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検索対象: 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)
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1. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

習匿あ艦 浅間 ( あさま ) は日 , 青戦争後の第一期海車拡張計画に基づいて建造された装甲巡洋艦の一隻で、 明治 32 年 3 月、英アームストロング社で竣工した。常備排水量 9 ′ 700 トン、 20 センチ連装砲 2 基、丐センチ砲門、 45 センチ魚雷発射管 5 門、主機直立三段膨脹機械、 2 軸、 .000 馬力、 速カ 2 に 5 ノット。類別上は一等巡洋艦であったが、砲火力が強化され実質上は戦艦に準じた存 在であり、日露戦争では戦艦戦隊に劣らぬ働きを示した。写真は海防艦時代のもの 戌問は明治 38 年田月、横浜沖で行なわれた凱旋観艦式をふくめ 4 回も明治天皇の御召艦をつと めた輝かしい経歴をもっている。第一次大戦中はドイツ東洋艦隊を追って北米方面を行動した が、大正 4 年一月、メキシコで座礁して大損害をうけ帰国した。大正田年 9 月に一等海防艦と なった。明治 43 年いらい長らく候補生の遠航練習艦として活曜したが、昭和田年の遠航を最後 に来島水道付近で座礁、船体に重大な被害を被ったので、以後、海兵団用として呉港内に第留 され、昭和ロ年 7 月に練習特務艦となった。終戦時は六連島に撃留されて宿泊艦になっていた

2. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

フあ 春 日 春日 ( かすが ) は明治 37 年 2 月馬日、一イタリアより横須賀に到着した。写真は整備のため横須賀 から呉へ回航の途中、津久茂瀬戸に仮泊中の姿である一一一本艦の前身は明治 3 7 年初頭にイタリ アで完成したアルセンチンの装甲巡洋艦リヴァダヴィアである。それを日露開戦にのぞみ急き ょ購入したもので、常備排水量 7 , 700 トン、 25 センチ単装砲ー基、 20 センチ連装砲ー基、巧セ ンチ砲門、魚雷発射管 4 門、主機は直立三段膨脹機械、ロ , 500 馬力、速カ 20 ノットであった

3. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

明治 45 年春、伊予 , 難 0 平群島標柱問て全力公試運転中 0 攝。聿 ( せ・。 0 ) ー一本艦は明治 45 年 7 月、呉工廠で竣工した 常備排水量 2L443 ト、 30 セチ砲連装 6 基、丐セチ砲田門、 45 セチ水中角、雷発射管 5 門などを装備、僚艦河内 とともにわ海車最初 0 ト級戦艦てあが、主砲塔で中心線上に配置された 0 は前後 02 基たけで、他は舷側配置と されたのて片舷砲力は 8 門にすぎす、実質的には準ト級艦薩攣、安芸の拡大強イヒ型とみられた しかも中心線上の 2 基は 50 径、舷側 04 基は 45 径と長か異なり、斉射時には前者は減装薬を用 0 、るなど 0 不具合を生して 0 、た ( 1 年。か風 ) ー一、 : 攵こル矢聿 、れト艦攝 後さ一逐の 、 2 の留メ駆中 そ繋 0 、泊 0 し停 、。ーしてど弯 、去したは毛 ~ 撤としを宿 。を艦成板 鈑備完鋼日 心一御、月 o 月 、方麦 7 リ 5 7 リー′ィー と以年ミ年 つ」【 4- 0 刀ロ つな【凵 一 ~ さてにど真 造っとな写 毒 ~ 改なこ橋 こ行る艦 を 1 第的航さ突下 標曳造煙低 にの改 、、 , 一年的に反ト に標艦甲ッ 正砲的ノ 果い爆るカ 結さのう速 のの縦え 約練操耐去 条訓線に散 縮撃無撃い 車射、直突 ンのえの煙 ト隊迎弾 2 ン艦を爆第 シ、代習 。、「ワて時寅た のし約ロれ ロ ( 年属条キ、さ 当、田寸無縦 にる操 《手、大隊年す線 津は和投ら 攝間昭らか 、テう

4. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

純習特あ匿 敷 島 敷島 ( しきしま ) は明治 33 年一月、戦艦として竣工したが、大正田年 9 月に一等海防艦に類別された。ワシント ン条約により大正貶年 4 月、武装解除のうえ軍艦籍からのぞかれて、練習特務艦籍に移った。写真は練習特務 艦に改装の同艦て、前後の 30 センチ砲をはじめ兵装は姿を消し、舷側の装甲帯がはすされた跡もはっきりわか る。本艦はその後、終戦まで佐世保で練習艦の任務に従事し、のちに推進器を撤去した状態で第留されていた とは誰が予想し得たであろうか この後、 22 年 4 月から佐世保船舶で解体作業に着手され、 23 年一月までの間に姿を消した 島艦行進曲」が生まれたほど、当時としては世界最強の戦艦の一つであったが、 45 年後に自らも日本海軍の終焉を体験しよう 無残な姿をさらす同艦である。舷側の包廊式副砲の跡や艦橋前に設けられたバラックなども視認できる。本艦は完成時に「敷 敷島は大戦中も被害をうけることなく佐世保ですこし終戦を迎えた。写真は幻年末、佐世保えびす湾で第留状態て放置され、

5. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

朝日は明治 33 年 7 月に英ジョン・プラウン社で戦艦敷島型の 2 番艦として竣工した。日露戦争中 は、第一回旅順攻撃から、黄海海戦、日本海海戦にいたる諸戦闘に参加した。常備排水量丐 , 200 トン、前後に 30 センチ連装砲 2 基を搭載、ほかにセンチ砲図門、 7.6 センチ砲 20 門などを装備 した。速カ絽ノット。写真は大正初年、横須賀港内での撮影で、主砲塔上に 7 . 6 センチ砲が見え る。左手後方は装甲巡洋艦戌問である。本艦は大正 7 年、シベリヤ出兵のさいも大陸へ出動した 朝日は大正田年 9 月に一等海防艦となったが、大正に年 4 月、ワシントン条約で武装解除されて練習特務艦とな った。とうじ , 替水艦の遭難事故が相次いだため、まもなく本艦は , 替水艦救難用に改造された。写真は改造後の同 艦で、艦尾と煙突付近の事舷に沈没した , 替水艦の引き揚け装置が張り出しているのが認められる このさい主缶 も改正されて一本煙突となった。艦尾には戦艦時代の面影をとどめるスタン・ウォーークがいせん残されている

6. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

純固區あ匿 五 妻 吾妻 ( あすま ) は残間と同様に、日露戦争前の海軍拡張計画で建造された装甲巡洋艦 6 隻のうちの一艦たが、発注先がフ ランスである点が僚艦と異なっていた。明 , 台 33 年 7 月に竣工し、常備排水量 9 . 326 トン、 20 センチ連装砲 2 基、丐セン チ砲ワ門、 45 センチ魚雷発射管 5 門、主機は直立三段膨脹機械、ロ .000 馬力、速カ 20 ノット。煙突の形状と配置にフラ ンス設計の特色がみえる。写真は明治 36 年秋、常備艦隊で陣形運動中の吾妻で、左手に戦艦朝日と巡洋艦浪速が見える 吾妻は、日露戦争中は第 2 艦隊第 2 戦隊に属して活躍し、蔚山沖、日本海海戦にも参加した。大正元年から練習艦隊とし ていくどか遠洋航海に従事したが、第一次大戦中は第一特務艦隊に編入され、シンガホール方面で作戦行動をした。本艦 も最初、一等巡洋艦に類別され、大正年 9 月に一等海防艦となり、舞鶴海兵団の練習艦、昭和 2 年から舞鶴の機関学校 の定撃練習艦となった。昭和ロ年 7 月、練習特務艦に移されたが、円年 2 月に除籍された。写真は海防艦時代のもの 05

7. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

あ匿 富 . ゞ・を第をを、 : ー第 : ・を第を一第すを = 0- 行 富士 ( ふし ) は明治 30 年 8 月、戦艦として竣工したが、大正元年 8 月、一等海防艦に編入、そしてワシントン条約により 凵年 9 月に運送艦、に月に練習特務艦となった。本艦は最初、ポイラーとして円缶田基を搭載していたか、明冫台 43 年に 宮原缶図基に換装し、性能を一新させた。その後、海防艦として、また運用術練習艦として長らく使用てきた一因は、 この缶換装にあった。写真は昭和初期、運用練習艦時代のものて、前主砲撤去跡には小講堂が設けられている一 ~ 艦の中 央部水線付近の水線装甲帯を取り外した跡がはっきりわかる前後檣、煙突とも新造時とは形状か異なっている 34 物すに 艦尾右舷正横から見た運用練習艦時代の富士一一一本艦は昭和初期こ・ろは航海術練習艦として横須賀の吉 倉海岸に定繋され、浮き講堂として使用された。昭和 9 年、横須賀に航海学校が設立されると本艦は推 進器を撤去して、前後艦橋付近に木造の大講堂を設置し、以後、航海学校につながれたまま浮き教室と して同校施設の一部となった。戦時中もその状態て横須賀軍港につながれていたが、 20 年 7 月絽日、米 艦載機の攻撃により火災を起こし、浸水して着底した。 23 年 5 ~ 田月にかけて浦賀船渠で解体された わ 2

8. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

戦艦から標的艦に 変身した " 攝ド 高橋治夫 攝津は日本海軍最初のド級戦艦で ある河内型の二番艦で、明治四十五 年に竣工した。三〇センチ連装砲を 六基そなえた有力艦だったが、大正 十年のワシントン条約の結果、戦艦 として保有することカできなくなり 武装解除のうえ、標的艦に変身する ことになった。 兵装および防御甲鉄の撤去は、呉 工廠で大正十二年十月八日から行な われ、翌年四月一日から六月末にか けて標的艦に改造された。 工事完成後は、艦隊付属の的艦 として廃艦利用の実艦的の航を業 務としたが、これも数年間だけで、 その後は予備艦籍に編入され、すっ と呉港内に繋留されたままだった。 ところが昭和も二ケタに近くなっ てから、本艦に無線操縦受信装置を 取り付け、駆逐艦矢風を操縦艦とす る爆撃標的艦への改造が決まり、軍 縮条約失効直後の昭和十一一年一月か ら七月にかけて工事が行なわれた。 改造の要領は、一〇キロ演習爆弭 に対する防御として露天部分に 鋼板を張り、ポイラーの一部を換装 し、これにアスカニア式自動噴燃装 置と無線受信装置を装備するという 昭和 15 年 4 月 7 日、呉で撮影された攝津ーーー一本艦は昭和 14 ~ 15 年にかけてふたたび改造され、爆撃・砲撃 業用の実艦標的艦となった。軍縮条約のさい撤去した水線甲鉄を復旧し、舷側甲鉄を 17 , 000 ~ 22 , 000 メー トルからの 20 センチ演習砲弾に耐えうるよう強化し、艦の上面一帯に 25 ~ 75 ミリ D S 鋼板をほどこして、 4 , 000 メートルからの耐 30 キロ演習爆弾防御とした。また一時使用しなかった第 2 缶室の宮原缶を、金 鋼の陸揚げ缶と換装、速力を 17.4 ノットとした。 1 番煙突が低いのは艦橋上部からの弾着観測のためである

9. 丸スペシャル No.34 特務艦 (日本海軍艦艇シリーズ)

隠戸・早鞆 隠戸 ( おんど ) は最初、大正 9 年の八八艦 隊計画で予定されたが、ワシントン軍縮 会議で少し遅れ、大正に年 3 月に神戸の 川崎造船所で竣工した。本艦と僚艦 2 隻 は隠戸型と呼ばれ、前級の改型とされた が、細部で相違はあっても要目、性能的 にはほとんど変わりなかった。写真では 満艦飾の状態にあるが、これは紀元節、 天長節、明治節などの祝日や観艦式、即 位式など国家の大典の場合のほか、特令 で行なわれることもあった。本艦は昭和 3 、 8 年の観艦式に参加している 隠戸の艦橋より後方をのぞむ一一一一千島 方面など北方水域を行動中の光景で、周 辺の海水は流氷で覆われている。テリッ ク・ホスト、後檣、煙突付近やポート・ ダビットなど艦上の諸配置の様子が良く わかる。煙突に W 型の模様が見えるが、 大正時代にこれら給油艦には一時民間に 貸与されたものがあり、また陸軍御用船 と区別するために煙突に波状の白線 2 本 を装着した名残りで、このバンド用鋼板 は後年まで残されていた。本艦は昭和円 年Ⅱ月ロ日、ルソン島キャビテ車港で空 襲をうけ撃沈された く昭和 8 年の大演習にて臨戦準備中の早鞆 煙突の後に給油用ホストが見える。本艦は開戦時、 第 3 艦隊の付属となり、南比攻略部隊の補給に従事し、ロ年一月には蘭印攻略部隊の補給に従事し た。さらに 3 月から第 2 南遣艦隊に所属して西部ニ ーギニア攻略作戦に参加した後、ジャワ方面 で重油輸送に従事中の 8 月に日、アンポン湾ロで敵 , 替の魚雷をうけ、修理後、円年田月 9 日、シプ ツ海峡でふたたび雷撃をうけて航行不能となり、終戦までシンガホールで浮かべるオイルタンクと して使用された。戦時中は前後に 8 センチ砲を備え、艦橋上にロミリ連装機銃 2 基を装備した