リカ軍団にとって , いまや , 予想されるモント ゴメリーの大攻勢に対処する重大な局面を迎え ていた。すでに微弱な機動部隊しか持たない彼 等にとって , 頼れるものといったらマレト防御 線しかなかった マレト線は , かってチュニジアのフランス軍 部隊が , リビアからのイタリア軍の侵入に備え て , 天然の要害である涸 ( か ) れ谷ーーーワジ・ ジグザグーを人工的に強化したもので , ドイツ 軍がさらにそれに手を加え , アフリカのマジノ 線と呼ばれるほどの防御陣地になっていた。点 在するコンクリート陣地と地下壕 ( ごう ) が海 ~ 軍団の最 ノロ 、。つツは砂女と第イ自が作 = りげを要空す 、。ラタレ下防衛線三んを年心止、す拏固な。防御 モントゴメリーの攻撃 イギリス軍のアレキサンダー将軍は , この防 衛線を , ェル・アラメインでの自軍の防衛線に 相当するほどの強力なものであると考えていた から 36km にわたってつづき , 地雷原と鉄条網が その間を埋めていた マレト線の南の端は , マトマタ山塊で守られ ており , マトマタ山塊の西には , 通過困難な砂 海が広がっていて , マレト陣地の背後に進出す るためには , さらにテパが峡谷が立ちはだかっ ていた。 63
北アフリカの前線基地司令部で , 幕僚を前に作戦をねるイギリス軍司令官モントゴメリー将軍。 し , また , モントゴメリーにしても , 慎重な攻 イギリス第 50 師団が海の近くで防衛線を突破し , 水をかきわけながら氾濫 ( はんらん ) していた 撃が必要だと思っていた。彼の攻撃計画の中心 は , 北でワジ・ジグザグーをわたり , 南からは ワジ・ジグサグーを渡った。 砂海をつきぬけてテパガ峡谷を突破し , マレト 砂漠を進んだニュージーランド師団は , 21 日 陣地を両面から圧迫してドイツ軍を包囲 , せん 夜 , テパガ峡谷を守るドイツ軍サハラ守備隊を 攻撃し , 老齢兵からなっていたサハラ守備隊は , 滅することにあった。 3 月 17 日の夜 , 敵の注意をひきつけるための この夜襲でアッという間に敗れてしまった。 牽 ( けん ) 制攻撃をマレト正面に行ったあと , 逆襲 モントゴメリーは翌日 , 2 万 7 , ()0() の兵力と 20() 両の戦車を持っ , フレイバーグ将軍のニュージ ところが , フレイバーグはこれをロンメルの ーランド師団を南翼に集結させた。北翼にはイ 十略だと恐れてそれ以上進撃せす , ドイツ第 164 軽機械化師団と第 21 戦車師団がテべサへ急いで ギリス第 30 軍団がマレト正面に展開し , 予備兵 力として , 第 10 軍団と第 1 機甲師団が控えてい 到着し , 前進をはばんだ。 マレト正面では , イギリス第 50 師団の進出を たのであった 防いでいたドイツ第 90 軽師団が , 22 日 , 第 15 戦 緊迫した何時間かが過ぎ , ついに予定の 3 月 車師団とともにどしゃ降りの雨のなかを逆襲に 20 日の 20 時 30 分 , マレト線を守るドイツ第 90 軽 機械化師団への攻撃がものすごい集中砲火をも 出た。第 115 歩兵連隊は , 今までかしりついてい た塹壕 ( ざんごう ) から這 ( は ) い出すと , ジ って開始された。夜の闇 ( やみ ) にまぎれて , 強物宿第を
を ま 円 43 年 5 月 , アフリカ軍団はついに降伏し , ロ万人もの兵士たちが , 捕虜収容所で宿営する運命をたどった。 いたからにすぎない。 グザグーの谷に向かって突進した。 次第に追いつめられて行くなかで , しかし , イギリス軍橋頭保の部隊は , 退却中に 3 分の ドイツ・アフリカ軍団はこのように勇敢に戦っ 2 の兵力を失った。モントゴメリーはやむなく た。彼らの働きは , 絶望のなかで死と直面しな 第 50 師団に , 橋頭保を放棄して援護弾幕のなか がら人間がどれだけのことを成しとげられるか , で撤退するよう命令しなければならなかった。 ということを無言のうちに訴えていた 北翼の , マレト正面への攻撃が失敗したことは チュニジアにとりのこされたドイツ軍将兵の 明らかだった。 3 月 23 日の真夜中 , イギリス第 30 軍の軍団長 戦いぶりは , ロンメルとともにリビア砂漠で月劵 利を得ていたころの戦いぶりと少しも変わると リース将軍は , 状況を報告するためモントゴメ リーのもとに出頭したが , 彼はアフリカ軍団の ころがなく , また , その態度は , 部隊が敵のま えに投降する時になっても , 見事なふるまいで 激しい反撃のためにすっかり平静を失って動揺 あったという。それは , 北アフリカでの 773 日間 していた。 に及ぶ戦闘が , その長く無益な幕をとしる 1943 年 5 月 12 日まで続いた。 わすか 3 年のあいだに , 1 万 8 , 594 名のドイツ 兵が砂漠の土と化して広大な戦場に消え , チュ ニジアでは , 13 万人のドイツ将兵が連合軍の捕 虜収容所へ向かって歩いていた 地ー第野第第いを 戦闘の終了 このあと数日間 , マレト陣地をめぐって激し い血みどろの戦闘が行われ , 3 月 27 日 , ドイツ 軍はマレト線から撤退しなければならなかった が , それは両軍の兵力があまりにもかけ離れて 書を 65
マレド第防 : とア。プりカ ロンメル , アフリカを去る テべサへの攻撃が失敗し , メデニーヌのイギ リス第 8 軍への乾坤一擲 ( けんこんいってき ) の攻撃も , 裏切り行為によって挫 ( ざ ) 折して しまった 1943 年 3 月 9 日 , ロンメルは自分から 進んでアフリカを去った。アイゼンハワーは , 命が惜しくなったからだときめつけたが。 このままではもはや勝運のないことを悟った ロンメルは , ヒトラーに状況を理解させ , ドイ ツ・アフリカ軍団をイタリアへ撤退させる許可 を得 , 全部隊を降伏と全滅の悲劇から救うため 62 に , ラステングルクの総統司令部へ飛んだので ある。 だが , それは無駄な努力だった。ヒトラーは , ロンメルの説得を病気のためにわき出た悲観論 であると言って一蹴 ( いっしゅう ) し , 以後は 病気をなおすことに専心せよと命して , アフリ 力へ民りたいというロンメルに首を縦にふらな かった。こうしてロンメルは , 以来 , 2 度と再 びアフリカへ帰らなかったのである。 マレト線のアフリカ軍団 ロンメルを失い , 本国からも見離されたアフ
石田 仁 ルニムは内心、ほっとしていたのである。 ファイド峠の奪回 ェル・アラメインから 2 , 000km 以上もリビア 1943 年の 1 月も終わりのころ , チュニジアで 砂漠 ( さばく ) を撤退してきた第 21 戦車師団は , 苦戦を強いられていたドイツ第 5 機甲軍の司令 チュニジア到着とともに , 休養もとらすにその 官フォン・アルニム将軍の顔が , やっといくら まま戦闘に投入されることになり , イタリア軍 か明るくなった。 とともにファイド峠に向かったが , アルニムの それというのも , 要衝ファイド峠を占領して 期待にこたえて峠を奪回し , 度重なる敵の反撃 いる連合軍の橋頭保からの圧力が , こ数週間 にも , D AK 最古参部隊としての面目をかけて奮 のうちに日増しに強まり , それに対して反撃す 戦し , これを撃退した。 1 月 31 日 , ファイド峠 るだけの戦力の余裕がないアルニムは , その対 は彼らによって制圧された。 策に悩んでいたが , マレト陣地防衛線へ撤退中 アルニムの攻勢計画 の DAK ( ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍 団 ) のうち , 第 21 戦車師団が他に先がけてやっ とチュニジアに到着し , その指揮権を得て , ア ところが安堵 ( あんど ) もっかの間 , 2 月には いるとアルニムのもとに , アメリカ軍がファイ 54
追いつめ , 壊滅させることも可能であるとロン メルは考えていた 幸いにも当分の間は , モントゴメリーの部隊 が新たに東から攻勢に出る恐れはなかった。べ ンがジ港は暴風雨に襲われて機能が完全に麻痺 ( まひ ) し , トリポリ港はロンメルの部隊が撤退 のさい破壊していたため , イギリス第 8 軍は補 給に苦慮して , 身動きがとれないでいたのであ った。 それで , ロンメルの関心はチュニジア南部の 戦線に集中していたのだが , 2 月 9 日 , マクナ シー前面に進出していたアメリカ軍部隊が , 援 軍を受けていながら突然がフサへ撤退したため , この憶病なアイゼンハワーの部隊を撃破するの はたやすいと見てとったロンメルは , 第 I() 戦車 師団をもってただちにガフサを攻撃するようア ルニムに要求した。 ところが , ファイド峠からの慎重な攻撃を主 張するアルニムはこれを拒否し , また ドイツ 本国の総統司令部もこれに同意見で , ロンメル に第 5 機甲軍に対する命令権を与えなかったた 56 口径 88mm 戦車砲を搭載したⅥ号重戦車タイガー I E 型。 は一時的に大恐慌を来たしたのであった。 4 め , この二つの軍はそれぞれ独自に行動するこ とになった。 2 月 12 日 , 最後の DAK 部隊がマレト防衛線へ の撤退を終えたが , いまや手持ちにわすか 6() 両 の戦車しかなく , その半数がイタリア製戦車で あるという状態では , ガ、フサへの単独攻撃は望 めす , 苦悩するロンメルは , したがっていたし かたなく , ガフサへ向けて偵察部隊を派遣し , 機会を待っしかなかった。 シジ・フ・ジッドへの戦闘 2 月 14 日のまだ寒々とした早朝 , ファイド峠 にドイツ戦車のエンジン音が響きわたった。っ いにアルニムは , その攻撃作戦ーーースプリング・ ウインド ( 春風 ) の火ぶたを切ったのである。 峠道をゆく第 10 戦車師団戦車隊の先頭を , リ ューダー少佐に指揮された第 501 重戦車大隊第 1 中隊の猛虎 ( もうこ ) ティーがア I 型戦車 ( タ イガー ) が進んだ。 シジ・プ・ジッドはアメリカ第 2 機甲軍団に 占領されていたのだが , タンクキラーとして有 ドイツ側の新鋭強力戦車の出現により , 連合軍側で 56
に物戸い 瞽をい第洋ぃ第、を , 第こ第を第之。 4 竃 イ 1 れす 第罸物鳶をな第イ マレト線 ~ 向けて撤退してゆく大部隊。 DAK はエル・アラメインから撤退したが , 後衛戦闘と工兵隊の地雷敷 設によって敵の追撃をくいとめ , その損害は比較的に少なかった。 北側から北に向けて進撃し , その行く手をはば れている。 む第 21 イタリア軍軽砲兵 1 個大隊をふみにしっ 11 月 2 日 , 夜になってロンメルは撤退を決意 て行った。翌 10 月 31 日の朝 , イギリス軍の重戦 していた。現在保有の輸送車で , ドイツ軍を脱 出させる可能性はまだある。 車 30 両が海岸道路に到達している。 ロンメルは残りの戦力を投入し , 北部戦線の そして , 翌日 , 撤退を始めようとした時 , ド 「現在 切断を防ごうとしたが , 結局 , できる精一ばい イツ陸軍総司令部から命令がとどいた。 のことは , 北部の孤立した部隊との連絡回復だ 地を死守し , 優勢な敵に精神力で勝て , でなけ れば死あるのみ」という有名な勝利か死かの総 だが , モントゴメリーはなおも追 けであった。 い討ちをかけようとしていた 統命令である。この途方もない命令に従うこと は , まさに死であることをロンメルは知ってい 決断 / 追撃と退却 た。決断がせまられている。 硝煙のただようアフリカ戦線に 一一つの糸吉言侖 11 月 4 日の夜 , ドイツ軍はフカへ退却した。 が出されようとしていた。 1942 年 11 月 1 日夜 , 翌朝 , ヒトラーとムソリーニの両人からの , 退 アラメイン戦の 9 日目であり , ドイツ戦線は北 却許可命令が伝えられている。 部へ大きく後退し , いたる所が切断されていた 2 万 5 , 000 のイタリア軍と 1 万のドイツ軍。そ アラメインの D ディと同し戦法がくり返され れに 60 両の戦車をつれてロンメルは退却して行 る。 3 時間にわたる大砲撃 , 急降下爆撃のあと く。退却の途中 , 地雷や道路封鎖をして , イギ 歩兵が進撃し , 400 両の戦車が続く。イギリス軍 リス軍の追撃を遅らせながら。 はさらに 400 両の予備車両をかかえているのだ。 ドイツのバイエルライン将軍は「ロンメルが 迎撃するドイツ軍戦車 90 両 , イタリア軍 140 両 北アフリカで行った最上の仕事は , この退却で である。連日の爆撃で , 88mm 砲も次々に破壊さ した」といっている。 32
0 スク のピション カセリーヌ 戦線の略図 カセリーヌ峠 タラ テペサ ア イドイツ第 5 機甲軍 ( アルニム ) 第 10 戦 車師団 スファクス 0 0 スペイトラ 中 1 テルナイア峠 フェリアナ 第 2 1 戦 車師団 ドイツ・ アフリ軍団 ( ロンメル ) ガフサ 工ルゲタール 第 10 戦車師団にはタイガー戦車 ) の第 501 重戦車大隊が含まれる - - - 1 943 年 1 月の戦線 ロロロ同 2 月 20 日の戦線 ー作戦直後のドイツ 軍各部隊の動き ス ガ メントン 部隊 マレト メテニーヌ 成功に終わってしまった。 せていた しかし , アルニムとしては何としてもピジョ そのあいだにも偵察部隊は前進し , 二つに分 ンの攻略が必要であって , 攻撃をあきらめるわ かれてそれぞれカセリーヌ峠とテべサ道路の通 けにはゆかす , そこで , ジーグラーに増援を送 るデルナイア峠への攻撃を試みたが , ともに撃 り , 17 日の攻撃を期待していた。 退された。彼らの小部隊の前面には , アレキサ ところが , メントン部隊の急進撃とピション ンダー将軍から陣地を死守せよと命令されたア 攻撃の挫 ( ざ ) 折という事態を検討した総統司令 メリカ軍部隊が , 多数待ちかまえていたのであ 部は , ついにロンメルの再三の要請に屈して , った。 テべサへの攻撃を正式に許可し , ジーグラー部 19 日になって , ロンメルは全部隊に進撃を命 隊をロンメルの指揮下に移してしまった。 じたが , スビバを目指したジーグラー部隊の攻 「この日をもって第 5 機甲軍の作戦は破棄せ 撃は , イギリス第 1 近衛師団の猛烈な砲火によ よ」との命令が下ったのである。 こうして , ジ ってはねかえされ , また , テべサ道路を進む威 ーグラーの 2 個師団は再び南へ転してスペイト カ偵察部隊の前には , 三重の山なみが立ちはだ ラへの攻撃を再開し , 17 日早朝 , 激戦のうちに かっていたので , すべての攻撃群は , 2 月幻日 町なかに突入した。 の朝 , カセリーヌ峠に突破口をひらくことにな 前線のアメリカ軍部隊は , もはや敗走する残 った 党にすぎないありさまだった。指揮も命令も混 攻撃は多連装ロケット砲 ( ネーベルベルファ 乱 , 各部隊が入りみだれて逃走していた。そし ー ) 中隊の猛砲撃によって開始され , 爆撃機も て , とまどう軍上層部が , いっそうそれに拍車 飛来して , 空から敵の陣地を叩いた。陣地とい をかけていた う陣地は吹き飛ばされた土砂に埋まり , 峠の南 北からは , 主力部隊が怒濤 ( どとう ) のように前 カセリーヌ・パス 進してアメリカ軍防衛線を突破した。 18 日 , ロンメルは各部隊を一時停止させ , 新 ロンメルは病驅 ( びようく ) にもかかわらす , たな攻撃のための補給と再編成を命じ , 集結さ 自らカセリーヌ峠を見下ろす高地に立ってこの 58