ワリミ みチを れからさらに「ドニエッ盆地へと進出せよ」と いう陸軍総司令部の作戦命令を受領した。 総統指令第 21 号「バルバロッサ作戦」によって 設定された A ~ A ラインの南の端を受け持っ南方 軍集団には , クライスト将軍の第 1 機甲軍を含 む 4 個軍があったが , ルントシュテットは当面 の最重要目標であるクリミア半島の制圧という 重責に , ドイツ陸軍きっての戦略家ェーリッヒ・ フォン・マンシュタイン将軍主、いる第 11 軍をあ てた。 前の年のフランス侵攻にあたっては , 卓抜し た作戦案を提唱しながら , 陸軍参謀本部の機嫌 をそこねて A 軍集団参謀長の座を追われたマン シュタインであったが , その優秀な頭脳を信頼 マンシュタインの登場 1941 年の秋といえば , 東部戦線に派遣された 3 個のドイツ軍集団のうち , レープ元帥の北方 軍集団はレニングラードを包囲し , ポック元帥 の中央軍集団はキエフ戦から再びモスクワへと 「タイフーン作戦」の幕をあけようとしていたこ ろだが , 残るルントシュテット元帥の南方軍集 団の様子はどうだったのだろう。 ヒトラーの転進命令によるグーデリアンの第 2 機甲軍を初めとする援軍とともに 9 月 26 日 , 圧倒的な勝利でキエフの占領を果たしたルント シュテット元帥は , 新たな作戦目標として , ク リミア半島およびロストフを制圧 , 占領し , そ 62
4 「タイフーン作戦」の発令で , モスクワをめざすドイツ機甲部隊。チェコのスコダ製 43.4 口径 4.7cm 砲を搭載した I 号対戦車自走砲 ( 右 ) と , Sd. Kfz. 2 引に 45 口径の 3. 7cm 対戦車砲 Pak35 / 36 を載せた Sd. Kfz. 2 引 / 田である。 目的は南方軍集団とのドッキングであり , 目標 キエフ陥落 はキエフの攻撃である。 南方軍集団が大激戦を展開しながら獲得した モスクワ前面を固守していたジューコフが , ウマーニ地区によって , キエフ包囲戦のキーポ このドイツ軍の変化に気が付いている。ソ連大 イントが一つできあがった。しかも , 中央軍集 本営は , プリャンスク地区に兵力を集結し始め , 団とのドッキング態勢も , これでほば整うこと キエフに第 37 軍を残して , すべての部隊で防衛 になる。 を固めた。ジューコフは , ドイツ軍はキエフと 南下したグーデリアン機甲師団はロムヌイと 南西方面軍の背後に向かって戦力の移動を行っ プリルーキを奪い , ロフウィ ツアに迫った。 ていると考えたのである。 1941 年 9 月 14 日 , クライストの第 1 , グーデリ プリャンスク地区方面軍司令官にはイエレメ アンの第 2 機甲集団が合流し , キエフ攻略戦の この時点でのイエレメン ンコ中将が着任した。 終幕も間近になった。 コには , ドイツ軍の作戦変更など全く考えに入 9 月 17 日 , 死守を叫び続けてきたスターリン っていなかった。彼らはあくまでモスクワ進攻 も , ソ連南西戦区兵団司令官プジョンヌイ元帥 作戦上の包囲作戦であろう , という考えだった。 の撤退申し出を了解し , 9 月 19 日には , ソ連の もちろんのこと , プリャンスクから大迂 ( う ) 戦史上最大の損害を被ったといわれるキエフ戦 回してモスクワへ進攻するなど , ドイツ側では の幕が閉しられた。 北を攻撃すると思い 考えていない。まもなく , この日 , ヒトラーは暗号作戦名「タイフーン」 込んでいたドイツ軍が南を攻めて来たことから , を発令している。モスクワ攻略作戦である。 イエレメンコもこのことを認識することになる。 0
コーカサスへの道 0 、 0 しみふ : こ , 燾託ー。鸞、 冬期戦とその影響 戦力のバランスの大きく崩れた 1944 年になる 以前の独ソ戦は , すっと季節に左右されている。 どんな名司令官であっても , ロシアの大自然が 生む冬将軍や泥 ( どろ ) 将軍にはとてもたちうち できなかったからである。東部戦線では , 夏期 には機動力に優れるドイツ軍が進撃し , 冬期に なると今度は逆に , 兵力に勝るソビエト軍が攻 勢に立つ , というのが一種のパターンとなって ロストフの戦線も例外ではない。 ドニエプル 川を渡って快進撃したクライスト将軍のドイツ 第 1 機甲軍は , 1941 年 11 月 20 日 , 人口 50 万の要 衝ロストフを占領したが , 5 日後にはソビエト 軍が大反撃を開始し , 南方軍集団総司令官であ ったルントシュテット元帥は , 総統命令を無視 してロストフ放棄と全軍撤退を命じている。 モスクワ前面などの北方の戦線でも全く同様 で , いままで負けを知らなかったナチス・ドイ ツは , このソビエト軍の 1941 ~ 42 年にかけての 冬期大攻撃によって , 初めて深刻な打撃を受け ていた そしてその結果 , 総統ヒトラーの復讐 ( しゅ う ) が始まった。モスクワもレニングラードも とれなかった作戦失敗の責任を押しつけるため , ヒトラーは前後の見境もなく , まず , 陸軍最高 司令官プラウヒッチュ元帥を手始めに , グーデ リアン上級大将を , そして , ルントシュテット 元帥を罷 ( ひ ) 免し , 更迭している。 元伍 ( ご ) 長ヒトラーはドイツ陸軍すべてのカ ードを自分の手に握り , 最高司令部から 1 師団 の行動にいたるまで , 残らす口を出すようにな った。それは後々へと尾を引く , つまずきのほ んの端緒であったと言える。 ハリコフ戦の勝利 やがて春が訪れ , ヒトラーは 1942 年 4 月 5 日 付けで , 総統指令第 41 号を発令している。この 年の東部戦線における全ドイツ部隊の作戦計画 を明記した「プラウ作戦」と名付けられるこの 0 司令部を来訪したハインツ・グーデリアン上級大将 ( 中央 ) を門口まで出迎え , 随伴の若き士官にねぎら
指令によれば「北方軍集団と中央軍集団は防衛 にとどめて温存し , 南方軍集団をもって , ます , ドン川以西の突出部敵戦力を包囲 , 壊滅させ , 敗走する敵をポルが川 , スターリングラード地 区で一挙に打ちのめす。次いで南方軍集団は , コーカサスをめざして殻物と石油資源を押え , ソビエト軍の生命線を断っ」ものとされていた こではすべ ヒトラーは前年の戦術方針を , て戦争経済ということにすり替えてしまってい る。 南方軍集団は 1 月以来 , フォン・ポック元帥 がその指揮をとっていたが , ポックはこの計画 にそって , まず , ハリコフ南地区に圧力をかけ ているティモシェンコのソビエト軍部隊に対し て , 攻撃作戦を立案している。行動開始予定は 5 月 18 日であった。 けれども一足早く , 5 月 12 日にティモシェン コのソビエト軍が先手をとって討って出た。 リコフ北地区からソビエト第 28 軍の 21 個師団を 投入 , 南からは第 6 軍および第 57 軍の 58 個師団 を投入して , ドイツ第 6 軍の撃破を図った。大 津波のごとく押し寄せる戦車群によって , 戦線 はいたるところで西へ突破されたのであった。 ポック元帥は反撃のため , 南方に待機してい たクライスト機甲集団に出撃を命じ , クライス ト将軍はその主力である第 1 機甲軍および第 17 軍を率いて , 5 月 17 日 , イジュム戦線のソビエ ト軍側面に奇襲をかけた。その後はドイツ軍得 意の機動包囲戦が展開され , 5 月末までに , テ ィモシェンコのソビエト軍は 29 個師団以上を失 い , 捕虜 23 万 9 , 000 人 , 戦車 1 , 200 台 , 砲 2 , 000 門 がドイツ軍の手に落ちている。 A 軍集団コーカサスへ いの言葉をかけるフォン・ルントシュテット元帥。 ヒトラーの復讐は 2 人の更迭にとどまらなかった。 張維肖尊 6 月 28 日 , ドイツ軍は予定どおり夏期大攻勢 を開始した。バイスク集団に属するホト将軍の 第 4 機甲軍が先鋒 ( ばう ) で , パウルスの第 6 軍 とシュべッペンプルクの第 40 機甲軍団は , 6 月 30 日に加わった。ポロネシをめぐっての攻防戦 が起こり , ティモシェンコのソビエト軍は , 今 度は慎重に時間をかせぎながら , 包囲されない よう主力を巧みに後退させた。 それは「プラウ作戦」の当初の目標を台無し にすることであったから , ヒトラーは 7 月 13 日 に「スターリングラードめがけて急進撃し , ド ン川に防衛線を築かせるな」と命じたのである。
クリミア半島の席巻概要図 第 1 機甲軍 - べ丿レジャンスク ノガイ草原 マリウポリ・ ーエプル川 メリトボリ カホフカ 第 11 軍 ヘルソン ゾフ海 ア エプパトリヤ ジャンコイ ケルチ テムリュク ケルチ海峡 第 42 算印 ア半島 フェオドシャ シンフェロポリ ・バクチサレー セバストボリ ソ連軍外郭防衛線 略上に決定的な意義を持っクリミアは , 絶対に 死守せねばならない箇所であり , スターリンは そこに , クズネッオフ将軍の指揮する第 51 軍の 総計 12 個師団を配置して防衛にあたらせていた。 第 1 次攻防戦 マンシュタインのクリミアに対する攻撃は , 9 月 24 日には早くもその火ぶたを切った。第 11 軍の砲兵と工兵部隊のすべてが投入されて , 第 50 歩兵師団の増強を得たハンゼン将軍の第 54 軍 団が , 半島へのほとんど唯一の陸路である幅 7 km 程のペレコプ ~ イシュン地峡の敵軍防衛線に とりついた 大きな犠牲をはらって突破口を切り開いたが このままでは半島の席巻 ( せつけん ) には兵力が 少なすぎる。だが , マンシュタインは慎重にし かも大胆な作戦を考えていた。ロストフ方面に 備える第 49 山岳兵軍団と , 武装 S S 「アドルフ・ ヒトラー」の旅団をメリトボリ戦線から引き抜 いて , クリミア戦線へ投入しようという計画で あった ソビエト軍は 23 日深夜 , これらの ところが , 里 海 ヤルタ・ 部隊が留守番役のルーマニア第 3 軍と交替する 動きを察知し , 第 11 軍が最も危険な状態となっ たその瞬間をたたいた ハリトノフ少将の第 9 軍とスミルノフ中将の第 18 軍から成るソビエト 軍の大部隊が , ロストフ前面から出撃し , ザル ムート将軍のドイツ第 30 軍団の防衛線を突破し たのである。 マンシュタインはクリミア攻撃をやむなく中 断し , 移動していた山岳兵軍団を再びノガイ大 草原での防衛にふり向けたが , 第 11 軍の劣勢は 明らかで , T 34 戦車ほかのソビエト軍大戦車部 隊を相手の第 190 突撃砲大隊の奮戦にもかかわ らす , 正規の戦車戦力を持たない第 11 軍は全滅 の危機に陥った。しかし , 力強い援軍の到来が この窮地を救うのであった。 今だ無敵を誇るクライスト将軍の第 1 機甲軍 の戦車部隊は , ドニエプル川の敵防衛線を突破 すると火の玉のような勢いで南下し , ソビエト 軍部隊の背後を突いたのである。状況は一変し て , 樹木の 1 本もない大草原での両軍機甲部隊 の激突は , ドイツ側の一方的な勝利となり , ソ ビエト軍部隊はベルジャンスク周辺で包囲され