懸架 - みる会図書館


検索対象: 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262
11件見つかりました。

1. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

た。その 1 号機は 1945 年 2 月 27 日に 初飛行したが , 高度 13 , 000m まで 4 分半で上昇することができたとい 次の Me262C-2b は , BM 、 V718 液 体ロケットを BMW003A ターボジェ ットのうしろに取付けた BMW003R を , 主翼下面に 1 基ずっ懸架した。 戦後アメリカでテスト飛行中の Me262A-1a これは , 外見では双発であったが実 際には“ 4 発”で , ロケットを吹かす これなどは , 20 ~ 30 年後になって Me262D は機首に SG500 “ャークト ことによって 600kg ずつ推力がふえ 戦術戦闘機として使っても立派に通 ファウスト”という 50mm 自動砲 12 用する機体で , 当時のドイツのジェ 門をたばにしたものを , 前上方に向 た。 ット機設計技術が , いかに進歩して 武装と機体は C-1a とはほとんど けて固定していた。敵爆撃機の下面 同じで , ふたつのエンジンを縦に並 いたかを示す例のひとつである。 に入って , " 編隊飛行”になった瞬間 設計といえば , ほかにもインター べただけに空気低抗も少なく , 実用 に発射すると , 弾丸は無反動式に上 ツエプター ( 迎撃機 ) 工およびⅢと 化すれば大変な性能が期待できた。 へ向けて挑び出し , 12 発で 12 機撃墜 いう改造型の計画もあった。インタ も夢ではなかっした。しかし , 実機 おそらく高空では , 一挙に音速に迫 ーツエプター I は , Me262A の尾端 は完成しなかった。 るスピードを出したであろうし , 上 に HWKRII/212 ロケットエンジン Me262E は 5cm の R4M ロケット 昇力なども , 当時のジェット機の水 を収め , その燃料 ( T 物質 ) を 395Z 弾で武装した怪物であった。機首に 準さえ遙かに抜いていたであろう。 の増槽に入れて胴体下面に懸架する 24 発 , 主翼下面に 12 発ずっ , 合計 48 しかし , このエンジンは , 構想が ことになっていた。 発をコンテナに入れて持っことにな 進みすぎていて , 機構が追い付かな また , インターツエプターⅢはタ っていた。この考えは 10 年後に , ア かった。工ンジンの運転は , 燃料の ーポジェットを外して . 上記のロケ メリカのロッキード F-94C で実用 供給をパイロットが慎重に機敏に処 ットエンジンを翼下に懸架したロケ 化された。 置しなければならなかったが , これ ット機で , 有名な Me163 ロケット戦 Me262E のひとっとして , 機首に だけでも空中戦ができなくなるので 闘機を大型化したような構想であっ 50mm の MK114 機関砲を長く突き出 はないかと思われるほどであった。 た。これならば , 滞空時間の不足や したもの , つまり“空飛ぶ高射砲” それに故障も多く , 調子もむらで , ェンジン故障の危険に悩まされてい ともいうべきものも考えられた。し べンチテストの最終段階で遂にエン た Me163 の欠点をなくすことができ かし , Me262A-1a を改造して 3 機 ジンが爆発してしまった。それでも 連合軍爆撃機にさらに痛撃を加える が試作された結果 , 不採用となった。 Me262C-2b は , 戦争が終わるまで ことができたはずであるが , 大戦末 に 1 回だけ飛行するところにこぎつ 机上プランに終わった 期のドイツの実情では実用機を揃え けていた。 その他の型 ることは不可能だったようである。 C-2b の不調を見越して Me262C メッサーンユミット社の計画では -3 は , ワルター・ロケット 1 基を また , 完成していれば別の名称と さらに操縦席をずっと機首寄りに移 胴体下に懸架し , 必要に応じて投下 なっていたであろうが , 胴体や部品 をできるだけ共用化した夜間戦闘機 動した型も検討されていた。 できるように考えられていた。そし の計画があった。これは 45 度の後退 アオクレーラー ( 偵察機 ) 工 a は , て , そのための燃料は機首下面近く 角を持つ高速機で , 高度 6 , 0 圓 m で この新しいアレンジの胴体の尾部 に懸架して , パイプでロケットに送 時速 1 , 000km は出せるというもの。 に , RB75 / 30 カメラを下方向けに取 られるようになっていた。つまり , HeS011 ターポジェットを 1 基ずつ 付けたもので , 高々度からの戦術偵 普通の Me262A を改造しても容易に 翼の付根のなかに収めていた。 察に活躍することを狙っていた。 実用化できるように考えられていた このインターツエプターの計画を このことは , 戦後になってアメリ もので , なかなか卓越したアイデア さらに発展させたものにシュネルポ 力のノースアメリカン社の技師たち といえる。 ムバー ( 攻撃機 ) があった。これは , に注目され , 同社がその後に F ー 86 メッサーンユミットはまた , なん 胴体下面を膨らまして爆弾倉を新設 セイバー戦闘機を開発するのに大き とかして敵爆撃機の全滅を計ろうと し , BT700 爆弾などの大型爆弾を積 な参考になったといわれる。 武装の強化にも懸命にとり組んだ。 15

2. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

メッサーンユミット社が , これを Bf 109 戦闘機に採用して充分に経験 ずみのもので , プロペラ式戦闘機と 戦うためにも非常に有効であった。 そして , 着陸のときは後縁のフラッ プを連動した。このフラップは隙間 下げ式で , 油圧で希望の位置にセッ トできた。 胴体はおむすび形の断面をもっ特 異な形態である。ことにジェット機 というと , 従来のプロペラ機とは全 く別の技術が必要と考えられた時代 に , このような思いきった方法をと ったのは注目される。 その理由は明らかでないが , ひと つにはパイロットの視界を良くする ためであったことは間違いない。ま た , 胴体下面を平らにすることによ って , 主以外にここからも揚力が 発生し , 性能が向上していることも 確かである。 胴体には , 機首に強力な武装 , 中 央部に燃料を沢山積まなければなら なかっただろうから , 断面積はどう しても大きくなる。それでいて高速 機であるから , 機首と機尾は , スマ ートに仕上げなければ空気抵抗がふ えて困る。そんなことを考え合わせ て , メッサーンユミットの技術者た ちがまとめ上げたのが , このおむす び形の偏平な胴体のようである。 垂直尾翼は , おむすび形の先の尖 った特徴ある形で , 水平尾翼を取付 けている部分から下は , 尾部と一体 に組立てられている。 水平尾翼は , 昇降舵とは別に , 水 平安定板の角度を飛行中に調整でき た。これは , 直接には昇降舵だけで は機体の幅広い速度域に対応するの に力不足なので , 苦心のすえに採用 されたものであるが , 計らずも 10 年 後のジェット戦闘機が , 当りまえの ように採用したフライング・テール の先駆となった。 ユモ 004 工ンジン 工ンジンは , ユンカース・ユモ 004 ターポジェットが主翼の下に 1 基ずっ懸架されていた。この懸架方 式は , 同じドイツのハインケル 280 やイギリスのミーティアとも同じゃ り方で , 双発ジェット戦闘機の標準 的なもののひとつである。 工ンジンの点検や整備がやり易い のは当然だし , 別のエンジンを付け ることにも大きな問題がない。ま た , 設計のときも空気力学上の複雑 な問題をかかえなくてもすむ。 ただ , 片発飛行のときは同じ双発 でも , 胴体のなかやまわりに取付け たものよりトリムの修正がむずかし いし , 空気抵抗がすこし大きくなる 欠点はあったが , なにしろ , 当時の Me262 の相手は , 時速 600 km そこ そこのプロペラ付き戦闘機たちであ る。難かしい問題に取組んで時間を 費すより , 安全で確実な方法で早く 実用化を計ったメッサーンユミット のやり方は , 正しかったようであ る。 ただ , ュモ 004 ターポジェット は , なにしろ世界最初の実用ターポ ジェットだったためもあり , 燃料を 沢山食ったし , コンプレッサーやタ ービンのプレードがとんだりする事 故は年中だった。それに , オーパー ホールまでの運転時間は短くて整備 に手間がかかったし , 運転も , ェン ジンが過熱や過回転しないようにす るには , パイロットが相当注意しな ければならなかった。 コンプレッサーは 8 段で , これで 空気を大気圧の 8 倍まで圧縮し , そ のうしろの 6 個の燃焼室で燃料を噴 射していた。タービンは 1 段で , 今 日から見れば極めて初歩的なエンジ ンであるが , イギリスやアメリカが コンプレッサーを遠心式のものにし たのに対して , ドイツではこのユン カースも BMW も揃って軸流式のも のを採用していた。遠心式のほうが 作るのは難かしくないが , 軸流式の ほうが前面々積を小さくできるので 高速機に適している。 武装 武装は , 30mm のラインメタル・ ポルジーク製 MK. 108 機関砲 4 門が 中心である。 この 30mm 機関砲は , すでにドイ ツがプロペラ付き戦闘機でも , 一部 で実用化していた強力なもので , 弾 丸の装填は電気真空式 , 発射は電気 式。上の 2 門は弾丸を 100 発 , 下の 2 門は 80 発ずっ持ち , 500 ャード ( 約 450 m) 先で 1 点を結ぶように 調整されていた。機関砲の点検・整 備とマガジンの交換は , 上部のヒン ジ付きパネルを上へ開いてできた。 薬きようの放出孔が機首下面の両側 に 2 個ずつ開いていた。 この 30mm 機関砲の威力は大した もので , ジャイロを使った E Z 42 自 動照準器と組合わせて使うと一撃で 敵の重爆撃機を紛砕することができ た。なにしろ , 連合軍の火器は 12.7 mm がほとんどである。イギリス機 が一部で 20mm 機関砲を使っていた が , これとて 30mm と比べると , 射 程も破壊力も段違いである。だか ら , いちど目標を捕えた Me262 は , 敵の射程圏外から高速で正確な弾丸 を発射できた。これは空気銃とライ フル銃ぐらいのカの差があった。 これに加えて威力を発揮したのは R4M というロケット弾である。主 濃の下に 12 個ずっ , たばねて懸架で き , 標準のレビ照準器で狙いを定 め , 800m 離れて発射すると , 敵の 大型爆撃機を易々と撃墜できた。こ れを用いたのは主に第 7 戦闘大隊と 第 44 戦闘中隊である。その他の部隊 はこれを用いようにも , 生産工場の RM 工場は , 月産 25 , 000 発を作りな がらも連合軍の執拗な警戒のため , 部隊配備になった Me 262 に取付け て飛ばすことが非常に困難になって いたのである。 そのほか , 爆撃機として用いるも のは , 機首下面の両側に爆弾を 2 発 懸架できた。

3. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

△ Me262V3 ( 言式作 3 号機 ) は , はじめてジェット・エンジ ンだけで飛んだ機体。ュモ 004 A ー 0 を両翼下に一基ずつ懸架 しているのは生産型と同じだが , 降着装置が尾輪式となっ ているのが異なっている。これは , 円 42 年 7 月田日 , 初飛 行にイえて給油中のシーンで , 工ンジンのインテークには ゴミ除けのスクリーンが取付けられている。 この V3 は , 8 月Ⅱ日に行なわれた 2 回目の飛行のとき , レクリンの実験 場で墜落して失われた。 マ Me262 V5 ( 試作 5 号機 ) は , はじめて前車輪をつけてい た。ただし , 前車輪は固定だった。写真は , 胴体の下にロ ケット離陸補助装置 ( JATO ) を試験的に 2 個つけてみたとこ ろ。なお , この V5 は円 43 年 6 月 26 日に初飛行した。

4. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

るためにポルジーク補助ロケットを 試しに使ってみた。 これに続いて実用試験用の Me262 A- 0 ( 0 は実用試験型を示す ) の 13 機が , 3 月から 4 月のあいだに作ら れた。 「爆撃機に改造せよ / 」 最初の量産型でもっとも多く作られた Me262A-1a 部隊の実用テストが終わると , 最 距離を飛ぶのにほば 2 倍を要する。 であった。 初の量産型 Me262A-1a が完成し つまり , ジェット機には航続距離の 1944 年夏 , 航空機の生産会議が開 た。これはンユワルべ (Schwalbe つ うえで最も不利な使いかたになる。 かれた席上 , ヒットラーは改めてミ ばめ ) と名付けられ , のちの戦闘爆 ルヒ将軍に , 爆弾を携行できる Me そのうえ , 爆弾を翼の下に懸架す 撃型のシュッルムフォーゲルとは区 ると , 最大速度は 190 から 200km/hr 262 が何機完成しているかただした。 別された。 も落ちて , ムスタングやサンダーポ 機体が命令に反して戦闘機として作 A- 1 a は , 機首に 30mm の MK108 ルトといったアメリカの戦闘機が追 られていることを知ったヒットラー 機関砲 4 門を積んでいた。携行弾数 い付けるようになった。 は , 烈火のごとく怒り , 全部の完成 は上の 2 門が 100 発 , 下の 2 門が 80 また , 爆撃のための照準器や弾架 機を爆弾が積めるように改造するほ 発ずつで , 工ンジンはユモ 004B ー の新設 , 機体の補強やテストのため か , 本機を戦闘機と呼ぶことを禁止 または B ー 2 , B ー 3 で , 無線機は , に貴重な時間が空費された。爆撃機 した。 ZVG 付き FuG16ZY と FuG25a のふ に直したため , 4 カ月も実戦参加が なぜ , ヒットラーがこれほどまで たつであった。 遅れたといわれる。しかも , これが に、爆撃、にこだわったかというと これに対し , Me262A-1a/UI (U まずいと判って迎撃機に改装するの 連合軍に報復の大反撃を加えたいか は大小改造型を示す ) は , 機首の武 にまた時間が空費された。 らであった。フランスへ上陸した連 装を 30mm の MK108 ( 各 66 発 ) と , 爆撃用に改造されたンユワルべは 合軍を , ョーロッパ大陸から押し戻 同じく 30mm の MK103 ( 各 72 発 ) 両 Me262A-2a シュッルムフォーゲル すことがドイツの存亡に最も重要な 機関砲のほか , 20mm の MK51 ( 各 (Sturmvogel 海つばめ ) と呼ばれ . ことと考えられ , 連合軍爆撃機から 146 発 ) 機関砲 2 門を追加して , 目標 機関砲はそのままにして , 500kg 爆 ドイツを守ることは , その次であっ に集中砲火をあびせられるようにな 弾 2 発か 1 トン爆弾 1 発を胴体の下 た。どちらの考えが正しかったかは っていた。 Me262A-Ia/U2 はこれ に懸架した。 議論があるところだが , 明らかに誤 を悪天候下でも使えるように FuG Me262A-2a/U1 は , A-2a の機首 っていたのは , Me262 を爆撃機に改 125 無線機を追加装備していた。 の武装から 30mm の MK108 機関砲 2 Me262A-1a/U3 は , 武装を全部 造したことだった。 門を外して , TSA 爆撃照準器をその 外して , 空になった機首に RB50 / 30 爆撃型の Me262A ー 2 スペースへ収めた。 写真機 2 個を垂直に積んだ写真偵察 Me262A-2a/U2 は機首を太くし シリーズ 機であった。戦闘爆撃機が攻撃した て透明風防を新設し , ここにロトフ 目標の戦果を , 確認するにも目標を Me262 はなんといってもジェット ェ 7 H 爆撃照準器と照準手を収めた 選ぶにも必要なため , 少数機が作ら 機 , それも初期のジェット機で , 燃 ものであるが , 1 機しか作られなか れたものである。 料を , 湯水のごとく消費した。当然 これに対して Me262A-Ib は , A つ 0 航続距離は短くなって , 本質的に爆 Me262A-3a は , 戦闘爆撃と迎撃 - 1 a の一部に 5 cm の R4M 空対空ロ 撃には不利である。これは , それ以 の両用を兼ねたもので , 風防と燃料 ケット弾 24 発を翼下に懸架できるよ 後に出てきたジェット機が , しばら タンクのまわりには厳重な防弾を施 うにしたもので , これは 1945 年に入 くはほんのわずかな例外を除いて全 って , ドイツの敗北が決定的になっ していた。 部戦闘機であったことからも判る。 たときに , 40 機ばかりが作られた。 Me262A-5a は , 機首に 30mm の しかも , 本機のような小型機を爆 Me262 の開発と生産は , 1944 年春 MK108 機関砲 2 門と RB50 / 30 垂直 撃に使うとなると , 勢い低空での地 に入って急ピッチで進みはじめたが 写真機を収め , 胴体下面には 250Z の 上攻撃という戦術的な使いかたにな これはヒットラーの命令とは無関係 ーうすると燃料消費量は同じ るが , 燃料タンク 2 個か , 50 タンク 1 個 15

5. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

108 機関砲 4 門に加えて , ンユレー 呼ばれる夜間迎撃の戦法で , 迎撃機 を懸架できるようにした写真偵察機 ゲ・ムージク洋という斜上方向けに はサーチライト部隊と無線連絡をと である。 遠隔操作式の MK108 機関砲 4 門を りながら敵機の後上方へ接近し , サ 複座の B シリーズ 風防のうしろのほうに付けていた。 ーチライトが照らし出す敵影 ( この レーダーや無線機は B-1a/U1 と とき敵はライトの光で目がくらんで Me262B ンリーズは複座型だっ ほとんど同じだったが , FuG350ZC 接近する迎撃機には気が付かない ) た。複座型はふたつの用途に分けら “ナクソス”無線機を追加していた。 を狙い撃ちするものである。 れ , ひとつは練習機 , もうひとつは しかし , 時すでに遅かった。連合 ほかのプロペラ戦闘機もこの戦法 夜間戦闘機で , まず練習機が実際上 軍は周囲からドイツをしめ上げ , 迎 を用いたが , Me262 は高速にものを の必要から作られた。 撃型 Me262 の活躍にもかかわらず , いわせて , 非常に大きな戦果を挙げ これは , ジェット機がプロペラ機 圧倒的な数の差のまえには , いかに たのであった。 に比べて操縦がしやすいというので Me262 が優秀でも駄目であった。 Me262 を夜間戦闘機とする計画は パイロットたちのあいだに , あたか Me262B-2a の原型は 1945 年 2 月に そのまえからあった。単座の Me262 も Me262 は事前の訓練がなくても , なって完成し , 飛行テストにまでこ の 1 機に , SN-2 、リヒテンンユタ 容易にプロペラ機から移行できると ぎ付けたがそれで終わりであった。 イン、レーダーを機首に付けたもの いう誤った考えが広まったのに対す また , センチメートル波を用いる がテストされ , レーダー付きの本格 る処置でもあった。 進歩したレーダー ( 今日のレーダー 的夜間戦闘機を作る自信はあった。 これが Me262B ー la で , 座席を増 と同じで , イギリスはすでにこれを そこで , まず Me262B-1a/U1 とい 設したため胴体燃料タンクの容量が 実用化ずみだった ) を , 太くした機 う夜間戦闘機が , Me262B-1a 練習 減ったのを補なう目的で , 250Z 増槽 首のレドームのなかに収めた型は , 機を改造して作られた。 2 個か 500Z 増槽 1 個を胴体下面に懸 計画のみに終わっている。これが完 機首には FuG218 レーダーのほか , 架できるようにしていた。武装は 30 成していれば , 戦後数年たって出て 必要な無線機類が装備された。その mm の MK108 機関砲 4 門のままで , きたイギリスのミーティア N. F. 5 と 改造 1 号機は墜落してパイロットは 必要とあれば何時でも戦闘機として 同級の性能を持っていただけに , さ 死んだが , 残る 2 機でテストが続行 使えるようになっていた。これは 15 そかし大活躍したことだろうと惜し された。テストには滞空時間を長く 機作られた。 まれる。それにつけても , 実用化ま するため、ダイヒゼルシュレッペ これとは別に , 単座機の 1 機を操 でに無駄に失われた日々を , 関係者 と呼ばれる補助タンクを曳航するこ 縦したワルター大尉は , 1945 年 2 月 は無念の涙で思い浮かべていたであ とも含まれていた。 にベルリン空襲に飛来したイギリス ろう。 さらに B ー la / UI が追加して作ら のモスキート爆撃機を , サーチライ 性能向上型と武装強化型 れることになっていたが , 戦争が終 トの協力を得て迎撃し , 大戦果をあ げた。これは、ウイデル・ザウ、と わるまでには完成しなかった。 ドイツの敗勢が刻一刻と迫ってき Me262B -2 と た 1944 年秋になると , ヒットラーも いうのは計画だけ ゲーリングも , 航空省も空軍も , メ だったが , 2 座と ッサーンユミット戦闘機に救いの望 3 座のふたつの型 みをかけはじめた。 繃 が考えられてい そこで生産には全力が挙げられ , た。 パイロットや器材の整備がいそがれ Me262B-2a は るいっぽう , メッサーシュミットは 本格的に夜間戦闘 さらに性能を向上した Me262C ンリ 機として作られた ーズの緊急開発に入った。 黜 もので , 胴体を主 翼のまえとうしろ これはロケット・プースターを付 で延長して 30cm けた型で , その最初の型の Me262C 長くしていた。 -la は , ワルター H rK109 ー 509A のため , 燃料容量 液体ロケットモーターを尾端に新設 し , その燃料は T 物質と C 物質を別 は 973Z も増加し , 別にして胴体内のタンクに入れてい 火器も機首の MK ( 上 ) Me262A ー 1 戦闘機を改造した Me262A ー 2 戦闘爆撃機。 ( 中 ) Me262 I a 爆撃機 , 機首が改造され胴体前部下面に爆弾を シュネノレポム′く一 懸吊する。図は空雷をつけたところ。 ( 下 ) Me262 ンユネルポムパーⅡ。 la を改造した型で . 体を太くして前方下部に爆弾倉を設けた。 ・ : ヨ諸癧市潯癧 :

6. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

Me262 各型の仕様 Me262V2 Me262B- la Me262A-1a 式 員 フこ 田 全 長 全 高 (m2) 翼面積 (kg) 空虚重量 (kg) 全備重量 動 機 発 名 称 型 式 (kg) 基 数 性 能 760 最大速度 (km/hr) 6 , 000 (m) く於高度 > 1 , 100 海面上昇率 (m/min) 10 , 500 実用上昇限度 (m) 900 航続距離 (km) 30mm x 4 武 よび K. G. 54 の 3 大隊も同型機を揃 3 月からはヒットラーの命令で , ド めるようにしたもので , 敵の頑強な えて戦場に出撃した。 イツの生産の第 1 優先権が Me262 に 戦術目標を一撃で破壊するのが狙い 与えられた。その指揮には国務大臣 爆撃には向かないと判って迎撃機 であった。 のジュペール自身があたり , 各工場 に直されてからは , 特別の“コマン 全力生産もむなしく には直轄の士官を派遣した。しかし ド部隊”がオスナプリュック近郊の 生産のほうは 1944 年の暮に入って ときすでに遅く Me262 は 1 , 433 機作 アハマーを基地とし , 名戦闘機パイ から , 全力をあげて行なわれた。 ロット , ノボトニー少佐の指揮で , 主 られたところで敗戦の日を迎えた。 メッサーンユミット社は , プロペ にアメリカの昼間爆撃を迎撃した。 なお , 爆撃や工場分散などのため ラ式の双発戦闘機や爆撃機の生産を この部隊は間もなく J. G. 7 戦闘大隊 に破壊されたものはメッサーンユ 中止したほか , 新エ場も建設して , ット社の推定では 497 機ある。つま となり敵爆撃機に痛撃をあびせた。 Me262 に全力投球が開始された。 り , 全生産のほほ 4 分の 1 が連合軍 大戦末期には , Me262 はガーラン 1944 年中には早くも 568 機が完成 の爆撃で失われたわけで , その激烈 ド大将が直接指揮し , J. V. 44 戦闘 し , 45 年には 1 月だけで 200 機以上 さも想像できるというものである。 中隊に所属していた。 が作られた。これには連合軍も驚い 1945 年 4 月 , ドイツ第 3 帝国の命 ノルマンディの緒戦 た。そのころには Me262 の工場と覚 運が数日に迫ったとき , 5cm の R4 しいものはもちろん , それに関係す Me262 の実戦参加は , ノルマンデ M ロケット弾 24 発を懸架した Me262 る交通機関から軍の施設までが徹底 ィ上陸作戦の最中であった。 の編隊は , B ー 17 の大編隊をエスト 的に爆撃の対象となり , 1 機も迎撃 K. G. 51 爆撃大隊は , 戦闘爆撃型 ファリア上空で捕え , 敵防御砲火の に舞い上らせまいとしたのである。 の Me262 を駆って敵地上軍を攻撃し 射程外からロケット弾を斉射して , ドイツも必死だった。全力をあげ たが , 戦果についてはよく判ってい B -17 多数を一挙に撃墜破し , 敵を て Me262 の生産が行なわれ , 1945 年 ない。続いて , K. G. 6 , K. G. 27 お 大混乱に陥しいれたという。 型乗諸 1 2 1 12. 51 10.65 3.83 21.72 12.51 10.60 3.83 21.72 4 , 412 6 , 388 12.51 10. 60 約 3.50 21. 72 ュモ 109 ー 004B -1 軸流ターポジェット 900 2 ュモ 109 ー 004B ー 1 軸流ターポジェット 900 2 BMW 003V 軸流ターポジェット 450 2 870 6 , 000 1 , 200 11 , 400 1 , 020 30mmx4 680 6 , 000 900 9 , 000 16

7. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

シュッルムフォーゲル″ ( 海つばめ ) と呼ばれた爆 になっていた。しかし , このため速 . 度が 230 km/hr も 撃機型の Me262A - 2a 。胴体の下に 500kg 爆弾 2 発 ( 機 低下し , これでは爆弾を投下する前にアメリカの戦 体によってはし 000 kg 爆弾ー発 ) を , 懸吊できるよう 闘機に撃墜されるおそれが多分にあった。 35

8. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

△前ページと同じ , 写真偵察型の Me262A ー / U3 を改 造した A ーを後方から見たもの。特徴あるオムスビ型 の胴体 , 工ンジンの懸吊部分やフラップなどの構造が よくわかる。 ▽戦後 , フランスが保有していた Me262A ーの一機。 消したドイツのマークの上に胴体だけフランスの国籍マ ークが塗られツ 7 ″という番号が新しく描かれている。 フラップをいつばい下げ , 方向舵も昇降舵も動いている。 25

9. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

Me262 の誕生から終えんまで 田原国雄 メッサーンユミット Me262 の名 は , 世界の航空史のうえに不滅であ る。 それは , 世界最初の実用ジェット 機として登場したばかりか , 絶望的 と思えた大戦末期のドイツの航空機 における優位を , 一時的ではあるが 取戻した。もし , あと 1 年早く出現 していたら ( その可能性は充分あっ た ) , 第 2 次大戦の勝敗もところを変 えていたかもしれなかったと , 連合 国を驚かしたのである。 構想は第 2 次大戦前に Me262 が活躍しはじめたのは , 第 2 次大戦末期の 1944 年秋からであっ たが , その構想は意外と早い。 1938 年秋といえば , まだヨーロッ パに大戦が開始されていないときで あったが , ドイツではすでにハイン ケル社が独自にターポジェット機を 開発し実用化のめどが付いていた。 これは極秘にされ , ドイツ航空省 はメッサーシュミット社に対して , ユンカースと BMW の両社で開発さ れていた“計画 1065 ”という軸流タ ーポジェットを装備する機体の設計 を依頼した。 このころ , メッサーシュミット社 は Bf109 戦闘機の量産を急ピッチで すすめ , ドイツ最大の航空機メーカ ーにのし上っていたが , 航空省の信 頼の厚いメッサーシュミット社は , 技術で先行していたハインケル社を 差しおいて , 新型実用機の開発を命 じられたのだった。 1939 年 6 月には設計案がまとまり 40 年 3 月 1 日には航空省のモックア ップ審査が終了した。 ここで 3 機の試作機が発注になっ た。装備が指定されたエンジンは , BMW P. 3302 ターポジェットで , これがのちに BM 、 V109 ー 003A とし て世界を驚がくさせる存在になる。 このエンジンは ,. 計画での推力は 680kg を出し , 1940 年夏には試作品 が機体に装備できる予定であった が , ペンチテストの結果はわずかに 258kg の推力しか出ず , 新型戦闘 機の動力としては不充分と判定され た。 いっぽう , ユンカースのほうは , ュモ 109 ー 004 ターポジェットの開発 が遅れていて , 1940 年 11 月にならな ければ試運転もできない有様であっ た。これは , 大戦に勝っためには , ターポジェット機などという , 海の ものとも山のものともっかないエン ジンを使わなくても , ピストンエン ジンで充分だと判断したため , 開発 に力を振り向けなかったという事情 もあった。 しかし , 困ったのはメッサーンユ ミットである。機体は 1941 年 4 月に 完成したが , 取付けるエンジンはな く , 航空省も空軍も冷淡な態度であ った。しかし , メッサーシュミット の設計チームは , 屈せずに仕事をす すめ , 1 号機にはピストンエンジン を付けてまず飛ばし , 機体の開発だ けでも先行させることにした。 1 号機 ( Me262 V 1 ) は 1941 年 4 月 4 日 , 機首に , ユンカース・ユモ 210G という 700HP の液冷のピスト ンエンジンを 1 基積んで , アウグス プルグエ場で初飛行に成功した。 700HP のエンジンでは誠に馬力不 足だったが , なにはともあれ実機の 低速や離着陸の性能試験はこれで進 行した。この状態で 6 回の飛行が行 なわれたが , そのときの記録が , い までは全く残っていないのは残念で ある。 Me262V 1 の飛行成功に刺激され た航空省は , 7 月 26 日には 5 機の原 型を追加発注したが , これは当時の 発注レベルからみると非常に低い。 優先順位の高いものは , 数十機の試 作機が連続して発注されていたから である。 1941 年 11 月中旬に入って , やっと 待望のエンジンが到着した。 BMW 109 ー 003 の初期型 2 基で , 推力は 450 kg だった。これは Me262V 1 の翼下 に 1 基ずっ取付けられたが , 安全の ためユモ 210G 工ンジンはそのまま 機首に残されていた。 ターポジェットとピストンの , 両 工ンジンを付けた 3 発の珍型機は , 11 月 25 日に初飛行するべく滑走路に 出て全力運転をしたところ , 工ンジ ンが破壊してしまった。タービンの プレードが遠心力に耐え切れずにふ っ飛んでしまったのである。代わり にユモ 109 ー 004 タージェットが送 られて来たのは , それから 8 カ月も あとのことだった。 このエンジンはすでに Me110 戦闘 機の胴体下面に懸架されて飛行試験 ずみであり , 推力は 838kg も出た。 Me262 V3 ( 3 号機 ) に取付けられ て飛行が行なわれたのは 1942 年 7 月 18 日で , これこそ Me262 が , ジェッ トの力だけで飛んだ記念すべき日だ った。 ( 日本最初のジェット機「橋 花」が飛んだのは , それからほば 3 年後の 1945 年 8 月である ) 冷淡だった航空省 普通ならこれで緊急開発が開始さ れてよいところであったが , 航空省・ はまだ冷淡であった。これがドイツ・ の命とりになるとは知らずに・・・ 1 Ⅱ

10. 世界の傑作機 メッサーシュミットMe262

というのは , Me262V3 の飛行成 功で一時は大きな関心を持ったが , 空軍がこの機体を使ってレクリンの 試験場でテスト中 , 8 月 11 日の 2 回 目の飛行で , 離陸したところで墜落 してしまったからである。 弱ったのはメッサーンユミットで ある。これ以上の開発は航空省の援 助がなければ資金的にも苦しかった し , 他の機体の設計の仕事も目白押 しに並んでいて , Me262 が優先権を 与えられなければ , 技術者の数をふ やすことも困難であった。 しかし , メッサーンユミットは万 難を排してこの戦闘機の開発テンポ を上げた。 1942 年 10 月 2 日には , 2 号機の Me262V2 がユモ・ターポジ ェットを付けて初飛行し , 航空省か らは強引に 15 機の増加試作機の契約 をとった。 ( これは間もなく 30 機に 増加された ) 12 月 2 日にはベルリンで , Me262 の生産打合わせが , メーカーと航空 省のあいだで持たれたが , 航空省か り提示されたのは、 1944 年に月産 20 機という案であった。 当時の生産規模としては極めて少 数で , 本機を限定された高空の迎撃 機にしか使えないと判断しての規模 であることは明らかであった。そし て , 当分は実用試験機としか考えて いないと知って , メッサーンユミッ トの技術者たちはがくぜんとした。 いっぽう 1943 年 3 月 2 日には , さ きにエンジン事故で破損した 1 号機 が BM 09 ー 003 を積んでメッサー ンユミット社の試験場であるレクフ ェルトで飛んだ。そして , 翌月には 4 号機 Me262V4 も飛行試験に加わ った。 この 2 機の調子を見極めたうえで 5 月には , メッサージュミットは , 空 軍の名パイロットであるガーランド 将軍に , この革命的な戦闘機の試験 が順調に進んでいることを告げた。 5 月 22 日には , ガーランド自から Me262V4 に試乗し , 直感でこの戦 12 闘機が全く新しい画期的なものを持 っていることを見抜いた。彼は「う まい戦闘法が編み出せれば , この戦 闘機は失われた制空権をドイツに取 戻すことを可能にするでありましょ う」と , 熱烈な支持文を航空相のミ ルヒ将軍に送った。この効果があっ て 5 月末には Me262 の生産計画が承 認され , 工場の準備も開始された。 7 月 23 日には , 4 号機がゲーリン グ将軍のまえに公開された。彼もま た , この戦闘機に熱烈な支持を約東 したが , ヒットラーに報告が行なわ れると , ジェット戦闘機に優先を与 えることと , 量産の準備をすること は固く禁止された。 連合軍の猛反攻を受けたドイツ軍 を支えるのは , 現在量産中の戦闘機 を , 1 機でも多く前線へ送ることが 緊急の課題であることも確かであっ た。 最初の 4 機は尾輪式 最初の試作機 4 機は , そのあとか らの機体とは違っていた。 工ンジンは , 初期のユンカース・ ュモ 109 ー 004A ターポジェットであ ったほか , 着陸装置は尾輪式であっ た。尾輪式にしたのは , ドイツの軍 用機がほとんどこの形式であったの で , 3 車輪式にすると , パイロット が慣れていないので , トラブルが多 くなるのを恐れたためである。 しかし , これはかえって失敗だっ た。長い機首が上へ持ち上った姿勢 では , パイロットの前方視界は非常 に悪くなった。工ンジンを吹かすと ジェットの排気がコンクリートや土 砂を吹き上げた。離陸滑走に入って も時速 150km くらいでいちどプレー キをかけて尾部を上げないと , 車輪 を地面から浮き上らせることは困難 であった。 このため . 航空省が増加試作機を 発注するときは , 3 車輪式着陸装置 を付けることが条件になっていた。 M262V 5 はこの要求に合わせて はじめて作られた試作機で , 主脚の 取付位置をうしろへ移し , 前車輪を 新設して 1943 年 6 月 26 日に初飛行し た。ただし , 前車輪はまだ固定した ままで , Me262V6 になってはじめ て引込式にした。 e262V 6 はユモ 109 ー 004B ター ボジェットを付けた最初の機体でも あり , 10 月に初飛行した。この機体 には , 量産機の仕様がほほ施されて いた。 V 6 は , 11 月 2 日にゲーリング , ミルヒ , ガーランドなどの高官の並 居るまえで , レーゲンスプルグの試 験場をデモ飛行した。ゲーリングは 本機の完成に最善の努力を約束し , 11 月 26 日には東プロシアのインスタ ープルグで , ヒットラー総統のまえ で飛行が行なわれた。 ここでヒットラーの下した決断 は , 遂にドイツの敗北を決定的なも のにした。「この飛行機を爆撃機に それにもかかわらず航空省の態度 はまだ冷淡だった。総統の命令とい うので , 生産の準備は前のとおり進 められたが , 代わりに生産を中止し たりしばったりする機体はひとつも 指示されなかった。労働力も資材も 限界に近付いていたこの時期に , こ れでは量産をするなというのと同じ ことだった。 わずかに空軍が , 1944 年 5 月から 月産 6 機でスタートし , 治工具と資 材の準備ができ次第 , 量産に入れる ことを正式に採りあげたくらいであ つ 0 いっぽうでは , 試作機がさらに作 られた。 Me262V7 は 1943 年 11 月に 初飛行したが , これは与圧キャビン を付けていた。 M 62V8 は機上発 射試験のため 30mm の MK109 機関砲 4 門を付けていた。 Me262V9 は翌 44 年 1 月に飛んだが , これは , 無線 機その他の艤装を積んでテストをし た。 Me262V10 は 44 年 5 月 1 日に飛 び , 翼下に弾架を付け , 離陸を助け