10 月 28 日 , 戦力の半数以上を失ったソビエト て , 第 18 軍は壊滅 , 6 万人以上の捕虜と戦車 200 軍の残余はセバストボリめざして敗走し , マン 台余りがドイツ軍の手に落ちた。 シュタインは急きょ編成した混成自動車化先遣 ドイツ軍クリミア半島へ侵入 部隊をツィーグラー大佐に指揮させて , 全面的 な追撃戦に移った。 こうして側面を固く守られた第 11 軍は , 今度 11 月 15 日 , ケルチ要塞が陥落し , 続いて , 後 こその決意でクリミア攻撃準備に専心した。か に連合国巨頭会談で有名になるヤルタが占領さ たやソビエト軍司令部も , 孤立したクリミア半 れ , 敗走したソビエト軍はセバストボリ到達前 島に , 10 月 16 日 , オデッサから脱出したベトロ にドイツ軍に捕捉 ( そく ) されて , 捕虜 10 万人と フの沿岸軍約 7 万の兵力を注ぎこんだ。 2 万 ともに 16 個師団が壊滅 , 戦車 150 台余と火砲 700 5 , 000 平方におよぶ半島をめぐる戦機は , 門を失った。 こに再び熟したのである。 クリミア半島はセバストボリ要塞を除いてマ 10 月 18 日早朝 , マンシュタインの総計 6 個師 ンシュタインの手に落ち , いよいよ戦いの焦点 団は , 集中砲撃をもっていっせいに突撃を開始 12 月 17 はこの要塞の攻防に移ったのであった。 した。イシュン地区には鉄条網と地雷原 , それ 日 , セバストボリ要寒は猛煙につつまれた。リ に深さ 10m もの人工壕 ( ごう ) と遠隔操作のでき ヒトホーフェン将軍の第 8 航空軍団所属の , 第 る火炎放射器を有する底知れない防衛陣地があ 1 急降下爆撃航空団の Ju87 を筆頭とする攻撃機 り , 攻撃は難航を極めたが , 決死的な工兵の作 隊が爆弾を雨あられと降らせ , 地上では集中砲 業と大損害をもかえりみない歩兵の突撃のまえ 撃と「ネーベルベルファー」ロケット砲の猛弾 ソビエト軍防衛線は大打撃をこうむって突 幕に援護されて , 歩兵部隊の進撃が開始された。 破され , 崩壊してしまった。 可憐な花の咲き乱れる草原で狩り出され , 引き立てられるソビエト兵たち。タコつば陣地で頑強に抵抗した末 のことだろう。ソビエト軍では , いわゆる歩兵はすべて狙撃兵と呼ばれる。 、を、いい第を - 1 ・ 4. 第 : 、第第。 - な朝、ドは
/ = 、 , 当第・ " を 4 矗 ' 第当ツい - / にみ寰を 物第を編 - 第緲物・・ないを物冫を れる心配がなくなった。あとはドイツ軍の進路 ソ連の反撃 を爆破し , 妨害しながら後退するソ連軍を , ド イツ軍はどれだけ早く追撃するかである。 ラインハルトの第 41 機甲軍団第 1 機甲師団 ( キ ドイツ第 43 歩兵連隊と第 1 軍団快速先遣大隊 ルヒナー少将指揮 ) は , ドビナ橋頭保ャーコプ が , ソ連軍のド真中を 100km も猛進したのもこ シュタットから南工ストニアを通って , オスト の時である。 ロフへの競走に勝った。クリューガー少将率い バウスカ経由でリガに到達し , ソ 連軍の反撃を受けながらもその退路を断ち切っ る第 1 狙撃兵旅団の第 1 機甲連隊の一部で増強 た結果は , クールラントから撤退するソ連軍に された第 113 狙撃兵連隊が , 南部から市街地に ドビナ川を渡らせす , リガ前面で破滅に追いこ 突入した。 7 月 4 日である。 これより少し前 ドイツ軍はすでに空中偵 んだ。 察でわかっていたのだが , ソ連軍の大戦車部隊 ヘーブナーの第 4 機甲集団も , ペイプス湖の 南からエストニアに追っていた。そして , 攻防 がオストロフ防衛のために進撃していた。超重 共に重要なポイントであるオストロフに , 独ソ 戦車の強力な兵力を誇るこの部隊が , 24 時間早 両軍とも全力をあげていたのである。 く到達していたなら , この戦局はどう変わって 鈴木のりひさ 物いい ~ 物い第第物 を第に、 ; 第第朝い燾は第ま 43
草原からメッサーシュミット Bf Ⅱ 0 が離陸して行く。胴体尾部が長く突き出ている点などから D か E シリーズの 機体であろう。バトル・オプ・プリテンではイギリス戦闘機のために名声を傷つけられたが , 長距離侵攻や戦 闘爆撃機としては一定の働きをしたと言える。しかし , それもドイツ空軍に制空権がある限りではあったが。 6 月 22 日であった。 スペイン市民戦争当時 , 共和国軍とフランコ軍 に使用されたメッサーシュミット Bf109 とポリ カルポフ I- 16 であった。しかし , Bf 109 の方は 絶え間のない改良と実戦から得た戦訓で補強さ れたコンバット・マシーンであるのに対し , I- 16 はほとんど改良の余地のない , 発展性のない 機体であった。これがパイロットの技量の差を いちだんと広げていた。 この作戦でも , ュンカース Ju87 の価値は発揮 された。「シュッーカ」一一一頑 ( がん ) 丈で使い易 く , 比較的大きな破壊力を , 限られたポイント に集中できる機体はドイツ空軍再建以来のセー ルス・ポイントであった。そして , それはまた , ドイツ地上軍の先兵として進撃路を切り開いて ゆく兵力としての , ドイツ空軍の戦術空軍の性 格をもっともよく象徴していた。 つまり , 「シュッーカ」は - ーーそしてドイツ空 軍の他の爆撃機も , 地上の砲兵のリモコン式砲 撃だったわけである。射程 7 , 000 ~ 8 , 000 m の地 上砲撃が , 航空機を使えば 200km も 300km も先き の , 地上の砲では届かない目標まで砲撃ができ るのだ。 ドイツ軍は作戦開始後 , ドイツ軍自身が驚く " に第・い」を群第みまー物を画い = “。 = 物。をイ軈一 ーーに扣 = を第一 宿み川囃物当朝物ー当 下物号孵響第・。・。 ! 冫雪を尊 1 作戦開始 ドイツ空軍の活躍はめざましかった。ソ連に ドイツ軍が , いっせいに 3 方面 ( 北 , 中 , 南部 ) からなだれ込んでよりモスクワへの進撃を始め るまでの 4 か月間 , ドイツ空軍はソ連のヨーロ ッパ部分の空を制圧したといっても良い。 侵攻開始と同時にドイツ空軍は , 国境付近か ら内陸部にかけて散在したソ連空軍基地に , い っせいに、、不意討ち , , をかけたのである。ソ連 機の多くはひとたまりもなく地上で壊滅した。 地上での破壊を免れたものも , 迎撃にあがった ところを , 圧倒的に優勢なドイツ戦闘機に一掃 されてしまった , というのがほんとうのところ であったろう。 何しろ機数だけでなく , このころのドイツ空 軍 , とくに戦闘機パイロットは , 技量的にも心 理的にも , 第二次大戦を通じて最高のコンディ ションにあったといえる。戦って負ける気がし というあの状態である。 機材の面でも , ドイツとソ連の空軍の間には 差がありすぎた。 たしかに , 機種は 10 数年前に
コーカサスへの道 0 、 0 しみふ : こ , 燾託ー。鸞、 冬期戦とその影響 戦力のバランスの大きく崩れた 1944 年になる 以前の独ソ戦は , すっと季節に左右されている。 どんな名司令官であっても , ロシアの大自然が 生む冬将軍や泥 ( どろ ) 将軍にはとてもたちうち できなかったからである。東部戦線では , 夏期 には機動力に優れるドイツ軍が進撃し , 冬期に なると今度は逆に , 兵力に勝るソビエト軍が攻 勢に立つ , というのが一種のパターンとなって ロストフの戦線も例外ではない。 ドニエプル 川を渡って快進撃したクライスト将軍のドイツ 第 1 機甲軍は , 1941 年 11 月 20 日 , 人口 50 万の要 衝ロストフを占領したが , 5 日後にはソビエト 軍が大反撃を開始し , 南方軍集団総司令官であ ったルントシュテット元帥は , 総統命令を無視 してロストフ放棄と全軍撤退を命じている。 モスクワ前面などの北方の戦線でも全く同様 で , いままで負けを知らなかったナチス・ドイ ツは , このソビエト軍の 1941 ~ 42 年にかけての 冬期大攻撃によって , 初めて深刻な打撃を受け ていた そしてその結果 , 総統ヒトラーの復讐 ( しゅ う ) が始まった。モスクワもレニングラードも とれなかった作戦失敗の責任を押しつけるため , ヒトラーは前後の見境もなく , まず , 陸軍最高 司令官プラウヒッチュ元帥を手始めに , グーデ リアン上級大将を , そして , ルントシュテット 元帥を罷 ( ひ ) 免し , 更迭している。 元伍 ( ご ) 長ヒトラーはドイツ陸軍すべてのカ ードを自分の手に握り , 最高司令部から 1 師団 の行動にいたるまで , 残らす口を出すようにな った。それは後々へと尾を引く , つまずきのほ んの端緒であったと言える。 ハリコフ戦の勝利 やがて春が訪れ , ヒトラーは 1942 年 4 月 5 日 付けで , 総統指令第 41 号を発令している。この 年の東部戦線における全ドイツ部隊の作戦計画 を明記した「プラウ作戦」と名付けられるこの 0 司令部を来訪したハインツ・グーデリアン上級大将 ( 中央 ) を門口まで出迎え , 随伴の若き士官にねぎら
ヘーブナーは考えた。右翼に重点を置き , ノ る。戦車の敵 , 湿地である。 ラインハルトはソ連軍を背後から攻めようと , プゴロド方面に進出するか , それともルガ下流 で左旋回を行い , 敵の弱点を突き , ナルワ , キ クリューガー , ヴュストホーフェン隊を向かわ ンギセップ , クラスノグワルジェイスク鉄道に せたが , そこもまた , 右へ行っても左へ行って 平行して , 西からレニングラードを攻めるか ? も , 走行不能の湿地帯であることを知らされる だけだった。破竹の進撃も , こでしばらくス 結局 , 彼は後者をえらんだ。第 1 , 第 6 機甲 トップをかけられることになった。 師団は攻撃の途中で北転し , ルがへの道で歩兵 マンシュタイン軍団に対するソ連軍の抵抗の 師団と交替すると , 北進を始めた第 36 機械化 こでの防衛態勢がやっとわかった。 強さから , 歩兵師団と共に , 悪路への挑 ( ちょう ) 戦が開始 ソ連軍は , レニングラードとイリメニ湖西端の シムスク防備のため , ャムペルクからルガ川に された。 道は泥 ( どろ ) 沼となり , その泥沼街道に延々 沿って , ルガまでを要塞化したのである。 と連なる泥の帯の進軍である。工兵がダムを作 レニングラードへの道 りながら泥沼を通りやすくし , その側面を機械 化歩兵師団がオートバイに乗ったりしながら , ルガー帯を強固な要塞と化したソ連軍だった 突然現れるソ連兵の攻撃にそなえていた。文字 が , ドイツ第 4 機甲集団の偵察は , その弱点を 通り泥まみれの行軍をしつつ第 6 機甲師団は , ルガ上流には兵力が少な 発見したようだった。 第 4 狙撃兵連隊の援護をしながらポレチェを占 いのである。前述したように道路状態が悪いの 領した。 で , ペイプス湖東岸には大兵力を配置していた 第 1 機甲師団もルガ川東岸で橋頭保を奪取し が , そこにはわすかしか配置しなかったのだ。 ぬかるみに苦労するドイツのⅣ号戦車 FI 型。装甲強化によって重量が 22.3 トンに増加したため , キャタピラー が幅 40cm のものになった。接地圧は E 型と同じ 0 . 79k9 /cm2 で , 重量当りの馬力が . 4t / 甲となっている。 4
・ダブ、を詩を第ン 激突した独・ソ両軍の戦車。向こう側ドイツのⅢ号突撃砲 A あるいは B 型が , 手前ソ連の T 34 / 76 戦車 A 型に体 当たりしたものと思われる。 T 34 初期型の主砲は伏角が 3 度で , 下方からくる相手にはどうしようもなかった。 攻撃は , 続いてイリメニ湖とペイプス湖を境 こでドイツ軍にインスタント発明の新兵器 に北に向けられた。目標はレニングラードであ が登場する。重野戦榴 ( りゅう ) 弾砲に対トーチ カ用ベトン榴弾を装瞋 ( てん ) 発射したのである。 レニングラードを南と南西で守る広い湿地帯 これは効いた。さしものソ連重戦車も , これで がある。そこを通る道は 2 本ある。第 4 機甲集 動きを止められてしまった。せつかくのソ連大 戦車部隊も , わすか 1 日 , オストロフに着くの 団のラインハルト軍団がその 1 本を , そして , が遅れたためにこの被害である。 マンシュタイン機甲軍団が他の 1 本を進撃する 2 日後の 7 月 7 日 , この日も戦車戦が展開さ 予定になっていた れている。場所はプスコフ前面である。ヴェス 1941 年 7 月 10 日 , 両機甲師団は戦線全面で作 トホーフェン戦隊の先鋒として , 第 1 機甲連隊 戦を開始した。この作戦は S S の「ドクロ」師団 がソ連戦車と対戦している。結果はドイツ軍の も一緒になり , スターリンラインを突破してい こでは , 衝突した両軍の戦車 る。途中 , 各所で反撃に遭いながらも , ポルホ 勝利だったが , の中から人が飛びだし , キャタピラーの傍につ フ , ノブゴロドを通過し , チュードウォ付近で , いている斧 ( おの ) でわたりあうという , 珍しい レニングラードとモスクワを斜めに結ぶ道を封 一幕もあった。 鎖することになった。 第 1 , 第 6 機甲師団を先頭に , 第 36 機械化歩 ソ連軍の誘い 兵師団を後方にした第 41 機甲軍団は , ルガを通 ヴェストホーフェン戦隊がプスコフの飛行場 る街道に配置された。しかし , 思いがけなくソ を奪取し , 第 6 機甲師団もスターリンラインを 連軍の抵抗は弱かった。むしろ退却しているの 突破してやって来た。結局 , ペイプス湖南方の だ。北方での戦いをあきらめたのだろうか , と ソ連防衛線は切断され , ソ連軍がバルト地区を ドイツ軍はいぶかしがった。 脱出する南の道はふさがれた。レニングラード ともかく , 前進を始めると , ます , ラインハ ルト機甲軍団の前進がはかばかしくない。ソ連 攻撃のスターティング・ポイントができたとい 軍が作った巧みな防衛陣に誘い込まれたのであ うことになる。 45
物義 3 ソ連のラボーチキン LaGG 3 戦闘機を点検するドイツ軍兵士。プロペラの先端が曲がっているところを見ると , 胴体着陸したものかも知れない。星の標識の上にドイツ語で , MOS KAU ( モスカウ ) とチョークで書かれている のはドイツ兵の仕業だろう。胴体と主翼の付根部分の破れ具合いで , 本機が木製であることがわかる。 ほどの速度でソ連国内を進撃した。ヒトラーの 変えていった。 両面作戦に反対していた将軍連も , クリスマス ソ連空軍は機種改変に手まどっていた。決し て新しいとはいえないポリカルポフ I ー 16 は , ス までにはモスクワを落とせると考え始めていた。 ペインでは「ラタ ( ねすみ ) 」 , 日本では「あぶ」 そして , その進撃の先頭にはドイツ空軍機の姿 があった。もし , ドイツ空軍が制空権を奪って というあだ名を奉られていた古い機体であった。 このほかに , 更に古い I ー 15 複葉戦闘機「チャイ いなかったら , 地上軍の快進撃はあり得なかっ カ ( かもめ ) 」も相当数が実戦部隊に配属されて たに違いない。 しかし , ドイツ空軍は大きな過ちを犯してい いた もちろん新しい機種もあった。ラボーチキン・ た。それも目に見えないところで。それは戦線 グレビッチのラグ系列の液冷戦闘機 , ヤコプレ のかなたで , それもずっとはるかなかなたであ フ系列の , ヤク 1 ~ 以降の液冷工ンジン付き戦 る。ドイツ空軍の誤算はドイツ空軍の持っ体質 闘機は開発が続けられていた。 そのもののなかで , 敗北への種を大きくふくら しかし , ソ連空軍にとって最も不幸なことの ましつつあったのである。 ひとつは , 偵察機という特定の機種が欠けてい ソ連空軍ーーー敗北から逆襲へ たことである。なるほど , 空中偵察は行ったで あろうが , 戦略上のシステムとしての空中写真 ドイツ空軍は空から降って来た。ドイツ空軍 を基本とした戦略偵察は , この時期 , ソ連空軍 機が 6 月 22 日の早暁 , 国境を越えていっせいに の最も欠けていたもののひとつだったように思 ソ連空軍基地を攻撃したとき , ソ連機は基地上 う。それはドイツ空軍についても , 程度の差は 空のパトロールをしていたわけではなかった。 早期警戒用レーダーがあったわけでもない当時 あれ , いえることだった。 ドイツでもソ連でも , 空軍は地上兵力の敵に は , ドイツ機の爆弾は文字通り青い空から降っ 向かって差し伸ばした腕であり , 槍 ( やり ) の穂 て来たであろう。爆撃とそれに続く銃撃は容赦 なく , ソ連空軍機を地上で燃えたスクラップに 先であるという基本的な認識にあったのではな 92
3 、当 3 物を第 ドイツ部隊を祖国の大地から追い払うべく , 吹雪をついて進撃する T34 / 76 戦車「ロジーナ」。戦車技師コーシキ ンが作りあげたこの傑作戦車こそ , ソビエトを救った力強い同志であった。 市の地下水路を利用して防衛拠点に送りこまれ 第 6 軍の危険が形になって現れたのである。 る予備兵力によって , もちこたえていた。 冬を待っていたジューコフ将軍は , 戦車 900 台と 100 万の兵力をもって , ソビエト軍の命運 スターリングラード包囲される をかけた大攻勢をここに開始し , ロコソフスキ ー軍とバツーチン軍がます戦線を突破し , 翌 20 パウルスは 10 月 4 日 , 最後の期待を託して総 攻撃を命した。 14 日にも , 17 日にも。しかし , 日には , イエレメンコ軍が南方から進撃した。 北方を守っていた 7 万人のルーマニア第 3 軍 スターリングラードは陥落しなかった。 音もたてずに忍び寄っていた冬が , すでに目 陣地は完全にしゅうりんされ , 南戦区ではライ に見えてわかるようになっていた。持てる力を ザーの第 29 機械化歩兵師団の奮戦で , パウルス 出し尽くし , やせ衰えた第 6 軍にとって , 冬は はどうにか防衛線を張っていた。しかし , イエ 恐ろしいものになるだろうと誰れもが予想し レメンコ軍は北西に展開し , 南下したバツーチ ン軍と共にパウルスの背後をついた それはまもなく現実となった。 1942 年 11 月 19 日 , 午前 5 時ちょうど。空をつ 23 日 , カラチが落ちて , ドイツ第 6 軍はジュ き破るような猛烈な衝撃音がスターリングラー ーコフの手によって逆に包囲されるに至った。 ド北方のドイツ軍陣地をゆるがした。何千とい わずか 4 日間のうちに , パウルスは罠 ( わな ) に う火砲の砲声は周囲にこだまして , スターリン 落ちたのである。ヒトラーはこのソビエト軍の 突破の知らせを , ベルヒテスガーデンの山荘で グラードのチュイコフ軍のところにまで届き , あちこちの塹壕 ( ざんごう ) からはいっせいに 聞いた 「ナティャロス / 」という叫び声があがった。そ 情勢は一刻の猶予も許さない , と判断したパ ウルスと第 6 軍参謀長シュミットは , スターリ のとおり , 、、ついにやった , , のだ。ハルダー参謀 ングラードを放棄して西方へ突破 , 脱出する許 総長が免職されるまえに , すでに指摘していた 79
指令によれば「北方軍集団と中央軍集団は防衛 にとどめて温存し , 南方軍集団をもって , ます , ドン川以西の突出部敵戦力を包囲 , 壊滅させ , 敗走する敵をポルが川 , スターリングラード地 区で一挙に打ちのめす。次いで南方軍集団は , コーカサスをめざして殻物と石油資源を押え , ソビエト軍の生命線を断っ」ものとされていた こではすべ ヒトラーは前年の戦術方針を , て戦争経済ということにすり替えてしまってい る。 南方軍集団は 1 月以来 , フォン・ポック元帥 がその指揮をとっていたが , ポックはこの計画 にそって , まず , ハリコフ南地区に圧力をかけ ているティモシェンコのソビエト軍部隊に対し て , 攻撃作戦を立案している。行動開始予定は 5 月 18 日であった。 けれども一足早く , 5 月 12 日にティモシェン コのソビエト軍が先手をとって討って出た。 リコフ北地区からソビエト第 28 軍の 21 個師団を 投入 , 南からは第 6 軍および第 57 軍の 58 個師団 を投入して , ドイツ第 6 軍の撃破を図った。大 津波のごとく押し寄せる戦車群によって , 戦線 はいたるところで西へ突破されたのであった。 ポック元帥は反撃のため , 南方に待機してい たクライスト機甲集団に出撃を命じ , クライス ト将軍はその主力である第 1 機甲軍および第 17 軍を率いて , 5 月 17 日 , イジュム戦線のソビエ ト軍側面に奇襲をかけた。その後はドイツ軍得 意の機動包囲戦が展開され , 5 月末までに , テ ィモシェンコのソビエト軍は 29 個師団以上を失 い , 捕虜 23 万 9 , 000 人 , 戦車 1 , 200 台 , 砲 2 , 000 門 がドイツ軍の手に落ちている。 A 軍集団コーカサスへ いの言葉をかけるフォン・ルントシュテット元帥。 ヒトラーの復讐は 2 人の更迭にとどまらなかった。 張維肖尊 6 月 28 日 , ドイツ軍は予定どおり夏期大攻勢 を開始した。バイスク集団に属するホト将軍の 第 4 機甲軍が先鋒 ( ばう ) で , パウルスの第 6 軍 とシュべッペンプルクの第 40 機甲軍団は , 6 月 30 日に加わった。ポロネシをめぐっての攻防戦 が起こり , ティモシェンコのソビエト軍は , 今 度は慎重に時間をかせぎながら , 包囲されない よう主力を巧みに後退させた。 それは「プラウ作戦」の当初の目標を台無し にすることであったから , ヒトラーは 7 月 13 日 に「スターリングラードめがけて急進撃し , ド ン川に防衛線を築かせるな」と命じたのである。
みをらを安ツ→ ー沁ト、 3 第 . 宀 を , なツ 31 ト 0 杉浦康 ことである。ドイツご自慢の電撃戦のェッセン スを集約したものが , 果たしてどうであったか ? それは既に歴史が明らかにしてくれている。 1941 年 6 月 22 日 , ドイツ軍の各砲が闇 ( やみ ) に火煙を噴き出し , 平和の幕は閉じられた。時 に午前 3 時 15 分 , プーク戦線である。ねむれな い夜を待機し続けたグーデリアン司令部の , 時 計をにらみ続けた上での攻撃である。 ドイツ中央軍集団。ドイツ側の攻撃兵力のバ ランス・オプ・パワーからいえば , 最重点にお かれた集団である。フォン・ポック元帥が率い その戦区はロミンテン荒野から , プレスト・ トフスク南方まで約 400km におよんでいる。 3 個軍と , グーデリアン大将の第 2 機甲集団およ びホト大将の第 3 機甲集団が加わり , これにケ ッセルリンク元帥の第 2 航空軍が大量の急降下 爆撃機で , この一大機甲兵力の力をさらに増強 させている。 ドイツ側の攻撃態勢は秘密裡 ( り ) に準備され , そして , ソ連側の無電傍受を警戒して , 指示は ほとんど文書で行われた。 対岸からプレスト要塞 ( さい ) を攻撃したシュ ー中将の指揮する第 45 歩兵師団は , 間も なく鉄橋を占領して対岸に到達した。 橋のない地域もあった。川底を潜水艦のよう にもぐって進む秘密兵器ーーー水中戦車がお目見 この戦車は , 得したのはプラトウリンだった。 もともとドイツがイギリス本土侵攻作戦用に開 25