石田 仁 ルニムは内心、ほっとしていたのである。 ファイド峠の奪回 ェル・アラメインから 2 , 000km 以上もリビア 1943 年の 1 月も終わりのころ , チュニジアで 砂漠 ( さばく ) を撤退してきた第 21 戦車師団は , 苦戦を強いられていたドイツ第 5 機甲軍の司令 チュニジア到着とともに , 休養もとらすにその 官フォン・アルニム将軍の顔が , やっといくら まま戦闘に投入されることになり , イタリア軍 か明るくなった。 とともにファイド峠に向かったが , アルニムの それというのも , 要衝ファイド峠を占領して 期待にこたえて峠を奪回し , 度重なる敵の反撃 いる連合軍の橋頭保からの圧力が , こ数週間 にも , D AK 最古参部隊としての面目をかけて奮 のうちに日増しに強まり , それに対して反撃す 戦し , これを撃退した。 1 月 31 日 , ファイド峠 るだけの戦力の余裕がないアルニムは , その対 は彼らによって制圧された。 策に悩んでいたが , マレト陣地防衛線へ撤退中 アルニムの攻勢計画 の DAK ( ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍 団 ) のうち , 第 21 戦車師団が他に先がけてやっ とチュニジアに到着し , その指揮権を得て , ア ところが安堵 ( あんど ) もっかの間 , 2 月には いるとアルニムのもとに , アメリカ軍がファイ 54
チュニジアの山岳地帯をゆく , ドイツ軍の新 型重戦車タイガー I 型。第 5 機甲軍の切り札 として戦闘に参加し , 恐るべき強さと破壊力 を発揮して , アメリカ軍部隊を恐怖のどん底 にたたきこんだ。 3 の数字が書かれた前車は , 弾薬運搬の Sd. Kfz. 9 田 t 牽引車である。
英軍の 25 ポンド砲を 8 人乗りの Sd. Kfz. 田は 牽引車に接続し , 荷物を急いで積んでドイツ 軍る包兵隊が出発しようとしている。 Sd. Kfz. 田 は半装軌式でありながら , 最大 65km / h という 機動性を有していたため , 各種軽砲の牽引な どに使用されている。 0 第第号も . 物第′ 0 , 、 0 、 ~ 0 第囈を 平原を走る Sd. Kfz. 2 引半装軌式装甲車と各種 兵員輸送車両群。チュニジアへ向かって撤退 の途中であると思われる。
を朝を夛第物第ををに ・久を→をも こ宀 タラ前面における激闘の跡。第幻機甲師団のⅢ号戦車 L 型が擱坐するむこうを , 英軍のポフォース砲が再びカ セリーヌ峠へと進んでゆく 攻撃を見守っていた。そこには , かって破竹の 勢いで勝利をかざったロンメル軍団の , よき日 の勇姿があった。 3 年間 , 苦楽をともにした病める元帥の目の 前で , 第 15 戦車師団の第 8 戦車連隊は峠道を突 進し , 第 21 戦車師団も彼らとともに峠を越えて 果敢な攻撃を展開した。夕刻 , カセリーヌ峠は チュニジア最大と言われる激戦ののちに , ロン メルの手におちた ロンメル軍猛進撃 カセリーヌ峠の陥落によって西への進路は大 きく開かれ , 連合軍部隊は大きな脅威に直面す ることになった。アメリカ軍部隊の混乱は頂点 に達し , イギリス第 1 軍はアンダーソン将軍の 死守命令によって , 崩壊する戦線をかろうして 持ちこたえていた こうした敵の混乱を利 ロンメルの攻撃軍は , 用するために夜を徹して進撃を続け , 驚愕 ( き ようがく ) して退却するアメリカ軍部隊を追っ た。明けて 22 日 , 第 10 戦車師団はタラへと迫り , 第 21 機甲師団はスビバへの道を切り開いていた。 さらに , 北ではアルニムの第 5 機甲軍も , 全 力をもって突撃を開始し , プーゼ大佐の第 47 歩 兵連隊はついにピションを占領すると , さらに 20km 進出した。 ドイツ軍の撤退 だが , チュニジアのドイツ軍すべての命運を かけたこの攻勢は , 戦史で明らかなように の日 , 2 月 22 日をもって終わりを告げたのであ った。 タラからスビバに至る連合軍部隊の防衛線に は , アッという間に強力な砲兵部隊を含んだ 4 個師団が増強され , 加えて天候の回復によって , 空軍の出動が非常に活発になった。 こうなっては , 補給線がのびきり , わすか 3 個師団あまりの兵力しか持たないロンメルは , これ以上損害を出して攻撃を続けるわけにはゆ 22 日の午後 , カセリーヌ峠におい かなかった。 て空軍のケッセルリンク元帥と会談したロンメ ルは , 全部隊に攻撃の中止と撤退を命令した。 連合軍にとって恐怖の的であったドイツ兵た こうしてすべての陣地を放棄し , 再びカ ちは , セリーヌ峠を通って整然と撤退して行った。そ のあとには , 撃破されたわすか 9 両の戦車だけ が , ロンメル部隊の見事な撤退を示してとり残 されていたという。 59
リカ軍団にとって , いまや , 予想されるモント ゴメリーの大攻勢に対処する重大な局面を迎え ていた。すでに微弱な機動部隊しか持たない彼 等にとって , 頼れるものといったらマレト防御 線しかなかった マレト線は , かってチュニジアのフランス軍 部隊が , リビアからのイタリア軍の侵入に備え て , 天然の要害である涸 ( か ) れ谷ーーーワジ・ ジグザグーを人工的に強化したもので , ドイツ 軍がさらにそれに手を加え , アフリカのマジノ 線と呼ばれるほどの防御陣地になっていた。点 在するコンクリート陣地と地下壕 ( ごう ) が海 ~ 軍団の最 ノロ 、。つツは砂女と第イ自が作 = りげを要空す 、。ラタレ下防衛線三んを年心止、す拏固な。防御 モントゴメリーの攻撃 イギリス軍のアレキサンダー将軍は , この防 衛線を , ェル・アラメインでの自軍の防衛線に 相当するほどの強力なものであると考えていた から 36km にわたってつづき , 地雷原と鉄条網が その間を埋めていた マレト線の南の端は , マトマタ山塊で守られ ており , マトマタ山塊の西には , 通過困難な砂 海が広がっていて , マレト陣地の背後に進出す るためには , さらにテパが峡谷が立ちはだかっ ていた。 63
を ま 円 43 年 5 月 , アフリカ軍団はついに降伏し , ロ万人もの兵士たちが , 捕虜収容所で宿営する運命をたどった。 いたからにすぎない。 グザグーの谷に向かって突進した。 次第に追いつめられて行くなかで , しかし , イギリス軍橋頭保の部隊は , 退却中に 3 分の ドイツ・アフリカ軍団はこのように勇敢に戦っ 2 の兵力を失った。モントゴメリーはやむなく た。彼らの働きは , 絶望のなかで死と直面しな 第 50 師団に , 橋頭保を放棄して援護弾幕のなか がら人間がどれだけのことを成しとげられるか , で撤退するよう命令しなければならなかった。 ということを無言のうちに訴えていた 北翼の , マレト正面への攻撃が失敗したことは チュニジアにとりのこされたドイツ軍将兵の 明らかだった。 3 月 23 日の真夜中 , イギリス第 30 軍の軍団長 戦いぶりは , ロンメルとともにリビア砂漠で月劵 利を得ていたころの戦いぶりと少しも変わると リース将軍は , 状況を報告するためモントゴメ リーのもとに出頭したが , 彼はアフリカ軍団の ころがなく , また , その態度は , 部隊が敵のま えに投降する時になっても , 見事なふるまいで 激しい反撃のためにすっかり平静を失って動揺 あったという。それは , 北アフリカでの 773 日間 していた。 に及ぶ戦闘が , その長く無益な幕をとしる 1943 年 5 月 12 日まで続いた。 わすか 3 年のあいだに , 1 万 8 , 594 名のドイツ 兵が砂漠の土と化して広大な戦場に消え , チュ ニジアでは , 13 万人のドイツ将兵が連合軍の捕 虜収容所へ向かって歩いていた 地ー第野第第いを 戦闘の終了 このあと数日間 , マレト陣地をめぐって激し い血みどろの戦闘が行われ , 3 月 27 日 , ドイツ 軍はマレト線から撤退しなければならなかった が , それは両軍の兵力があまりにもかけ離れて 書を 65
追いつめ , 壊滅させることも可能であるとロン メルは考えていた 幸いにも当分の間は , モントゴメリーの部隊 が新たに東から攻勢に出る恐れはなかった。べ ンがジ港は暴風雨に襲われて機能が完全に麻痺 ( まひ ) し , トリポリ港はロンメルの部隊が撤退 のさい破壊していたため , イギリス第 8 軍は補 給に苦慮して , 身動きがとれないでいたのであ った。 それで , ロンメルの関心はチュニジア南部の 戦線に集中していたのだが , 2 月 9 日 , マクナ シー前面に進出していたアメリカ軍部隊が , 援 軍を受けていながら突然がフサへ撤退したため , この憶病なアイゼンハワーの部隊を撃破するの はたやすいと見てとったロンメルは , 第 I() 戦車 師団をもってただちにガフサを攻撃するようア ルニムに要求した。 ところが , ファイド峠からの慎重な攻撃を主 張するアルニムはこれを拒否し , また ドイツ 本国の総統司令部もこれに同意見で , ロンメル に第 5 機甲軍に対する命令権を与えなかったた 56 口径 88mm 戦車砲を搭載したⅥ号重戦車タイガー I E 型。 は一時的に大恐慌を来たしたのであった。 4 め , この二つの軍はそれぞれ独自に行動するこ とになった。 2 月 12 日 , 最後の DAK 部隊がマレト防衛線へ の撤退を終えたが , いまや手持ちにわすか 6() 両 の戦車しかなく , その半数がイタリア製戦車で あるという状態では , ガ、フサへの単独攻撃は望 めす , 苦悩するロンメルは , したがっていたし かたなく , ガフサへ向けて偵察部隊を派遣し , 機会を待っしかなかった。 シジ・フ・ジッドへの戦闘 2 月 14 日のまだ寒々とした早朝 , ファイド峠 にドイツ戦車のエンジン音が響きわたった。っ いにアルニムは , その攻撃作戦ーーースプリング・ ウインド ( 春風 ) の火ぶたを切ったのである。 峠道をゆく第 10 戦車師団戦車隊の先頭を , リ ューダー少佐に指揮された第 501 重戦車大隊第 1 中隊の猛虎 ( もうこ ) ティーがア I 型戦車 ( タ イガー ) が進んだ。 シジ・プ・ジッドはアメリカ第 2 機甲軍団に 占領されていたのだが , タンクキラーとして有 ドイツ側の新鋭強力戦車の出現により , 連合軍側で 56