工ル・アラメイン戦線に散開する第戦車師 団の車両群。円 42 年 6 月 , ロンメル軍団はす べての力をふりしばってエジプトへと突進し た。目標はアレキサンドリア。距離にしてあ と約 lOOkm だった。 ルウェイサトの戦闘で , ドイツ軍対戦車砲に よって撃破され , 炎上する英第 8 機甲師団の 歩兵支援戦車バレンタインⅡ型。速度と武装 火力の不足という欠点はあったが , 装甲防御 力と信頼性の高さから , 工ル・アラメイン戦 線には戦車部隊の主力となって登場した。
ース Ju52 輸送機が飛んでいる。海面の飛沫が , 戦闘中を物語っている。 地中海での戦闘。超低空をユンカ 襲が行われる , という偽の無電を打った。これ 攻めと守りと を信じたイタリア艦隊は , 大急ぎで反転して去 ロンメルへの枢軸側の補給線を脅やかすと同 ってしまった 戦後 , この事件についてイタリアの提督のひ 北アフリカの戦いを有利にするには , ど 時に とりは「目隠しをされてチェスをするようなも うしてもドイツ空軍から連合軍の艦船を守るこ のだった。こちらにはイギリス艦隊の所在がわ とが欠かせないことであった。 こちらの所在も編成も , イ からなかったのに エジプトのアレキサンドリアやジプラルタル ギリスには筒抜けだったのだから」ともらした から , マルタに向けて地中海を航行するイギリ という。 スの輸送船団は , ドイツ空軍の爆撃やイタリア 青い空に 8 , 00()m 以上の高空で発生しやすい 艦隊の砲撃で大きな損害を被ることがしばしば 白いコントレール ( 飛行機雲 ) をひきながら飛ぶ だった。 写真偵察機は , このようにイギリスのウォー 1942 年 2 月には , アレキサンドリアからの合 マシーン ( 戦争機構 ) の眼であった。 団 MW 9 は , クレタ島のドイツ空軍爆撃機のた 1 万 m 以上の孤独なフライトは , 高度と速度 6 月に出 めに壊滅的打撃を受けている。また , を唯一の武器とするもうひとつの闘いであった 航した船団は , タラント軍港を出港したイタリ 空中戦闘の華やかさも , 戦略爆撃の勇ましさも ア艦隊の所在をつかめなかったために , 途中か ない , 目立たない戦争である。故障や , 敵機に ら引き返すはめになった。 襲われて , ただひとり何の消息もなく生命を落 このため , 8 月にジプラルタルを出航した船 とすことのある , 孤独の闘いである。 団の安全を図るための写真偵察は入念を究め , しかし , 解像力の高い優秀なレンズと長焦点 パレルモの二つのイタリアの軍港だ タラント , のレンズで , フィルムに刻まれた映像からドイ けでも , 4 日間に 9 回の写真偵察が PR スピット ツや日本の敗戦のきっかけが生まれてきたこと ファイアによって行われた を考えれば , この闘いで世界を 1 歩リードした その結果 , 船団に向かって進んでいた 6 隻の イギリスは , レーダーのほかにもうひとつの武 重巡と 6 隻の軽巡から成るイタリア艦隊が , 砲 器を手にしていたといえるだろう。 撃距離に入る直前 , イギリス海軍は大規模な空 79
北アフリカの空を イタリア空軍のフィアット 0 日 42 戦闘機。 はじめに 世界地図を出して , 地中海の占める位置を見 てみるが良い。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸 を北と南にへだて , 東西の出口をしばられたか たちのこの海は , 古くから歴史の中で貿易の海 であり , 戦争の海であった。この地図の上に 第二次世界大戦当時の戦争参加国の植民地や版 図を重ね合わせてみれば , 地中海の重要さはい っそう明らかになってくるだろう。 イギリス海軍はこの地中海の制海権を握って おくために , かなりの兵力をここに投入してい た。地中海の東西の出入口 , ジプラルタルと工 ジプトのアレキサンドリアに軍港をおき , イタ 戦端を開くと , それまで静観していたイタリア 1940 年 5 月 , ドイツがイギリス , フランスと ( ゆだ ) ねておくわけにはゆかなかった。 くために , 地中海の制海権をイギリス海軍に委 トリポリタニア ( 現在のリビア ) を経営してゆ 北アフリカに領有していた植民地キレナイカ , 中海に集中していた。タラントに大軍港を築き , ることだった。イタリアはその全海上兵力を地 同しようなことは , イタリアにとっても言え めに , 手放すことのできない海であった。 そして中東の石油 , スェズ運河の通行を守るた リスにとって地中海は , 勢力範囲を守るために ルタ島には , バレッタ軍港を構えていた。イギ リアののどもと近くにつきささる位置にあるマ
にあることがわかっていた。全兵力を北部に集 アラメインの戦い 中してこれを迎え討とうとしたが , 南部戦線に 10 月 24 , 25 日の両日 , ドイツ第 15 戦車師団が も同時攻撃が加えられるのではないか , という 数回にわたり反撃を試みたが , イギリス空軍の 心配が頭をかすめた。結局 , 南部の兵力を北へ 爆撃と砲兵の火力に大きく痛めつけられている。 すべて移動させたのは 27 日になった。 この時点で , 第 15 戦車師団の 119 両の戦車中 , 27 日 , 南から移ったドイツ第 21 機甲師団は , 使用可能のものはたった 31 両になっていた かろうしてもちこたえている第 15 機甲師団と共 10 月 26 日の朝 5 時 , ロンメルが指揮官車に搭 に , 侵入してくるイギリス軍の中に突っ込んで ( とう ) 乗した。その前日 , ロンメルがウィーン 行った。イギリス軍の猛砲火をくぐりぬけて戦 空港を出発するころ , モントゴメリーはある地 車戦に入り , これを撃退したが , その力もそれ 点をねらっていた。 28 高地である。 までであった。装備も兵力も , あまりにも違い 平和な時代ならば誰も見むきもしない貧弱な すぎるのである。 ーにぎりの土地は , 空から地上から , 火の雨を それからの数日 , ドイツの戦力はイギリスの 降らされていた。そして , ロンメル着任の日の それにくらべ , 問題なく劣っていることを裏付 夜半 , この北部重要拠点 28 高地がイギリス軍の けている。アフリカの戦場は , 少なくとも空は 手に落ちた。 イギリスの飛行機 1 色であり , それが夜昼とな ドイツの第 105 戦車師団 , イタリアのリット く , 爆撃と銃撃をくり返して行くのであった。 リオ師団 , それに , ベルサイユ大隊が攻撃を開 10 月 30 日の夜になって , モントゴメリーの「ス 始したが , 28 高地は奪取できなかった。以後 , ーチャージ作戦」が開始された。北部大突 28 高地はイギリス軍の作戦上の重要拠点になっ 破作戦である。 ている。 1 時間の大砲撃が終わると , オーストラリア ドイツ軍の攻撃は , 接近戦になる前に砲撃と 軍が攻撃を開始し , ドイツ第 125 連隊を釘づけ 空からの爆撃で打ち破られていった。ロンメル にしておいて , 南方からその側面を包囲攻撃し て来た。同時にイギリス軍機甲部隊が 28 高地の の眼には , イギリス軍の最重要ポイントが北部 イキリス軍の追撃 ( 1942 ~ 43 年 ) トルコ 島 冫毋 中 0 ミスラタ ( 1 月四日 ) 〕〔ハルファャ峠行月Ⅱ日 ) 0 ハルジア トプルク ( Ⅱ月日 ) べンガジ ( 11 月 19 日 ) アレキサンドリア 0 エル・アラメインプ ジ 工 0 フカ 0 マルサ・マトルー 1 ア タ 0 シルテ ( 貶月幻日 ) ポ 0 アジェダビア 0 エル・アゲーラ 0 エルノフィリア ( 1 月 7 日 ) キレナイカ