190 面識もなかったので、浅川は、ふたり連れであること、それと、自分の肉体的特徴などを 簡単に早津に知らせておいたのだ。 「失礼ですが、浅川さんでは : ・ 背後から声がかかった 「ええそうですが : 「大島通信部の早津です」 早津は傘を差し出しながら、人のよさそうな笑顔で迎えた。 「突然ですみません。お世話になります」 浅川は歩きながら竜司を紹介し、急いで早津の車に乗り込んだ。風の音がやかましく、 車の中でなければまともに話ができない。軽自動車にしては車内が広かった。浅川が助手 席、竜司が後部シートに座った。 「さっそく、山村敬さんのお宅に伺いますか ? 」 早津は両手をハンドルに乗せて聞いた。六十を越えても髪は豊富で、そのぶん白いもの が多い 「山村貞子の実家、もうわかったんですか ? 電話にて、山村貞子という人物について調査したい旨すでに話してあった。 「小さい町ですからねえ、差木地で山村といったら一軒しかないから、すぐにわかります よ。山村さんところ、普段漁師をしていて夏の間は民宿もやってるんですが、どうです ?
215 「よせよ。とにかく、ジタ・ハタしたってはじまらねえ」 いらだ 浅川の苛立ちに触れ、人のいい早津は台風による欠航に責任を感じ始めていた。という より、嵐の影響で苦しむ人間を間近に見て、すっかり同情してしまったというべきか。彼 は浅川の仕事がうまく進むことを祈ってやまない。もうすぐ、東京からファックスが届く ことになっていたが、待っという行為がよけい苛立ちに拍車をかけているように思え、そ の状況をどうにか変えようとした。 「調査のほう、はかどりましたか」 早津は浅川の気を落ち着けようと、穏やかに聞いた。 「ええ、まあ おさななじ 「すぐそこに山村志津子の幼馴染みが住んでますが、もし、よかったら、呼び出して話で も聞いてやったらどうです ? 源さん、この嵐で漁に出られず退屈してるはずだから、き っと喜びますよ 取材の対象を与えれば、ずいぶん気も紛れるんじゃないか、早津はそう考えたのだ。 グ「もう、七十近い爺さんで、満足な話が聞けるかどうかわかりませんが、ただ待つよりは ン よほどいいでしよう 「はあ・ : ・ : 」 早津は浅川の返事も待たず振り返り、「おおい、源さんとこに電話してすぐこっちに来 るように言ってくれや . と台所の妻に言いつけた。
189 熱海の埠頭よりも、ここ大島の桟橋に立った方が幾分風が強い。空を見上げれば西から 東へと雲の動きが速く、桟橋のコンクリートに砕ける波が足元を揺らしている。ひどい雨 ではなかったが、風に運ばれた雨滴が正面から浅川の顔をとらえていた。ふたりは傘もさ さず、両手をポケットにつつこみ猫背になって、海の上の桟橋を足早で歩いた。 レンタカーと書かれたプラカードや、民宿や旅館の旗などを持った島の人が観光客を迎 えていた。浅川は顔を上げ、待ち合わせの人間を捜した。熱海港から高速艇に乗る前、浅 川は本社に問い合わせて大島通信部の電話番号を聞き出し、早津という通信部員に調査の 協力を依頼したのだった。どの新聞社も大島に支局は置いてなく、その代わり地元の人間 を通信員として雇っている。通信員は島の出来事に常に目を光らせ、なにか変わった事件 やエ。ヒソードを発見した場合は、本社に連絡する義務があり、社の人間が島で取材する際 には、当然その協力もしなければならない。新聞社を退職後大島に住みついた早津の場 ーで、事件が起これば本社の記者を待 グ合、大島以南の伊豆七島全体が情報収集のテリトリ ンっまでもなく自分で記事を書いて送ることができた。早津自身、島に独自のネットワーク を持っており、従って、彼の協力が得られれば浅川の調査もス。ヒーディーに進むはずであ っこ 0 早津は浅川の申し出に快く応じ、桟橋まで迎えに出ることを電話で約束してくれた。一 ふと - っ
214 浅川は怒りをどこにぶつけていいかわからない。 : こんなところに来るんじゃなかった。毎ゃんでも毎やみきれない、しかし、どこま さかのぼ で遡って後悔すればいいのか、あんなビデオなど見るべきじゃなかった、大石智子と岩田 秀一の死に疑念をはさむべきじゃなかった。あんなところでタクシーを拾うんじゃなかっ た。ええい、クソったれー 「おい、落ち着けっていうのが、わからねえのかい ? 早津さんに文句言ったって仕方ね えだろうが」 妙に優しく竜司は浅川の腕を握った。「考えようによっちゃあよお、オマジナイの実行 はこの島でなければできないかもしれないだろ。な、そういう可能性だってある。例の四 人のガキどもがなぜオマジナイを実行しなかったか : : : 、大島まで来るゼニがなかったか ら : ・ : 、な、有り得るだろ。この嵐を恵みの風と考えてみろや。そうすりゃあ、気分も治 まる」 「それは、オマジナイを発見してからのことだろう ! 」 浅川は竜司の手を振り払った。いい年をした男がふたり、オマジナイオマジナイと騒い でいるのを見て、早津と妻のふみ子は顔を見合わせたが、浅川にはふたりが笑っているよ うに見えた。 「なにがおかしいんですか ? ふたりに詰め寄ろうとした浅川の手を、竜司は以前よりも強く引いた
213 れまでにわかったことだけでも浅川に知らせようと、伊豆大島通信部に向けてファックス を送り始めた。 その時、浅川と竜司は通信部のある早津の自宅にいた。 「おい、浅川 ! 落ち着けよー どな せわしなく動き回る浅川の背に、竜司が怒鳴りつけた。「焦ったってしようがねえだろ うが」 リ・、ール、北々東の風、・・ : : 暴風雨圏内、 ・ : 最大風速、中心付近の気圧、 強いうねり。浅川の感情をさか撫でするように、ラジオからは台風の情報が流れている。 御前崎の南海上約百五十キロの地点に位置する台風二十一号は、風速四十メートルを維 持しつつ北々東の方向に毎時一一十キロで進みつつあり、このままいけば今日の夕方には大 島の南沖合に達するはずであった。空と海の便が平常に戻るには、たぶん明日の木曜日か らではないか。それが、早津の予想だ。 グ「木曜だって ! 」 浅川の頭の中は煮えたぎっていた。 : オレのデッドラインは明日の夜十時なんだぜ、台風の野郎、さっさと通り過ぎるか、 熱帯低気圧になって消えちまえ ! 「この島の船と飛行機は一体いつになったら動くんですか ! 」
192 早津が言った。「ただ、山村貞子って女性はもうここにはいないと思いますがね。まあ、 詳しいことは山村敬さんに聞いてみて下さい。山村さんは確か、山村貞子の母の従兄弟に あたると聞いてます」 「山村貞子って女性、今何歳なんですかー 浅川が聞いた。竜司はさっきから後部シ ートにうずくまっているだけで、一言も口をき こうとしない。 「さあ、わたしは直接会ったことはないんですが : 、もし生きていれば、今頃は、四十 二、三歳ってとこじゃないでしようかね : もし生きていれば。なぜこんな表現を使うのだろうと、浅川はいぶかしんだ。ひょ っとして現在消息不明なのではないか、せつかく大島まで来ても消息を掴めぬまま、デッ ドエンドを迎えてしまう、そんな危惧がさっと頭をよぎったのだ。 そうこうしているうちに、車は「山村荘」という看板のある二階建ての家の前で泊まっ た。眼前に海を見渡せるなだらかな斜面にあり、晴れていれば素晴らしい風景が楽しめる に違いない。沖には三角形の島影がに まんやりと浮かんでいる。利島だった。 「天気がよければね、あの向こうに新島、式根島、それに神津島まで、見渡せるんです 早津は、はるか南の沖合を指差して自慢気に言った。 つか
191 : 、私んところでもいいですが、あ もし、よかったら、今晩はそこに泊めてもらったら : かえってご迷惑かと : : : 」 んまり狭くて汚いもんだからねえ 早津はそう言って笑った。彼は妻と二人暮らしであったが、言葉に嘘はなく、実際のと ころ家には客二人を泊めるスペースはなかった。浅川は後ろを振り返って竜司を見た。 「オレはそれで構わねえぜ」 早津は島の南端、差木地に向かって軽自動車をとばした。とばしたといっても、島を一 は出せない。すれ 周する大島循環都道は道幅もせまく、力しフも多いのであまりス。ヒード 違う車は圧倒的に軽が多かった。右手の視界が開け海が見えると、風の音が変わった。海 は空の色を映して暗く沈み、大きくうねりながら、波頭を白くキラめかせている。それが なかったら、空と海を分かっ線、あるいは海と陸を分かっ線までも不明確になっていただ ろう。じっと見ていると暗い気分になりそうだ。ラジオからは台風の情報が流れ、また一 つばき 段とあたりが暗くなった。字路を右に入るとすぐ椿のトンネルがあり、車はその内部に グ差しかかったのだ。長年の風雨に晒されて土を奪われたせいか、椿の幹の下からは曲がり ンくねった裸の根が幾本も顔を出し、からまり合っている。しかもその表面は雨に濡れてな まめかしく、浅川はふと巨大な怪物の腸の中を走り抜けているかのような感覚に陥ってし まう。 「差木地はこのすぐ先ですよ さら
232 浅川は不服そうな顔をしていた。 「なあ、少しは自分の頭で考えろや、おまえさん、ちょっと人に甘え過ぎだぜ。もし、オ レになにかあって、おまえ一人でオマジナイの謎を解くハメになったらどうする ? 」 そんなことは有り得ない。浅川が死に、竜司ひとりでオマジナイを解くことはあるかも しれない、しかし、その逆のパターンはない。浅川はその点にだけは確信を持っていた。 通信部に戻ると早津が言った。 「吉野って方から電話がありましたよ。外からなので、十分したらもう一度かけ直すって 言ってました」 浅川は電話の前に座り込み、いい知らせであることを祈った。ベルが鳴った。吉野から であった。 「さっきから何度も電話してるんだが : : : 」 吉野の声にはささやかな非難が含まれている。 「すみません、食事に出ていてー 「それでと、 : ファックス届いたかい 吉野の口調がわずかに変わった。非難の響きが消え、その代わりに優しさが含まれる。 浅川はいやな予感がした。 「ええ、おかげでとても参考になりました」 浅川はそこで受話器を持つ手を左から右に代えた。
216 うれ 早津の言った通り、源次は嬉しそうに話した。山村志津子のことを喋るのが楽しくてし かたがないのだ。源次は志津子よりも三つ年上で現在六十八歳。志津子は幼馴染みでもあ り初恋の人でもあった。人に話すことによって、記憶はよりはっきりするのだろうか、そ れとも聞き手がいるという状態が刺激となって、思い出は容易に引き出されてしまうのだ ろうか。源次にとって、志津子のことを語るのは、自分の青春時代を語ると同じことであ っこ 0 とりとめもなく、時々目に涙を浮かべながら話す志津子とのエピソードから、浅川と竜 司は彼女の一面を知ることができた。しかし、あまり信用すべきでないことは承知してい る。思い出は常に美化されるし、なにしろ、もう四十年以上も昔の話だ。他の女とごっち やになっている可能性もなくはない。い や、そんなことは有り得ないか、初恋の女性とは 男にとって特別なもの、他の女と間違えることはないかもしれない。 源次は語り口がうまいとはいえず、まわりくどい表現が多かったので、浅川はさすがに うんざりしてきた。ところが、「シズちゃんが、変わっちまったのは、あのせいなんだよ なあ、行者様の石像を、海ん中から拾い上げたのがよお : 、満月の夜だったよなあ」と がぜん そんなことを言い始めたことにより、浅川と竜司の興味は俄然引きつけられた。 , 彼の話に よると、山村貞子の母である志津子に不思議な力が宿るようになったことと、満月の海と は深く係わっていた。そして、そのことが起こった晩、源次はすぐ彼女の傍らで舟を漕い しゃべ
であるのか。ヒンときた。浅川が両手で差し出して、「貞子さんの遺骨ですーと言うと、彼 四はしばらくその包みを眺め、懐かしそうに目を細め、やがてつかっかと歩み寄って深々と 頭を下げて受け取ったのだ。「遠いところ、わざわざどうもご苦労様です , と言いながら 浅川は拍子抜けした。こうも簡単に受け取ってもらえるとは思ってもいなかった。 山村敬は浅川の疑問を読み取り、確信に満ちた声で言った。 「貞子に間違いございません」 三歳までと、九歳から十八歳までの期間、山村貞子は山村荘で過ごしていゑ今年六十 一歳の山村敬にとって、貞子は一体どんな存在だったのか。遺骨を受け取る時の表情から 推して、かなりの愛情を注いだらしいことは想像できる。彼は遺骨が山村貞子のものと確 かめもしなかった。おそらく、その必要もなく、彼には黒い風呂敷包みの中身が山村貞子 と直感できたのだ。初めて包みを見た時の目の輝きが、それを物語っている。やはりなに かしらの「カが働いたに違いない。 用がすむと、浅川は一刻も早く山村貞子のもとから逃げ出そうと、「飛行機の時間に間 に合わなくなりますからーと嘘をついて早々に退散した。家族の気が変わって、やはり証 拠がない限り遺骨は受け取れないなどと言い出されたら元も子もないからだ。第一、根掘 り葉掘り山村貞子のことを聞かれた場合、どう答えていいかわからない。人に語るには、 まだまだ長い時間が必要であった。特に今は、血縁の者に話す心境ではなかった。 浅川は先日のお礼かたがた通信部の早津のところに寄り、大島温泉ホテルへと向かった。