モスクワ - みる会図書館


検索対象: グラフィックアクション 第28号
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1. グラフィックアクション 第28号

朝を第 麦畠 ? を散開して移動するドイツ軍機甲部隊。手前のプラガ 38 ( t ) 中戦車と共に , Ⅳ号戦車の姿も見える。暑 いのであろう ? スチール・ヘルメットを取った兵士も見られる。後方にも多数の戦車が望見できる。 占領された。 れるべき目標はモスクワにあらずして , キエフ 開戦後 25 日で「バルバロッサ作戦」の第 1 段階 の奪取である・・ が達成されたのである。モスクワまで残るとこ 参謀本部長ハルダー大将はこう報告している。 ろ 350km の地点である。 「総統はご自身で計画されたレニングラード作 戦も , 参謀本部提案のモスクワ作戦も中止し , 新しい目標 まず , ウクライナとクリヤの占領に努力する スモレンスクは落ちた。次の目標は何か ? と決意されました」ハルダーは続けて「これは それについて考える者はドイツ軍の中には誰も 事実です。 5 週間来 , われわれが求め続け , 8 月 18 日に攻撃計画さえ提出した , これがその解 いなかった もちろん , モスクワである。モスクワはソ連 答です」 のすべての中心であり , 心臓である。ドイツの 戦史の上で , これはヒトラーの夏期作戦上の 将官の中でこれを疑うものはいない。近代戦略 決定的な誤りだといわれている。しかし , ヒト の父といわれたあのクラウゼヴィッツでさえ , ラーは慎重すぎる戦略を立てたのであり , この そう考えていた。 時点での判断として , 決して乱暴な戦略とはい ソ連のような巨大な国は , そ の中枢部に衝撃を与えなければ征服し得ないの えない部分もある。ともかく , 結果として , モ である。しかし , ヒトラーはこの伝統的な戦略 スクワの悲劇が戦史の上に残ることになる。 原理を実施しなかった。 キエフへの大移動 中央軍集団の将軍たちは , 待ち続けた総統指 令を 8 月 21 日に受けとった。「冬の前に達せら 中央軍集団のキエフへの大移動が始まった。

2. グラフィックアクション 第28号

4 「タイフーン作戦」の発令で , モスクワをめざすドイツ機甲部隊。チェコのスコダ製 43.4 口径 4.7cm 砲を搭載した I 号対戦車自走砲 ( 右 ) と , Sd. Kfz. 2 引に 45 口径の 3. 7cm 対戦車砲 Pak35 / 36 を載せた Sd. Kfz. 2 引 / 田である。 目的は南方軍集団とのドッキングであり , 目標 キエフ陥落 はキエフの攻撃である。 南方軍集団が大激戦を展開しながら獲得した モスクワ前面を固守していたジューコフが , ウマーニ地区によって , キエフ包囲戦のキーポ このドイツ軍の変化に気が付いている。ソ連大 イントが一つできあがった。しかも , 中央軍集 本営は , プリャンスク地区に兵力を集結し始め , 団とのドッキング態勢も , これでほば整うこと キエフに第 37 軍を残して , すべての部隊で防衛 になる。 を固めた。ジューコフは , ドイツ軍はキエフと 南下したグーデリアン機甲師団はロムヌイと 南西方面軍の背後に向かって戦力の移動を行っ プリルーキを奪い , ロフウィ ツアに迫った。 ていると考えたのである。 1941 年 9 月 14 日 , クライストの第 1 , グーデリ プリャンスク地区方面軍司令官にはイエレメ アンの第 2 機甲集団が合流し , キエフ攻略戦の この時点でのイエレメン ンコ中将が着任した。 終幕も間近になった。 コには , ドイツ軍の作戦変更など全く考えに入 9 月 17 日 , 死守を叫び続けてきたスターリン っていなかった。彼らはあくまでモスクワ進攻 も , ソ連南西戦区兵団司令官プジョンヌイ元帥 作戦上の包囲作戦であろう , という考えだった。 の撤退申し出を了解し , 9 月 19 日には , ソ連の もちろんのこと , プリャンスクから大迂 ( う ) 戦史上最大の損害を被ったといわれるキエフ戦 回してモスクワへ進攻するなど , ドイツ側では の幕が閉しられた。 北を攻撃すると思い 考えていない。まもなく , この日 , ヒトラーは暗号作戦名「タイフーン」 込んでいたドイツ軍が南を攻めて来たことから , を発令している。モスクワ攻略作戦である。 イエレメンコもこのことを認識することになる。 0

3. グラフィックアクション 第28号

物当糖第 円 39 年 8 月 23 日 , 期間田年の独・ソ不可侵条 約がモスクワで締結され , ソ連代表モロトフ 外相が調印するところ。ドイツの外相ョアヒ ム・フォン・リッペントロップとソ連首相ヨ セフ・スターリンが見守っている。 木々に囲まれた前線司令部で , モスクワ攻略 のための作戦を検討中の第給軍司令官工ルン スト・ブッシュ将軍 ( 右 ) と第 3 機甲集団司令 官へルマン・ホト将軍。両人とも階級は上級 大将である。

4. グラフィックアクション 第28号

第、物を陬破 円 37 年 4 月 , イギリスの戴冠式祝賀親善のため , 東京 ~ ロンドン間一万 5 , 357km を 94 時間余 ( 給油 , 体養含む ) の 新記録で飛行した朝日新聞社の「神風」号。最大速度 500km / h , 航続距離 2 , 400km の優秀な性能を持っていた。 いか。つまり英語で言えば Air Arm であるし , Striking Arm でもある。 空中写真偵察を基本にした戦略偵察の先進国 は , 当時ではイギリスと日本であった。とくに イギリスは , 空中写真の面で最もすぐれていた。 しかし , 日本は戦略偵察用の専用機種をつくり 出すという点ですぐれてはいたが。 日本の「神風」で知られたヨーロッパ訪問飛 行に使われた単発・複座 , 固定脚の偵察機と , 「新司偵」と呼ばれる司令部偵察機と呼称された 機種が , 太平洋戦争開戦前に行った偵察を思い 起こしてもらえれば , おわかりになるだろう。 もし , ソ連空軍が国境地帯の全線にわたって 組織的な偵察行動を行っていたら , ドイツ地上 軍の国境付近での移動や集結の状態は , 当殃 空中からの写真の眼はとらえていたろうし , ま た , ソ連偵察機が国境からもう少しドイツ国内 , あるいはドイツ占領下のポーランドやその他の 地域にまで足を伸ばしていたら , ドイツ空軍機 が前進基地に集結しているさまを撮影できてい たかも知れない。 しかし , ソ連はその優秀な諜報機関の情報が だがその情報は この際は最も頼りであった。 「まさか」というスターリンにとり上げられなか ったのである。 モスクワは落ちず , ドイツ空軍は勝てず 、、 1941 年のクリスマスはモスクワで祝う , , とい うドイツ首脳部の考えは楽天的なものであった。 ロシアの冬の厳しさとソ連軍の「焦土作戦」 , そ して , ヒトラーを始めとするドイツ指導部の誤 った作戦指導は「バルバロッサ作戦」の最初の のダッシュを鈍らせた。モスクワはついにドイ ツ軍の手に落ちなかった。 ドイツ空軍にとってはいくっかの誤算が , ソ 連侵攻作戦で完全な成功を収めさせなかった。 そのひとつは戦場が広すぎたことであろう。ソ 連の国土は広大だ。集中した航空兵力は , いか に機体が優秀でパイロットの錬度が高くても , ソ連全土の制空権を 1 日中確保してゆくには余 りにも小さすぎたといえよう。 さらに大きな原因は , ドイツ空軍自身の中に ドイツ空軍の指導部は , ソ連航空産業 あった。 の生産力を過少評価していた。その月産能力と ソ連空軍の戦闘能力を , 実際より低く見積もっ ていたのである。 93

5. グラフィックアクション 第28号

コーカサスへの道 0 、 0 しみふ : こ , 燾託ー。鸞、 冬期戦とその影響 戦力のバランスの大きく崩れた 1944 年になる 以前の独ソ戦は , すっと季節に左右されている。 どんな名司令官であっても , ロシアの大自然が 生む冬将軍や泥 ( どろ ) 将軍にはとてもたちうち できなかったからである。東部戦線では , 夏期 には機動力に優れるドイツ軍が進撃し , 冬期に なると今度は逆に , 兵力に勝るソビエト軍が攻 勢に立つ , というのが一種のパターンとなって ロストフの戦線も例外ではない。 ドニエプル 川を渡って快進撃したクライスト将軍のドイツ 第 1 機甲軍は , 1941 年 11 月 20 日 , 人口 50 万の要 衝ロストフを占領したが , 5 日後にはソビエト 軍が大反撃を開始し , 南方軍集団総司令官であ ったルントシュテット元帥は , 総統命令を無視 してロストフ放棄と全軍撤退を命じている。 モスクワ前面などの北方の戦線でも全く同様 で , いままで負けを知らなかったナチス・ドイ ツは , このソビエト軍の 1941 ~ 42 年にかけての 冬期大攻撃によって , 初めて深刻な打撃を受け ていた そしてその結果 , 総統ヒトラーの復讐 ( しゅ う ) が始まった。モスクワもレニングラードも とれなかった作戦失敗の責任を押しつけるため , ヒトラーは前後の見境もなく , まず , 陸軍最高 司令官プラウヒッチュ元帥を手始めに , グーデ リアン上級大将を , そして , ルントシュテット 元帥を罷 ( ひ ) 免し , 更迭している。 元伍 ( ご ) 長ヒトラーはドイツ陸軍すべてのカ ードを自分の手に握り , 最高司令部から 1 師団 の行動にいたるまで , 残らす口を出すようにな った。それは後々へと尾を引く , つまずきのほ んの端緒であったと言える。 ハリコフ戦の勝利 やがて春が訪れ , ヒトラーは 1942 年 4 月 5 日 付けで , 総統指令第 41 号を発令している。この 年の東部戦線における全ドイツ部隊の作戦計画 を明記した「プラウ作戦」と名付けられるこの 0 司令部を来訪したハインツ・グーデリアン上級大将 ( 中央 ) を門口まで出迎え , 随伴の若き士官にねぎら

6. グラフィックアクション 第28号

ッう 3 イ材尋 を 1 了 ← , 0 0 0 石田 仁 していたルントシュテット元帥は , 機をとらえ て , 彼を再び自分のもとへと呼び寄せたのであ った クリミア半島をめぐる情勢 マンシュタインは 9 月 17 日に第 11 軍の指揮権 を得たが , クリミア半島を制圧するのが容易で ないということはすぐに理解できた。 1854 年に 始まるクリミア戦争の舞台となったこの半島は , 、、腐った海 , , と呼ばれる海水に浸った砂州でソビ 工ト本土と隔てられ , かってニコライー世の軍 隊が 349 日間にわたって立てこもり , その後ます ます強化されて世界最強の沿岸要寒 ( さい ) とな ったセバストボリ要寒を中心に , 数々の副次的 トーチカや銃座があちこちの要所に設置され , さながら大要寒島とも言うべき難攻不落の感を 呈していたからである。 しかし , この半島こそは東部戦線の全ドイツ 軍にとって , モスクワやレニングラードに匹敵 するほどの戦略的目標だったのである。そこを 手中に収めることは , 長く伸びきった補給線の 右側面を常に脅かす物騒な存在を取り除くだけ でなく , 黒海を基地とするソビエト艦隊の首を 締めつけ , トルコ , ベルシャへの影響力を強め て , アラブ石油の輸送やロンメル軍団との合流 を可能にする第 1 歩でもあった。 一方また , ソビエト側にとっても , 黒海艦隊 の活動とルーマニアのプロエシュチ油田への戦 63

7. グラフィックアクション 第28号

ワリミ みチを れからさらに「ドニエッ盆地へと進出せよ」と いう陸軍総司令部の作戦命令を受領した。 総統指令第 21 号「バルバロッサ作戦」によって 設定された A ~ A ラインの南の端を受け持っ南方 軍集団には , クライスト将軍の第 1 機甲軍を含 む 4 個軍があったが , ルントシュテットは当面 の最重要目標であるクリミア半島の制圧という 重責に , ドイツ陸軍きっての戦略家ェーリッヒ・ フォン・マンシュタイン将軍主、いる第 11 軍をあ てた。 前の年のフランス侵攻にあたっては , 卓抜し た作戦案を提唱しながら , 陸軍参謀本部の機嫌 をそこねて A 軍集団参謀長の座を追われたマン シュタインであったが , その優秀な頭脳を信頼 マンシュタインの登場 1941 年の秋といえば , 東部戦線に派遣された 3 個のドイツ軍集団のうち , レープ元帥の北方 軍集団はレニングラードを包囲し , ポック元帥 の中央軍集団はキエフ戦から再びモスクワへと 「タイフーン作戦」の幕をあけようとしていたこ ろだが , 残るルントシュテット元帥の南方軍集 団の様子はどうだったのだろう。 ヒトラーの転進命令によるグーデリアンの第 2 機甲軍を初めとする援軍とともに 9 月 26 日 , 圧倒的な勝利でキエフの占領を果たしたルント シュテット元帥は , 新たな作戦目標として , ク リミア半島およびロストフを制圧 , 占領し , そ 62

8. グラフィックアクション 第28号

グラフィック・第ニ次大戦・アクション ( 第 28 号 ) 目次 1 0 月号 BUNDESARCHIV 広田厚司 伊東栄一 大野健一 神谷昌伍 長安保 山下久 く資 料 > く写真解説 > く表 紙 > ドイツ軍の幻 cm 榴弾砲 くカラー・フォト > ドイツの田 . 5cm 榴弾砲 I.F. H 」 8 ・ ロシア戦線のドイツ軍歩兵・・ ドイツのⅣ号戦車 D 型・・ ドイツのⅢ号戦車 H 型・ ドイツのⅢ号 D 型指揮戦車 進撃するドイツのⅢ号戦車と歩兵たち・・ く記事〉 杉浦康 ( 24 ) モスクワかキエフか ? 鈴木のりひさ ( 42 ) 目標はレニングラード ・・・石田仁 ( 62 ) クリミア半島攻略戦・ ・張維肖尊 ( 70 ) コーカサスへの道・ ・牧村宜治 ( 76 ) ドイツ第 6 軍の運命 ・・・川上しげる ( 88 ) バルバロッサ作戦とドイツ空軍・ ・岩崎豊 ( 102 ) 超重列車砲・ ・編集部 ( 100 ) モケイのページ・・ くタイトル・イラスト > 小池繁夫 ドイツ空軍のメッサー シュミット Bf 109 戦闘 機。ロシア戦線にも多 数が参加し , 空陸一体 の作戦を展開して緒戦 での勝利に寄与した。

9. グラフィックアクション 第28号

発した兵器だったが , その作戦が中止になり , ていた プーク川渡河用に再び採用されたものである。 130km 南のポプルイスクでも , モーデル将軍 の第 3 機甲師団が , さらに南ではフライへア・ ともかく , 800km を越えるプーク川戦線での ドイツ軍の攻撃で , 失敗したのは一つもなかっ ガイル・フォン・シュヴュペンプルク将軍の第 24 機甲軍団所属の第 4 機甲師団が川をわたり , 6 月 22 日未明のソ連国境守備隊は , ドイツ 軍に完全に虚を突かれてしまったのである。 モギレフをめざしていた 7 月 2 日 , ジュネー 「ドイツの作戦目標はモス プからクレムリンに ナポレオンの古戦場 クワ」と打電された日のことである。 1812 年 , ナポレオンがモスクワ侵攻を果たせ 停止か前進か ? す退却する途中に , 最後のトドメをさされた場 7 月 10 日 , グーデリアン機甲集団もべレジナ 所があった。べレジナ川 ( 白樺の川 ) である。 川を突破して , ドニエプル川へと進撃していた。 ソ連軍がこのことを意識して作戦を展開した事 このまま前進するか , それともドニエプル渡河 実がある。イエレメンコが「べレジナ川を死守 のため歩兵師団を待っか ? グーデリアンは考 せよ」という命令を発したのは , 明らかにこの えていた 事実を踏まえていてのことである。 渡河作戦には , 戦車よりは歩兵の方が適して しかし , 歴史はくり返さなかった。 6 月 29 日 , いる。しかし , 歩兵がくるのは 2 週間も後にな この命令が出た時点で , すでにソ連軍の陣地は る。それまでにソ連軍は , 間違いなく強力な防 放棄されていたのである。そして , 同時点でド 衛陣を固めるだろう。事実 , 空中偵察でソ連軍 イツ軍の先鋒 ( ばう ) は , すでにミンスクに達し クレーンの準備を終えて , 船積みを待つⅢ号潜水戦車。英本土侵攻用にⅢ号戦車 F 型を改造して生産されたこ の潜水戦車は , 本来の作戦計画が破棄されたため東部戦線で転用され , プーク川渡河などで真価を発揮した。 「うーを 26

10. グラフィックアクション 第28号

物義 3 ソ連のラボーチキン LaGG 3 戦闘機を点検するドイツ軍兵士。プロペラの先端が曲がっているところを見ると , 胴体着陸したものかも知れない。星の標識の上にドイツ語で , MOS KAU ( モスカウ ) とチョークで書かれている のはドイツ兵の仕業だろう。胴体と主翼の付根部分の破れ具合いで , 本機が木製であることがわかる。 ほどの速度でソ連国内を進撃した。ヒトラーの 変えていった。 両面作戦に反対していた将軍連も , クリスマス ソ連空軍は機種改変に手まどっていた。決し て新しいとはいえないポリカルポフ I ー 16 は , ス までにはモスクワを落とせると考え始めていた。 ペインでは「ラタ ( ねすみ ) 」 , 日本では「あぶ」 そして , その進撃の先頭にはドイツ空軍機の姿 があった。もし , ドイツ空軍が制空権を奪って というあだ名を奉られていた古い機体であった。 このほかに , 更に古い I ー 15 複葉戦闘機「チャイ いなかったら , 地上軍の快進撃はあり得なかっ カ ( かもめ ) 」も相当数が実戦部隊に配属されて たに違いない。 しかし , ドイツ空軍は大きな過ちを犯してい いた もちろん新しい機種もあった。ラボーチキン・ た。それも目に見えないところで。それは戦線 グレビッチのラグ系列の液冷戦闘機 , ヤコプレ のかなたで , それもずっとはるかなかなたであ フ系列の , ヤク 1 ~ 以降の液冷工ンジン付き戦 る。ドイツ空軍の誤算はドイツ空軍の持っ体質 闘機は開発が続けられていた。 そのもののなかで , 敗北への種を大きくふくら しかし , ソ連空軍にとって最も不幸なことの ましつつあったのである。 ひとつは , 偵察機という特定の機種が欠けてい ソ連空軍ーーー敗北から逆襲へ たことである。なるほど , 空中偵察は行ったで あろうが , 戦略上のシステムとしての空中写真 ドイツ空軍は空から降って来た。ドイツ空軍 を基本とした戦略偵察は , この時期 , ソ連空軍 機が 6 月 22 日の早暁 , 国境を越えていっせいに の最も欠けていたもののひとつだったように思 ソ連空軍基地を攻撃したとき , ソ連機は基地上 う。それはドイツ空軍についても , 程度の差は 空のパトロールをしていたわけではなかった。 早期警戒用レーダーがあったわけでもない当時 あれ , いえることだった。 ドイツでもソ連でも , 空軍は地上兵力の敵に は , ドイツ機の爆弾は文字通り青い空から降っ 向かって差し伸ばした腕であり , 槍 ( やり ) の穂 て来たであろう。爆撃とそれに続く銃撃は容赦 なく , ソ連空軍機を地上で燃えたスクラップに 先であるという基本的な認識にあったのではな 92