モケイのペ ソ連軍の重戦車 KV ーⅡ 型戦車。大きな箱型の 砲塔が奇妙なスタイル を作る KV ーⅡは , 火力 支援戦車として設計さ れた重戦車て , 主砲に 152mm 榴弾砲を搭載し , 前面 110mm , 側面て 75mm 厚の重装甲を採用して いる。プラモデルはタ ミヤから , 1 / 35 スケー ルのミリタリ チュア・シリーズて発 売になっている。 独・ソ戦を勝利に導い たと言われるソ連軍の T ー 34 / 76 戦車 1943 年型。 第二次大戦中に 4 万台 近くが生産され , クリ スチー・スタイルから 発展した走行装置 , 傾 斜装甲の採用による避 弾効果の増大など , ス ピード , 火力 , 防御カ の優れた戦車てあった。 プラモデルは 1 / 35 スケ ールて , タミヤから発 冗されている。 第を嚶第第物第 # クラフィック・第ニ次大戦・アクションバックナンバー を第” 25 ーー第部隊 〇第 1 号史上最大のクルスク戦 ロ第 2 号北アフリカのロンメル」 〇第 3 号モスクワ侵攻台風作戦 ロ第 22 号激闘 / 東部戦線の情景 ロ第 21 号ナ彳麺ライン川突破作戦 ロ第 20 号砂漢の狐クロンメ ) い ドイツの電撃作戦ーバリ陥落 ドイツ軍 / イタリアで敗走 △第 17 号ヒトラーと第 3 帝国の興亡下 ドイツ・ V ロケットと秘密兵器 第 1 5 号ナチス・ドイツ海軍の最期 △第 14 号ヒトラーと第 3 帝国の興亡上 〇第 13 号壮烈 / ベルリン攻防戦 〇第 12 号ヒトラーとスターリングラード」 〇第 11 号ノルマンジー上陸作戦 x 第 10 号大西洋の IJ ポート作戦 〇第 9 号北アフリカに連合国軍 〇第 8 号最後の決闘バルジ作戦 〇第 7 号モンテカッシノの戦い」 〇第 5 号モントゴメリーの登場 〇第 4 号バトル・オプ・ブリテン」 ロ第 16 号 O ロ第 19 号 ロ第 18 号 第 26 号栄光のドイツ機甲軍団 ロ第 25 号激戦 / アフリカ戦線の情景 ロ第 24 号寄襲 / ドイツ空挺部隊 ロ第 23 号戦うナチス武装親衛隊 ☆各 B 5 判定価〇印 430 円 x 印 * 送料は 1 冊 160 円 , 2 ~ 3 冊 28 円 , ロ 株式会社文林堂 100 4 ~ 5 冊 240 円 , 6 ~ 7 冊 280 円。ロ第 27 号「史上最大の作戦 / ルジーの情景」 500 円△印 550 円ロ印 450 円
ワリミ みチを れからさらに「ドニエッ盆地へと進出せよ」と いう陸軍総司令部の作戦命令を受領した。 総統指令第 21 号「バルバロッサ作戦」によって 設定された A ~ A ラインの南の端を受け持っ南方 軍集団には , クライスト将軍の第 1 機甲軍を含 む 4 個軍があったが , ルントシュテットは当面 の最重要目標であるクリミア半島の制圧という 重責に , ドイツ陸軍きっての戦略家ェーリッヒ・ フォン・マンシュタイン将軍主、いる第 11 軍をあ てた。 前の年のフランス侵攻にあたっては , 卓抜し た作戦案を提唱しながら , 陸軍参謀本部の機嫌 をそこねて A 軍集団参謀長の座を追われたマン シュタインであったが , その優秀な頭脳を信頼 マンシュタインの登場 1941 年の秋といえば , 東部戦線に派遣された 3 個のドイツ軍集団のうち , レープ元帥の北方 軍集団はレニングラードを包囲し , ポック元帥 の中央軍集団はキエフ戦から再びモスクワへと 「タイフーン作戦」の幕をあけようとしていたこ ろだが , 残るルントシュテット元帥の南方軍集 団の様子はどうだったのだろう。 ヒトラーの転進命令によるグーデリアンの第 2 機甲軍を初めとする援軍とともに 9 月 26 日 , 圧倒的な勝利でキエフの占領を果たしたルント シュテット元帥は , 新たな作戦目標として , ク リミア半島およびロストフを制圧 , 占領し , そ 62
4 「タイフーン作戦」の発令で , モスクワをめざすドイツ機甲部隊。チェコのスコダ製 43.4 口径 4.7cm 砲を搭載した I 号対戦車自走砲 ( 右 ) と , Sd. Kfz. 2 引に 45 口径の 3. 7cm 対戦車砲 Pak35 / 36 を載せた Sd. Kfz. 2 引 / 田である。 目的は南方軍集団とのドッキングであり , 目標 キエフ陥落 はキエフの攻撃である。 南方軍集団が大激戦を展開しながら獲得した モスクワ前面を固守していたジューコフが , ウマーニ地区によって , キエフ包囲戦のキーポ このドイツ軍の変化に気が付いている。ソ連大 イントが一つできあがった。しかも , 中央軍集 本営は , プリャンスク地区に兵力を集結し始め , 団とのドッキング態勢も , これでほば整うこと キエフに第 37 軍を残して , すべての部隊で防衛 になる。 を固めた。ジューコフは , ドイツ軍はキエフと 南下したグーデリアン機甲師団はロムヌイと 南西方面軍の背後に向かって戦力の移動を行っ プリルーキを奪い , ロフウィ ツアに迫った。 ていると考えたのである。 1941 年 9 月 14 日 , クライストの第 1 , グーデリ プリャンスク地区方面軍司令官にはイエレメ アンの第 2 機甲集団が合流し , キエフ攻略戦の この時点でのイエレメン ンコ中将が着任した。 終幕も間近になった。 コには , ドイツ軍の作戦変更など全く考えに入 9 月 17 日 , 死守を叫び続けてきたスターリン っていなかった。彼らはあくまでモスクワ進攻 も , ソ連南西戦区兵団司令官プジョンヌイ元帥 作戦上の包囲作戦であろう , という考えだった。 の撤退申し出を了解し , 9 月 19 日には , ソ連の もちろんのこと , プリャンスクから大迂 ( う ) 戦史上最大の損害を被ったといわれるキエフ戦 回してモスクワへ進攻するなど , ドイツ側では の幕が閉しられた。 北を攻撃すると思い 考えていない。まもなく , この日 , ヒトラーは暗号作戦名「タイフーン」 込んでいたドイツ軍が南を攻めて来たことから , を発令している。モスクワ攻略作戦である。 イエレメンコもこのことを認識することになる。 0
( フェルト将軍指揮の第 1 騎兵師団 ) が , 戦車の の機械化大部隊がドニエプルめざして移動しっ 走行には向かない沼沢地に馬で入り込み , グー つあることはわかっていた デリアン師団の側面を守り通したからである。 フランス戦線で惜しい勝機を 2 度も逃がして 7 月 15 日 , ホト大将の第 3 機甲集団は第 7 機 いるグーデリアンは , 3 度目の正直とばかり , 第 4 軍司令官クルーゲの「ドニエプル河畔で停 甲師団をもって , 空軍の援護を受けながらスモ 止せよ」の警告に反対し , さらに強硬に意見を レンスクの北部を通過し , スモレンスク ~ モス 具申して , ドニエプル川渡河の許可を取りつけ クワ間の自動車道路と鉄道をしゃ断したので , た。そして , 7 月 10 日から 11 日にかけて , ドニ スモレンスク市の補給が断ち切られて , その中 エプル渡河作戦が決行され , 戦闘の結果は , 彼 のソ連軍 15 個師団が孤立した。 の考えが正しかったことを証明してくれた。 市は全面防衛となり , バリケード , トーチカ が各所に作られた。労働者 , 国家警察 , 民兵に スモレンスク よる市街戦グループも編成されている。 グーデリアンの師団群は河畔の要塞を素通り 7 月 15 日午前 7 時 , ドイツ・チューリンゲン して , スモレンスクへと突進した。ティモシェ 第 71 歩兵連隊の攻撃で始まった攻撃は , 同日の ンコもこれをストップさせるべく , 20 個師団の 日没近く , 同連隊の突撃班が市の南部に突入し 大軍を集結させ , ドイツ軍を側面から攻撃する 7 月 16 日の午後 8 時には , スモレンス ていた 態勢に入っていた。 クのほとんどがドイツ軍の手中に落ちた。小さ しかし , ティモシェンコの計画はくすれさっ な市街戦がくり返され , ソ連民兵が悪鬼のよう た。第二次大戦唯一の大規模なドイツ騎兵部隊 に反撃したがそれもむなしく , スモレンスクは 第 2 航空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥 ( 向かって左 ) と , 地図を前にして作戦を協議するド イツ第 3 機甲集団司令官へルマン・ホト上級大将 ( 向かって右 ) 。 を 第 27
、当半を 川上しげる 4 発ヤをゞド 1 0 いうかたちでイギリス空軍に軍配があがった。 大戦開始以来 , ドイツ空軍が初めて味わった敗 ドイツ空軍の作戦準備 北であった。 ドイツ空軍は , 1940 年夏から本格的に始まっ このバトル・オプ・プリテンの終わりごろか たバトル・オプ・プリテン ( イギリスの戦い ) に ら , すでにドイツ空軍はソ連侵攻作戦の準備に 取り組み始めていた。各方面から実戦部隊が引 大兵力を集中して , イギリス空軍をイギリス本 き抜かれ , そのうちのあるものは東部方面に移 土上空から一掃することをめざして作戦中であ 駐し , ある部隊はいったんドイツ本国に帰って , った。その他 , 北ヨーロッパはスカンジナビア 兵員の休養 , 機材の更新をしたのち , 割り当て 諸国から , 南は南フランス , さらに北アフリカ , 東はバルカン諸国 , ギリシャまで , 空軍兵力は られた攻撃予定地区へと移って行った。 「バルバロッサ作戦」のためにドイツ空軍は , 展開していた。 いったいどれ位の空軍兵力を割いたのだろう。 イギリス空軍の奮戦と , ドイツ空軍首脳部 , もっとも , わかり易い機数でいえば次の通りに とくにゲーリング元帥の過った指導で , バトル・ オプ・プリテンはドイツ空軍の昼間強襲中止と なる。 のだろう。 89
発した兵器だったが , その作戦が中止になり , ていた プーク川渡河用に再び採用されたものである。 130km 南のポプルイスクでも , モーデル将軍 の第 3 機甲師団が , さらに南ではフライへア・ ともかく , 800km を越えるプーク川戦線での ドイツ軍の攻撃で , 失敗したのは一つもなかっ ガイル・フォン・シュヴュペンプルク将軍の第 24 機甲軍団所属の第 4 機甲師団が川をわたり , 6 月 22 日未明のソ連国境守備隊は , ドイツ 軍に完全に虚を突かれてしまったのである。 モギレフをめざしていた 7 月 2 日 , ジュネー 「ドイツの作戦目標はモス プからクレムリンに ナポレオンの古戦場 クワ」と打電された日のことである。 1812 年 , ナポレオンがモスクワ侵攻を果たせ 停止か前進か ? す退却する途中に , 最後のトドメをさされた場 7 月 10 日 , グーデリアン機甲集団もべレジナ 所があった。べレジナ川 ( 白樺の川 ) である。 川を突破して , ドニエプル川へと進撃していた。 ソ連軍がこのことを意識して作戦を展開した事 このまま前進するか , それともドニエプル渡河 実がある。イエレメンコが「べレジナ川を死守 のため歩兵師団を待っか ? グーデリアンは考 せよ」という命令を発したのは , 明らかにこの えていた 事実を踏まえていてのことである。 渡河作戦には , 戦車よりは歩兵の方が適して しかし , 歴史はくり返さなかった。 6 月 29 日 , いる。しかし , 歩兵がくるのは 2 週間も後にな この命令が出た時点で , すでにソ連軍の陣地は る。それまでにソ連軍は , 間違いなく強力な防 放棄されていたのである。そして , 同時点でド 衛陣を固めるだろう。事実 , 空中偵察でソ連軍 イツ軍の先鋒 ( ばう ) は , すでにミンスクに達し クレーンの準備を終えて , 船積みを待つⅢ号潜水戦車。英本土侵攻用にⅢ号戦車 F 型を改造して生産されたこ の潜水戦車は , 本来の作戦計画が破棄されたため東部戦線で転用され , プーク川渡河などで真価を発揮した。 「うーを 26
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線のドラマを、豊富な写真と読物でド キュメンタリーに誌上に再現したグラフィック・アクション誌です。 GRAPHIC AC ON 0 ド WARLD WAR 物第ヤ ~ 。 - 戦 ~ を第 , 物に宿ー′に物い ロ第 19 号「ドイツの電撃作戦ーパリ陥落」 第 20 号「 " 砂漠の狐 " ロンメル」 ロ第 21 号「ナチ最後ライン川突破作戦」 ロ第 22 号「激闘 / 東部戦線の情景」 ロ第 23 号「戦うナチス武装親衛隊」 ロ第 24 号「奇襲 / ドイツ空挺部隊」 ロ第 25 号「激戦 / アフリカ戦線の情景」 ロ第 26 号「栄光のドイツ機甲軍団」 ロ第 27 号「史上最大の作戦ノルマン冖景」 1 9 BIitzkrieg 20 Rommel 2 1 Rhein Operations 22 War in the East 23 Waffen-SS 24 German airborne troops 25 African Desert Front 26 Panzerkorps 27 BattIe for Normandy x 第 1 0 号「大西洋の u ポート作戦」 第 1 号「史上最大のクルスク戦」 第 2 号「北アフリカのロンメル」 〇第 1 1 号「ノルマンジー上陸作戦」 第 3 号「モスクワ侵攻台風作戦」 〇第 1 2 号「ヒトラーとスターリングラード」 第 4 号「パトル・オプ・プリテン」 第 1 3 号「壮烈 / ベルリン攻防戦」 第 5 号「モントゴメリーの登場」 △第 14 号「ヒトラーと第 3 帝国の興亡 ( 上 ) 」 第 6 号「レニングラード攻防戦」 〇第 15 号「ナチス・ドイツ海軍の最期」 第 7 号「モンテカッシノの戦い」 ロ第 16 号「ドイツ・ V ロケットと秘密兵器」 第 8 号「最後の決闘パルジ作戦」 △第 17 号「ヒトラーと第 3 帝国の興亡 ( 下 ) 」 第 9 号「北アフリカに連合国軍」 ロ第 1 8 号「ドイツ軍 / イタリアで敗走」 1 0 U-boat Operations 1 Battle of Kursk 1 1 D-day 2 Rommel of North Africa 1 2 Hitler & StaIingrad 3 Operation Typhoon 1 3 Battle of Berlin 4 Battle of Britain 1 4 Hitler & his Third Reich, I 5 Montgomery Of Africa 1 5 Last Day 0f Kriegsmarine 6 BattIe of Leningrad 1 6 V Weapons 7 Battle of Monte Cassino 1 7 Hitler & his Third Reich, Ⅱ 8 BattIe of the bulge, Belgium 18 Nazi Failure in ltaly 9 IKE in Africa 〇ロ〇〇〇〇〇〇〇 ☆各册 B5 判、一総 104 ~ 124 頁 ( カラー 2 ~ 4 頁、・モノクロ写真多数 * 定価〇印 430 円ロ印 450 円 x 印 500 円△印 550 円。送料は 1 冊 0 円 2 ~ 3 冊 200 円 4 ~ 5 冊 240 円 6 ~ 7 冊 280 円となります * 株式会社、文林堂
を ~ を 第をゑ 止いツ、。イい イ第み以 ( ・一、 す↓籌 、ず これらに対処すべく着々と準備を進 の秀才が , 1 年早かった開戦 めていたのも事実であるが , 何分にも意志統一 1941 年のソ連の戦争概念は , 第一次大戦の経 がなされていないところが弱点で , その進行状 験から 1 歩も進んでいなかったといえる。加え 況は決して早いとはいえなかった。 て , イギリスからの再三の警告にもかかわらす , そして , 独・ソ不可侵条約が無残にも踏みに スターリンは独・ソ不可侵条約を信じて疑わな じられたのは , 彼等が、、もしかすると , , と思い かった。彼自身が , 過去にそのような不信行為 はしめ , 予想していた時より , そしてそれに対 で利益を得てきたという実績がありながら , 最 処すべき軍備がととのうはずの時期より , およ 後の最後まで , サカというはかない希望を持 そ 12 か月早かったのである。 っていたことは , あるいは驚嘆に値する事かも しれない。 しかしながら , 第二次大戦という状況下で , ソ連が全く軍備に無関心であったとは考えられ ない。ティモシェンコ , ジューコフというソ車 電撃戦 「バルバロッサ作戦」は , ーロでいってしまえ ば電撃戦である。その作戦の要旨を極端に省略 すれば、、たった 1 度の作戦でソ連を敗北させる , , 24
第、物を陬破 円 37 年 4 月 , イギリスの戴冠式祝賀親善のため , 東京 ~ ロンドン間一万 5 , 357km を 94 時間余 ( 給油 , 体養含む ) の 新記録で飛行した朝日新聞社の「神風」号。最大速度 500km / h , 航続距離 2 , 400km の優秀な性能を持っていた。 いか。つまり英語で言えば Air Arm であるし , Striking Arm でもある。 空中写真偵察を基本にした戦略偵察の先進国 は , 当時ではイギリスと日本であった。とくに イギリスは , 空中写真の面で最もすぐれていた。 しかし , 日本は戦略偵察用の専用機種をつくり 出すという点ですぐれてはいたが。 日本の「神風」で知られたヨーロッパ訪問飛 行に使われた単発・複座 , 固定脚の偵察機と , 「新司偵」と呼ばれる司令部偵察機と呼称された 機種が , 太平洋戦争開戦前に行った偵察を思い 起こしてもらえれば , おわかりになるだろう。 もし , ソ連空軍が国境地帯の全線にわたって 組織的な偵察行動を行っていたら , ドイツ地上 軍の国境付近での移動や集結の状態は , 当殃 空中からの写真の眼はとらえていたろうし , ま た , ソ連偵察機が国境からもう少しドイツ国内 , あるいはドイツ占領下のポーランドやその他の 地域にまで足を伸ばしていたら , ドイツ空軍機 が前進基地に集結しているさまを撮影できてい たかも知れない。 しかし , ソ連はその優秀な諜報機関の情報が だがその情報は この際は最も頼りであった。 「まさか」というスターリンにとり上げられなか ったのである。 モスクワは落ちず , ドイツ空軍は勝てず 、、 1941 年のクリスマスはモスクワで祝う , , とい うドイツ首脳部の考えは楽天的なものであった。 ロシアの冬の厳しさとソ連軍の「焦土作戦」 , そ して , ヒトラーを始めとするドイツ指導部の誤 った作戦指導は「バルバロッサ作戦」の最初の のダッシュを鈍らせた。モスクワはついにドイ ツ軍の手に落ちなかった。 ドイツ空軍にとってはいくっかの誤算が , ソ 連侵攻作戦で完全な成功を収めさせなかった。 そのひとつは戦場が広すぎたことであろう。ソ 連の国土は広大だ。集中した航空兵力は , いか に機体が優秀でパイロットの錬度が高くても , ソ連全土の制空権を 1 日中確保してゆくには余 りにも小さすぎたといえよう。 さらに大きな原因は , ドイツ空軍自身の中に ドイツ空軍の指導部は , ソ連航空産業 あった。 の生産力を過少評価していた。その月産能力と ソ連空軍の戦闘能力を , 実際より低く見積もっ ていたのである。 93
朝を第 麦畠 ? を散開して移動するドイツ軍機甲部隊。手前のプラガ 38 ( t ) 中戦車と共に , Ⅳ号戦車の姿も見える。暑 いのであろう ? スチール・ヘルメットを取った兵士も見られる。後方にも多数の戦車が望見できる。 占領された。 れるべき目標はモスクワにあらずして , キエフ 開戦後 25 日で「バルバロッサ作戦」の第 1 段階 の奪取である・・ が達成されたのである。モスクワまで残るとこ 参謀本部長ハルダー大将はこう報告している。 ろ 350km の地点である。 「総統はご自身で計画されたレニングラード作 戦も , 参謀本部提案のモスクワ作戦も中止し , 新しい目標 まず , ウクライナとクリヤの占領に努力する スモレンスクは落ちた。次の目標は何か ? と決意されました」ハルダーは続けて「これは それについて考える者はドイツ軍の中には誰も 事実です。 5 週間来 , われわれが求め続け , 8 月 18 日に攻撃計画さえ提出した , これがその解 いなかった もちろん , モスクワである。モスクワはソ連 答です」 のすべての中心であり , 心臓である。ドイツの 戦史の上で , これはヒトラーの夏期作戦上の 将官の中でこれを疑うものはいない。近代戦略 決定的な誤りだといわれている。しかし , ヒト の父といわれたあのクラウゼヴィッツでさえ , ラーは慎重すぎる戦略を立てたのであり , この そう考えていた。 時点での判断として , 決して乱暴な戦略とはい ソ連のような巨大な国は , そ の中枢部に衝撃を与えなければ征服し得ないの えない部分もある。ともかく , 結果として , モ である。しかし , ヒトラーはこの伝統的な戦略 スクワの悲劇が戦史の上に残ることになる。 原理を実施しなかった。 キエフへの大移動 中央軍集団の将軍たちは , 待ち続けた総統指 令を 8 月 21 日に受けとった。「冬の前に達せら 中央軍集団のキエフへの大移動が始まった。