「そのようだな」 と言って、小刻みに呼吸した。 そのやり取りを最後に二人は喋ることもできず、ただ乱れた呼吸を整えていた。その間、 二人には、″完全に鬼から逃げ切った〃という安心感があった。しかし : 多少落ち着きを取り戻した翼は、俯いたまま腰に手を当て、前を向くと、何かが視界に飛 び込んできた。目を細めて確認する。その瞬間、背筋が凍りつき、手にはじっとりと汗がに じんできた。恐怖を必死に抑えつけるように翼は拳をギュッと握った。 洋は翼のおかしな様子に気づき、 「どうした ? 」 と翼の顔を見上げる。 翼は引きつった顔のまま、前方を見据えている。その先を追うように洋は息を止めて、恐 る恐る前方へと目を向けた。 二人の目にはキョロキョロと〃獲物〃を捜している二人の鬼が映っていた。翼と洋は鬼た ちに目を奪われ、逃げることもできなかった。どうか、どうか気づかないようにと祈るだけ 」っ ? 」 0 しかし : : : 鬼たちはピタリと足を止めた。翼たちに照準を合わせている。遠い距離を隔て
鬼の特徴や身なり全てが翼の目には焼き付いている。翼はこれまで捕まった時の処分は王 様の単なる脅しに違いないと思っていたし、そう思いたかった。だが、鬼の姿を目の当たり にし、更に追いかけられてからは、王様の言葉はすべて本気だったと、思わずにはいられな かった。走っている時は逃げることだけに集中していたために、意外にも布さは感じなかっ た。たが、こうして足を止め、落ち着いてみると、恐怖という二文字が翼の頭の中を駆け巡 っていた。 「始まってる。明らかにこれは始まってるんだ」 言葉が震え、握り締めている拳がジワジワと汗ばんでくる。 不安と恐怖が入り交じる中、翼は思い出したかのように、腕時計を確認した。 「あと二十分か・・・・ : 」 今夜は何となく時間が経つのが遅いなと感じた。昨日と今日では大違いである。昨日はビ クビクしながらも恭子と過ごすことができたために、時間も早く感じられたのだろう。しか こ っ し、今日は違う。仲間との出会いもなければ、安息もない。 さらに追いかけられた恐怖で時 間の感じ方も違うのだろう。 追 とにかく、とにかくだ、と強引にでも自分の気持ちを落ち着かせる。もう二十分もすれば % 今日の鬼ごっこは終了する。それまでは慎重に行動するしかない。
「しかしだな : と全てを言う前に 「心配しないで下さい : : : 大丈夫ですから」 これ以上言っても無駄だと判断し、 「そうか・・ : : 分かった」 と言って、ゆっくりと走り始めた翼の様子を眺めていた。翼の走る姿を見るのはもしかす : と心のどこかで感じていた。 るとこれが最後かも : 翼は大声で叫びながら走った。嫌なことを振り払うかのように全力でがむしやらに走った。 だからといって恐怖や不安は消えなかったが、それでも翼はただ、走り続けた : 横浜市中区。町なかとは一線を画した住宅街にある一戸建てが翼の自宅だった。母と妹と 別れた場所である。あれから十四年経ったが、変わったことといえば周りの風景ぐらいであ ひときわ ろう。遠く離れたところに巨大な遊園地ができ、レトロ風に作られた大きな観覧車が一際目 立った。夜景が綺麗で恋人たちのデートスポットでもある。だが、その町全体が鬼ごっこの 四準備で慌ただしい。 十 町に設置されている巨大なスクリーンで〃リアル鬼ごっこ〃が大きく取り上げられており、 王国中の佐藤さんが不安と恐怖に見舞われる中、翼は自宅へ帰った。午後六時半を回った頃
国の佐藤さんを恐怖のどん底に追い込んでいくのである。 じいは限られた時間の中で必死に努力し、二日後の午後一時には全ての内容とルールをマ スコミを通じて布告した。国民はその内容に騒然となった。全国に号外も出回り、それを手 にした者は、佐藤さんばかりか誰もが改めて驚き呆然とし、全ての佐藤さんは恐怖に見舞わ れた。マスコミは全て緊急特番を組んだ。 『またも ! またも王様が″ある〃計画を実行しようとしております ! 』 そんな今回の計画に対し、キャスターは、 『リアル鬼ごっこ』 と称した。聞こえまゝゝ ) 。しし力もしれないが、実際やろうとしていることは凄まじく、残酷か っ冷酷極まりなかった。 しかし、前代未聞の提案をした″馬鹿王〃のいる宮殿の周りには、誰一人として押し掛け る者はいなかった。数百名の衛兵が厳重に目を光らせていることもあるが、抗議に行ったと 提ころで所詮無駄だと分かっていたからだ。宮殿外では嵐のような騒ぎだったが、宮殿の敷地 っ内では時折、鳥の鳴き声が聞こえるだけで、いつもと変わらぬ静けさであった。 そして、鬼ごっこの実行が決断されたその時から、全国の佐藤さんは〃リアル鬼ごっこみ を避けることは許されず、いやでもこの現実を受け入れるしかなかった。王様の命令どおり
124 それは住所だけで、行き方などはさつばり分からない。駅員が丁寧に行き方を教えてくれた。 乗り換えが必要らしいか、ここから淀川区は距離的にそう遠くないようだ。 行き方が分かればぐずぐずしている暇はない。時計の針は十時を回っているのだ。十一時 になればいつものように全ての乗り物の運行がストップする。その前にどうしても目的地だ けには着いておきたかった。 乗り換えてから何分が経っただろうか。駅員の話では、もうじき目的の駅に着くはずだが じゅ、っそう 『次は十三、十三でございます』 ようやく聞こえた駅名に翼はひとまず安心した。 駅の改札口を出ると更に緊張感が高まる。自然に体が引き締まった。すぐに気がついたこ とが一つあった。それは車が走っていなかったこと。慌てて腕時計を確認すると、あと二分 ほどで恐怖の鬼ごっこが始まる時間だった。それにしても本当に王国中の人間全てがル 1 ル を守っているなんて凄いな、と思わず翼は感心してしまった。車は一台も動いていないが、 時計の針だけは確実に進んでいた。 毎度のアナウンスが流れた。これも全国共通なんだ、と実感した。そして、アナウンスが 終了した後、恐怖のサイレンが大阪中に響き渡った。
87 追いかけっこ 上部の楽しそうな練習風景を目の当たりにして鼓動が高鳴り、彼らが無性に羨ましくて仕方 がなかった。俺も走りたい : : : 何も考えずにゴールだけを目指して。 翼の口からはため息だけが洩れていた。鬼ごっこのこと、母や愛のこと、どこにも姿の見 えない大介のこと。何もかもが嫌になってきた。何一つ希望の光が見えない。大事な友達も なくし、母や愛との再会も絶望的だ。それに一週間も逃げ切るなんて本当は無理なのではな いか ? 遅かれ早かれ捕まるならいっそのこと : 一瞬だけそんな考えがよぎったが、そ れだけは考えてはいけないと思い直した。自分で昨日、恭子に言ったじゃないか ! 言った 本人が死んでも いいなんて、何を考えているんだ俺は : : : しつかりしろ ! 信じろ ! 自分 を信じるんだ。心に強く言い聞かせたものの、やはりどこかでは弱気になっているのだった。 気を紛らわすために別のことを考えてもみたが無駄だった。今は母や愛、それに恐怖の鬼ご っこに勝るものは何一つなかった。 金網に両手をかけたままポーツと突っ立っていた翼は、なおもその場所から動こうとはせ ず、グラウンドを見つめ続けていた : 全国の佐藤さんに刻一刻と迫りくる恐怖の時間。生きている限り、佐藤さんたちにはその 時が必ず訪れる。そして、今日もまた、その時間が近づいていた。今日は何人の佐藤さんが 犠牲になるのだろうか :
恭子はクルリと翼に背を向けて、言った。 「でも、本当の恐怖はこれから : : : 何事もなく終了するのは今日だけかもしれない」 と言って、再び翼に向き直った。 「これはそんなに甘くない」 恭子のその言葉は、翼の全身を貫いた。 「とにかく、同じところにいるのは危険よ。そろそろ私はこの場所から移ろうと思うんだけ 「そ、そうだな : いつまでもこの場所にいるわけにもいかないな : と言って翼は名残惜しそうに顔をしかめ、 「それじゃ、ここでお別れだね」 と言った。恭子は辛そうに頷き、 「翼さん、今日はありがとう。何だか生きる勇気がわきました。ほんの少しの間だったけど、 あなたのことは一生忘れません」 と感謝の言葉を口にした。その裏にはもう一つの意味が込められていそうな気がしてなら なかった。翼は頬を赤く染めて照れながら、 「別に、大したことは一言っていないよ」 と」
サイレンが鳴らされてからも翼の心境は全く変わらなかった。現在、鬼ごっこが始まって いるという実感もなければ、鬼を警戒するつもりもない。恐怖のかけらも感じていなかった。 彷徨い続ける子羊のように、翼はふらっきながら歩いていた。時々、愛のことが頭をかすめ ると、 そう寂しげに呟くだけだった。 「翼の心境が大きく変化したのは、開始の合図から、数分が経過した頃だった。どこを見渡 こ 鬼しても閑静な住宅が建ち並ぶ十字路にさしかかった時、今の翼でさえも奇妙な気配を感じた。 ス十字路の真ん中で足を止めた時、翼の耳にコッコッと小さな足音が左右同時に聞こえてきた。 ゆっくりと周囲を見回してみると、鬼が左右から翼の方に歩いて来る。その光景を目の当た りにしても翼は逃げ出そうとはしなかった。決して足がすくんだわけではない。左からも鬼 ラスト鬼ごっこ
270 のは、たった一つの思いだ。たった 〃何としてもャツに制裁を加えてやりたい〃 それからも翼はべッドに腰掛けたまま、写真の中の愛を見つめているだけだった。 「王様、もうじき最後の鬼ごっこが開始されますね」 じいは一一一口った。 「おう。何だかこっちまでワクワクするのう」 王の胸はときめいていた。 「長かったですね、王様」 じいはむにもないことを言って王様のご機嫌をとっていた。 「ふふふ、明日からが楽しみで仕方がないわ」 「王様、今の町の状況を確認してみましよう」 じいの合図で王様の前方に大画面のスクリーンが現れた。 『間もなく最後の″リアル鬼ごっこ〃が開始されようとしています。クリスマスを楽しく過 ごす人がいる一方で、残り少なくなった全国の佐藤さんたちは、これから恐怖の一時間を過 ごすのです ! 一体、何人の佐藤さんがこの最終日に逃げ切ることができるのでしよう
ている。 鬼がいるとすれば、一一人の足音を頼りに追いかけてくるに違いなかった。それを考えると、 姿が見えないだけに、嫌でも緊張感が増した。 目に見えない恐怖に、二人が足を速め出した時、愛が何かにつまずいて転んだ拍子に声を あげた。 「愛 ! 」 翼は慌てて愛の手を取り、 「大丈夫か ? 」 さすがの翼も焦り気味だった。鬼が今の声を聞きつけたのは間違いない。 「一つ、一つん」 頷くと、足音が翼と愛の耳に届いてきた。 「そ、それよりお兄ちゃん ! 」 去 過愛は声を震わせて怯えていた。 「よ、よしー・」 互 愛の手を握っていた翼はそのまま愛の体を起こすと、引っ張るようにして、再び走り始め 幻た。二人は手を握ったまま森の中を全力で駆け抜けた :