の運茆 牧村宜 後を閉鎖せよ」との命令を下したが , 戦線が東 へ大きく移動している状況を誤信して , スター リングラード地区での勝利は握ったものと思い こみ , コーカサスへの進撃をも同時に命じてし まった。 反対するポック元帥は即座に解任され , 南方 軍集団は二分されて , 作戦の重点はスターリン グラードを占領した後の目標とされたコーカサ ス方面に変更になり , 移動させられてしまった。 第 6 軍はその切り札である第 40 機甲軍団を引 きぬかれ , 燃料や補給物資の多くも南方へと転 送されたため , 頑 ( がん ) 強なソビエト軍防衛線 の突破ーーー特にドン川橋頭保の奪取はまったく の困難に直面し , 進撃は停止同然となってしま 白く幼想的なメルヘンの世界も , そこに身を 置く者には厳しい大自然の脅威でしかない。 疲労で倒れる同胞を助け起こす兵士も , 彼自 身が倒れてしまいそうであるにちがいない。 った そこでヒトラーは再びスターリングラード方 面に目を向け , 7 月末に , 今度はコーカサス戦 線からへルマン・ホトの第 4 機甲軍を引きぬい て , 第 6 軍の増援にまわした。 このような , ヒトラーの ひどい話であった 衝動的な度重なる目標の変更と移動命令は , 貴 重な時間と戦力の損失でしかなく , 戦局に決定 的な影響を与えずにはおかなかった。 ロバティン将軍のソビエト第 62 軍が防備して いたスターリングラードとその周辺は , わすか の間に防衛と抗戦のための徹底的な強化が行わ れ , ドイツ軍にとって , 7 月のうちには容易に 占領できるはずであったスターリングラードは , 77
クリミア半島の席巻概要図 第 1 機甲軍 - べ丿レジャンスク ノガイ草原 マリウポリ・ ーエプル川 メリトボリ カホフカ 第 11 軍 ヘルソン ゾフ海 ア エプパトリヤ ジャンコイ ケルチ テムリュク ケルチ海峡 第 42 算印 ア半島 フェオドシャ シンフェロポリ ・バクチサレー セバストボリ ソ連軍外郭防衛線 略上に決定的な意義を持っクリミアは , 絶対に 死守せねばならない箇所であり , スターリンは そこに , クズネッオフ将軍の指揮する第 51 軍の 総計 12 個師団を配置して防衛にあたらせていた。 第 1 次攻防戦 マンシュタインのクリミアに対する攻撃は , 9 月 24 日には早くもその火ぶたを切った。第 11 軍の砲兵と工兵部隊のすべてが投入されて , 第 50 歩兵師団の増強を得たハンゼン将軍の第 54 軍 団が , 半島へのほとんど唯一の陸路である幅 7 km 程のペレコプ ~ イシュン地峡の敵軍防衛線に とりついた 大きな犠牲をはらって突破口を切り開いたが このままでは半島の席巻 ( せつけん ) には兵力が 少なすぎる。だが , マンシュタインは慎重にし かも大胆な作戦を考えていた。ロストフ方面に 備える第 49 山岳兵軍団と , 武装 S S 「アドルフ・ ヒトラー」の旅団をメリトボリ戦線から引き抜 いて , クリミア戦線へ投入しようという計画で あった ソビエト軍は 23 日深夜 , これらの ところが , 里 海 ヤルタ・ 部隊が留守番役のルーマニア第 3 軍と交替する 動きを察知し , 第 11 軍が最も危険な状態となっ たその瞬間をたたいた ハリトノフ少将の第 9 軍とスミルノフ中将の第 18 軍から成るソビエト 軍の大部隊が , ロストフ前面から出撃し , ザル ムート将軍のドイツ第 30 軍団の防衛線を突破し たのである。 マンシュタインはクリミア攻撃をやむなく中 断し , 移動していた山岳兵軍団を再びノガイ大 草原での防衛にふり向けたが , 第 11 軍の劣勢は 明らかで , T 34 戦車ほかのソビエト軍大戦車部 隊を相手の第 190 突撃砲大隊の奮戦にもかかわ らす , 正規の戦車戦力を持たない第 11 軍は全滅 の危機に陥った。しかし , 力強い援軍の到来が この窮地を救うのであった。 今だ無敵を誇るクライスト将軍の第 1 機甲軍 の戦車部隊は , ドニエプル川の敵防衛線を突破 すると火の玉のような勢いで南下し , ソビエト 軍部隊の背後を突いたのである。状況は一変し て , 樹木の 1 本もない大草原での両軍機甲部隊 の激突は , ドイツ側の一方的な勝利となり , ソ ビエト軍部隊はベルジャンスク周辺で包囲され
' ー 00 。 0 準器部 0 見簽も訣 0 程・ ' 000 0 , 実効射程 00 。、う性能を持。に 、 00 最後 0 防衛線 Ⅲ号突撃砲古都、 30 万人 0 市民と共に ラは 0 ・ = ドイ車 0 前・ = 立 ちはだかり その行く手を はばんた
ソ連の工兵がドイツ軍の防衛線に近づいて行 く。敵 ( ドイツ ) の鉄条網を切断して進路を開 き , 後続する歩兵の進撃を容易にする作業で ある。手箭で構える PPSh 短機関銃にも , 雪中力ムフラージュ用の白い布が巻いてある。 ロシア戦線でドイツ軍の重要拠点が破られた。 写真はソ連軍の工兵隊員が歩兵の前進路を切 り開くため , ドイツ軍の張った鉄条網を切断 しているところ。雪中 , 白衣のカムフラージ ュ服を着用して行動している。
ヘーブナーは考えた。右翼に重点を置き , ノ る。戦車の敵 , 湿地である。 ラインハルトはソ連軍を背後から攻めようと , プゴロド方面に進出するか , それともルガ下流 で左旋回を行い , 敵の弱点を突き , ナルワ , キ クリューガー , ヴュストホーフェン隊を向かわ ンギセップ , クラスノグワルジェイスク鉄道に せたが , そこもまた , 右へ行っても左へ行って 平行して , 西からレニングラードを攻めるか ? も , 走行不能の湿地帯であることを知らされる だけだった。破竹の進撃も , こでしばらくス 結局 , 彼は後者をえらんだ。第 1 , 第 6 機甲 トップをかけられることになった。 師団は攻撃の途中で北転し , ルがへの道で歩兵 マンシュタイン軍団に対するソ連軍の抵抗の 師団と交替すると , 北進を始めた第 36 機械化 こでの防衛態勢がやっとわかった。 強さから , 歩兵師団と共に , 悪路への挑 ( ちょう ) 戦が開始 ソ連軍は , レニングラードとイリメニ湖西端の シムスク防備のため , ャムペルクからルガ川に された。 道は泥 ( どろ ) 沼となり , その泥沼街道に延々 沿って , ルガまでを要塞化したのである。 と連なる泥の帯の進軍である。工兵がダムを作 レニングラードへの道 りながら泥沼を通りやすくし , その側面を機械 化歩兵師団がオートバイに乗ったりしながら , ルガー帯を強固な要塞と化したソ連軍だった 突然現れるソ連兵の攻撃にそなえていた。文字 が , ドイツ第 4 機甲集団の偵察は , その弱点を 通り泥まみれの行軍をしつつ第 6 機甲師団は , ルガ上流には兵力が少な 発見したようだった。 第 4 狙撃兵連隊の援護をしながらポレチェを占 いのである。前述したように道路状態が悪いの 領した。 で , ペイプス湖東岸には大兵力を配置していた 第 1 機甲師団もルガ川東岸で橋頭保を奪取し が , そこにはわすかしか配置しなかったのだ。 ぬかるみに苦労するドイツのⅣ号戦車 FI 型。装甲強化によって重量が 22.3 トンに増加したため , キャタピラー が幅 40cm のものになった。接地圧は E 型と同じ 0 . 79k9 /cm2 で , 重量当りの馬力が . 4t / 甲となっている。 4
3 、当 3 物を第 ドイツ部隊を祖国の大地から追い払うべく , 吹雪をついて進撃する T34 / 76 戦車「ロジーナ」。戦車技師コーシキ ンが作りあげたこの傑作戦車こそ , ソビエトを救った力強い同志であった。 市の地下水路を利用して防衛拠点に送りこまれ 第 6 軍の危険が形になって現れたのである。 る予備兵力によって , もちこたえていた。 冬を待っていたジューコフ将軍は , 戦車 900 台と 100 万の兵力をもって , ソビエト軍の命運 スターリングラード包囲される をかけた大攻勢をここに開始し , ロコソフスキ ー軍とバツーチン軍がます戦線を突破し , 翌 20 パウルスは 10 月 4 日 , 最後の期待を託して総 攻撃を命した。 14 日にも , 17 日にも。しかし , 日には , イエレメンコ軍が南方から進撃した。 北方を守っていた 7 万人のルーマニア第 3 軍 スターリングラードは陥落しなかった。 音もたてずに忍び寄っていた冬が , すでに目 陣地は完全にしゅうりんされ , 南戦区ではライ に見えてわかるようになっていた。持てる力を ザーの第 29 機械化歩兵師団の奮戦で , パウルス 出し尽くし , やせ衰えた第 6 軍にとって , 冬は はどうにか防衛線を張っていた。しかし , イエ 恐ろしいものになるだろうと誰れもが予想し レメンコ軍は北西に展開し , 南下したバツーチ ン軍と共にパウルスの背後をついた それはまもなく現実となった。 1942 年 11 月 19 日 , 午前 5 時ちょうど。空をつ 23 日 , カラチが落ちて , ドイツ第 6 軍はジュ き破るような猛烈な衝撃音がスターリングラー ーコフの手によって逆に包囲されるに至った。 ド北方のドイツ軍陣地をゆるがした。何千とい わずか 4 日間のうちに , パウルスは罠 ( わな ) に う火砲の砲声は周囲にこだまして , スターリン 落ちたのである。ヒトラーはこのソビエト軍の 突破の知らせを , ベルヒテスガーデンの山荘で グラードのチュイコフ軍のところにまで届き , あちこちの塹壕 ( ざんごう ) からはいっせいに 聞いた 「ナティャロス / 」という叫び声があがった。そ 情勢は一刻の猶予も許さない , と判断したパ ウルスと第 6 軍参謀長シュミットは , スターリ のとおり , 、、ついにやった , , のだ。ハルダー参謀 ングラードを放棄して西方へ突破 , 脱出する許 総長が免職されるまえに , すでに指摘していた 79
指令によれば「北方軍集団と中央軍集団は防衛 にとどめて温存し , 南方軍集団をもって , ます , ドン川以西の突出部敵戦力を包囲 , 壊滅させ , 敗走する敵をポルが川 , スターリングラード地 区で一挙に打ちのめす。次いで南方軍集団は , コーカサスをめざして殻物と石油資源を押え , ソビエト軍の生命線を断っ」ものとされていた こではすべ ヒトラーは前年の戦術方針を , て戦争経済ということにすり替えてしまってい る。 南方軍集団は 1 月以来 , フォン・ポック元帥 がその指揮をとっていたが , ポックはこの計画 にそって , まず , ハリコフ南地区に圧力をかけ ているティモシェンコのソビエト軍部隊に対し て , 攻撃作戦を立案している。行動開始予定は 5 月 18 日であった。 けれども一足早く , 5 月 12 日にティモシェン コのソビエト軍が先手をとって討って出た。 リコフ北地区からソビエト第 28 軍の 21 個師団を 投入 , 南からは第 6 軍および第 57 軍の 58 個師団 を投入して , ドイツ第 6 軍の撃破を図った。大 津波のごとく押し寄せる戦車群によって , 戦線 はいたるところで西へ突破されたのであった。 ポック元帥は反撃のため , 南方に待機してい たクライスト機甲集団に出撃を命じ , クライス ト将軍はその主力である第 1 機甲軍および第 17 軍を率いて , 5 月 17 日 , イジュム戦線のソビエ ト軍側面に奇襲をかけた。その後はドイツ軍得 意の機動包囲戦が展開され , 5 月末までに , テ ィモシェンコのソビエト軍は 29 個師団以上を失 い , 捕虜 23 万 9 , 000 人 , 戦車 1 , 200 台 , 砲 2 , 000 門 がドイツ軍の手に落ちている。 A 軍集団コーカサスへ いの言葉をかけるフォン・ルントシュテット元帥。 ヒトラーの復讐は 2 人の更迭にとどまらなかった。 張維肖尊 6 月 28 日 , ドイツ軍は予定どおり夏期大攻勢 を開始した。バイスク集団に属するホト将軍の 第 4 機甲軍が先鋒 ( ばう ) で , パウルスの第 6 軍 とシュべッペンプルクの第 40 機甲軍団は , 6 月 30 日に加わった。ポロネシをめぐっての攻防戦 が起こり , ティモシェンコのソビエト軍は , 今 度は慎重に時間をかせぎながら , 包囲されない よう主力を巧みに後退させた。 それは「プラウ作戦」の当初の目標を台無し にすることであったから , ヒトラーは 7 月 13 日 に「スターリングラードめがけて急進撃し , ド ン川に防衛線を築かせるな」と命じたのである。
10 月 28 日 , 戦力の半数以上を失ったソビエト て , 第 18 軍は壊滅 , 6 万人以上の捕虜と戦車 200 軍の残余はセバストボリめざして敗走し , マン 台余りがドイツ軍の手に落ちた。 シュタインは急きょ編成した混成自動車化先遣 ドイツ軍クリミア半島へ侵入 部隊をツィーグラー大佐に指揮させて , 全面的 な追撃戦に移った。 こうして側面を固く守られた第 11 軍は , 今度 11 月 15 日 , ケルチ要塞が陥落し , 続いて , 後 こその決意でクリミア攻撃準備に専心した。か に連合国巨頭会談で有名になるヤルタが占領さ たやソビエト軍司令部も , 孤立したクリミア半 れ , 敗走したソビエト軍はセバストボリ到達前 島に , 10 月 16 日 , オデッサから脱出したベトロ にドイツ軍に捕捉 ( そく ) されて , 捕虜 10 万人と フの沿岸軍約 7 万の兵力を注ぎこんだ。 2 万 ともに 16 個師団が壊滅 , 戦車 150 台余と火砲 700 5 , 000 平方におよぶ半島をめぐる戦機は , 門を失った。 こに再び熟したのである。 クリミア半島はセバストボリ要塞を除いてマ 10 月 18 日早朝 , マンシュタインの総計 6 個師 ンシュタインの手に落ち , いよいよ戦いの焦点 団は , 集中砲撃をもっていっせいに突撃を開始 12 月 17 はこの要塞の攻防に移ったのであった。 した。イシュン地区には鉄条網と地雷原 , それ 日 , セバストボリ要寒は猛煙につつまれた。リ に深さ 10m もの人工壕 ( ごう ) と遠隔操作のでき ヒトホーフェン将軍の第 8 航空軍団所属の , 第 る火炎放射器を有する底知れない防衛陣地があ 1 急降下爆撃航空団の Ju87 を筆頭とする攻撃機 り , 攻撃は難航を極めたが , 決死的な工兵の作 隊が爆弾を雨あられと降らせ , 地上では集中砲 業と大損害をもかえりみない歩兵の突撃のまえ 撃と「ネーベルベルファー」ロケット砲の猛弾 ソビエト軍防衛線は大打撃をこうむって突 幕に援護されて , 歩兵部隊の進撃が開始された。 破され , 崩壊してしまった。 可憐な花の咲き乱れる草原で狩り出され , 引き立てられるソビエト兵たち。タコつば陣地で頑強に抵抗した末 のことだろう。ソビエト軍では , いわゆる歩兵はすべて狙撃兵と呼ばれる。 、を、いい第を - 1 ・ 4. 第 : 、第第。 - な朝、ドは
・ダブ、を詩を第ン 激突した独・ソ両軍の戦車。向こう側ドイツのⅢ号突撃砲 A あるいは B 型が , 手前ソ連の T 34 / 76 戦車 A 型に体 当たりしたものと思われる。 T 34 初期型の主砲は伏角が 3 度で , 下方からくる相手にはどうしようもなかった。 攻撃は , 続いてイリメニ湖とペイプス湖を境 こでドイツ軍にインスタント発明の新兵器 に北に向けられた。目標はレニングラードであ が登場する。重野戦榴 ( りゅう ) 弾砲に対トーチ カ用ベトン榴弾を装瞋 ( てん ) 発射したのである。 レニングラードを南と南西で守る広い湿地帯 これは効いた。さしものソ連重戦車も , これで がある。そこを通る道は 2 本ある。第 4 機甲集 動きを止められてしまった。せつかくのソ連大 戦車部隊も , わすか 1 日 , オストロフに着くの 団のラインハルト軍団がその 1 本を , そして , が遅れたためにこの被害である。 マンシュタイン機甲軍団が他の 1 本を進撃する 2 日後の 7 月 7 日 , この日も戦車戦が展開さ 予定になっていた れている。場所はプスコフ前面である。ヴェス 1941 年 7 月 10 日 , 両機甲師団は戦線全面で作 トホーフェン戦隊の先鋒として , 第 1 機甲連隊 戦を開始した。この作戦は S S の「ドクロ」師団 がソ連戦車と対戦している。結果はドイツ軍の も一緒になり , スターリンラインを突破してい こでは , 衝突した両軍の戦車 る。途中 , 各所で反撃に遭いながらも , ポルホ 勝利だったが , の中から人が飛びだし , キャタピラーの傍につ フ , ノブゴロドを通過し , チュードウォ付近で , いている斧 ( おの ) でわたりあうという , 珍しい レニングラードとモスクワを斜めに結ぶ道を封 一幕もあった。 鎖することになった。 第 1 , 第 6 機甲師団を先頭に , 第 36 機械化歩 ソ連軍の誘い 兵師団を後方にした第 41 機甲軍団は , ルガを通 ヴェストホーフェン戦隊がプスコフの飛行場 る街道に配置された。しかし , 思いがけなくソ を奪取し , 第 6 機甲師団もスターリンラインを 連軍の抵抗は弱かった。むしろ退却しているの 突破してやって来た。結局 , ペイプス湖南方の だ。北方での戦いをあきらめたのだろうか , と ソ連防衛線は切断され , ソ連軍がバルト地区を ドイツ軍はいぶかしがった。 脱出する南の道はふさがれた。レニングラード ともかく , 前進を始めると , ます , ラインハ ルト機甲軍団の前進がはかばかしくない。ソ連 攻撃のスターティング・ポイントができたとい 軍が作った巧みな防衛陣に誘い込まれたのであ うことになる。 45
もはや , どうにもならなくなってしまったので ある。 それでもパウルスは , ほとんど第 6 軍単独で 突破口を開き , ドン川渡河を成功させて , 8 月 下旬にはスターリングラード近郊へとせまった。 8 月 23 日から 24 日にかけての猛攻撃を足がかり として , 9 月初めにはパウルスとホトの部隊が 手を結び , スターリングラードはこのドイツの 2 軍によって完全に包囲された。 ングラードは , 絶え間ない砲爆撃にも容易には 破壊されず , かえって , 半ば崩れかけた建物の 群れが , ドイツ軍にゲリラ戦闘を余儀なくした。 続々と侵入を開始したドイツ軍部隊に対して , ソビエト側の抵抗は激しく , 絶対死守を叫ぶ新 任のソビエト第 62 軍司令官チュイコフ中将は , 手勢を集めて , 市街からボルガ、川河岸へ突破さ れるのを必死に防いでいた。 政治委員フルシチョフの指導によって , 市民 は人民防衛軍を組織し , 少年たちも銃をとって 戦った。街角という角がすべて戦場となり , 家 という家がすべて防御陣地となっていた。銃砲 弾の飛び交うなかで , 懸命に製造され続けた戦 車は , 砲塔の代わりに短機関銃を手にした工員 を乗せてトラクターエ場から送り出され , 数 m と離れていない最前線にと向かった。 わすか 1 m を争奪するために日夜くりかえさ れる血みどろの戦いのため , パウルスの第 6 軍 は多大な死傷者を出し , 将兵は疲れ果てて消耗 する一方となった。 これに反してチュイコフの部隊は全滅寸前に まで追いこまれたが , ポルガ川を小舟で渡り , 激烈な市街戦 スターリングラード郊外は大激戦の修羅 ( し ゆら ) 場と化した。 9 月 8 日には , 北方から救 援を試みたソビエト第 4 機甲軍の 350 台の戦車 のうち 1 / 3 が撃破されるほどで , ドイツ軍の各 師団の出血も日に日に増大していた。 ドイツ第 8 航空軍団の反復爆撃が連日行われ , そうこうするうちに 9 月 14 日 , ついに第 24 機甲 師団の先頭部隊が市街地へ突入し , 中心部に進 出してスターリングラード中央駅を占拠した。 しかし , 米国の最新技術を導入して 20 年計画 で建設されたソビエト随一の近代都市スターリ スターリングラードをめぐる攻防ドン方面軍 、、冬の嵐作戦 , , の挫折 南西方面軍 てバツーチン ロゴゾプスキー / スターリン グラード 第 6 軍 オストロフ ( パウルス ) 12 月 22 日 : 大兵力をもって戦線突破。 カラチ 夕ングド方面軍 イイレメン言 ) 、 甲 師 第 57 機甲軍団 ホ ト集団 12 月 22 日 : スターリングラードへ 約 50 と迫るが , 中断。 第 6 機甲師団 ー甲師団 ド 12 月 12 日の戦線 ドン軍集団 ( マンシュタイン )