ーター戦闘機。 グロスター・グラティエ 田田出 8032 ーン戦闘機。 ホーカー・ハリケ 0 は , SM82 から発達した雷・爆撃機であ おき , ェンジンを 3 基装備した 3 発機が多かっ った。襲撃機としては単発 , 単座のプレダ Ba65 たのも大きな特色である。 があったが , 緒戦でほとんど消耗し , 目立った 1940 年のイタリア爆撃機のうち , すでに旧式 活躍はない。 になっていたが双発のフィアット BR20M 一般にいえることは , イタリア空軍は爆撃機 ちおう近代的な設計のものだった。 には力を注いでいたが , 機体そのものは防弾や カント Z 1007 は木製のスムースな胴体の線を 武装の面で弱点があり , 性能の面でも高出力の もつ 3 発の爆撃機だったが , なんといってもイ ェンジンに恵まれなかったため , 双発クラスの タリアの代表的な爆撃機はサポイア・マルケッ 機体に三つのエンジンをつけ , 中途はんばな機 ティ SM79 である。空冷ェンジンを機首と両主 体が多かったといえる。 翼につけた 3 発機で , 爆弾倉の中に魚雷 1 本を 搭 ( とう ) 載でき , 爆撃にも対艦船攻撃にも使用 イギリス空軍 できた , イタリア空軍の主力機であった。 サポイア・マルケッティ SM82 は , 同様なアレ ンジメントをもつ機体であるが , 輸送機として 前線への補給に活躍した。武器弾薬 , 食糧など の輸送に多用されたが , 北アフリカでの枢軸軍 の旗色が悪くなり , 海上輸送が連合軍に制圧さ れてからは , 空路補給が命綱になったが , 同時 に損害も大きくなり , 枢軸側空軍の輸送機陣と して大きな損失を被った , ュンカース Ju52 / 3 m とよく似たもの同士といえよう。 SM84 イギリス本土上空で , 死力をつくしてドイツ 空軍と戦っていたイギリス空軍は , 第一線機を 地中海方面に割くことは , 北アフリカの戦いの 初期にはできない相談だった。したがって , 初 期の空中戦闘の重荷をになったのは , 複葉のグ ロスター・グラディエーター戦闘機とホーカー ハリケーンであった グラディエーターはフィアット C R42 と同じク ラスの機体だが , 武装の面でややまさり , 87
マッキ MC200 戦闘機。 サポイア・マルケッティ SM79 爆撃機。 ー朝 機 送 撃 イ テ ケ レ マ イ ー一ス工 3 瞽ド物“ " = 0 第。、第夸弩罩ツ : 簽・ " 、 ・な当朝再物諸第第韆物物蹴い話盟物物第疉蟻、を 攻撃に用いられた。 り合えたのは本機くらいのものではなかったろ フィアット G 50 は空冷星型ェンジンを装備の うか。戦線に姿を現したのは 19 41 年の終わりこ 単座戦闘機で , イタリアが戦闘に参加したとき ろからである。イタリアでライセンス生産をし に保有していた近代的戦闘機のひとつだった。 た DB601 液冷工ンジンを MC2()() の機体に装備し 性能的にはとりたてていうほどのものではなく , たこの戦闘機は , コックピットも密閉式となり , とくに , 武装が 7. 7mm 2 丁と貧弱なことは , 本 速度 , 高度ともに Bf1()9 やスピットファイア級 機に限らす , イタリア戦闘機の共通した弱点だ の性能にグレード・アップされたが , 武装だけ った は相変わらす貧弱であった。 マッキ MC200 はイタリア戦闘機中で , 地中海 このほか , 北アフリカ戦線に登場したイタリ 方面で最も活躍した部類に入る代表的な空冷ェ ア製戦闘機には , レジアーネ Re2000 や , 在来機 ンジン付きの単座戦闘機である。ェンジン・ナ 種の性能を向上させた MC205, フィアット G 55 , セルをできる限りしばったため , シリンダー Re2005 などがあるが , イタリア空軍はドイツの ヘッドの部分がイボのように出ており , 独特の ミット B f109 で戦闘中隊を編成す メッサーシュ カウリングの形状をもっている。初期生産型は するなど , 戦闘機の機材に恵まれていなかった。 密閉式キヤノピーだったが , のちに前面と側面 戦闘機に関しては , イタリア空軍はドイツ , イ だけががラスで覆われ , パイロットの頭の部分 ギリスの空軍に比べて一流品しか持たなかった だけ開放式となっていたのが , 世界でも珍しい たといえるだろう。 形式である。 イタリア空軍は海洋が主な戦場となることを MC 200 のエンジンをダイムラー 予想していたので , 爆撃機を偵察 , 雷撃など , ・くンツの DB601 に換装したのかマッキ MC202 で , 北アフ 多用途に用いることができるような方針で装備 リカの戦いを通して , まともに連合軍機とわた していたのが特徴であった。航続力にも重点を 86
< 2 機編隊で旋回するドイツ空軍のメッサー シュミット Bf 田 9E4 / T 「 op 戦闘機。機首左側の 過給器用空気取り入れ口に防塵用フィルター を装備して , 砂漠の砂からエンジンを防護す る熱帯型である。塗装も , 砂漠とブッシュの 色に溶けこむように , 明るい土色にグリーン のはん迷彩にしている。所属部隊は北アフリ 力で勇名をはせた JG27 ( 第 27 戦闘航空団 ) の ものである。 ' を第を
到来する砂嵐 ( ジプリ ) 。あたりを一瞬にして 変えてしまう魔のひとときである。Ⅲ号戦車 のエンジン丿レームと石包塔キューホラ・ / 、ツチ のうえにはカ / ヾーがかけられ , 戦車兵はテン トのなかへ避難する ~ 朝第ンッ第朝三 ~ ヾ旅一 丘の斜面を利用してつくられた戦車師団の司 令部。敵の空襲を避けるため , DAK の戦闘指 揮所はこうして地面の下にもうけられていた。 手前を走り抜けるのは本部付軽戦車小隊のⅡ 号戦車。左は I 号戦車である。
円年の貶月 , クルセーダー作戦に敗れたド イツ機甲師団の残がい。手前はⅣ号戦車 D 型 らしく , 転輪が燃えている。後方にはⅡ号戦 車も煙を吐いており , ほかにも兵器の残がい が散在している。 焼けこげて放置されたドイツのⅣ号戦車 E 型。 Ⅳ号戦車は , 円 42 年初めにおいては重戦車と して主力の位置にあったが , 他のドイツ軍戦 車同様 , ガソリン・エンジンのため火災には 前に落ちているのは , 操縦手席前 弱かった。 に装着されていた 30mm の増加装甲板である 第第物イ
を 第 進撃して来るイギリス軍の Mk. Ⅱ歩兵戦車「マチルダ」 決戦 / ハルファヤ峠 6 月 15 日の午前 4 時をまわったころ , リリ からいっせいに弾丸が吐き出された。命中 / 発射音が空気をひきさき , 陣地の砲という砲 「撃て′」 的はマークⅡ戦車である。 彼の指示であった。 っていた 「ひきよせるだけ , ひきよせろ」が 砂しんがみえる。バッハ隊長は 88mm 砲の横に立 工ンジン音が大きくなり , 双眼鏡内に黒点と は , 70 度以上にもなるはすである。 度 ( 摂氏 ) となり , 太陽に焼かれた戦車の鉄板 あたりは昼間である。気温は , まもなく 41 ~ 2 るいか , 暗いかであり , その中間はない。 アフリカの昼と夜は , 電燈の点滅のように明 りがたい音である。 ことから解放された彼等にとっては , むしろあ に , 戦車のエンジン音がとびこんできた。待つ マルレンを聞いているハルファヤ峠守備隊の耳 こではイタリア軍の戦いもみごとだった。 クケースがもぎとられた。 88mm 砲の威力である。 マークⅡの下腹がむき出され , 鋼鉄製のクラン の群れ。 場を攻めこんでくる。やがて太陽が沈み , 戦い 11 旅団 , イギリス第 22 近衛旅団がまっ平らな戦 イギリス歩兵の突撃がはしまった。インド第 ついて撃っている。 パルディ自身も砲にしがみ 兵隊がねらわれた。 はハルファヤ峠に降りそそぎ , 特にパルディ砲 太陽は地平線にまもなく沈む。しかし , 砲火 補給基地として手中におさめたいのである。 ントを奪い , 海岸道路を制圧し , サルーム港を イギリス軍も執ようだった。この最重要ポイ ものだったようだ と呼んだのは , シャレにしても実感のこもった ハルファヤ峠をへル・ファイア ( 地獄の炎 ) 峠 のかもしれなかった。これ以後 , イギリス兵が 包み込む 88mm 砲。それは , まさに地獄の光景な 車や進撃するイギリスの歩兵を , 火炎と砂煙で ドイツ軍陣地の前で燃えあがるイギリスの戦 Ⅱなのである。 は , まともにねらってはビクともしないマーク マークⅡの腹ばかりをねらっていた。 2()mm 砲で がらも沈着に行動するパルディ少佐の指揮下で , パルディ砲兵隊は , イギリス軍の砲火をあびな
このように陣地に設置すれば 北アフリカで誰ひとり知らぬ者のない 88mm 高射砲の砲撃。姿勢の高い 88mm 砲も , カムフラージュは完全だ。砂漠ではかげろうの作用で , 地上ー m 程のものは田 0m と離れないうちに全く見えな くなってしまうのである。 ス戦車のエンジンがうなりはしめた 第 5 機甲連隊が南南東に配備された。 一方 , ハルファヤ峠では , ドイツの工兵が陣 正面から徒歩攻撃を加えた第 104 狙撃兵連隊 地の補給に汗をながしていた。塹壕 ( ざんごう ) は , 当初の指揮官を失い , 中隊長のウイルヘル やタコつは、を堀る作業以外に , 88mm 砲のすえ付 ム・バッハ大尉がその後任になっていた。通称 けという大仕事があった。 ドイツェ兵は , これ 「牧師」 , 実のところ , 彼は本物の牧師だったの には特に念を入れている。 である。自分でできないことは人に要求せす , 砂漠 ( さばく ) 特有のかげろう現象で , 地上か 命令もしないこの軍人を , すっと後になってか ら 1 m 位まではほとんど見えないが , それより らイギリスの新聞では、、ハルファヤ峠の英雄 ' ' 高くなると , 逆に実物より大きく見える。これ と呼んでいる。 を利用して , 88mm 砲の台座は穴を堀って作られ , 正面で立ち向かうイギリス軍は , 彼等の誇る 砲身が 1 m 以内の高さにあるようにする。偽装 精鋭ゴールド・ストリーム第 3 大隊だったが , 装備である。 この古風な第 104 狙撃兵連隊の銃剣をかざした ハルファヤ峠の守備隊長バノハ大尉に , その 突撃にとまどいながらも , しばらくは持ちこた 前日の 14 日夕刻 , 野戦電話がかかってきていた えたが・ 峠はふたたびドイツ軍の手にかえり , 来たる のであった。 「様子がおかしい , 敵の攻撃がある。今夜か明 べき時のための強化が始まった。チャーチルの 早朝だ」 いう「戦いの斧」が振りおろされるまでには , イギリス軍の攻撃は , 海岸沿いの平地と高原 まだ 3 週間ばかりあった。 の両方から , 広い正面にわたり攻撃してきた。 バトル・アクス・ D ティ 午前 11 時には , ドイツ軍も応戦準備を完了して 1941 年 6 月 15 日午前 4 時きっかりに いる。 イギリ 44
追いつめ , 壊滅させることも可能であるとロン メルは考えていた 幸いにも当分の間は , モントゴメリーの部隊 が新たに東から攻勢に出る恐れはなかった。べ ンがジ港は暴風雨に襲われて機能が完全に麻痺 ( まひ ) し , トリポリ港はロンメルの部隊が撤退 のさい破壊していたため , イギリス第 8 軍は補 給に苦慮して , 身動きがとれないでいたのであ った。 それで , ロンメルの関心はチュニジア南部の 戦線に集中していたのだが , 2 月 9 日 , マクナ シー前面に進出していたアメリカ軍部隊が , 援 軍を受けていながら突然がフサへ撤退したため , この憶病なアイゼンハワーの部隊を撃破するの はたやすいと見てとったロンメルは , 第 I() 戦車 師団をもってただちにガフサを攻撃するようア ルニムに要求した。 ところが , ファイド峠からの慎重な攻撃を主 張するアルニムはこれを拒否し , また ドイツ 本国の総統司令部もこれに同意見で , ロンメル に第 5 機甲軍に対する命令権を与えなかったた 56 口径 88mm 戦車砲を搭載したⅥ号重戦車タイガー I E 型。 は一時的に大恐慌を来たしたのであった。 4 め , この二つの軍はそれぞれ独自に行動するこ とになった。 2 月 12 日 , 最後の DAK 部隊がマレト防衛線へ の撤退を終えたが , いまや手持ちにわすか 6() 両 の戦車しかなく , その半数がイタリア製戦車で あるという状態では , ガ、フサへの単独攻撃は望 めす , 苦悩するロンメルは , したがっていたし かたなく , ガフサへ向けて偵察部隊を派遣し , 機会を待っしかなかった。 シジ・フ・ジッドへの戦闘 2 月 14 日のまだ寒々とした早朝 , ファイド峠 にドイツ戦車のエンジン音が響きわたった。っ いにアルニムは , その攻撃作戦ーーースプリング・ ウインド ( 春風 ) の火ぶたを切ったのである。 峠道をゆく第 10 戦車師団戦車隊の先頭を , リ ューダー少佐に指揮された第 501 重戦車大隊第 1 中隊の猛虎 ( もうこ ) ティーがア I 型戦車 ( タ イガー ) が進んだ。 シジ・プ・ジッドはアメリカ第 2 機甲軍団に 占領されていたのだが , タンクキラーとして有 ドイツ側の新鋭強力戦車の出現により , 連合軍側で 56
中海方面には , まだ配備されるほどの機数には スピットファイアの高度とスピードという , 偵 察機としての最大の武器が物をいったことをよ なっていなかった このギャップを埋めたのはスピットファイア く示している。 の写真偵察型であった。スピットファイア PR Ⅳ 7 月 l() 日 , 1 機のスピットファイア PR Ⅳは , は戦闘機型の Mk. V から改造され , 1 万 m の咼 2 機のメッサーシュミット Bf 109 に迎撃された 度で 2 , 880 km の航続距離を飛ぶことができた。 が急反転してそのまま増速し , フル・スロット また , 亜成層圏の濃い色にも溶けこむように考 ルで帰還した。 けんめいに追跡する B f 109 は後 という塗装がされ始めたの 方にとり残され , まるで空中に止まっているよ えられた PR プルー も PR Ⅳからである。 うに見えたという話である。 スピットファイア PR Ⅳがマルタに送られたの ドイツ空軍はこの後 , I() 月に 60() 機の兵力で は 1942 年 3 月のことであった。最初に送られて マルタ島を無力化しようと試みたが , ついに果 来たのは 2 機。しかし , この 2 機のスピットフ たさす , こんどは兵力を充実させた連合軍側が ァイアは , ドイツ空軍のマルタ空襲が最高潮に シチリア島を徹底的に爆撃し , ついにマルタ島 達していたこの時期に , 間断のない空襲の合い を守り抜いた。この時にドイツ空軍に対する攻 間をぬって写真偵察に活躍した。 撃に使われたのが , スピットファイアによる偵 出撃は 2 日に 1 回の割合で 8 か月間にわたっ 察写真であったことはいうまでもない。 て行われた勘定だが , この間に この後 , マルタ島のスピットファイア PR Ⅳは ドイツのケッ セルリンク空軍大将がシチリア島に集結させて 18 機に増え , 戦局が有利になるにつれてその行 いたドイツ空軍兵力の数 , 機種 , その基地を正 動の範囲も広がり , フランス本土のマルセイユ 確に把握するという成果をあげている。これは 上空までカバーするようになった 地中海 , 北アフリカ戦線で活躍し , 連合軍の陰の戦力となったスピットファイア写真偵察機 p 日Ⅳ。スピット ファイア P 日Ⅳは写真偵察機の標準型機として 229 機生産され , マーリン 45 , 46 , 50 , 55 , 56 などのエンジンが 搭載された。標準翼で武装は無く , カメラを 2 台積載しており , 主翼前縁に合計 6042 の燃料タンクを増設して , 航続力の増大を計っていた。 78
「、シ・ユ、ン ーカ」急降下爆撃機。 ユンカース Ju87 B 1 プ戸み、ウントをフォス BV222 飛行艇 ドイツ空軍は北アフリカで多くのェ その後 , Bf109 は新型の F シリーズが配備さ 最後に れ , 単機での性能では , 北アフリカ上空で向か ースを生みだし , また , 多くを失ったことをつ うところ敵なしであった。戦闘機陣で 1942 年に け加えておこう。北アフリカで最高のスコアを なり投入されたフォッケウルフ Fw 1 90 は , 新し 挙げたのはヨアヒム・マルセイユ大尉で , 戦死 ( 1942 年 9 月 30 日 ) するまでに 158 機 ( うち北アフ く戦線に出現したスピットファイア Mk. Ⅸの強 敵として威力を発揮している。 リカ戦線で 151 機 ) は大変な撃墜数である。 Ju87B は性能アップされた Ju87D に変わり , ・シュルッ ( 戦死 , 51 機 ) このはか , オットー や , 1943 年 1 月から 6 月までの短期間に , 51 機 双発爆撃機陣はハインケル He111 , ユンカース Ju88 が使用されたが , Ju88C は重戦闘機として を撃墜したエルンスト・ウイルヘルム・ライナ ート ( 第 77 戦闘航空団 ) の大記録もある。また , 活動している。 有名なハインツ・べアも 59 機撃墜の大スコアで , 北アフリカの戦場で最も重要なドイツ空軍の 北アフリカ戦線でのドイツ戦闘機隊の活躍を知 任務を負わされたのは , ユンカース Ju52 ( タン テ (u) 3 発輸送機であった。 Ju52 のほかにこの ることができよう。 これは逆に言えば , それだけ相手にする連合 難事業に投入されたのは , ドイツが造った最大 軍の機数が多かったことを意味しているわけで , の機体フロム・ウント・フォス BV222 6 発飛行 事実 , 多くのエースが次々に戦死して行くのと 艇。グライダーにエンジンをつけたメッサーシ 反対に , 連合軍側はごく短い期間を除いて , 絶 ュミット 323 6 発輸送機。空挺 ( くうてい ) 用 えす戦場上空の制空権をもっていた。 ドイツ戦 グライダー D FS 230 などがある。 闘機パイロットの奮戦とはうらはらに ドイツ空軍の輸送機陣は , 連合軍機による損 ドイツ 害が大きく , 北アフリカで再起不能に近い痛手 空軍は機材と人員を , 北アフリカの戦場に吸い を被ったのであった。 とられたといえよう。 89