指揮 - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第25号
22件見つかりました。

1. グラフィックアクション 第25号

タ / ヾコをくわえなが ら作戦計画に目をやる 第戦車師団のⅢ号戦 車長。ヤシの木に鉤十 字をあしらったアフリ カ軍団マークと師団マ ークとのあいだに , 第 2SS 師団「ダスライヒ」 のマークが描かれてい るのは , この車両がギ リシャで修理後 , 北ア フリカへ送られてきた ためなのだろう。 マ前線のⅢ号戦車上で 指揮をとるドイツ軍指 揮官。砲塔後部に水筒 がいくつもつり下げら れているので , あるい は第 8 戦車連隊所属の Ⅲ号戦車かもしれない。 砂漠の機動戦は激しく 移りかわる戦況を生み だすため , 陣頭指揮は どうしても不可欠であ

2. グラフィックアクション 第25号

石田 仁 ルニムは内心、ほっとしていたのである。 ファイド峠の奪回 ェル・アラメインから 2 , 000km 以上もリビア 1943 年の 1 月も終わりのころ , チュニジアで 砂漠 ( さばく ) を撤退してきた第 21 戦車師団は , 苦戦を強いられていたドイツ第 5 機甲軍の司令 チュニジア到着とともに , 休養もとらすにその 官フォン・アルニム将軍の顔が , やっといくら まま戦闘に投入されることになり , イタリア軍 か明るくなった。 とともにファイド峠に向かったが , アルニムの それというのも , 要衝ファイド峠を占領して 期待にこたえて峠を奪回し , 度重なる敵の反撃 いる連合軍の橋頭保からの圧力が , こ数週間 にも , D AK 最古参部隊としての面目をかけて奮 のうちに日増しに強まり , それに対して反撃す 戦し , これを撃退した。 1 月 31 日 , ファイド峠 るだけの戦力の余裕がないアルニムは , その対 は彼らによって制圧された。 策に悩んでいたが , マレト陣地防衛線へ撤退中 アルニムの攻勢計画 の DAK ( ロンメル指揮下のドイツ・アフリカ軍 団 ) のうち , 第 21 戦車師団が他に先がけてやっ とチュニジアに到着し , その指揮権を得て , ア ところが安堵 ( あんど ) もっかの間 , 2 月には いるとアルニムのもとに , アメリカ軍がファイ 54

3. グラフィックアクション 第25号

戦況を見守る第幻戦車師曲第戦車連隊のⅢ、 、号 E 型指揮平、連隊、きの@tØ朝要。を な普ダミををナまー ~ 第のな真一 ゞ第身基部お、をが、見、物あい = ' ・ の 37 。砲を装備しズる洋プ、 = 、。

4. グラフィックアクション 第25号

砲弾の弾着観測と連絡を行う第 33 機械化砲兵 連隊観測中隊のⅢ号 H 型観測戦車と , Sd. Kfz. 250 / 3 指揮装甲車。Ⅲ号観測戦車は本来の 50mm 砲をとりはずしているため , 彼方にあがる黒 煙は , 近接する砲兵隊の砲弾によるものなの を注意されたい。

5. グラフィックアクション 第25号

を 第 進撃して来るイギリス軍の Mk. Ⅱ歩兵戦車「マチルダ」 決戦 / ハルファヤ峠 6 月 15 日の午前 4 時をまわったころ , リリ からいっせいに弾丸が吐き出された。命中 / 発射音が空気をひきさき , 陣地の砲という砲 「撃て′」 的はマークⅡ戦車である。 彼の指示であった。 っていた 「ひきよせるだけ , ひきよせろ」が 砂しんがみえる。バッハ隊長は 88mm 砲の横に立 工ンジン音が大きくなり , 双眼鏡内に黒点と は , 70 度以上にもなるはすである。 度 ( 摂氏 ) となり , 太陽に焼かれた戦車の鉄板 あたりは昼間である。気温は , まもなく 41 ~ 2 るいか , 暗いかであり , その中間はない。 アフリカの昼と夜は , 電燈の点滅のように明 りがたい音である。 ことから解放された彼等にとっては , むしろあ に , 戦車のエンジン音がとびこんできた。待つ マルレンを聞いているハルファヤ峠守備隊の耳 こではイタリア軍の戦いもみごとだった。 クケースがもぎとられた。 88mm 砲の威力である。 マークⅡの下腹がむき出され , 鋼鉄製のクラン の群れ。 場を攻めこんでくる。やがて太陽が沈み , 戦い 11 旅団 , イギリス第 22 近衛旅団がまっ平らな戦 イギリス歩兵の突撃がはしまった。インド第 ついて撃っている。 パルディ自身も砲にしがみ 兵隊がねらわれた。 はハルファヤ峠に降りそそぎ , 特にパルディ砲 太陽は地平線にまもなく沈む。しかし , 砲火 補給基地として手中におさめたいのである。 ントを奪い , 海岸道路を制圧し , サルーム港を イギリス軍も執ようだった。この最重要ポイ ものだったようだ と呼んだのは , シャレにしても実感のこもった ハルファヤ峠をへル・ファイア ( 地獄の炎 ) 峠 のかもしれなかった。これ以後 , イギリス兵が 包み込む 88mm 砲。それは , まさに地獄の光景な 車や進撃するイギリスの歩兵を , 火炎と砂煙で ドイツ軍陣地の前で燃えあがるイギリスの戦 Ⅱなのである。 は , まともにねらってはビクともしないマーク マークⅡの腹ばかりをねらっていた。 2()mm 砲で がらも沈着に行動するパルディ少佐の指揮下で , パルディ砲兵隊は , イギリス軍の砲火をあびな

6. グラフィックアクション 第25号

軍隊礼である弔砲の号令によって行われるア フリカ軍団の部隊指揮官の埋葬。プリットヴ イツツやフィッシャーをはじめ , 前線で戦死 したドイツ将校は数知れない。 だれひとり訪れることもないような荒涼とし た砂原のまっただなかに , 戦友によって手厚 く葬られたドイツ軍の兵士たち。はるか遠く の祖国のため , 尊い生命を捧げた砂漠の勇者 こに眠る。 35

7. グラフィックアクション 第25号

指揮装甲車の上で地図をひろげ , 作戦を練る 初代ドイツ・アフリカ軍団長クルーウェル将 軍。ロンメルの右腕として , あるいはその代 役として , 完璧な作戦とみごとな用兵で知ら れる非常に有能な司令官であった。 出発準備の整った乗用車に向かうドイツ空軍 アフリカ航空部隊司令官フレイリッヒ少将と 側近の空軍大尉。うしろにあるのは有名なフ ォルクスワーゲン・セダンとドイツ・シポレ ーのマスターデラックス乗用車である。

8. グラフィックアクション 第25号

戦果を確認の後 , 小休止するⅢ号指揮戦車と Kfz. 70 兵員輸送車。右端はフンク・ワーゲン と呼ばれる Sd. Kfz. 223 小型無線装甲車。各車 両ともに , それぞれ可能なかぎりの物資を積 んでいる 熱風の吹く灼熱の砂漠を進撃するⅢ号戦車部 隊。右前方には , 支援のための 88mm 高射砲が 8t 牽引車とともに同行しているのが見える。 ロンメルの戦法は , なによりもスピードを重 視した機動戦だった。

9. グラフィックアクション 第25号

ガフサ戦線から撤退する連合軍。 向けて進撃するのだ。 名な 56 口径 88mm 砲を装備し , 装甲厚 l()()mm とい メントン大佐の混成特殊部隊が急行した。古 うよろいに身を包んだ 18 両の新鋭タイガー戦車 い城塞 ( じようさい ) のそびえるガフサ・オアシ が , そこへ突進して猛攻を加えた。 スを , その夜のうちに手に入れたメントン部隊 アメリカ第 1 機甲師団 A 支隊がこれをむかえ は , 翌 16 日早朝から進撃を再開し , テべサへと 寸ち , 必死の防戦を行ったが , 午後になると , 続く簡易舗装道路上を疾風 ( はやて ) のように北 ビルエルアフェイを南から迂 ( う ) 回してきた第 へ向かった。その途中でもアメリカ軍砲兵隊は 21 機甲師団も攻撃に加わったため , A 支隊は戦 けちらされ , 道路のわきには , 何台ものシャー 車 68 両の損害を出して撤退し , シジ・プ・ジッ マン戦車が撃破されて燃え上がっていた ドは 1 日にして陥落した。 フェリアナでは 1 時間に及ぶ激しい戦闘の末 , 翌日もまた , ジーグラーの指揮する主力部隊 アメリカ軍はセレプテ飛行場にあった機もの は進撃を続け , アメリカ第 1 機甲師団 C 支隊を 航空機を破壊し , 退去して行った。 2 日という 中心とする反撃も , 86 両の戦車を失うという壊 短時間のうちに , フェリアナまで進出できたと 滅的な損害をこうむって撃退された。 いうのは , ロンメルにとって予想以上の戦果だ メントン部隊の快進撃 った 一三ロ いつばう この情況を傍観していたロンメル 全軍テべサへ のもとに信しられないような報告が舞いこんだ。 北では第 10 戦車師団が , 15 日の夜 , アルニム 最良の防衛陣地であるガフサを , アメリカ軍部 のかねてからの狙 ( ねら ) いであるピションの奇 隊が攻撃を受けもしないのに捨てて , 14 日の夜 襲攻撃に向かったが , ジーグラーの劣悪な指揮 のうちに撤退したというのである。ロンメルは 戦術とフランス軍の強い抵抗のため , これは不 決断した。全力をあげて一刻も早く , テべサへ 57

10. グラフィックアクション 第25号

0 スク のピション カセリーヌ 戦線の略図 カセリーヌ峠 タラ テペサ ア イドイツ第 5 機甲軍 ( アルニム ) 第 10 戦 車師団 スファクス 0 0 スペイトラ 中 1 テルナイア峠 フェリアナ 第 2 1 戦 車師団 ドイツ・ アフリ軍団 ( ロンメル ) ガフサ 工ルゲタール 第 10 戦車師団にはタイガー戦車 ) の第 501 重戦車大隊が含まれる - - - 1 943 年 1 月の戦線 ロロロ同 2 月 20 日の戦線 ー作戦直後のドイツ 軍各部隊の動き ス ガ メントン 部隊 マレト メテニーヌ 成功に終わってしまった。 せていた しかし , アルニムとしては何としてもピジョ そのあいだにも偵察部隊は前進し , 二つに分 ンの攻略が必要であって , 攻撃をあきらめるわ かれてそれぞれカセリーヌ峠とテべサ道路の通 けにはゆかす , そこで , ジーグラーに増援を送 るデルナイア峠への攻撃を試みたが , ともに撃 り , 17 日の攻撃を期待していた。 退された。彼らの小部隊の前面には , アレキサ ところが , メントン部隊の急進撃とピション ンダー将軍から陣地を死守せよと命令されたア 攻撃の挫 ( ざ ) 折という事態を検討した総統司令 メリカ軍部隊が , 多数待ちかまえていたのであ 部は , ついにロンメルの再三の要請に屈して , った。 テべサへの攻撃を正式に許可し , ジーグラー部 19 日になって , ロンメルは全部隊に進撃を命 隊をロンメルの指揮下に移してしまった。 じたが , スビバを目指したジーグラー部隊の攻 「この日をもって第 5 機甲軍の作戦は破棄せ 撃は , イギリス第 1 近衛師団の猛烈な砲火によ よ」との命令が下ったのである。 こうして , ジ ってはねかえされ , また , テべサ道路を進む威 ーグラーの 2 個師団は再び南へ転してスペイト カ偵察部隊の前には , 三重の山なみが立ちはだ ラへの攻撃を再開し , 17 日早朝 , 激戦のうちに かっていたので , すべての攻撃群は , 2 月幻日 町なかに突入した。 の朝 , カセリーヌ峠に突破口をひらくことにな 前線のアメリカ軍部隊は , もはや敗走する残 った 党にすぎないありさまだった。指揮も命令も混 攻撃は多連装ロケット砲 ( ネーベルベルファ 乱 , 各部隊が入りみだれて逃走していた。そし ー ) 中隊の猛砲撃によって開始され , 爆撃機も て , とまどう軍上層部が , いっそうそれに拍車 飛来して , 空から敵の陣地を叩いた。陣地とい をかけていた う陣地は吹き飛ばされた土砂に埋まり , 峠の南 北からは , 主力部隊が怒濤 ( どとう ) のように前 カセリーヌ・パス 進してアメリカ軍防衛線を突破した。 18 日 , ロンメルは各部隊を一時停止させ , 新 ロンメルは病驅 ( びようく ) にもかかわらす , たな攻撃のための補給と再編成を命じ , 集結さ 自らカセリーヌ峠を見下ろす高地に立ってこの 58