もはや , どうにもならなくなってしまったので ある。 それでもパウルスは , ほとんど第 6 軍単独で 突破口を開き , ドン川渡河を成功させて , 8 月 下旬にはスターリングラード近郊へとせまった。 8 月 23 日から 24 日にかけての猛攻撃を足がかり として , 9 月初めにはパウルスとホトの部隊が 手を結び , スターリングラードはこのドイツの 2 軍によって完全に包囲された。 ングラードは , 絶え間ない砲爆撃にも容易には 破壊されず , かえって , 半ば崩れかけた建物の 群れが , ドイツ軍にゲリラ戦闘を余儀なくした。 続々と侵入を開始したドイツ軍部隊に対して , ソビエト側の抵抗は激しく , 絶対死守を叫ぶ新 任のソビエト第 62 軍司令官チュイコフ中将は , 手勢を集めて , 市街からボルガ、川河岸へ突破さ れるのを必死に防いでいた。 政治委員フルシチョフの指導によって , 市民 は人民防衛軍を組織し , 少年たちも銃をとって 戦った。街角という角がすべて戦場となり , 家 という家がすべて防御陣地となっていた。銃砲 弾の飛び交うなかで , 懸命に製造され続けた戦 車は , 砲塔の代わりに短機関銃を手にした工員 を乗せてトラクターエ場から送り出され , 数 m と離れていない最前線にと向かった。 わすか 1 m を争奪するために日夜くりかえさ れる血みどろの戦いのため , パウルスの第 6 軍 は多大な死傷者を出し , 将兵は疲れ果てて消耗 する一方となった。 これに反してチュイコフの部隊は全滅寸前に まで追いこまれたが , ポルガ川を小舟で渡り , 激烈な市街戦 スターリングラード郊外は大激戦の修羅 ( し ゆら ) 場と化した。 9 月 8 日には , 北方から救 援を試みたソビエト第 4 機甲軍の 350 台の戦車 のうち 1 / 3 が撃破されるほどで , ドイツ軍の各 師団の出血も日に日に増大していた。 ドイツ第 8 航空軍団の反復爆撃が連日行われ , そうこうするうちに 9 月 14 日 , ついに第 24 機甲 師団の先頭部隊が市街地へ突入し , 中心部に進 出してスターリングラード中央駅を占拠した。 しかし , 米国の最新技術を導入して 20 年計画 で建設されたソビエト随一の近代都市スターリ スターリングラードをめぐる攻防ドン方面軍 、、冬の嵐作戦 , , の挫折 南西方面軍 てバツーチン ロゴゾプスキー / スターリン グラード 第 6 軍 オストロフ ( パウルス ) 12 月 22 日 : 大兵力をもって戦線突破。 カラチ 夕ングド方面軍 イイレメン言 ) 、 甲 師 第 57 機甲軍団 ホ ト集団 12 月 22 日 : スターリングラードへ 約 50 と迫るが , 中断。 第 6 機甲師団 ー甲師団 ド 12 月 12 日の戦線 ドン軍集団 ( マンシュタイン )
指令によれば「北方軍集団と中央軍集団は防衛 にとどめて温存し , 南方軍集団をもって , ます , ドン川以西の突出部敵戦力を包囲 , 壊滅させ , 敗走する敵をポルが川 , スターリングラード地 区で一挙に打ちのめす。次いで南方軍集団は , コーカサスをめざして殻物と石油資源を押え , ソビエト軍の生命線を断っ」ものとされていた こではすべ ヒトラーは前年の戦術方針を , て戦争経済ということにすり替えてしまってい る。 南方軍集団は 1 月以来 , フォン・ポック元帥 がその指揮をとっていたが , ポックはこの計画 にそって , まず , ハリコフ南地区に圧力をかけ ているティモシェンコのソビエト軍部隊に対し て , 攻撃作戦を立案している。行動開始予定は 5 月 18 日であった。 けれども一足早く , 5 月 12 日にティモシェン コのソビエト軍が先手をとって討って出た。 リコフ北地区からソビエト第 28 軍の 21 個師団を 投入 , 南からは第 6 軍および第 57 軍の 58 個師団 を投入して , ドイツ第 6 軍の撃破を図った。大 津波のごとく押し寄せる戦車群によって , 戦線 はいたるところで西へ突破されたのであった。 ポック元帥は反撃のため , 南方に待機してい たクライスト機甲集団に出撃を命じ , クライス ト将軍はその主力である第 1 機甲軍および第 17 軍を率いて , 5 月 17 日 , イジュム戦線のソビエ ト軍側面に奇襲をかけた。その後はドイツ軍得 意の機動包囲戦が展開され , 5 月末までに , テ ィモシェンコのソビエト軍は 29 個師団以上を失 い , 捕虜 23 万 9 , 000 人 , 戦車 1 , 200 台 , 砲 2 , 000 門 がドイツ軍の手に落ちている。 A 軍集団コーカサスへ いの言葉をかけるフォン・ルントシュテット元帥。 ヒトラーの復讐は 2 人の更迭にとどまらなかった。 張維肖尊 6 月 28 日 , ドイツ軍は予定どおり夏期大攻勢 を開始した。バイスク集団に属するホト将軍の 第 4 機甲軍が先鋒 ( ばう ) で , パウルスの第 6 軍 とシュべッペンプルクの第 40 機甲軍団は , 6 月 30 日に加わった。ポロネシをめぐっての攻防戦 が起こり , ティモシェンコのソビエト軍は , 今 度は慎重に時間をかせぎながら , 包囲されない よう主力を巧みに後退させた。 それは「プラウ作戦」の当初の目標を台無し にすることであったから , ヒトラーは 7 月 13 日 に「スターリングラードめがけて急進撃し , ド ン川に防衛線を築かせるな」と命じたのである。
昭和 52 年田月 5 日発行 ( 隔月刊 ) 第 28 号昭和 52 年 6 月ロ日国鉄首都特別扱承認雑誌第 3268 号 GRAPHIC SERIES 0 ド 次大
昭和 52 年 10 月 5 日発行 10 月号 ( 隔月刊 ) 通巻第 28 号 昭和 52 年 6 月 17 日国鉄首都特別扱承認雑誌 3268 号 THE 6 P 朏 ACTION 0F W0 龍 0 WAR OCT. ' 77 No. 28 BUNRIN-DO CO. , Ltd. by No. 55 , l-chonp, Jinkxycho, Kanda, ChiY()a ・ ku, Tokyo, Japan. グラフィック 第ニ次大戦アクション 世界の買を作ろう 1 / 3 SCALE 只今好評発売中です。 スーバーマリンスビットファイア Mk. Vb V 1200 第ニ次大戦の名機スピットファイア MkVb がいまハセガワの新製品として登場しました 数々の航空史の中に刻まれた多くの活躍とあの美しいポテイラインが再びハセガワから よみがえりました。ファンにとって、この夏一番うれしい出会いです 雷電 21 型 1 / 72 SCALE 自信作です。 にできる限り再現した作りごたえのあるハセガワの 9 月発売持っ万能戦闘機です。この機の特徴を 1 / 72 スケール ャットは現代の戦闘機のうちトップクラスの実力を ハセガワの新製品として 9 月発売予定の F -14 トムキ 予価 900 F-14A トムキャット 1 / 72 SCALE 総合カタログご希望の方は切手 500 円分同封のうえ、当社サービス係までどうぞ。 各 300 紫電改 ハセガワでは、よい模型を作り、みなさんに 楽しんでいただきたいと願っております 世界のスケールモテル ′第セつ 定価 450 円 Print ed in Japan. 株式会社長谷川製作所 〒 425 静岡県焼津市八楠日 93 ー 2 TE L ( 05402 ) 8 ー 82 引 3257 - 10 雑誌コード
みを第ら 第 6 軍 ド イ ツ は : 第 : を - 第 , 物 0 を 集団の最北翼に位置した第 6 軍は , 5 月 12 日の , スターリングラードへ 敵将ティモシェンコ率いる総勢 79 個師団という ドリッヒ・パウルス。 1910 年に旧ドイ 猛攻をよくもちこたえただけでなく , クライス フリ ッ陸軍に入隊し , 第一次大戦終結のあとは陸軍 ト機甲集団などと共にこれを逆に包囲して大戦 再建運動に早くから参画し , 以後は参謀畑を歩 果をあげ , ドン川流域でソビエト軍を一挙にせ き続けて , 40 年 9 月 3 日には , 陸軍総司令部の ん滅するため , 東へ東へと進撃した。 第 1 課参謀次長にまでなった男である。 しかし , ティモシェンコの主力部隊の急速な 職務には非常に忠実で人一倍に力を尽くすが , 後退は計画されたもので , 「プラウ作戦」の目標 決断力に欠けるところがある , と評された。そ のひとつであるスターリングラード西方におい んなパウルスに第 6 軍司令官の任官命令が下っ てのソビエト軍包囲陣の達成のためには , ドイ ツ軍部隊の前途に , 大きな不安と危険が予想さ た。ときに 1941 年 12 月 30 日のことである。 翌 1942 年 , 春から夏にかけてのパウルスの働 れた。 きはめざましいものだった。この年度の攻撃主 これに対してヒトラーは , 7 月 13 日 , 「スター 力とされたフォン・ポック元帥のドイツ南方軍 リングラードを強行占領してポルガ川で敵の背 76
10 月 28 日 , 戦力の半数以上を失ったソビエト て , 第 18 軍は壊滅 , 6 万人以上の捕虜と戦車 200 軍の残余はセバストボリめざして敗走し , マン 台余りがドイツ軍の手に落ちた。 シュタインは急きょ編成した混成自動車化先遣 ドイツ軍クリミア半島へ侵入 部隊をツィーグラー大佐に指揮させて , 全面的 な追撃戦に移った。 こうして側面を固く守られた第 11 軍は , 今度 11 月 15 日 , ケルチ要塞が陥落し , 続いて , 後 こその決意でクリミア攻撃準備に専心した。か に連合国巨頭会談で有名になるヤルタが占領さ たやソビエト軍司令部も , 孤立したクリミア半 れ , 敗走したソビエト軍はセバストボリ到達前 島に , 10 月 16 日 , オデッサから脱出したベトロ にドイツ軍に捕捉 ( そく ) されて , 捕虜 10 万人と フの沿岸軍約 7 万の兵力を注ぎこんだ。 2 万 ともに 16 個師団が壊滅 , 戦車 150 台余と火砲 700 5 , 000 平方におよぶ半島をめぐる戦機は , 門を失った。 こに再び熟したのである。 クリミア半島はセバストボリ要塞を除いてマ 10 月 18 日早朝 , マンシュタインの総計 6 個師 ンシュタインの手に落ち , いよいよ戦いの焦点 団は , 集中砲撃をもっていっせいに突撃を開始 12 月 17 はこの要塞の攻防に移ったのであった。 した。イシュン地区には鉄条網と地雷原 , それ 日 , セバストボリ要寒は猛煙につつまれた。リ に深さ 10m もの人工壕 ( ごう ) と遠隔操作のでき ヒトホーフェン将軍の第 8 航空軍団所属の , 第 る火炎放射器を有する底知れない防衛陣地があ 1 急降下爆撃航空団の Ju87 を筆頭とする攻撃機 り , 攻撃は難航を極めたが , 決死的な工兵の作 隊が爆弾を雨あられと降らせ , 地上では集中砲 業と大損害をもかえりみない歩兵の突撃のまえ 撃と「ネーベルベルファー」ロケット砲の猛弾 ソビエト軍防衛線は大打撃をこうむって突 幕に援護されて , 歩兵部隊の進撃が開始された。 破され , 崩壊してしまった。 可憐な花の咲き乱れる草原で狩り出され , 引き立てられるソビエト兵たち。タコつば陣地で頑強に抵抗した末 のことだろう。ソビエト軍では , いわゆる歩兵はすべて狙撃兵と呼ばれる。 、を、いい第を - 1 ・ 4. 第 : 、第第。 - な朝、ドは
発した兵器だったが , その作戦が中止になり , ていた プーク川渡河用に再び採用されたものである。 130km 南のポプルイスクでも , モーデル将軍 の第 3 機甲師団が , さらに南ではフライへア・ ともかく , 800km を越えるプーク川戦線での ドイツ軍の攻撃で , 失敗したのは一つもなかっ ガイル・フォン・シュヴュペンプルク将軍の第 24 機甲軍団所属の第 4 機甲師団が川をわたり , 6 月 22 日未明のソ連国境守備隊は , ドイツ 軍に完全に虚を突かれてしまったのである。 モギレフをめざしていた 7 月 2 日 , ジュネー 「ドイツの作戦目標はモス プからクレムリンに ナポレオンの古戦場 クワ」と打電された日のことである。 1812 年 , ナポレオンがモスクワ侵攻を果たせ 停止か前進か ? す退却する途中に , 最後のトドメをさされた場 7 月 10 日 , グーデリアン機甲集団もべレジナ 所があった。べレジナ川 ( 白樺の川 ) である。 川を突破して , ドニエプル川へと進撃していた。 ソ連軍がこのことを意識して作戦を展開した事 このまま前進するか , それともドニエプル渡河 実がある。イエレメンコが「べレジナ川を死守 のため歩兵師団を待っか ? グーデリアンは考 せよ」という命令を発したのは , 明らかにこの えていた 事実を踏まえていてのことである。 渡河作戦には , 戦車よりは歩兵の方が適して しかし , 歴史はくり返さなかった。 6 月 29 日 , いる。しかし , 歩兵がくるのは 2 週間も後にな この命令が出た時点で , すでにソ連軍の陣地は る。それまでにソ連軍は , 間違いなく強力な防 放棄されていたのである。そして , 同時点でド 衛陣を固めるだろう。事実 , 空中偵察でソ連軍 イツ軍の先鋒 ( ばう ) は , すでにミンスクに達し クレーンの準備を終えて , 船積みを待つⅢ号潜水戦車。英本土侵攻用にⅢ号戦車 F 型を改造して生産されたこ の潜水戦車は , 本来の作戦計画が破棄されたため東部戦線で転用され , プーク川渡河などで真価を発揮した。 「うーを 26
す当角 、第を、第 ドイツ北方軍集団に所属してレニングラードへ進撃した , 第田軍の司令官であったエルンスト・ブッシュ上級 大将。副官と幕僚を連れて前線を視察しているところだろう た。サプスクを占領されたソ連軍は激しく攻撃 も , そのためなのである。 してきたが , 第 1 機甲師団はクリューが一戦隊 ヘーブナーは , マンシュタイン機甲軍団を北 でこれを守り抜いた。 7 月 15 日のことである。 に呼び寄せて攻撃に移ろうとしたが , 北方軍集 ヘーブナーの決断は効を奏したのである。ル 団司令部もまた , 最高司令部にこの作戦を押し ガ下流地域は制圧され , レニングラードへ 115km 通すことができなかった。 の地点に , 最終攻撃基地ができあがったのだ。 レニングラードを目前にしての , ドイツ軍悔 恨の 3 週間が過ぎ , 8 月 8 日の午前 9 時 , 攻撃 が再開された。目標はレニングラード・キンギ 今 , ドイツ北方軍集団はレニングラードを目 セップ・ナルワの鉄道線路南部である。そして , この戦闘が終了次第。全兵力でレニングラード 月リにしている。しかし , こでも , スモレンス クまでを迅雷のごとく奪取した中央軍集団が , を攻撃する , , のである。 いたずらに待たされたと同しものが待っていた 貴重な 3 週間が過ぎたソ連軍の防衛態勢は , ドイツ国防軍最高司令部は , ヘーブナーをルが 3 週間前とは全く比較にならなかった。第 1 日 橋頭保に 3 週間も待たせることになる。 目の攻撃でドイツ軍は手痛い被害を被った。悪 ヒトラーも最高司令部も , 右翼重点作戦に ことにマンシュタインが , 第 16 軍の危機を助 けるために出動を命ぜられ , 戦列をはなれて行 だわっていたのである。つまり , レニングラー ドを南東から大迂 ( う ) 回して攻撃しろというの くことになる。 この後 , 戦史の上でレニングラードの攻撃開 である。しかし , この右翼重点作戦では , 森林 , 沼沢が多くて , 戦車をフルに活かした機動力が 始と記されているのは , 1941 年 9 月 8 日。この 発揮できない。ヘーブナーが左翼から攻めたの 時点より約 1 か月遅くのことである。
求める無電を送ったが , ヒトラーの答えは「降 第 6 軍の生残者 25 万 5 , 000 人の運命は決まった。 伏を厳禁する。第 6 軍は最後の 1 兵 , 1 弾にな もはや彼らの前途は死ぬか捕虜になるかのどち らかであり , どちらにしてもさしたる違いはな るまで現陣地を死守せよ」であった。そして , かった。生存のための物資は空輸に頼っていた ヒトラーはパンのかわりに勲章と階級を第 6 軍 が , パウルスが得たのは最低必要量のやっと 1 / 5 の将兵に与え , 1 月 30 日にはパウルスを元帥に 昇格させた。「ドイツでは , かって元帥が捕虜と にすぎず , それでさえも減少する一方だった。 なったことは 1 度もないのだ」というヒトラー 酷寒と氷霜と , 止むことを知らぬ猛吹雪のなか に彼らは置きざりにされていた。防寒服も満足 パウルスが出来ることはただーっであった。 1943 年 1 月 31 日 , パウルスは戦闘終止を決意 に支給されず , 疫病がまんえんして彼らはバタ し , 5 時 45 分 , 第 6 軍司令部の通信機は CL 電 バタと死んで行った。 「私は , スターリングラードを決して見捨て 信一一本局はこれにて送信せずーーを打ち出し ないだろう」とか「この戦闘は , 偉大な碑であ た。最後の部隊の抵抗も 2 月 2 日に幕をとし , る。雄大な叙事詩である。我々はこの犠牲を忘 将官及び士官約 2 , 500 人を含む 9 万数千名の第 れてはならないのだ」などとヒトラーやゲーリ 6 軍将兵がソビエトに降伏した。 ングがラジオに向かって熱弁をふるっていたが この、、スターリンの町 , , で , 実にドイツの 5 それを地下壕で , あるいは廃虚の中で聞いたの 個軍団 25 個師団の 33 万人が帰らぬ者となったが , は , 飢えで死んだようになりながら , それでも 市街の各所ではドイツ側 14 万 7 , 000 人 , ソビエト 側 4 万 6 , 000 人という驚くべき数の , 凍 ( い ) て まだ生きている兵士たちであった。 1 月 24 日 , パウルスはベルリンに降伏許可を ついた死骸 ( がい ) に埋め尽くされていたという。 スターリングラードで降伏し , 捕虜となったドイツ第 6 軍の将官たち。左からドミトリー准将 , ダニエル中将 , シュイーマー中将 , ドレッパー少佐 , リノルディー中将。ヒトラーの階級大安売りの産物である。 4
ところが同じ日 , 一方でヒトラーは , コーカサ らの主力は第 1 機甲軍で , こちらの第 3 機甲軍 スへの作戦を開始するようにも命してしまった。 団は , 7 月 22 日にロストフをめぐる戦闘に突入 兵力分散に強硬に反対したポック元帥はすぐ し , 23 日から 24 日にかけては全市ですさましい さま解任されて , 南方軍集団はリスト元帥の A 市街戦となった。突撃班が編成されて 1 歩 1 歩 軍集団とバイスク大将の B 軍集団に 2 分割され と拠点をつぶし , 砲兵隊が危険と思われる箇所 た。ヒトラーは , 7 月 3 日にはクリミア半島が に砲弾を撃ち込んで , 25 日にロストフは占領さ 制圧されたし , ソビエトはまいっているに違い れた。 ないと思ったらしい。 だが , この楽観は後にな コーカサスでの戦い って , スターリングラードの悲劇をもたらすこ ちょうど同し 7 月 25 日 , A 軍集団司令部のも とになる。 こうして A 軍集団は「プラウ作戦」 とに , ヒトラーのロ述による総統指令第 45 号が ともかく , 届いている。「ドン川南岸の敵兵力と黒海艦隊の の第 2 の目標 コーカサスへと向かった。そ の前に立ちはだかるのは , 要寒 ( さい ) と化した 活動を粉砕して , コーカサスを征服せよ」とい うこの作戦任務は , 山岳兵部隊のシンポルをと ロストフであった。周辺にはひと冬の間に地雷 が敷設され , 対戦車用の壕 ( ごう ) が掘られ , そ って「エーデルワイス」と名付けられた。 して、、スペインの騎士 , , と呼ばれる , 鉄道レー ヨーロッパとアジアの接点であるコーカサス ルを組み合わせた障害物が多数置かれて , ドイ は , ェルプールズ山 ( 標高 5 , 633 m ) を主峰に ツ軍を待ちかまえていた。 3 , 000 ~ 5 , 000m 級の山なみが連なる世界有数の ドイツ第 17 軍は 7 月 19 日に戦線を突破 , 先頭 コーカサス山脈を背骨として , その北側である の第 57 軍団が西からロストフに進撃した。北か 前コーカサスには , 非常に乾燥した草原が広が 前途に洋々と広がる大草原に , わだちを刻みながら進撃するドイツ軍のⅢ号戦車 M あるいは N 型の機甲部隊。