空軍 - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第25号
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1. グラフィックアクション 第25号

ーター戦闘機。 グロスター・グラティエ 田田出 8032 ーン戦闘機。 ホーカー・ハリケ 0 は , SM82 から発達した雷・爆撃機であ おき , ェンジンを 3 基装備した 3 発機が多かっ った。襲撃機としては単発 , 単座のプレダ Ba65 たのも大きな特色である。 があったが , 緒戦でほとんど消耗し , 目立った 1940 年のイタリア爆撃機のうち , すでに旧式 活躍はない。 になっていたが双発のフィアット BR20M 一般にいえることは , イタリア空軍は爆撃機 ちおう近代的な設計のものだった。 には力を注いでいたが , 機体そのものは防弾や カント Z 1007 は木製のスムースな胴体の線を 武装の面で弱点があり , 性能の面でも高出力の もつ 3 発の爆撃機だったが , なんといってもイ ェンジンに恵まれなかったため , 双発クラスの タリアの代表的な爆撃機はサポイア・マルケッ 機体に三つのエンジンをつけ , 中途はんばな機 ティ SM79 である。空冷ェンジンを機首と両主 体が多かったといえる。 翼につけた 3 発機で , 爆弾倉の中に魚雷 1 本を 搭 ( とう ) 載でき , 爆撃にも対艦船攻撃にも使用 イギリス空軍 できた , イタリア空軍の主力機であった。 サポイア・マルケッティ SM82 は , 同様なアレ ンジメントをもつ機体であるが , 輸送機として 前線への補給に活躍した。武器弾薬 , 食糧など の輸送に多用されたが , 北アフリカでの枢軸軍 の旗色が悪くなり , 海上輸送が連合軍に制圧さ れてからは , 空路補給が命綱になったが , 同時 に損害も大きくなり , 枢軸側空軍の輸送機陣と して大きな損失を被った , ュンカース Ju52 / 3 m とよく似たもの同士といえよう。 SM84 イギリス本土上空で , 死力をつくしてドイツ 空軍と戦っていたイギリス空軍は , 第一線機を 地中海方面に割くことは , 北アフリカの戦いの 初期にはできない相談だった。したがって , 初 期の空中戦闘の重荷をになったのは , 複葉のグ ロスター・グラディエーター戦闘機とホーカー ハリケーンであった グラディエーターはフィアット C R42 と同じク ラスの機体だが , 武装の面でややまさり , 87

2. グラフィックアクション 第25号

0 イギリス空軍のプリストル・ポーフォート双発爆撃機。・爆撃機の傑作の一つで , 地中海でも活躍した。 かったが , アメリカ製の援英機マーチン・メリ イタリアは 6 月から 9 月までの 4 か月間に ーランド双発爆撃機を偵察機に現地改装し , イ 実に 35 万トン余りの船舶を失い , イタリアの外 タリア空軍と海軍の動きを写真に撮りまくっオ 相チアノは , 9 月 25 日 , 「イタリア海軍は甚大な また , ホーカー・ハリケーン戦闘機から機銃を 損失は続けられない , いっそのこと , キレナイ すべてとり外し , カメラを搭 ( とう ) 載して短距 力とトリポリタニアからは撤退した方が良い」 離の写真偵察機に転用した。 と日記に書いたはどであった。 こうして , イタリア本土の港湾と地中海を航 もちろんドイツ空軍は , マルタ島とこの島を 行中のイタリア , ドイツの船舶の動きを「いっ 基地とするイキリス空軍に全力をあげて襲いか どの船が , 何を積み , 何を降ろしたか」克明に 1941 年 12 月から , 猛烈な戦いがマルタを 己録する活動を行ったのである。 めぐって行われるのである。 その結果 , 写真偵察によって敵の船舶が北ア スピットファイアの活躍 フリカに向かって出航するや , イギリス空軍は 即座にプリストル・プレニムやプリストル・ポ ヾトル・オプ・プリテン ( 英国の戦い ) で , イギリスをドイツ空軍から守ったスピットファ ーフォート , マーチン・メリーランドなどの双 発爆撃機群をマルタ島やその他の基地から飛び イア戦闘機は北アフリカでも活躍したが , マル タ島を中心に地中海 , 北アフリカの戦いを有利 立たせ , 輸送船団を沈めてしまう方法をとった にしたのも , また , スピットファイア写真偵察 のであった。 その年の 2 月 , 北アフリカに着いたロンメル 機だった。 イギリス本土を基地とする戦略偵察部隊には , と彼のドイツ・アフリカ軍団は , 1941 年の 9 月 全木製 , 高性能のデ・ハビランド・モスキート までに , 武器 , 弾薬などの装備や補給品の半分 を海上輸送中に失っている。 偵察機が配備され始めていたが , 1942 年春の地 一三ロ 77

3. グラフィックアクション 第25号

ース Ju52 輸送機が飛んでいる。海面の飛沫が , 戦闘中を物語っている。 地中海での戦闘。超低空をユンカ 襲が行われる , という偽の無電を打った。これ 攻めと守りと を信じたイタリア艦隊は , 大急ぎで反転して去 ロンメルへの枢軸側の補給線を脅やかすと同 ってしまった 戦後 , この事件についてイタリアの提督のひ 北アフリカの戦いを有利にするには , ど 時に とりは「目隠しをされてチェスをするようなも うしてもドイツ空軍から連合軍の艦船を守るこ のだった。こちらにはイギリス艦隊の所在がわ とが欠かせないことであった。 こちらの所在も編成も , イ からなかったのに エジプトのアレキサンドリアやジプラルタル ギリスには筒抜けだったのだから」ともらした から , マルタに向けて地中海を航行するイギリ という。 スの輸送船団は , ドイツ空軍の爆撃やイタリア 青い空に 8 , 00()m 以上の高空で発生しやすい 艦隊の砲撃で大きな損害を被ることがしばしば 白いコントレール ( 飛行機雲 ) をひきながら飛ぶ だった。 写真偵察機は , このようにイギリスのウォー 1942 年 2 月には , アレキサンドリアからの合 マシーン ( 戦争機構 ) の眼であった。 団 MW 9 は , クレタ島のドイツ空軍爆撃機のた 1 万 m 以上の孤独なフライトは , 高度と速度 6 月に出 めに壊滅的打撃を受けている。また , を唯一の武器とするもうひとつの闘いであった 航した船団は , タラント軍港を出港したイタリ 空中戦闘の華やかさも , 戦略爆撃の勇ましさも ア艦隊の所在をつかめなかったために , 途中か ない , 目立たない戦争である。故障や , 敵機に ら引き返すはめになった。 襲われて , ただひとり何の消息もなく生命を落 このため , 8 月にジプラルタルを出航した船 とすことのある , 孤独の闘いである。 団の安全を図るための写真偵察は入念を究め , しかし , 解像力の高い優秀なレンズと長焦点 パレルモの二つのイタリアの軍港だ タラント , のレンズで , フィルムに刻まれた映像からドイ けでも , 4 日間に 9 回の写真偵察が PR スピット ツや日本の敗戦のきっかけが生まれてきたこと ファイアによって行われた を考えれば , この闘いで世界を 1 歩リードした その結果 , 船団に向かって進んでいた 6 隻の イギリスは , レーダーのほかにもうひとつの武 重巡と 6 隻の軽巡から成るイタリア艦隊が , 砲 器を手にしていたといえるだろう。 撃距離に入る直前 , イギリス海軍は大規模な空 79

4. グラフィックアクション 第25号

ーこ物を 北アフリカ戦線に配備されたドイツ空軍の , メッサーシュミット Bf 田 9E-4 熱帯型戦闘機。 ーい 第第驪囀引 空カメラやフィルムの開発に努力を払った マルタ島基地ーーー一地中海の偵察戦 北アフリカでイギリス軍とイタリア軍が戦端 を開くのに先立って , イギリス空軍は , イタリ ア軍の航空基地や航空兵力の配置 , 海軍の艦艇 の配備や軍港の状況などを , 早くからっかむこ とに努めていた 1939 年の初頭には , 写真偵察用に開発された 特別の機体がなく , ロッキードの高速旅客機 L ー 12A 双発機を , イギリス空軍は購入して使用し こ。このロッキードはプルー 1 色に塗られ , 国 籍標識を隠したりすることが多く , マルタ島の 基地を使って , 当時の北アフリカの主要な港湾 を写真撮影していた 第二次大戦が始まったとき , イギリス空軍が 、、戦闘機よりも速い爆撃機 ' ' としていたプリス トル・プレニム双発爆撃機は , その高速をあて にされて写真偵察に投入されたが , 高度 4,000m で 420km / h ていどの性能では , ドイツ空軍の Bf 109 や 88mm 高射砲の前にはとうてい歯が立たす , 未帰還機が続出した。 そこでイギリス空軍は , スピットファイア Mk. I 戦闘機の武装を全部おろし , 代わりに航空用 カメラを積んで高空を高速で飛び , ドイツ戦闘 機の追撃を振り切ってしまうことにした。 このような , イギリス空軍の高空からの隠密 偵察ーー単機での一一にくらべて , イタリア空 軍の偵察は , 偵察機を多数の戦闘機が護衛して 大編隊でやってくるので遠方から容易にわかり , 効果が少なかった。この写真偵察の差が北アフ リカでの戦いを , ドイツ , イタリア軍にとって苦 しいものにしたひとつの原因になったといえる。 1940 年 9 月 , イタリア軍が北アフリカで , イ ギリス軍に対して作戦を開始したとき , 北アフ リカのイタリア軍航空基地は , すべてイギリス 空軍の写真偵察でカバーされており , 多くのイ タリア機が , イギリス空軍機の地上攻撃で撃破 された。イタリア地上軍の戦闘能力の低さもあ って , 12 月にはイタリア軍は壊滅状態になった。 マルタのイギリス空軍は , 当時 , まだ新しい 写真偵察型のスピットファイアを受領していな 76

5. グラフィックアクション 第25号

マッキ MC200 戦闘機。 サポイア・マルケッティ SM79 爆撃機。 ー朝 機 送 撃 イ テ ケ レ マ イ ー一ス工 3 瞽ド物“ " = 0 第。、第夸弩罩ツ : 簽・ " 、 ・な当朝再物諸第第韆物物蹴い話盟物物第疉蟻、を 攻撃に用いられた。 り合えたのは本機くらいのものではなかったろ フィアット G 50 は空冷星型ェンジンを装備の うか。戦線に姿を現したのは 19 41 年の終わりこ 単座戦闘機で , イタリアが戦闘に参加したとき ろからである。イタリアでライセンス生産をし に保有していた近代的戦闘機のひとつだった。 た DB601 液冷工ンジンを MC2()() の機体に装備し 性能的にはとりたてていうほどのものではなく , たこの戦闘機は , コックピットも密閉式となり , とくに , 武装が 7. 7mm 2 丁と貧弱なことは , 本 速度 , 高度ともに Bf1()9 やスピットファイア級 機に限らす , イタリア戦闘機の共通した弱点だ の性能にグレード・アップされたが , 武装だけ った は相変わらす貧弱であった。 マッキ MC200 はイタリア戦闘機中で , 地中海 このほか , 北アフリカ戦線に登場したイタリ 方面で最も活躍した部類に入る代表的な空冷ェ ア製戦闘機には , レジアーネ Re2000 や , 在来機 ンジン付きの単座戦闘機である。ェンジン・ナ 種の性能を向上させた MC205, フィアット G 55 , セルをできる限りしばったため , シリンダー Re2005 などがあるが , イタリア空軍はドイツの ヘッドの部分がイボのように出ており , 独特の ミット B f109 で戦闘中隊を編成す メッサーシュ カウリングの形状をもっている。初期生産型は するなど , 戦闘機の機材に恵まれていなかった。 密閉式キヤノピーだったが , のちに前面と側面 戦闘機に関しては , イタリア空軍はドイツ , イ だけががラスで覆われ , パイロットの頭の部分 ギリスの空軍に比べて一流品しか持たなかった だけ開放式となっていたのが , 世界でも珍しい たといえるだろう。 形式である。 イタリア空軍は海洋が主な戦場となることを MC 200 のエンジンをダイムラー 予想していたので , 爆撃機を偵察 , 雷撃など , ・くンツの DB601 に換装したのかマッキ MC202 で , 北アフ 多用途に用いることができるような方針で装備 リカの戦いを通して , まともに連合軍機とわた していたのが特徴であった。航続力にも重点を 86

6. グラフィックアクション 第25号

中海方面には , まだ配備されるほどの機数には スピットファイアの高度とスピードという , 偵 察機としての最大の武器が物をいったことをよ なっていなかった このギャップを埋めたのはスピットファイア く示している。 の写真偵察型であった。スピットファイア PR Ⅳ 7 月 l() 日 , 1 機のスピットファイア PR Ⅳは , は戦闘機型の Mk. V から改造され , 1 万 m の咼 2 機のメッサーシュミット Bf 109 に迎撃された 度で 2 , 880 km の航続距離を飛ぶことができた。 が急反転してそのまま増速し , フル・スロット また , 亜成層圏の濃い色にも溶けこむように考 ルで帰還した。 けんめいに追跡する B f 109 は後 という塗装がされ始めたの 方にとり残され , まるで空中に止まっているよ えられた PR プルー も PR Ⅳからである。 うに見えたという話である。 スピットファイア PR Ⅳがマルタに送られたの ドイツ空軍はこの後 , I() 月に 60() 機の兵力で は 1942 年 3 月のことであった。最初に送られて マルタ島を無力化しようと試みたが , ついに果 来たのは 2 機。しかし , この 2 機のスピットフ たさす , こんどは兵力を充実させた連合軍側が ァイアは , ドイツ空軍のマルタ空襲が最高潮に シチリア島を徹底的に爆撃し , ついにマルタ島 達していたこの時期に , 間断のない空襲の合い を守り抜いた。この時にドイツ空軍に対する攻 間をぬって写真偵察に活躍した。 撃に使われたのが , スピットファイアによる偵 出撃は 2 日に 1 回の割合で 8 か月間にわたっ 察写真であったことはいうまでもない。 て行われた勘定だが , この間に この後 , マルタ島のスピットファイア PR Ⅳは ドイツのケッ セルリンク空軍大将がシチリア島に集結させて 18 機に増え , 戦局が有利になるにつれてその行 いたドイツ空軍兵力の数 , 機種 , その基地を正 動の範囲も広がり , フランス本土のマルセイユ 確に把握するという成果をあげている。これは 上空までカバーするようになった 地中海 , 北アフリカ戦線で活躍し , 連合軍の陰の戦力となったスピットファイア写真偵察機 p 日Ⅳ。スピット ファイア P 日Ⅳは写真偵察機の標準型機として 229 機生産され , マーリン 45 , 46 , 50 , 55 , 56 などのエンジンが 搭載された。標準翼で武装は無く , カメラを 2 台積載しており , 主翼前縁に合計 6042 の燃料タンクを増設して , 航続力の増大を計っていた。 78

7. グラフィックアクション 第25号

彩った軍用機たち 伸 空軍は奮戦したといえるだろう。 対 1 以上と多く優勢だったのだから , イギリス 源三 がって連合軍に宣戦し , 地中海の戦いはいよい もっとも , イタリア空軍の方が機数の上では 4 ア空軍とイギリス空軍の旧式機たちであった。 地中海の戦いの初期に登場したのは , イタリ イタリア空軍 機の代表的なものを挙げてみよう。 イツ , イタリア枢軸空軍と , 連合国空軍の軍用 った 。北アフリカと地中海の戦場で活躍したド 権を失うものは , アフリカの戦いを失う者であ 定的に重要な補給路だった。地中海の制空・海 地中海は北アフリカで戦う両軍にとって , 決 の独裁者ムソリーニは , よその幕を開けた。 ドイツとの協定にした まず , イタリア空軍だが , イタリアが参戦し たとき空軍は , ちょうど空軍用機材の近代化計 画を始めたばかりのところで , 戦争はこの意味 で , 空軍にとって早く始まりすぎたといえる。 戦闘機の主力は複葉単座のフィアット CR42 であつな。 CR42 は , 戦闘機の様式が複葉単座か ら全金属製単葉単座へと移行する直前の機体で , イギリス空軍のグロスター・グラディエーター やソ連の I ー 15 などに対応する戦闘機だった。北 アフ屮カ , 地中海方面の戦場では , 初期には最 も使用機数が多く , グラディエーターと格闘戦 を行った。中期以降は戦闘爆撃機として , 対地 85

8. グラフィックアクション 第25号

地上で整備 , 給油を受けるメッサーシュミッ ト B f Ⅱ 0 双発戦闘機。機首に 20mm 砲を 2 門 , 7.9mm 機銃 4 丁の前方武装を集中した Bf 凵 0 戦 闘機は , バトル・オプ・プリテンの際には英 空軍の前に落第点をつけられたが , 北アフリ 力では地上襲撃や , 」 u87 「シュッーカ」の護衛 などに使われた。 砂塵を上げて離陸するヘンシェル Hsl 29 襲撃 機。近接支援用地上襲撃機として生産された この H 引 29 は , 重装甲 , 重武装の単座襲撃機と して , 砂漠での対地攻撃に使用された。弱点 は , 工ンジンがフランスの降伏と共に入手し たル・ローヌ空冷星型工ンジンで , 出力が低 く , 砂塵に弱かったことだった。

9. グラフィックアクション 第25号

ドイツ・アフリカ軍 団司令官として勇名を 覇せたエノレウイン・ロ ンメル元帥。歩兵出身 でありながら , フラン ス侵攻時には強く希望 して第 7 機甲師団長と なり , 電撃戦を展開し てフランスを席巻し , 勝利を握った。四年 2 月には , ドイツ・ア フリカ軍団の司令官に 任命されて北アフリカ に飛び , その巧妙な作 戦で " 砂漠の狐 " と呼は、 れ , 敵国のウインスト ン・チャーチル首相を して「偉大な将軍であ る」と言わしめている。 マ滑走路もない砂漠か ら飛び立つドイツ空軍 のメッサーシュミット Bf 9 戦闘機。もうもう と砂じんを巻き上げ , 4 機編隊で飛び上がる 瞬間である。急造の砂 漠の飛行場からの離陸 は非常な危険がともな い , まして B f 田 9 戦闘機 の様に , 車輪問隔のせ まい飛行機での離着陸 には , 転覆事故がっき まとった。

10. グラフィックアクション 第25号

北アフリカの空を イタリア空軍のフィアット 0 日 42 戦闘機。 はじめに 世界地図を出して , 地中海の占める位置を見 てみるが良い。ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸 を北と南にへだて , 東西の出口をしばられたか たちのこの海は , 古くから歴史の中で貿易の海 であり , 戦争の海であった。この地図の上に 第二次世界大戦当時の戦争参加国の植民地や版 図を重ね合わせてみれば , 地中海の重要さはい っそう明らかになってくるだろう。 イギリス海軍はこの地中海の制海権を握って おくために , かなりの兵力をここに投入してい た。地中海の東西の出入口 , ジプラルタルと工 ジプトのアレキサンドリアに軍港をおき , イタ 戦端を開くと , それまで静観していたイタリア 1940 年 5 月 , ドイツがイギリス , フランスと ( ゆだ ) ねておくわけにはゆかなかった。 くために , 地中海の制海権をイギリス海軍に委 トリポリタニア ( 現在のリビア ) を経営してゆ 北アフリカに領有していた植民地キレナイカ , 中海に集中していた。タラントに大軍港を築き , ることだった。イタリアはその全海上兵力を地 同しようなことは , イタリアにとっても言え めに , 手放すことのできない海であった。 そして中東の石油 , スェズ運河の通行を守るた リスにとって地中海は , 勢力範囲を守るために ルタ島には , バレッタ軍港を構えていた。イギ リアののどもと近くにつきささる位置にあるマ