にあることがわかっていた。全兵力を北部に集 アラメインの戦い 中してこれを迎え討とうとしたが , 南部戦線に 10 月 24 , 25 日の両日 , ドイツ第 15 戦車師団が も同時攻撃が加えられるのではないか , という 数回にわたり反撃を試みたが , イギリス空軍の 心配が頭をかすめた。結局 , 南部の兵力を北へ 爆撃と砲兵の火力に大きく痛めつけられている。 すべて移動させたのは 27 日になった。 この時点で , 第 15 戦車師団の 119 両の戦車中 , 27 日 , 南から移ったドイツ第 21 機甲師団は , 使用可能のものはたった 31 両になっていた かろうしてもちこたえている第 15 機甲師団と共 10 月 26 日の朝 5 時 , ロンメルが指揮官車に搭 に , 侵入してくるイギリス軍の中に突っ込んで ( とう ) 乗した。その前日 , ロンメルがウィーン 行った。イギリス軍の猛砲火をくぐりぬけて戦 空港を出発するころ , モントゴメリーはある地 車戦に入り , これを撃退したが , その力もそれ 点をねらっていた。 28 高地である。 までであった。装備も兵力も , あまりにも違い 平和な時代ならば誰も見むきもしない貧弱な すぎるのである。 ーにぎりの土地は , 空から地上から , 火の雨を それからの数日 , ドイツの戦力はイギリスの 降らされていた。そして , ロンメル着任の日の それにくらべ , 問題なく劣っていることを裏付 夜半 , この北部重要拠点 28 高地がイギリス軍の けている。アフリカの戦場は , 少なくとも空は 手に落ちた。 イギリスの飛行機 1 色であり , それが夜昼とな ドイツの第 105 戦車師団 , イタリアのリット く , 爆撃と銃撃をくり返して行くのであった。 リオ師団 , それに , ベルサイユ大隊が攻撃を開 10 月 30 日の夜になって , モントゴメリーの「ス 始したが , 28 高地は奪取できなかった。以後 , ーチャージ作戦」が開始された。北部大突 28 高地はイギリス軍の作戦上の重要拠点になっ 破作戦である。 ている。 1 時間の大砲撃が終わると , オーストラリア ドイツ軍の攻撃は , 接近戦になる前に砲撃と 軍が攻撃を開始し , ドイツ第 125 連隊を釘づけ 空からの爆撃で打ち破られていった。ロンメル にしておいて , 南方からその側面を包囲攻撃し て来た。同時にイギリス軍機甲部隊が 28 高地の の眼には , イギリス軍の最重要ポイントが北部 イキリス軍の追撃 ( 1942 ~ 43 年 ) トルコ 島 冫毋 中 0 ミスラタ ( 1 月四日 ) 〕〔ハルファャ峠行月Ⅱ日 ) 0 ハルジア トプルク ( Ⅱ月日 ) べンガジ ( 11 月 19 日 ) アレキサンドリア 0 エル・アラメインプ ジ 工 0 フカ 0 マルサ・マトルー 1 ア タ 0 シルテ ( 貶月幻日 ) ポ 0 アジェダビア 0 エル・アゲーラ 0 エルノフィリア ( 1 月 7 日 ) キレナイカ
0 スク のピション カセリーヌ 戦線の略図 カセリーヌ峠 タラ テペサ ア イドイツ第 5 機甲軍 ( アルニム ) 第 10 戦 車師団 スファクス 0 0 スペイトラ 中 1 テルナイア峠 フェリアナ 第 2 1 戦 車師団 ドイツ・ アフリ軍団 ( ロンメル ) ガフサ 工ルゲタール 第 10 戦車師団にはタイガー戦車 ) の第 501 重戦車大隊が含まれる - - - 1 943 年 1 月の戦線 ロロロ同 2 月 20 日の戦線 ー作戦直後のドイツ 軍各部隊の動き ス ガ メントン 部隊 マレト メテニーヌ 成功に終わってしまった。 せていた しかし , アルニムとしては何としてもピジョ そのあいだにも偵察部隊は前進し , 二つに分 ンの攻略が必要であって , 攻撃をあきらめるわ かれてそれぞれカセリーヌ峠とテべサ道路の通 けにはゆかす , そこで , ジーグラーに増援を送 るデルナイア峠への攻撃を試みたが , ともに撃 り , 17 日の攻撃を期待していた。 退された。彼らの小部隊の前面には , アレキサ ところが , メントン部隊の急進撃とピション ンダー将軍から陣地を死守せよと命令されたア 攻撃の挫 ( ざ ) 折という事態を検討した総統司令 メリカ軍部隊が , 多数待ちかまえていたのであ 部は , ついにロンメルの再三の要請に屈して , った。 テべサへの攻撃を正式に許可し , ジーグラー部 19 日になって , ロンメルは全部隊に進撃を命 隊をロンメルの指揮下に移してしまった。 じたが , スビバを目指したジーグラー部隊の攻 「この日をもって第 5 機甲軍の作戦は破棄せ 撃は , イギリス第 1 近衛師団の猛烈な砲火によ よ」との命令が下ったのである。 こうして , ジ ってはねかえされ , また , テべサ道路を進む威 ーグラーの 2 個師団は再び南へ転してスペイト カ偵察部隊の前には , 三重の山なみが立ちはだ ラへの攻撃を再開し , 17 日早朝 , 激戦のうちに かっていたので , すべての攻撃群は , 2 月幻日 町なかに突入した。 の朝 , カセリーヌ峠に突破口をひらくことにな 前線のアメリカ軍部隊は , もはや敗走する残 った 党にすぎないありさまだった。指揮も命令も混 攻撃は多連装ロケット砲 ( ネーベルベルファ 乱 , 各部隊が入りみだれて逃走していた。そし ー ) 中隊の猛砲撃によって開始され , 爆撃機も て , とまどう軍上層部が , いっそうそれに拍車 飛来して , 空から敵の陣地を叩いた。陣地とい をかけていた う陣地は吹き飛ばされた土砂に埋まり , 峠の南 北からは , 主力部隊が怒濤 ( どとう ) のように前 カセリーヌ・パス 進してアメリカ軍防衛線を突破した。 18 日 , ロンメルは各部隊を一時停止させ , 新 ロンメルは病驅 ( びようく ) にもかかわらす , たな攻撃のための補給と再編成を命じ , 集結さ 自らカセリーヌ峠を見下ろす高地に立ってこの 58
ー当ツ膨彡を。、を イギリス軍防衛陣地にしかけられたものである。 1 942 年の晩夏 ドイツ軍は兵数こそやや優勢といえたが , 火器 , 戦車は満足すべき状態ではなく , おまけに , イ 1942 年の晩夏 , イギリス軍は中部地中海の制 ギリス軍は制空権を握っていた 海権を回復し , ドイツ輸送船団はマルタ島を通 戦いは失敗に終わり , 9 月 3 日 , ロンメルは 過しての , 北アフリカ戦線への物資補給の望み 撤退命令を出した。モントゴメリーはこれを追 にもかかわらす , ケッセルリン を失っていた。 撃せず , 9 月 6 日 , 撤退が完了している。砂漠 クやカバレロは , ロンメルに燃料 6 , OOO トンの ( さばく ) 戦におけるドイツ軍の , 初めての大き 補給を約束していた。 な敗北といえる。 ロンメルが「情況からみて , すべては燃料に イギリス軍は深追いをせず , ひたすら戦力の かかっている」と発言しているのに対し , カバ 強化をはかっていた。そして , ドイツ軍の方は レロは「戦闘を続けて結構です。燃料はいま輸 対ソ戦のために , 物資がスターリングラードへ , 送中ですから」と答えている。 8 月 27 日 , アラ コーカサスへと流れている。 ム・エル・ハルフアの戦闘直前のことである。 燃料のない戦車は , どういった使いみちがあ この戦闘は 8 月 31 日に開始され , 準備十分の 26
ガフサ戦線から撤退する連合軍。 向けて進撃するのだ。 名な 56 口径 88mm 砲を装備し , 装甲厚 l()()mm とい メントン大佐の混成特殊部隊が急行した。古 うよろいに身を包んだ 18 両の新鋭タイガー戦車 い城塞 ( じようさい ) のそびえるガフサ・オアシ が , そこへ突進して猛攻を加えた。 スを , その夜のうちに手に入れたメントン部隊 アメリカ第 1 機甲師団 A 支隊がこれをむかえ は , 翌 16 日早朝から進撃を再開し , テべサへと 寸ち , 必死の防戦を行ったが , 午後になると , 続く簡易舗装道路上を疾風 ( はやて ) のように北 ビルエルアフェイを南から迂 ( う ) 回してきた第 へ向かった。その途中でもアメリカ軍砲兵隊は 21 機甲師団も攻撃に加わったため , A 支隊は戦 けちらされ , 道路のわきには , 何台ものシャー 車 68 両の損害を出して撤退し , シジ・プ・ジッ マン戦車が撃破されて燃え上がっていた ドは 1 日にして陥落した。 フェリアナでは 1 時間に及ぶ激しい戦闘の末 , 翌日もまた , ジーグラーの指揮する主力部隊 アメリカ軍はセレプテ飛行場にあった機もの は進撃を続け , アメリカ第 1 機甲師団 C 支隊を 航空機を破壊し , 退去して行った。 2 日という 中心とする反撃も , 86 両の戦車を失うという壊 短時間のうちに , フェリアナまで進出できたと 滅的な損害をこうむって撃退された。 いうのは , ロンメルにとって予想以上の戦果だ メントン部隊の快進撃 った 一三ロ いつばう この情況を傍観していたロンメル 全軍テべサへ のもとに信しられないような報告が舞いこんだ。 北では第 10 戦車師団が , 15 日の夜 , アルニム 最良の防衛陣地であるガフサを , アメリカ軍部 のかねてからの狙 ( ねら ) いであるピションの奇 隊が攻撃を受けもしないのに捨てて , 14 日の夜 襲攻撃に向かったが , ジーグラーの劣悪な指揮 のうちに撤退したというのである。ロンメルは 戦術とフランス軍の強い抵抗のため , これは不 決断した。全力をあげて一刻も早く , テべサへ 57
の斧作戦の第 1 日目が終わった。 この日 , 午後からタ方にかけてイギリス軍は バルジア南方を攻撃して カブツツオを包旧し , いる。 2 0 8 基地 6 月 16 日の太陽が昇ると , 前日からの戦いが ハルファヤ峠での戦車 またもやくり返された。 戦 , 歩兵戦 , そして , イギリス軍はバルジアの ロンメル第 15 機甲師団を攻撃している。 この日 , イギリスの中央戦線突破は成功した かにみえた。カブツツオとムサイトは陥落し , イギリス第 7 機甲師団はドイツ第 15 機甲師団に 迫り , ドイツ軍はそれを阻止できなかった。 第 1 段階の作戦がほは、うまくいったところで , 問題点は二つにしは、られてくる。ーっはハルフ ァャ峠を奪回すること , もうーっは砂漠の迂 ( う ) 回作戦を成功させることである。迂回作戦が成 功すれば , ドイツ軍の第 15 機甲師団 , 第 5 軽機 甲師団の背後をついて , これを徹底的に痛めつ けることができる。 このポイントは , 迂回の際に絶対通過しなけ ればならないサルーム戦線の , 最南端にある 208 Sd. Kfz. 7 8 トン・ハーフ・トラックに牽引される , と呼ばれるドイツ軍基地を占領することにある。 かし , これも基地 30()m 手前の機銃弾幕でストッ アラブ人基地を基点としたこの小さな砂漠の プがかけられてしまう。戦場には 28 台の戦車の オアシスは , イタリア歩兵 , 工兵 , それにドイ ツの 1 中隊が作りあげたものであり , 指揮官は 残がいがくすぶっていた ドイツ軍に幸いしたことがある。本部との連 パウレヴィッツ中尉で , 第 1 オアシス中隊 , 機 絡がとれ , 飲料水 , 食糧 , それに弾薬が補充さ 関銃 1 個分隊 , それにツィーマー中尉の 88mm 高 れたことである。もし , この通信連絡がとれな 射砲 1 個中隊で全部である。前日 , この基地と かったとしたら , 88mm 砲の徹甲弾も残り少なく 第 15 オートバイ大隊との電話連絡が絶え , 孤立 なった基地に , 明日はなかったはすである。 した状態になっていた。 翌 16 日 , オアシス中隊は十分な弾薬と食料を 16 日早朝 , イギリス第 7 機甲旅団が接近して 背中に , イギリス軍の攻撃を待った。が , 攻撃 きた。急速に明るさをましてきた砂漠の中を , はなかった。 すさましい砂じんをあげてやってくる。 ノヾウレ ヴィッツは 88mm 砲へかけより , そこで 30 台の戦 戦いの斧の終わり 車を双眼鏡で確認している。 ハルファヤ峠も 208 基地も , 最後まで守り抜 ひきよせるだけひきよせて 88mm 砲が火を吹い かれ , イギリス軍の手中に落ちなかった。戦い た。マークⅡの最大のにが手 88mm 砲の前に 11 の斧作戦は失敗したのであった。 台が早くもその餌食 ( えしき ) となった。戦況不 ハルファヤ峠のパルディ砲兵隊は , 弾が残り 利とみたイギリス軍は , 戦車をひっこめ , しば 少なくなると , 古いイタリアの砲弾をみがき , らくは砲撃戦が続いたのであった。 油を塗って使用し , イギリス軍を寄せつけなか 午後 , 第 2 回目の戦車攻撃が始まった。第 7 った 機甲旅団あげての攻撃だったが , またもや 17 台 「 6 月 17 日 , すべてがますくなってきた。そし のマークⅡがやられ , 押しもどされている。 て , わが攻撃は失敗に終わった」 勇猛なイギリス歩兵の突撃が開始された。し 第 . を嶐当戔を 46
円 42 年 6 月ロ日 , トプルク前面で撃破された Ⅲ号戦車 N 型を検分する英軍兵士。右の兵は プレン機関銃を持っている。 この 4 日後に ロンメル軍団によってトプルク陥落の事態が 起きようとは , 彼らには知るよしもない 捕獲した第幻戦車師団のⅣ号戦車 D 型を調へ る英軍将兵。クルセーダー攻勢を受けたころ , ドイツ軍戦車隊の燃料は極度に不足し , 身動 きできすに捕獲されるものも数多かった
を朝を夛第物第ををに ・久を→をも こ宀 タラ前面における激闘の跡。第幻機甲師団のⅢ号戦車 L 型が擱坐するむこうを , 英軍のポフォース砲が再びカ セリーヌ峠へと進んでゆく 攻撃を見守っていた。そこには , かって破竹の 勢いで勝利をかざったロンメル軍団の , よき日 の勇姿があった。 3 年間 , 苦楽をともにした病める元帥の目の 前で , 第 15 戦車師団の第 8 戦車連隊は峠道を突 進し , 第 21 戦車師団も彼らとともに峠を越えて 果敢な攻撃を展開した。夕刻 , カセリーヌ峠は チュニジア最大と言われる激戦ののちに , ロン メルの手におちた ロンメル軍猛進撃 カセリーヌ峠の陥落によって西への進路は大 きく開かれ , 連合軍部隊は大きな脅威に直面す ることになった。アメリカ軍部隊の混乱は頂点 に達し , イギリス第 1 軍はアンダーソン将軍の 死守命令によって , 崩壊する戦線をかろうして 持ちこたえていた こうした敵の混乱を利 ロンメルの攻撃軍は , 用するために夜を徹して進撃を続け , 驚愕 ( き ようがく ) して退却するアメリカ軍部隊を追っ た。明けて 22 日 , 第 10 戦車師団はタラへと迫り , 第 21 機甲師団はスビバへの道を切り開いていた。 さらに , 北ではアルニムの第 5 機甲軍も , 全 力をもって突撃を開始し , プーゼ大佐の第 47 歩 兵連隊はついにピションを占領すると , さらに 20km 進出した。 ドイツ軍の撤退 だが , チュニジアのドイツ軍すべての命運を かけたこの攻勢は , 戦史で明らかなように の日 , 2 月 22 日をもって終わりを告げたのであ った。 タラからスビバに至る連合軍部隊の防衛線に は , アッという間に強力な砲兵部隊を含んだ 4 個師団が増強され , 加えて天候の回復によって , 空軍の出動が非常に活発になった。 こうなっては , 補給線がのびきり , わすか 3 個師団あまりの兵力しか持たないロンメルは , これ以上損害を出して攻撃を続けるわけにはゆ 22 日の午後 , カセリーヌ峠におい かなかった。 て空軍のケッセルリンク元帥と会談したロンメ ルは , 全部隊に攻撃の中止と撤退を命令した。 連合軍にとって恐怖の的であったドイツ兵た こうしてすべての陣地を放棄し , 再びカ ちは , セリーヌ峠を通って整然と撤退して行った。そ のあとには , 撃破されたわすか 9 両の戦車だけ が , ロンメル部隊の見事な撤退を示してとり残 されていたという。 59
北アフリカの前線基地司令部で , 幕僚を前に作戦をねるイギリス軍司令官モントゴメリー将軍。 し , また , モントゴメリーにしても , 慎重な攻 イギリス第 50 師団が海の近くで防衛線を突破し , 水をかきわけながら氾濫 ( はんらん ) していた 撃が必要だと思っていた。彼の攻撃計画の中心 は , 北でワジ・ジグザグーをわたり , 南からは ワジ・ジグサグーを渡った。 砂海をつきぬけてテパガ峡谷を突破し , マレト 砂漠を進んだニュージーランド師団は , 21 日 陣地を両面から圧迫してドイツ軍を包囲 , せん 夜 , テパガ峡谷を守るドイツ軍サハラ守備隊を 攻撃し , 老齢兵からなっていたサハラ守備隊は , 滅することにあった。 3 月 17 日の夜 , 敵の注意をひきつけるための この夜襲でアッという間に敗れてしまった。 牽 ( けん ) 制攻撃をマレト正面に行ったあと , 逆襲 モントゴメリーは翌日 , 2 万 7 , ()0() の兵力と 20() 両の戦車を持っ , フレイバーグ将軍のニュージ ところが , フレイバーグはこれをロンメルの ーランド師団を南翼に集結させた。北翼にはイ 十略だと恐れてそれ以上進撃せす , ドイツ第 164 軽機械化師団と第 21 戦車師団がテべサへ急いで ギリス第 30 軍団がマレト正面に展開し , 予備兵 力として , 第 10 軍団と第 1 機甲師団が控えてい 到着し , 前進をはばんだ。 マレト正面では , イギリス第 50 師団の進出を たのであった 防いでいたドイツ第 90 軽師団が , 22 日 , 第 15 戦 緊迫した何時間かが過ぎ , ついに予定の 3 月 車師団とともにどしゃ降りの雨のなかを逆襲に 20 日の 20 時 30 分 , マレト線を守るドイツ第 90 軽 機械化師団への攻撃がものすごい集中砲火をも 出た。第 115 歩兵連隊は , 今までかしりついてい た塹壕 ( ざんごう ) から這 ( は ) い出すと , ジ って開始された。夜の闇 ( やみ ) にまぎれて , 強物宿第を
( 戦いの斧 ) 作戦 央の戦車はⅣ号戦車の F2 型のようである。 平原を , 歩兵部隊が黙々と前進してゆく。中 戦車部隊が展開するとめどもなく広い砂漠の 鈴木のりひさ 1941 年 5 月 18 日 , この時点では両軍共に ルファヤ峠を除いて , スタートに逆戻りしてい る状態といってよかった。 ヘルフ機動部隊 ヘルフ機動部隊の奇襲作戦で , 5 月上旬 , ノ、 ルファヤ峠がドイツ軍のものになり , 中旬には また , イギリス軍の手中に落ちる。そんなくり 返しの戦闘が , ハルファヤ峠で行われていた ノ、ルファヤ峠は , それだけの価値が十分にある 重要拠点なのである。 もっとくわしくいえば , サルームからエジプ トまで , 東南方に標高 180m ぐらいの断崖 ( だん がい ) が続き , これを通り抜けることが可能な のは , サルーム峠とハルファヤ峠の二つしかな ハルファヤ峠からは , この二つの い。しかも , 通路のいすれもがはっきり監視できるのである。 当然 , イギリス軍がエジプトからの攻勢にで ドイツ軍にとっても , る場合の補給路となり , その補給路を断っことは最重要ポイントとなっ てくる。 5 月 26 日 , ロンメルから「ハルファヤ峠を奪 取せよ」の命令がヘルフ機動部隊に出された。 クラーマー中佐の第 8 機甲連隊が , 救援のため に配属されている。 翌 27 日 , 攻撃が開始された。北からはクラー マーの第 8 機甲連隊が , 第 104 狙撃兵連隊第 1 大隊は徒歩で正面から , さらに陽動作戦として , 43
中海方面には , まだ配備されるほどの機数には スピットファイアの高度とスピードという , 偵 察機としての最大の武器が物をいったことをよ なっていなかった このギャップを埋めたのはスピットファイア く示している。 の写真偵察型であった。スピットファイア PR Ⅳ 7 月 l() 日 , 1 機のスピットファイア PR Ⅳは , は戦闘機型の Mk. V から改造され , 1 万 m の咼 2 機のメッサーシュミット Bf 109 に迎撃された 度で 2 , 880 km の航続距離を飛ぶことができた。 が急反転してそのまま増速し , フル・スロット また , 亜成層圏の濃い色にも溶けこむように考 ルで帰還した。 けんめいに追跡する B f 109 は後 という塗装がされ始めたの 方にとり残され , まるで空中に止まっているよ えられた PR プルー も PR Ⅳからである。 うに見えたという話である。 スピットファイア PR Ⅳがマルタに送られたの ドイツ空軍はこの後 , I() 月に 60() 機の兵力で は 1942 年 3 月のことであった。最初に送られて マルタ島を無力化しようと試みたが , ついに果 来たのは 2 機。しかし , この 2 機のスピットフ たさす , こんどは兵力を充実させた連合軍側が ァイアは , ドイツ空軍のマルタ空襲が最高潮に シチリア島を徹底的に爆撃し , ついにマルタ島 達していたこの時期に , 間断のない空襲の合い を守り抜いた。この時にドイツ空軍に対する攻 間をぬって写真偵察に活躍した。 撃に使われたのが , スピットファイアによる偵 出撃は 2 日に 1 回の割合で 8 か月間にわたっ 察写真であったことはいうまでもない。 て行われた勘定だが , この間に この後 , マルタ島のスピットファイア PR Ⅳは ドイツのケッ セルリンク空軍大将がシチリア島に集結させて 18 機に増え , 戦局が有利になるにつれてその行 いたドイツ空軍兵力の数 , 機種 , その基地を正 動の範囲も広がり , フランス本土のマルセイユ 確に把握するという成果をあげている。これは 上空までカバーするようになった 地中海 , 北アフリカ戦線で活躍し , 連合軍の陰の戦力となったスピットファイア写真偵察機 p 日Ⅳ。スピット ファイア P 日Ⅳは写真偵察機の標準型機として 229 機生産され , マーリン 45 , 46 , 50 , 55 , 56 などのエンジンが 搭載された。標準翼で武装は無く , カメラを 2 台積載しており , 主翼前縁に合計 6042 の燃料タンクを増設して , 航続力の増大を計っていた。 78