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検索対象: グラフィックアクション 第24号
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1. グラフィックアクション 第24号

モンテ・カッシノから見たカッシノ市の爆煙 イタリアにおけるドイツ軍防衛線グスタフ・ ラインの要衝カッシノは , ドイツ軍と連合軍 の決戦場となった。守るはドイツ第軍およ び第一バラシュート師団 , 攻めるは第 2 ニュ ージーランド師団と第 4 インド師団であった。 連合軍の砲爆撃に・さらされるカッシノ市。ド イツ軍のグスタフ・ラインの要衝カッシノ市 の郊外にある丘の上の修道院には , ドイツ軍 がたてこもっているとの報告に 円 44 年 2 月 日を期して連合軍は大爆撃を敢行し , 地上 では英第 8 軍が攻勢に出た。

2. グラフィックアクション 第24号

のない作戦である。そして , これまでにない大 規模な空挺部隊がこれに連動する。すなわち , アメリカ空挺部隊 1 個連隊とイギリスのグライ ダー部隊 1 個連隊が , 上陸作戦の前夜に降下し , これを助ける事である。 作戦 小島克彦 防衛する者 1 万 6 , 000 余平方のシチリア島を守る者は , ニ将軍のイタリア第 アルフレッド・グッツォ 6 軍で , 司令部は島の中央ェンナにあった。島 の防衛態勢のアキレス腱 ( けん ) は , 砂浜と主要 港を含む約 780 の海岸線だが , これをイタリ アの 6 個沿岸師団と特設海軍守備隊が一任され ていた 沿岸師団は主として予備役の将兵を中心に編 成され , 近代装備も無く , 全く機動性を欠いた 言わば恍惚 ( こうこっ ) 部隊である。頼りがいの 無い部隊にしても , ともかく数において言えば , シチリア島の防衛力は大変なものである。 総兵力 25 ~ 30 万人 , 驚異の兵力である。その 3 分の 1 が機械化されており , また , 総数の 8 分 の 1 がドイツ軍であった。しかし , 8 分の 7 の イタリア軍は退廃的で , 首までトップリと敗北 感にひたっていたのである。 止まり木のないドイツ空軍 シチリア島に対する連合軍の大進攻は , ヒト ラーを除いては意外な事ではない。 夜明けに海岸に見えた大艦隊は防衛軍を驚かせ はしたが , と言って全くの奇襲 , 予想外の攻撃 ではなかったのである。 イタリア駐留のドイツ空軍司令官ケッセルリ ンク元帥が , この年 ( 1943 年 ) の 1 月に地中海全 域のドイツ軍部隊の総司令官になって以来 , 島 には警戒態勢が敷かれていた。 6 月 20 日には , ゲーリング機甲師団も送り込 まれ , すでに島内にあったドイツ軍 1 個師団と 合流していた。さらに , 連合軍の進攻直前 , ド イツ , イタリア両軍の偵察機が , 連合軍の輸送 船さえ発見している。にもかかわらす , あの精 鋭ドイツ空軍が , 連合軍をたたく事ができなか ったのである。 理由は簡単である。攻撃に先立っ 2 か月程前 から , 連合軍によるドイツ空軍対策が繰り返し て実施されていたからである。連合軍空軍は , 15 集団軍司令官は , サー・ハロルド・アレクサ ンダー将軍である。 第 15 集団軍は , シチリア島東南部のシラクサ 北方からリカタ西方に至る約 160km 以上の海岸 線を集中攻撃して , 重要な飛行場群の占領を第 1 目標としていた この上陸作戦は , 8 個師団に近い兵力で海岸 に , それも , 開けた海岸に上陸を敢行する前例

3. グラフィックアクション 第24号

ノルマンジー上陸作戦に際し , 大挙して接岸したアメリカ軍の輸送船団。上空に要塞気球を上げ , ドイツ空軍 機の低空進入を防いでいる。しかしドイツ空軍の反撃は無かったと言ってもよいくらいであった。 への補給線が延びたためで , いすれはドイツ国 2 波のニーヴ・グループの 42 機はバラバラにな 内になだれ込んで来るに違いなかった。 り , 目的地から 10 も離れたところに降りた機 ヒトラーは , 守勢を続けていてはドイツは消 5 月 10 日の夜明け前 4 時 20 分の作戦 もあった こで大攻勢に転す 耗し切ってしまうと考え , 開始から 10 時間以上もたって , ようやく二つの ることで局面の打開を図った。その突破口は , グループは合流できる始末だった。 1940 年のフランス侵攻の突破口であったアルデ ウイトリーは午後 1 時に占領されたが , ベル ンヌ地方である。 ギーの第 1 アルデンヌ連隊との間に激戦が交わ アルデンヌに進出していたアメリカ軍の兵力 された。ベルギー軍の救援にフランスの第 5 機 は , 歩兵 4 個師団と弱小であった。アルデンヌ 甲連隊が駆けつけるなど , 一時はドイツ軍も苦 から突出して , アメリカ第 1 軍と第 3 軍の間に 戦したが , グーデリアンの第 1 機甲師団の先頭 楔 ( くさび ) を打ち込み , 西進して連合軍の重 がウイトリーに達して , ベルギー フランス〕車 要な補給基地であったアントワープを占領し , 合軍は後退した。 こうして第二次大戦の緒戦で , イギリス , カナダ軍をベルキ、一とオランダの国 アルデンヌはドイツ軍の進撃に道を開く重要な 境に追い・こんでしまう , という大胆な作戦であ 鍵 ( かぎ ) となったのであった。 った 1944 年 12 月 16 日早朝 , ドイツ軍地上部隊はい っせいに前進を開始した。 1 , 000 台近くの戦車 , 突撃砲 , 機甲 9 師団を含む 28 師団の大兵力を投 入した大作戦だったが , 1940 年当時との大きな 違いは , ドイツ空軍の弱体化に対して , 連合軍 の航空兵力がはるかに強大になっていたことで あった。しかし , 12 月 15 日からの深い霧と悪天 候は 5 日間続き , この間 , 連合軍の活動をほと んど全面的にはばんでいた。 4 年前と違って , 弱くなっていたドイツ空軍 ではあったが , アルデンヌの大攻勢に空挺部隊 は投入された。 12 月 15 日の夜 , ュンカース Ju52 二発輸送機ーー各戦線からかき集められて来 の大群は , 約 1 , 000 名の降下部隊をアメ た / ヾノレジの戦い 戦局はいよいよドイツに不利であった。連合 軍はノルマンジー上陸以後 , フランスを解放し , ベルギーのアントワープ , その他の地域からド イツ軍を追い立て , ドイツの守りであるライン 川まで達していた。東部ではソ連軍が大攻勢を 開始し , ルーマニア , プルガ、リアを開放した 1944 年 8 月ごろには , 戦争はほば終わったとい う感しを , 当のドイツの将軍たちの中でも持ち 始める者があった ドイツ軍は西部戦線で 50 万の兵員を失い , 戦 車 , 火砲 , 車両のはとんどを失っていた。西部 戦線での連合軍は , ライン川を境にドイツ国境 で進撃を停止していたが , これは後方から前線 82

4. グラフィックアクション 第24号

0 北アフリカに遠征し , 気勢の上がるころのイタリアのファシスト統領 , べニト・ムソリ 側は俄 ( が ) 然緊張した。イタリア軍が連合軍 から奪還して , 北イタリアにファシスト政権を 樹立させ , ドイツ軍の背後を脅やかすレジスタ といっしょになって , ドイツ軍に襲いかかって ンスの鎮圧のために利用することを考えていた くればどうなる。 のである。 ヾドリオ側の反応は鈍く , いっっに そのような動きは見せようとしなかった。連合 軍側とバドリオ政府との間に , 休戦協定が結ば れたのは 9 月 3 日のことであった。 ドイツ軍はイタリア南部を放棄し , 北イタリ アに防衛線を敷くことを考えた。そして , イタ リア半島を攻めのは、ってくる連合軍はローマの 南でくい止められ , ドイツ軍はイタリア軍の武 装を解除し , 南ヨーロッパ防衛のための貴重な 時を稼 ( かせ ) ぎ出したのである。 ヒトラーは , ムソリーニをバドリオ政府の手 救出作戦 ニは捕われている。ドイツの諜 ( ち よう ) 報機関は活動していた 1943 年 8 月の半 ばにはムソリーニは地中海に浮かぶサルジニア 島に近いマッダレーナ島にいた。艦艇と空挺隊 で同島を襲撃する計画は , 実行に移される前に ニが別の場所に連れて行かれていた。 ニは高い山の頂きに幽閉 9 月初め , ムソリ こんどの場所は島と違って , ふつ されていた 、 - 0 70

5. グラフィックアクション 第24号

ラドガ湖 レニングラードと近郊図 レニングラード フィンランド湾 ・ 1941 年 9 月ベトリュシノ プルコオの丘 ウリーック 両橋頭保へのソ連軍の進出 ″ 10 月ウィポルグスカヤ よって生した間隙 ( げき ) をついて , シュリュセ 56 このような激戦はもはや各地で起こっていた。 チフビン進出とルガ橋頭保 ちらかだった。 隊の士官は , 残らす戦死するか負傷するかのど ある。この戦闘でシュテンツラーは戦死し , 大 ぎにし , ソビエト軍を対岸に押しもどしたので 第 2 大隊は , 、ネパ川に進出した橋頭保を根こそ 隊は勇敢に防戦した。高い代償を払いながらも に対して , シュテンツラー少佐の率いるこの大 いたか、 こでも死闘だった。押し寄せる大軍 空挺部隊の行くところ必す激戦が待ち受けて 地を戦い抜いたべテランだった。 彼らはクレタ島最大の激戦地 , マレメと 107 高 部隊突撃連隊の第 2 大隊はそこにいたのである。 たちがいたのだ。マインドル少将指揮下の空挺 言え , ドイツ軍きっての精鋭部隊と歴戦の勇士 しかし , 彼らの前面には , 数こそ少ないとは グラードへの圧迫を取り除くかと思われた。 イツ第 16 軍を押しつぶし , けちらして , レニン 襲った断え間のない波状攻撃は , ムガー帯のド ドイツ軍陣地を に橋頭保を築くのに成功した。 ルプルク南西部でネパ川を渡り , ベトリュシノ シュリュセ丿レプノレク 第 67 軍 ソビエト ネパ川 ムガ ロフ道 ンニャウィノ高地 コノレピノ 力の点で考えるなら , 必すそうなるに違いなか は一挙にたたきつぶされてしまう。そして , 兵 成功すれば , レニングラード前面のドイツ軍 絡をとろうとしているのだ。 せ , ポルホフ戦線の第 59 軍及び第 2 突撃軍と連 ノ高地を奪取してシュリュセルプルクを孤立さ う ) のような激しさでやってきた。シニャウィ なかのシニャウィノ高地に向かって , 怒濤 ( と ヤの橋頭保から進出し , 雪に埋まった原生林の は , ネパ川を渡って再び築いたヴィボルグスカ レニングラード解放をめざすソビエト第 67 軍 険は目に見えていた。 から機甲部隊が離れることになるのである。危 撃を開始した。しかし , ただでさえ手薄な戦線 15 日 , 4 個師団をもってポルホフ川を渡り , 進 完全に封鎖するという大胆な作戦をたて , 10 月 ランド軍と合流し , レニングラード地区の敵を ンを占領後 , スウィリ川に出て , そこでフィン 道も無い北ロシアの森林地帯を突破し , チフビ そこで , シュミット将軍の第 39 機甲軍団は , する脅威はなくならないのである。 全に孤立させないかきり , ドイツ軍橋頭保に対 レニングラード及びその北東のソビエト軍を完 ドイツ第 16 軍

6. グラフィックアクション 第24号

地中海全域にわたるドイツ空軍の軍事目標を痛 撃しており , 飛行場の滑走路は破壊されていた。 さらに , 戦闘機を除く攻撃機 , 爆撃機などは , 6 月中にすべてイタリア本土に移送されていた のである。 に対し , 果敢な行動を開始したのはこのドイツ 軍グループであり , 連合軍の進攻後 2 ~ 3 日の ドイツ第 1 降下師団がシチリア島への進 駐をしている。 第 1 降下師団の 2 個連隊が , 自軍の戦力補強 に着陸して間もなく , 全く同し地点に連合軍空 挺部隊が着陸したのである。それは , イギリス のグライダー部隊であった。 シチリア島東部の防衛軍は , リポルノ軽師団 一足先に着地していたドイツ第 1 降下師団 2 およびナポリ歩兵師団などの他に , ドイツの 1 個連隊の攻撃が始まった。着陸姿勢で入ってく 個戦闘旅団 ( シュマルッ機動部隊 ) と , 100 両の るイギリス軍のグライダーに向けての集中砲火 戦車を持っゲーリング機甲師団で固められてい である。猛烈な砲火の中で , グライダーは穴だ たのであった。 らけになり , 火を吹いて地面に激突して行く。 これらは , カルカニセッタから島の東南端を 乗員も空挺隊員も , もろともに燃え盛り , 転倒 経て , カタニアまでの守備陣地を敷いており , するグライダーの中で全滅したのであった。 約 3 万のドイツ軍である。そして , 戦闘開始と このドイツ軍兵力の増強もあって , ェトナ山 同時に 2 個師団が補強され , 当初の戦力の約 2 塊を確保したゲーリング師団と , その西北の工 倍になっている。その 2 個師団とは , ドイツ第 トナ陣地を , 他のドイツ軍部隊と第 1 降下師団 29 機甲擲 ( てき ) 弾兵師団と第 1 降下師団で , 同 2 個連隊とで固め , 1943 年 7 月 23 日現在でシチ 一時期に存在したドイツ軍兵力の , 最高の数字 ドイツ軍と連合軍とで , はば 2 分 リア戦線は , と言える。 戦闘開始と同時に始まったイタリア軍の脱落 されていた ュンカース Ju52 / 3 m 輸送機に乗り込むドイツの空挺隊員。ジャンプ・スーツに迷彩スモックを着 , 迷彩カバー をしたヘルメットをかぶっている。背には落下傘を背負い , ひざにサポーターを付け , ジャンプ・プーツをは いた完全装備のノヾラシューターたちである。 間に 独 , 英空挺部隊の鉢 ( はち ) 合わせ

7. グラフィックアクション 第24号

クレタ島へ向かう輸送機内のドイツ軍降下部隊の兵士たち。向かって右端には曹長がすわっている。 がである。 ではなく , 上層部にあった」 クレタの戦闘は , その色とりどりの人種の集 戦史の上から , クレタ島の空からの戦いは , 団が戦闘に参加したと言う点でも , ごくまれな それ以前にも以後にも全くみられないーっの島 戦闘だったと言える。島の , 勇敢できわめて反 が , 空軍力で征服された戦闘のケースである。 ドイツ的な住民マオリ族 , オーストラリア人 , しかし , 戦うべくして戦われた戦闘であるとは , ギリシャ人 , パレスチナ人 , キプロス人 , など 少なくとも戦略上では言えない戦闘であった。 である。 クレタ島へのアプローチ ギリシャの軍隊 , 準軍隊の合計は 1 万 5 , 000 名 , そのうち 1 万 1 , 000 名が軍隊 , 約 3 , 000 名が 1941 年 4 月の終わり , イギリスのウェーベル 武装憲兵 , 残りがギリシャの士官候補生からな 将軍がクレタ島を訪れている。 3 週間以内に っていた。人員の点でのクレタ防衛軍の総数は ドイツ軍のクレタ島攻撃が開始されることを将 約 4 万 2 , 000 名で , その内 , イギリス兵は 1 万 軍は予期していた 7 , 000 名余りである。 ギリシャの勝利に酔っていたドイツ軍は , め ドイツ諜報部の調査より , はるかにクレタ島 すらしくその秘密主義をゆるめ , その間げきを 防衛軍の人数は多かったが , 武器 , 弾薬の不足 縫ってイギリスの諜 ( ちょう ) 報網が暗躍した。 たとえば , は極端にはげしいと言ってよかった。 ドイツ第 11 航空団の活発な動きと , ドイツ側が , 最も多い時の航空機数で 36 機 , しかも , その大 ギリシャ諸港で小舟艇を集めている , との情報 半はギリシャ作戦で破損したもので , 使用に耐 ドイツ側の状況はほば推定でき をきっかけに えられるのは半数にも満たなかった。 たのである。 せまい海をへだてて , ドイツ軍は勝利の自信 しかし , クレタ島ではすべてが混乱していた に満ちみちている。ドイツ空軍とイギリス海軍 イギリス軍および本国から撤退したギリシャ軍 , の対決は , このような状況下で始まることにな そして , 島内のさまざまな人種の集団などなど

8. グラフィックアクション 第24号

ムソリーニの没落 連合軍の反攻で , さしもの猛威をふるったナ チス・ドイツのヨーロッパ支配に , あちこちで 穴があき始めた 1943 年 , イタリアの支配者へ ニはめつきり弱気になっていた この年の 5 、月 , 北アフリカのドイツ・イタリ ア枢軸軍の残存部隊はチュニジアに追いつめら れて降伏し , イタリアにおけるファシズムはい まや崩壊しようとしていた。国内にも軍の内部 68 1943 年の 7 月 10 日には , 英米軍はシチリアー 識人の間に拡大していたのである。 反ファシズムの統一戦線が , 労働者 , 学生 , にも厭 ( えん ) 戦 , 反戦気分が広がっており 知 0 0 上陸 , 戦争はイタリア本土に足をかけて来た。 7 月には , 戦争が始まって以来はしめて首都ロ ーマが連合軍の昼間爆撃を受けている。 いまや , イタリアのファシズムは完全に国民 の信頼を失いつつあった。ファシスト党員から ニは見捨てられ , かってムソリ さえもムソリ ニ自身が得意げに率いていたファシスト党の 会議そのものさえ , ムソリーニの指導の誤りを 非難し , 議会制立憲民主主義への復帰と国防軍 の指揮権を , 国王に返還する事を求める決議を 行ったのである。 1943 年 7 月 25 日 , ムソリーニは国王に呼び出 され , ドゥーチェ ( 指導者 ) の地位を罷免され て手もなく逮捕され , 彼の身柄は救急車で警察

9. グラフィックアクション 第24号

挺部隊 レニングラードへの猛進撃 総統指令 21 号「バルバロッサ作戦」によって , 1941 年 6 月 22 日に開始されたドイツ軍の対ソ戦 は , 初めのころ , 崩壊するソビエト軍防衛線を まえに圧倒的な成果を収め , フランス電撃戦の 再来を思わせるかのように進行していた。 レープ元帥の北方軍集団の主力であるヘープ ナー将軍率いる第 4 機甲集団は , 数々の困難に 遭遇しながらもソビエトの果てしない大地を快 進撃し , 9 月 8 日にはシュリュセルプルクを占 領し , さらにウリーックも手中に収めて , レニ ングラードまであと数というところまでせま った。レニングラードはもはや攻略されたも同 然だった。 ( この間の経過については , 本誌バックナンバー 「モスクワ侵略台風作戦」と「レニングラード攻 防戦」に詳しいので参照下さい ) 攻撃を中止せよ ところが 9 月 12 日 , 第 4 機甲集団の全部隊は 耳を疑わねばならなかった。レニングラードは 占領せす , 包囲封鎖せよ , と言うのである。ウ クライナの穀倉地帯に欲を出したヒトラーは , 今になってこの重要な部隊を , 中央軍集団に配 属させることを決定したのだった。 第 4 機甲集団と第 1 航空軍は , こうして 9 月 17 日 , レニングラードを目前にしながら転属の ために , 南進しなければならなかった。 残った部隊には , 攻撃を中止するなどと言う ことは到底考えられなかった。目標はあくまで レニングラードの占領であると信じていた。そ して , 9 月 17 日にはプルコオの丘が , 9 月 20 日 には , 傑作戦車 T34 の製造で知られる大戦車工 場のあったコルピノが , 彼らの手によって占領 された。 クレタの鬼たち 事情が明らかにされるとドイツ軍残留部隊は , このいまいましい命令にあきれながらも封鎖を 徹底し , 堅固な橋頭保を築くための作戦を開始 しなくてはならなかった。 ソ連軍の猛攻撃を少 ない兵力で持ちこたえるには , そうする以外に なかったのである。 ところが , やはり数のうえで圧倒的優勢なソ ビエト軍部隊は , ヘーブナー機甲部隊の移動に 牧村宜治 一流の復讐 ( しゅう ) として , なお一層の地獄を 探して空挺部隊に用意していた。死傷率が高か ったクレタの空挺部隊は , さらに死傷率のひど い東部戦線の凍 ( い ) てつく最前線へ , 外ならぬ 地上部隊として送られることになったのであっ とは言え , ヒトラーの用兵がまんざら誤りと は言えなかった。緊迫する東部戦線では実際の ところ , 優秀な部隊を限りなく必要としていた のである。 55

10. グラフィックアクション 第24号

4 投降する英軍兵士。フレイバーク少将率いるクレタ島守備部隊は , ドイツ軍の攻撃を予期して果敢に防戦した が , ドイツ空軍の猛爆撃と空挺部隊の突撃のまえについにカ尽き , 撤退せざるを得なかった。 ギリス軍の力が限界に達し , 戦局は絶望的であ イギリス軍の撤退開始 一部でも る。全員が脱出することは困難だが , そうさせたい」とウェーベルに連絡した。 危険な脱出 1941 年 5 月 23 日 , 夜が明けるころには , マレ メ東方の疲れきったイギリス軍の全員撤退が終 わっていた。飛行場の後方 llkm の地点である。 ドイツの輸送機は , たえまなく補給品を積ん でマレメ飛行場に舞いおりて来ている。それは , イギリスの補給し得る唯一の港スーダ湾から数 しかはなれていない地点であった。 レテイムノンとイラクリオンでは , 主要な戦 いとは関係のない , 局地戦がくり返されていた。 その戦いも時がたつにつれて , イギリス軍の敗 色は濃くなって来ている。 そんなころ , チャーチルはフライバーグ将軍 にこんな電報を打っている。「全世界は偉大な運 命をかけた諸氏の , すばらしい戦闘を注視して マレメの陥落は , クレタ島防衛軍の敗北を決 5 月 25 日おそくに , フラ 定づけたようだった。 こう報告した。「戦線は ーグはウェーベルに 失われ , われわれはその固定化をはかってい 私は憂慮している」 5 月 26 日の午前 9 時 30 分 , フライバーグは「イ 後世に残るシチリアのドイツ軍の撤退とはう イギリスのクレタ撤退には慎重な計 らはらに 画はなかった。インスタントな計画と勇気。イ ギリス海軍だけが頼りである。 ドイツ空軍のために大きく痛めつけられたイ ギリスの海軍力が , 最後の力をふりしは、っての 撤退作戦は果たしてなるか ? カニンガム提督 は , イギリス海軍の伝統のためにも , これは決 行しなければならないと決心していた。 険しい山を越えた南の小漁村スフアキアが , スーダ , カニア , マレメから撤退した兵士の集 合地となった。レテイムノンからの兵士はプラ カ湾で , イラクリオンは直接 , とそれぞれ方法 は決まっている。 空には , ドイツ空軍がたえず旋回しながら監 視している。山を登る兵士たちのカーキ色の軍 服は , 飛行機の爆音をきくとたちまち岩陰に姿 を消す。そんなことをくり返しながらイギリス 43