みられ、艦橋の高さは海大型に等しいものとなり、 のようにフラットにして、推進器の空転を防ぐこと 天蓋が設けられ、主機械荒天通風筒吸気口を天蓋下 にしたとされており、艦首も軽く傾斜され、発射管 の両側に設けた。内殼の厚さは一二ミリとして、安全 も艦首四門から六門に増加された。 型◇ ◇呂 潜航深度は七五メートルに向上しており、譛望鏡の また備砲も従来の短八センチ高角砲より、四〇ロ 径の平射砲に変更された。排水量の増大に対して出新海中型の第型、海中Ⅵ型である本型は、先に高さは八メートルとされた。 3 ~ 3 が建造、呂 排水量、寸法的には従来の海中型とほば同大で、 力は従来のままとされたため、Ⅲ型までの各型にく 述べたように〇計画で二隻 ( 呂 3 ビ式ディーゼル ( 後に艦本式二一号八型内火機械と は呉工廠で昭和十年十月、呂は三菱神戸で昭和 らべて速力は低下している。本型の要目は別表に、 十二年五月に完成された。 改称 ) 二基を搭載、水上速力は一八・九ノットと向 第 3 図にその艦型を示す。 本型は有時における中型潜のプロトタイプである上した。また航続力も一二ノットで八、〇〇〇カイ 本型は太平洋戦争で第一線に出撃した旧中型潜と リと増大している。 しては唯一の型で、開戦時、南洋部隊としてクエゼとともに、局地防御用だけでなく艦隊型の海大型な どに準した、優速と凌波を具備することもこころ 備砲は四〇口径八八式八センチ高角砲一門、九三 ) ンを基地とする第 7 潜水戦隊を編成していたが、 開戦直後の昭和十六年十一一月中に呂が座礁、呂 29 1 区 が衝突によりともに喪失、昭和十七年七月、キスカ 方面に配備され、呂矼と呂が戦没、昭和十八年以 後は第一線を退き、訓練用に使用されていたか、昭 和二十年に入って呂が触雷、呂が空襲で沈没し、 6 6 6 の三隻が残存、戦後いすれも自沈処分 された。 ◇新中型◇ 海中型の系列は昭和初年完成のⅣ型を最後にし て、建造の主力は海大型、巡潜の系列に移行してし ばらくとた、えることになった。 しかし昭和六年の〇計画において、新海中型であ る海中Ⅵ型としての呂型二隻が建造され、戦時建 造中型のプロトタイプとされたが、実際の海中型は 後の⑩計画において、初めて呂肪型と小型潜である加 60 健 呂燗型が建造、さらに戦時計画において引き続き建 造されたものの、量産効果の上がらないまま、建造 は早期に打ち切られてしまい、本来、戦時にあって 数的に大勢を占めるべき本型が、性能的には十分で ありながら、有力な戦力化に失敗したのは残念であ 加 57 健 3 区 当 2
・ 0 6 昭和 19 年 2 月完成時、玉野で撮影された呂 46 潜ーー昭和 16 年から、先の呂 33 潜型にその後の技術の進歩や戦術の 変化を採り入れて、若干の改正をくわえた呂 35 潜型 ( 中型 ) の建造が開始され、 19 年までに 18 隻が完成した。呂 33 潜よりいくらか大型で基準排水量 960 トン、主機に 22 号 10 型ディーゼルを搭載、出力を増大して 4 , 200 馬力と し、水上速カ 19.8 ノットを出した。呂 46 潜はその 12 番艦で 19 年 2 月に完成、第 34 潜水隊に編入された。比島方面 で船団攻撃や輸送に従事したが、 20 年 4 月 29 日、沖大東島沖で米護衛空母ッラキ搭載機の攻撃をうけ沈没した 呂僣の司令塔内部ーー戰時中の撮影ではなく、戦後、乗艦を去るに あたり本艦の乗員が記念に戦時中の配置について、記念撮影をしたも のである。本艦は比島方面で活躍し、年 2 月日、スリガオの東南 東で米を撃沈している。本艦型の計画乗員数は名で、初代 艦長は木村正男少佐であった。本型は司令塔を高くし長さ 8 メートル の譛望鏡 2 本を装備、海大型と同等の艦橋見張り能力があった。呂号 潜水艦で初めてフレオン式冷却機を搭載したのも本型であった
ヌ - てる一 ( 号 ) 泌型潜航艇、水中特攻当 , 、 非図石橋孝 本誌においてこれまで巡潜型と海大型を二度にわ同型といえるもので、ただ、 王機のズルザー・ディー たって採り上げているが、ここでは日本潜水艦 ( Ⅲ ) ゼルは出力を半分以下に落として、水上速力は一六 開戦時、在籍した型はこのⅢ型がもっとも旧式 なもので、呂 7 9 として、残余の海中型、伊号潜の残り、大戦中の特 ノットから一三ノットに低下しており、これは外洋 5 5 の三隻があった。»-a 型は本型よ 殊潜水艦、 小型潜水艇などをとりまとめて紹介するでの長期にわたる通商破壊戦のため、航続力を延長 り発射管を四五センチより五三センチに強化、舷側 ことにする するためともいわれているが、要目上の航続力は ( 則の発射管を廃止して艦首のみとし、»-a Ⅱ型にくらべ 型と同称とされており、明確ではない て凌波性を改善するため乾舷を高め、短八センチ高 また備砲も従来の八センチ砲から、本型のみ一二角砲は艦橋上部に移されて、波浪の影響をふせいで ◇旧中型◇ センチ砲に強化されているのも、先の通商破壊戦に 海軍中型、すなわち海中型の名で呼ばれる一千ト従事するための備えと推定される。 また本型より水中聴音機であるチュープの装備 ン未満、五〇〇トン以上の中型潜水艦については、 ただし、開戦時はいすれも旧式のため予備艦とさ が実施され、また電池および主電動機に冷却装置が 大正八年に完成した海中 *-* 型 ( 呂Ⅱ潜型 ) をその最れており、呂引のみ昭和十七年二月に呉鎮部隊に編設けられていた。 初として、昭和初めまでに海中型まで、および»-a 入、昭和十九年一月に予備艦となり、昭和二十年五 太平洋戦争中は主に訓練用に用いられ、第一線に 型 ~ *-äⅣ型の各艦四〇隻が建造されて、のちに海月に除籍、終戦時、佐世保にあって、後に米軍によ出動したのは開戦直後だけであった。呂は終戦時、 大型、巡僣型の大型艦隊型潜が充実されるまで、日 り自沈処分された。呂および呂の二隻は開戦後 月豆島にあって甲標的基地で訓練用として用いられ 本潜水艦陣の実質的な戦力を成形していたべテラン まもなく除籍され、終戦時、大竹の潜水学校におい ており、同地で処分されたといわれている。呂は であった。 て訓練用に繋留されていたといわれる。 終戦時、横須賀にあり、呂は大竹の僣水学校にあ って、いすれも後に自沈処分された。本型要目は別 表に、第 2 図に艦型を示す。 ◇海中型◇ ◇ *-a Ⅲ型◇ 大正期に計画した海中型の最終型で、呂 »-a 型は大正中期に海中型などとともに相当数が建 ◇Ⅳ型◇ 四隻があったが、太平洋戦争時、呂四をのぞく三艦 造された中型潜で、第次大戦中に英国で建造され が就役中であった。本型の要目は別表に、第 1 図に 本型は型の最終型で、呂 ~ の九隻が大正十 たヴィッカース社の型水艦の製造権を三菱造船 その艦型を示す。 所が入手して、実用性などに間題のあった海中型な 二年 ~ 昭和二年に他の型と同様、三菱神戸で完成 本型は海中Ⅳ型の改型で、特中型とも称されておどにくらべて多くの実績を持ち、実用性に富んだ艦 されたものである。本型は先のⅢ型に対して基準排 り、排水量で若干増加しているはかは、艦型的には として、即戦力化に優利とされて建造された艦であ水量で約一〇〇トンほど増大し、艦尾の形を水上艦 0 " 変遷史
小 一牙リ [ 呂 100 ~ 117 〕 昭和巧年度計画で局地・または離島防御用として設計されたのが呂 0 冫替型 ( 小型 ) で、急速建造を目標とし て最小の船型が採用された基準排水量 525 トン、兵装として発射管 4 門 ( 魚雷 8 本 ) と 25 ミリ連装機 銃ー基を備えるだけて、航続距離もにノットで 3 ′ 500 カイリと当時の日本君水艦の中で一番短かった。 写真は年 , ラノヾウル湾に停泊中の呂ョ田君で、一本艦はロ年田月完成、田年一月↓第 7 : 替水戦隊に編入 され、 2 月からラ / をウルに進出した。田年 9 月丐日サンクリストバル島南東で戦没している m09 ~ 年 4 月、沖繩へ向かう途上の 4 月 25 日、沖大東島沖で米高速輸送艦 H ・ A ・バスに撃沈された イバンに移り、 6 月、マリアナ沖海戦に参加した。田月、第 34 潜水隊に移り比島作戦に従事、 20 きびしい戦場であった。本艦はラ / ヾウルからスルミ・プインへの輸送に従事し、円年 3 月からサ 成されていた。本艦の到着前に先にラバウルへ進出した呂田 3 、 7 : 替の 2 隻が喪失するという、 れてラバ ' ウルに進出 , 9 月に呂 108 . 替とともに第 5 替水隊に編入されたがこ同隊は本型 8 隻で構 ラバウル港で出港整備中の呂田 9 君 - ー一本艦は絽年 4 月に竣工し、 8 月に第 7 潜水戦隊に配属さ くラバウル湾内を航走中の呂田 9 君ーーー乗員が上甲板に立ち並び、陸上に向かって帽子を 振っている。ティーゼル才非気の煙が艦尾にひろがり、かなり高速にて航行している様子で ある。本型は三菱神戸造船所が設計した 450 キロワット発電機用ディーゼルを一部改良し た艦本式 24 号 6 型ディーゼル 2 基を搭載、し 000 馬力で水上速カ . 5 / ットを出した。小ー 型なので特に耐波性に留意して艦首乾舷を高めている。しかし耐波性は不十分で、速力、 航続力も低く 3 艦内の居住性も悪いため、本型への乗員の評判はよくなかった 30
式一三ミリ機銃一梃で、発射管は八八式を艦首に四 門を有する。 全般に居住性はそれまでの海中型より改善されて おり、また金氏弁の機力開閉装置が本型よりはじめ て装備された。第 4 図に本型の艦型を、別表に要目 を示す。なお、二隻とも太平洋戦争中期までにいす れも戦没した。 ◇呂 肪型◇ 昭和十六年度の戦時計画において同型九隻 ( 呂肪 ~ ) を建造し、昭和十八年十一一月までに完成した。 本型は戦時急造用のプロトタイプとして、先に建造、、、、、、、、、・。ー された呂型の量産型として建造されるはすであっ たか、いざ建造という段階でいろいろ改正が必要と 0 0 0 -4 ・ 型 ) 0 0 0 - つ、り 1 0 - 1 0 -0 1 ・ g 輸 ーワな -4 -4 鉄日へ 0 ・ 4 -4 速 0 ワ】 中 されて、設計を手直しされて 兵装などは機銃が二五ミリ連装にかわったことを 年 基本計画番号も呂型の三 のぞいては、特に変わらす、安全潜航深度は八〇メ 〇から四四に改められた。 ートルに達した。 昭 本型は呂型より基準排水本型は昭和十七年および十八年度の②計画でさら に一二隻 ( 第三八五ー三九六号艦 ) が計画され、う 年量で一六〇トン増大し、主機 0 0 0 ~ および ) が建造されて昭和十九 1 を艦本式一三号一〇型 ( 低過ち八隻 ( 呂 ワ朝 -4 ーー 、 1 11 ワ朝 昭給機付き ) ディーゼルとして年九月までに完成、さらに同じく同時期の⑩計画で す 出力をアップしたため、水上 一五隻 ( 第六四〇 ~ 六五四号艦 ) が計画されたが、 型 このうち一隻 ( 呂 ) が完成したのみで、他は建造 を 速力は一九・八ノットに向上、 海大型の補助兵力としての速取り止めとな「た。また改⑩計画の四三隻もすべて 造ー 建造取り止めとなっている。 力向上に答えたものだった。 0 0 戸 0 0 4 主蓄電池は一号一五型二四 本型は三菱神戸で八隻、三井玉野造船所で六隻、 年 0 0 1 人ワ】 1 - , 0 - X 、 4 0 0 ワ 0 1 ー 0 8 、 :.D - 0 0 -0 00 11 っ 0 0 、 1 Ⅱ 3 X ' / 4 〇コを搭載、冷却機は呂号で佐世保工廠で二隻が建造され、特に三井玉野造船所 日 0 1 1 0 11 和 C.D ′ 0 ワ】 14 1 号 / / っ 0 】廴 -0 -4 つ -4 伊 8 -0 昭初めてフレオン式のものが採 は潜水艦の建造は本型が初めてで、量産体制をとっ 用されて艦内冷房を行なってて平均約一年余のエ期で各艦を完成させ、とくに最 年 いる。船体は複殼構造である後の呂では一年以内で完成させていた。 X 】′ 0 1 ・ 4 っ 全般に本型は戦時下にあっては、いわゆる通商破 75 が底部は単殼で、海大型と同 機 - 機伊 型である。 壊戦には最適の艦型で、量産化して戦時下の潜水艦 送 伊 373 型 ( 丁型改 ) ( 丁型 ) 1 , 440 1 , 779 2 , 215 73.50 70.50 8.90 7.15 4.76 艦 23 号乙 Ⅷ D x 2 2 2 1 , 750 1 , 850 1 , 200 1 , 200 13 .0 13 .0 10 / 15 , 000 13 / 5 , 000 3 / 100 3 / 120 8 迫Ⅱ x 2 14 X 1 25 x 2 Ⅱ 25 Ⅱ x 3 、 I x 1 1 , 142 1 , 383 1 , 768 85.20 82.20 7.52 5.91 4.42 ラ式 1 号 D X 2 2 2 , 400 1 , 100 14 .9 8 / 10 , 500 4.5 / 40 14 x 1 53 x 4 左 一口 加 33 健 加 35 健 25 x 1 100 55 戸 0 -0 ワ】 ー戸 0 0 0 ロ 00 ロ 00 ロ 4 区 5 区 8
—】海中Ⅳ型 大正時代に入り、日本海軍はそれまで導入してきた諸外国の潜水艦を比較検討のすえ、各国の 特長と実績を採り入れ、独力で中型潜水艦の設計をまとめあげた。これが大正 6 年に起工され た海軍中型、略して海中型潜水艦である。その後さらに改良がくわえられ、Ⅱ型、Ⅲ型・・・・・・と 呼称が変わり、大正 10 年起工の 3 隻は海中Ⅳ型と呼ばれている。本型の第 1 艦である呂 26 潜は 大正 12 年 1 月、竣工時は第 45 潜水艦と命名されていた。開戦前の 15 年 4 月 1 日に除籍 一製カ海た 高化と サ賀馬。のがイたチ式艦 ル須 0 た大た力しン旧僚 ズ横 6 し増し 0 上セににる はで出の下向 8 第日 機基力を量低と短次 1 て 主 2 出ト水トでヘはも月れ ソートーリ - の艦 4 さ 型ゼしノベノッイる本年籍 本一載ら 2 ノカえ。除 イ搭カく約 0 見る和に デを速とはは 0 にあ・昭よ 懿号のり型カカ前で、し 2 もよ速続ら橋砲てつ 呂式のに中め航か艦角しい ーミ 呂 27 潜ーーー海中Ⅳ型は以前、海中 I ~ Ⅲ型の諸艦が台湾や南洋方面に巡航したさいに、凌波性や航洋性の不足が明らか となったため、その向上に力をそそぎ、乾舷と予備浮力が増すように改正された。船体や艦橋構造物も大型化し、上甲 板も拡大された。魚雷発射管は 45 センチから 53 センチに口径を改めたが、その数は 6 門から 4 門に減した。潜望鏡も司 令搭内に昇降式操作台が初めて採用され、縦横舵および潜舵の動力も油圧式から電動機直結式へと改められたのである 昭和年 4 月 1 日に除籍された呂 % 2 、冫 : 6 、 7 、 8 号として潜水学校に繋留され、練習用に使用 3 されそのまま終戦を迎えた。写真は手前より旧呂、 潜である。戦後、解体されることになったが、旧呂 潜は旧兵学校沖で沈没状態にあったといわれる。播麿造 1 月にかけて解体 船所呉船渠により浮揚され、年 2 された 「′広燾第物に , いを
特 〔呂 29 ~ 32 〕 29 、 牙リ 中土 ロ 馬公防備隊に配属された。その後、佐世保防備隊に移ってながく同方面にあらたカ、昭和は年 4 月↓月に除籍された 読力の増大をはかったものであるの呂 29 潜 ( 旧第 68 潜 ) はその第一艦として大正に年 9 月に竣工 0 第 25 潜水隊に編入され、 、れているカ第主機械の出力を半分に減ヒて L200 馬力とし、水上速力はに / ットに低下したかわりに、燃料を増載して航 特中型は大正 IO 年に川崎で起工された呂 29 ~ 32 潜で、備砲をにセンチ砲に改め、耐波性や航洋性はさらに改良がすすめら と所属も移り、太平洋戦争開戦とうじは残っていたものの老朽化がはなはだしく、昭和ロ年 4 月一日付けで除籍された一 36 建造されたのに、この特中型だけは川崎造船所で建造された。本艦も第 25 潜水隊に編入され、馬公防備隊から佐世保防備隊へ 名している。本艦の向こうに見える未成の艦は第 70 潜水艦であり、海中型の諸艦はいすれも呉、横須賀、佐世保などの工廠で 川崎造船所前で艤装中の呂 30 君ーー一本艦は大正ロ年 4 月の竣工当時はまだ第 69 潜水艦と呼は、れていたが、その年のい月に改
外国からの譲渡艦 〔伊 501 ~ 506 、呂 500 ~ 501 〕 下写真と同じときのもので、ペナンを出港 しようとする呂 500 潜ーー , ーー艦橋構造物側面 にはすでに日本艦名と日の丸が描かれてい る。同艦は年に月に完成したⅨ C 型の一 の 艦で、基準排水量し 7 トン、発射管 6 門 と IO. 5 センチ砲ー門、 20 ミリ機銃 2 門を装 備していた。回航後、調査研究され、量産 型潜水艦の設計と建造、電気熔接法などの 面で得るところが大いにあり、その成果は 潜高大、潜高小の建造にも利用された。本 艦は戦後の幻年 4 月 30 日、舞鶴港外で海没 処分された。なおドイツから譲渡の第 2 艦 の呂 5 田潜 ( 旧 U に 24 ) は回航途上、円年 5 月ロ日、大西洋で米護衛駆逐艦 F . M . ロビンソンに撃沈された くドイツ海軍との技術交換は大戦前から実 施されていたが、戦時中もさまざまな形で 続けられた。日本海軍は通商破壊戦を積極 化することを条件に、独海軍からもっとも 成功したと見られる中型潜水艦 2 隻を譲り うけることになった。その第一艦 U 5 Ⅱは 「さつき一号」と仮称されて絽年 8 月、呉 に到着、 9 月日に艦籍に入り呂 500 潜と 命名された。写真は慴年 7 月 24 日、マレー 半島ペナン基地に寄港した同艦が、整備を 終えて出港作業中の光景である
〔呂 57 ~ 59 〕 写真は昭和 2 年の撮影で、とうじ第 6 潜水隊に編入されていた。大戦中は練習艦として使用された と大差はなかったが、発射管の口径を 45 センチから 53 センチに引き上げて、艦首に 4 門装備していた。 月、三菱神戸で竣工し、当時は第 46 君水艦と呼ばれていた。基準排水量 889 トンと艦型的には前の L 型 国産化したのが L 型であり、 L Ⅲ型は L Ⅱ型につぐその改良型である。その第一艦呂 57 潜は大正Ⅱ年 7 第一次大戦末に、英ヴィッカース社から当時もっとも実用的で好評だった L 型潜水艦の図面を購入し、 ロ 5 9 呂 59 冫替 ( 初名第 57 冫替水艦 ) は大正に年 3 月に完成した L Ⅲ型最後の艦である。本型は L ー型や L Ⅱ型では前甲板に装備していた短 8 センチ高角砲を艦橋前に移し、旋回砲座に改めた点が 特長の一つであった。写真で艦橋上に見えるのがそれで、 D 型砲架と称し、最大仰角 80 度、 最大射程 5.200 メートルで、両舷へ 60 度旋回できた。本艦も実戦には参加せす、もつはら訓練 に使用され、終戦時に潜水学校に繋留されていた。幻年 5 月、伊予灘で海没処分に付された 僣望鏡、信号檣など主要装備はすべて撤去されている。 20 年田月、清水付近で米軍により海没処分された 戦に参加することなく、本艦は第 4 予備艦の状態で横須賀に繋留されたまま終戦を迎えた。写真では砲や こうしてこの 3 隻は一度も実 に使用されており、ロ年 3 月に横須賀へ移ったが、任務は変わらなかった。 あいだ横須賀防備隊に所属していた。昭和年に月、開戦の頃は本型も老朽化して呉鎮守府部隊で訓練用 く終戦後、横須賀長浦に繋留された呂 58 潜ーーー呂 58 潜など L Ⅲ型潜水艦 3 隻は第 6 潜水隊を編成し、永い 32
呂 58 冫替は大正Ⅱ年Ⅱ月に第 47 冫替水艦として完成し、第 6 , 替水隊に編入された。前型とくらべ炭酸ガス方式の 令却機による電池冷却を実施し、艦首に K チュープと呼ばれた水中聴音機を初めて装備するなど、いくつか の改良がほどこされていた。この写真で艦首ちかくに見える丸く張り出したものが K 式水中聴音機で、原型 は米国から輸入され、性能的には不満足なものであった。本艦は大正ロ年Ⅱ月に呂 58 潜と改名された