出撃 , 機甲部隊を支援した。 1945 年 , 再びアイフェル地区に戻った部隊は , レマーゲン橋 , ルール地区の防衛を行った後 , ド イツ B 軍集団と共に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 通 信 , 重迫撃砲隊で編成されていた。 第 4 降下師団 : 第 IO , 第 11 , 第 12 連隊で , 各 3 個大隊を持ち , 司令官はトレトナー少将である。 戦歴 : 1943 年の 9 月 , イタリアのベルジアで 第 2 降下師団の一部と , イタリア軍のフォルゴー レおよびネムズー歩兵師団の志願者で編成された。 1944 年 1 月 , アンチオで連合軍の上陸阻止戦を 担当し , やがてイタリア各地戦い , 北フローレン スで大きな損失を受け , ポーゼンで米軍に降伏し た。砲兵 , 対戦車 , 対空 , 通信 , 工兵隊であった。 第 5 降下師団 . 第 13 , 第 14 , 第 15 連隊で , 司 広田厚司 ヘルマン少将 ( 1942 年 ) であ 令官はウイルケ少将 , った 戦歴 : 1943 年の 3 月 , 北フランスはレイム地 ュ地区 区にあった教導大隊を中核に , プルター にあった第 3 連隊 , 第 4 連隊の各第 3 大隊をもっ て新編成された。 1944 年 6 月 , ノルマンジーのファレーズ地区で ドイツ , オランダの空軍地上 壊滅したが , 後に 勤務兵で再編され , ルドウィグ・ヘイルマン将軍 が統卒した。最後の戦いは 12 月のアルデンヌ攻勢 ニュルンベルクで降伏している。石包 で , 1945 年 , 兵 , 対空 , 工兵 , 通信 , 重迫撃砲 , 対戦車の各部 隊を擁していた 第 6 降下師団 : 第 16 , 第 17 , 第 18 連隊で , 司 令官はプロッカー少将である。 戦歴 : 1944 年の 6 月 , 北フランスのアミアン 地区で編成され , 7 月にノルマンジー戦線に登場 , 壊滅状態となった。第 16 連隊の幹部は東プロシア に飛び , ヘルマン・ゲーリング機甲部隊の降下擲 ( てき ) 弾兵第 3 連隊指揮下に , 残存部隊は第 7 降 下師団に編入された。後に , ラインラントの戦い を経て , 1945 年の 4 月に米軍に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 対空 , 工兵 , 重迫撃砲部隊等であった。 第 7 降下師団 . 第 19 , 第 20 , 第 21 連隊で , 司 令官はエルドマン少将であった。 戦歴 : 1944 年 , オランダのビエンローにあっ たエルドマン師団と , 第 6 降下師団のパラシュー ト学校の経験者で編成され , 第 2 降下師団の指揮 下にあった。 1945 年 2 月 , 第 30 軍 , 第 3 , 第 51 歩 兵師団とドイツ本土防衛戦を行い , 連合軍のライ ン川渡河後 , 1945 年の 4 月 , ドイツ北西部のオル デンプルクで英軍に降伏した。砲兵 , 対戦車 , 対 空 , 工兵 , 通信部隊などであった。 第 8 降下師団 : 第 22 , 第 23 , 第 24 連隊で , 各 3 個大隊の兵力。司令官はワーデン少将である。 戦歴 : 1944 年 12 月 , ドイツのケルン地区で編 成され , 第 2 降下集団 ( メインデル中将 ) の指揮下 にあった。終戦直前 , ドイツ本土防衛戦に参加 , 連合軍の第 21 集団軍と戦ったが , 1945 年の 4 月に プレーメンで降伏した。工兵 , 通信部隊である。 第 9 降下師団 : 第 25 , 第 26 , 第 27 連隊で , 司 令官はプラウアー少将である。 戦歴 : 1944 年 12 月に ドイツ空軍の各種部隊 を集めた混成師団で , 1945 年の 2 月 , ベルリン防 衛に投入された。同師団の二つの大隊はプレスラ ウ防衛に使われたが , 5 月に , 同大隊はソ連軍に 降伏した。砲兵 , 対戦車 , 通信 , 重迫撃砲部隊の 編成であった。 第 10 降下師団 . 第 28 , 第 29 , 第 30 連隊で , 司 令官はフォン・ホフマン少将であった。 戦歴 : 1945 年の 3 月 , オーストリアのクレム ス・メルク地区にあった第 1 , 第 4 降下師団の一 部と , 東部戦線ダニュープ峡谷にあった第 30 連隊 で編成され , チェコのモラビアへ移動。第 1 機甲 軍団と共に 5 月にソ連軍に降伏した。不完全な砲 兵 , 戦闘工兵 , 戦闘通信部隊で編成されていた。 45
銃剣を つけた K 8K 騎銃を肩に行進する 空挺部隊 0 。優な志願兵・ = よ。て編成 された降下猟連隊 , ドイ、 , 空軍中、、も , 最も精強な部隊 して矢ロられていた
イラクリオン飛行場付近の光景。イギリス軍 の対空砲火で撃墜された , ドイツ空軍の輸送 機墜落地点から煙が上がっている。上空には , 降下中のパラシュートも見られる。 ドイツ空挺隊が , 3 編隊に分かれて降下する 通常の降下編成がよくわかる。下方に見える 四つの組み合わせ / くラシュートは , 火石包 , モ ーターサイクル , 自転車 , その他の兵器など を降下させているものである。
ドイツ軍空挺部隊の育ての親クルトシュ・ト ゥテント将軍メルクール作戦の立案も彼の 手によるもので , クレタ戦ては第Ⅱ航空・軍団 長として全降下部隊を率いて作戦を行た た . 44 年 7 月日 , 空・軍上級大将となる 少将 , - 円 44 年以降は降下猟兵軍司令官なっ 月 , 新編成の第 7 航空師団長となり , 〔略歴〕絽 90 年 5 月に日に生まれ , 同時に 円 38 年 6
シチリア島の空挺 上最大の大攻撃である。 「ハスキー作戦」の総指揮官はドワイト・アイ ゼンハワー将軍で , 海軍関係の責任者はカニン がム提督。そして , アーサー・テッダー空軍大 将が , 地中海戦線の連合軍の全航空部隊の指揮 をとっていた 有名なパットン将軍のアメリカ第 7 軍と , モ ントゴメリーのイギリス第 8 軍で編成された第 60 れていた。上陸部隊と空挺 ( てい ) 部隊による史 されてからわすか 2 か月後には , 攻撃が開始さ そして , その分裂した見解の一つの結論が承認 見解が、ともかくまとまった 1943 年 5 月である。 戦」が実施と決定されたのは , 何回も分裂した 連合軍によるシチリア島進攻の「ハスキー作 史上最大の空陸大攻撃 にもサポテンが繁っている。 な地中海に浮かぶシチリア島では , 。・砲煙の巷 シチリア島の山岳部における戦闘光景。温暖
ドイツ空軍の集団と軍 第 1 1 航空集団・ ント中将であった 戦歴 : 1940 年 , 司令官がクルト・シュトウデ 空挺 ( てい ) 部隊空輸のため , 第 7 , 第 22 空輸師団が編成され , 1941 年に , レー ル大将の第 4 航空艦隊の指揮下にあった第 7 , 第 5 山岳師団は , クレタ島攻略戦に参加している。 1942 年は空挺隊の拡充期で , 訓練 , 兵器開発が 行われ , 1943 年初期には , ドイツ国防軍総司令部 ( OKW ) の了解のもとに , 南フランスのニイメス に第 2 降下師団が駐留。後に , ローマ防衛に派遣 されている。 1943 年 3 月 , 第 1 降下軍に昇格し , 司令部を中 央フランスのナンシーに置く。その他 , 突撃連隊 ( 輸送 ) , 教導大隊 , 対空機関銃大隊 , 偵察 , 通信 医療 , 工兵部隊などと , イタリアのフォルゴーレ 連隊は , 本集団の指揮下にあった。 第 1 降下集団 : 司令官はシュレムン中将 , イドリッヒ中将であった 戦歴 : 1944 年 , 中央イタリアのアンチオで活 躍した , 第 4 降下師団および第 3 機甲擲 ( てき ) 弾 兵師団 ( 第 14 軍所属 ) をコントロールするのが目的 1945 年 , フローレンス北方で敗れ , 4 であった 月に降伏する。 砲兵連隊 11 , 突撃砲旅団 11 , 対空砲連隊 11 , 機 関銃大隊 11 , 偵察 , 通信大隊 11 , 重迫撃砲大隊 11 が参カ日している。 第 2 降下集団 . 司令官はメインデル中将であ 戦歴 : 1943 年の後半 , 第 13 航空集団司令部の あとに編成され , 旧メインデル師団を中心にして ドイツ空軍の地上部隊としての活動が主目的であ った。後に , 第 3 ( シインプ ) , 第 5 ( ウイルケ ) 降 下師団が編入された。 1944 年 7 月 , ドイツ第 7 軍の指揮下にノルマン ー戦に投入され , オマハ , ュタの海岸で戦った。 後に , ファレーズ地区で壊滅し , 司令官のみ脱出 するが , 捕虜になってしまう。 1945 年 , シュレムン中将の第 1 降下集団の指揮 下に , 第 8 , 第 7 降下師団を中心として再編準備 がなされるが , 不完全編成のままドイツ本土防衛 ノ、 広田厚司 戦に投入され , 連合軍の第 21 集団軍とライン川で 激戦を行う。 砲兵連隊 12 , 突撃砲大隊 12 , 対空連隊 12 , 機関 銃大隊 12 , 通信大隊 12 , 偵察大隊 12 などであった。 ヘルマン・ゲーリング降下機甲集団 司令官 はシュマルッ中 ) 好であった。 戦歴 : 1944 ~ 45 年 , へノレマン・ゲーリング機 甲師団 ( H G- 1 ) およびヘルマン・ゲーリング機甲 擲弾兵師団 (HG-2) を指揮下においていた。実戦 は 1944 年の IO 月 , 東プロシアでソ連軍と対決。翌 年 1 月まで対ソ作戦に従事した。特色として , 機 甲部隊と空挺部隊の、、機動性 " の協調にあった。 ヘルマン・ゲーリング大隊は 1943 年 , Åt アフリ 力のチュニジアで一部が壊滅。シチリア島で 7 月 に再編されて機甲擲弾兵師団となり , コンラス将 軍の指揮下にあった。これが H G ー 2 である。 HG 対空師団 , HG 戦闘工兵大隊 , 通信 , 医療 , 補給部隊などであった。 第 1 降下軍 司令官として , シュトウデント 大将 ( 1944 年 11 月まで ) , シュムント大将 ( 1945 年 3 月まで ) , プルーメントリット大将 ( 1945 年 4 月 I() 日まで ) , シュトウデント大将 ( 1945 年 4 月 28 日 まで ) , ストラウべ大将となっている。 戦歴 : 1944 年 8 月 , シュトウデント将軍の , 東フランスにあった第 11 航空集団が昇格し , 西ョ ーロッパにおける降下師団の新設 , 訓練の責任 , イタリア , ロシアへの補充の責任をもっていた そして , ベルギー , 東オラン・ダ地区の防衛任務に 入っており , 第 2 軍と 2 個歩兵師団を傘 ( さん ) 下 に入れてはいたが , 機甲戦力は弱いものであった しかし , 単独戦力では強力な , 戦車教導師団が含 まれていた 1944 年の 11 ~ 12 月および翌年の 1 月にかけて , 第 1 降下軍はシュムント大将に指揮されて , ドイ ッ H 軍集団 ( シュトウデント大将指揮 ) のもとでラ インの戦いに参カ日し , 4 月 , オルデンプノレクで降 伏している。 突撃大隊 , 機甲連隊の外 , 重迫撃砲大隊 21 , 工 兵連隊 21 と 3 個大隊 , 通信大隊および多数の軍学 校生徒が含まれていた。 63
3 ン第′し , ー , 4 が開始された。訓練は戦術理論から始まり , 地 形模型なども使用して徹底的に行われた。実地 訓練に入るとあらゆる作戦状況が設定され , ま ポーランド戦の興奮のさめやらぬ 1939 年 11 月 , た , あらゆる状況のもとで夜昼となく , 豪雨や ドイツ国内のヒルデスハイムの空軍基地で , ワ 吹雪のなかでもそれは続けられた。 ・コッホ大尉のもとに第 1 降下猟兵連隊 部隊の主訓練課題である近 第 1 中隊と降下工兵小隊から成る秘密部隊が編 1940 年に入ると , 代要寒 ( さい ) システムおよび敵制圧下の橋梁 成された。その名をコッホ突撃部隊と言う。 ( りよう ) に対する空からの奇襲攻撃訓練が最 この部隊に対する空軍当局の秘密保持命令は 終段階を迎えたが , 部隊全員が目標要寒内のト 部隊や訓練などについての口外 非常に厳しく , ーチカの装備や配置を夢にまで見るようになっ はもちろんのこと , 休暇を含めた基地からの一 ても , その任務目標名は知らされなかった。 切の外出が禁止され , さらに郵便物や兵士の日 しかし , もし知らされていたとしたら ? 彼 常行動についても厳重にチェックされていた らの胸のなかには大きな不安が芽ばえていただ こうして , コッホ部隊は編成されると即座に ろう。なぜなら , コッホ部隊の作戦目標は , べ 外界と切り離され , 基地内で極秘のうちに訓練 秘密部隊の誕生 24
すっかり凍りついたラドガ湖の氷上を通って , 補給を得たソビエト第 67 軍が進出していた。 零下 30 度という厳寒の中 , いたる所で激戦が 行われていた。第 7 航空師団の第 1 降下猟兵連 隊や第 3 降下猟兵連隊も , すでにレニングラー ド戦線に投入されて , それぞれ絶望的な戦闘に 参加していた。 もはや , レニングラード地区のドイツ軍には どうすることもできなかったのである。 1941 年 から 42 年にかけての冬の , ソビエト軍の猛攻を 持ちこたえただけでも奇蹟に近かった。 リーバッハ部隊の奮戦 こでも空挺部隊は激烈な戦闘の末に , おび ただしい敵の攻撃をはねのけたのである。シニ ャウィノ高地の塹壕 ( ざんごう ) 陣地を守って ーバッハ少佐の降下工兵大隊は , 信じら れないような猛反撃で , 押し寄せる 10 倍以上の 兵力の敵を逆に後退させたのだった。 いくつもの激戦の経験とかぎりない勇気を持 った彼らは , まちがいなく普通の歩兵部隊の数 倍の働きをしたのである。ネパ川の橋頭保は , 再びドイツ軍の手に戻るほどの戦況となった 1942 年の春 ソビエト軍の大反攻 1942 年の春 , 東部戦線の空挺部隊は戦地から 引き上げられ , ドイツ本国や北フランスにおい 独ソ軍の兵力の差はひらくばかりで , いかん て再編成されることとなった。ひどい損害は , ともしがたかった。チフビンのシュミット率い すでに彼らから戦闘能力を奪っていたのである。 る機甲軍団に対して , スターリンはシベリアか この冬の戦闘で , ・全東部戦線において約 3 , 000 ら移動させた精鋭師団を新たに投入したのであ 名もの空挺部隊将兵が失われていた。そして , る。 T34 の新戦車部隊が殺到した。 11 月 15 日の 彼らの多くは , ノルウェーやオランダ , クレタ ことである。第 39 機甲軍団はボルホフへ敗走し 島と言った各地で戦闘経験をつんだ , かけがえ なければならなくなった。 のない歴戦の勇士たちだったのである。 シュリュセルプルク南方のネパ川地区でも , 円 ~ 42 年の冬を戦い抜く , ドイツ空軍の降下猟兵たち。空を飛ばぬ鷲たちは , 歩兵部隊と同じであった。 ノ第 57
オランダに向かうユンカース Ju52 輸送機内のドイツの降下猟兵たち。笑顔の中にも緊迫した空気が漂う。 戦における全ドイツ軍のすべてがかけられた , 師団がそれに充てられた。 この上もな この重大で , 大胆で , そしてまた , シュトウデントは待望の目標ともいえる作戦 く困難な作戦に投入されることになったのであ 任務に賛同したが , ヒトラーは , さらに驚くべ る。当失敗は許されなかった。 き構想を立てていた。エバン・エマール要塞と アルべール運河の橋梁群は , 小数のグライダー 「グラニート」突撃隊 部隊によって奇襲 , 制圧する。そして , そのた 指揮官コッホ大尉は , 作戦にあたって自分の めの精鋭突撃部隊を至急編成せよ , という命令 部隊を四つに分けた。そのうち三つの突撃隊 が下されたのである。 シャハト少尉の指揮する「ベトン」 , アルト トなどでは見込みのないエバン・ ノヾフンユ マン中尉の「シュタール」 , それにシュレヒタ エマールへの奇襲。それを , 空軍技術局長工 . ル 少尉の「アイゼン」 は , それぞれアルべール ンスト・ウーデットが手塩にかけて開発した秘 運河にかかる三つの橋ーーーーベルトウェッェルト , 密兵器 , 輸送グライタ、、一によって音もなく要寒 ビレンホーベン , カンネーーの爆破を阻止し , 内に確実に着陸し , それに乗った特殊部隊によ その橋頭保を , 陸軍先遣部隊の到着まで死守す ってトーチカ群を破壊させる , というこの作戦 る任務に充てられた。 はとてつもなく危険なものであり , その準備は エバン・エマールの制圧には , ルドルフ・ビ 極秘のうちに進められた。 チヒ中尉の率いる降下工兵小隊 85 名が 11 機の D 1940 年 1 月 10 日 , メヘレン事件が起こり , す FS230 型グライタ、、一とともにあたることになっ べての作戦計画は変更されねばならなくなった た。そして , その名は他の隊と同様 , 暗号名で が , 作戦計画書にも記載されていなかったエバ 「グラニート」突撃隊と呼ばれた。 ン・エマールへの作戦は , そのままで実行され ることとなった。 訓練にはげんできた極秘のグライダー部隊の こうして , フランス侵攻作 コッホ突撃部隊は , コッホ部隊発進 / 1940 年 5 月 10 日 , 世界を震憾 ( かん ) させた 27
ドイツの空挺 ( てい ) 師団 第 7 空挺師団 : 第 1 連隊 ( FJ R- 1 ) , 第 2 連隊 (FJR-2), 第 3 連隊 ( FJR ー 3 ) とあり , 各 3 個大隊 の降下猟兵兵力を持ち , 司令官はシュトウデント 少将 , ピュッイガ、一少将 , サスマン少将 , べター セン中将などであった。 戦歴 : 1938 年 7 月 , ドイツで創設された最初 の空挺師団で , 当初 , 第 1 連隊 ( プラウアー大佐 ) 第 2 連隊 ( シュトルム大佐 ) の 2 個連隊のみであっ 1940 年 4 月 , 英国に先駆けてノルウェーがド イツ軍に侵略された際 , 同師団の 1 個中隊がノル デンマーク奇襲に参加したのが初 ( うい ) ウェ 陣であった 続いて 5 月 , ヒトラーの西方電撃戦 , ベルギー 攻略に必要なエバン・エマール要塞 ( さい ) 奇襲を 、イドリッヒ大佐の率いる対空 , 敢行した。後に 工作 , オートバイを含む第 3 連隊が新設 , 追加さ れたのであった。 1941 年 4 月 , シュトルム大佐の第 2 連隊は , ギ リシャのコリンズ運河橋の確保に成功し , 続いて 5 月 , 有名なクレタ島攻略戦にも参加 , 初の戦術 作戦を展開したのであった。クレタでは , イギリ ス , ギリシャ , クレタ人の各強兵と戦火を交え , 生き残りは , 後に東部戦線のレニングラード攻防 戦にも投入された。 1942 年 , 主力は北 , 中央ロシアで作戦し , 第 1 降下師団と共に , やがて 1943 年 3 月 , 南フランス へ移動 , 駐留している。砲兵 , 医療 , 通信 , 対戦 車部隊を含む編成であった。 第 22 歩兵空挺師団 : 第 16 歩兵連隊 (IR-16), 第 47 歩兵連隊 ( IR ー 47 ) , 第 65 歩兵連隊 ( IR ー 65 ) とあ 広田厚司 司令官はス ューラー少将 , ポネック少将 , ウォルフ少将 , り , 各 3 個大隊の兵力を有していた。 対戦車部隊を含む兵力であった。 砲兵連隊 , 軽 , 重戦闘中隊 , 偵察 , 通信 , 工兵 , 掃討作戦を行うが , 同年 4 月 , 連合軍に降伏した。 やか、て 1945 年 , ューゴスラビアで対ノヾルチザン で同島に駐留していた 隊となり , 1944 年 8 月まて , ビューゼ大佐の指揮 のチュニジアに送られたが , 後にクレタ島駐留部 動車化偵察 1 個中隊を含む ) , 1943 年 , 北アフリカ 戦闘部隊である第 47 擲弾兵連隊 ( GR ー 47 ) は ( 自 て知られている。 アテネの攻略戦にも参加 , 自動車化空挺部隊とし 参加している。一転して , ギリシャのサロニカ , た , 有名なセバストボリ要塞 ( さい ) の攻略戦にも テル , バグーなどで支援する作戦を展開した。ま および東部戦線で戦うドイツ第 8 軍を , ドニエス 1941 年の春には , ルーマニアの油田地区の防衛 挺師団の支援を行ったりした。 戦に参カ日 , ハーグ , ロッテルタ、、ムなどで , 第 7 空 およびスポネック将軍指揮の北方オランダ降下作 1940 年 , シュトウデント将軍指揮下の空挺作戦 地区の作戦に投入された。 1939 年 9 月 , 第 16 連隊はポーランド侵攻のズラ であった 的に通常の歩兵装備のまま , 空挺部隊とされたの 第 16 擲 ( てき ) 弾兵連隊 ( GR ー 16 ) に改編され , 試験 区の歩兵師団であったが , 第 16 歩兵連隊は 1942 年 , 戦歴 : 1934 年 , ノ、ンプノレグ , プレーメン軍管 クライベ少将 , フリーベ少将などであった ドイツの降下大隊 第 1 1 降下突撃砲大隊 . 1944 年 , 空軍地上勤務 員の志願兵で組織され , フランスで訓練の後 , ナ ンシー付近に投入されて大きな損害を被っている。 1944 年の 12 月 , 再編されて第 5 降下師団の支援に 使われ , アルデンヌの戦いで米第 4 機甲師団と戦 って大損害を受け , 後に , 連合軍に降伏している。 第 12 降下突撃砲大隊 : 第 11 降下突撃砲大隊と 経緯は同しであるが , ノルマンジーのサン・ロー の戦いに出動し , 第 3 降下師団の支援を行う。ま た , ファレーズの激戦で大半の兵力を失い , 壊滅 に頻 ( ひん ) するが再編され , 1944 年の 9 月 , 第 7 降下師団 ( ェルドマン ) の支援活動を行い , ドイツ 本土の防衛戦に参加して , 1945 年の 5 月 , ウイル ヘルムスハーフェンで降伏している。 SS 第 500 / 第 600 降下大隊 : 司令官はリイプカ S S 大尉で , 1943 年秋に , 特別使命を持つ武装親 衛隊として登場している。兵は約半分が第 5()() 大 30 広田厚司 隊から集められ , 訓練はユーゴスラビアのクラル シェポーでイわれたか、 , 1944 年 , 降下学交か、ノ、ン ガリーのパパに移転した 第 1 回の降下作戦は , パルチザンのチトー元帥 率いる山岳師団司令部攻撃であった。降下大隊の 2()() 名が 3 日間にわたり作戦を行ったが , 幹部を捕 える事ができなかった。 1944 年 10 月 14 日 , ヒトラーの直接命令により , ーによるプダベスト ( ルーマニア ) の スコノレ、ソェ 総督ポルティーの誘拐 ( かい ) 作戦は成功している。 後に , 第 60() 大隊と改名 , 1944 年の 12 月 , バルジ ーに率いられて米 の単戈いにおいて , スコノレツェ 軍の服装をし , 後方攪 ( かく ) 乱の特別任務に参加 している。 1945 年 1 月 , オーデル戦線で , ベルリンへ迫る 連合軍と死闘を演じ , SS 第 60() 降下大隊で生き残 った者は , わすか 180 名であった。