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検索対象: 日輪の遺産
207件見つかりました。

1. 日輪の遺産

市営アパ ートに帰る道すがら、海老沢澄夫は町はずれのコンビニエンス・ストアの店先 に、娘の姿を見つけた。 目の前に車が乗り入れるまで、娘はそれが父であると気付かぬふうであった。 たたず 暗い町である。へ ッドライトを消すと、街道にばつんと佇むコンビニエンス・ストアが、 まるで深い海底に沈んだ匣のように思えた。子供たちは光に群れる小魚のように、店先に たむろしていた。 「帰るぞ。夕飯は食ったのかー 窓ごしにひとめぐり見渡すと、仲間たちは娘ひとりを残して、散りぢりに逃げ去った。 娘は観念したように立ち上がった。、 少なくとも高校生には見える 父母に似て背は高い。 だろうと、海老沢は共犯者のように店内の人目を窺った。 くずかご 散らかったタバコの喫いがらを集め、空缶を屑籠に入れる。ここでとがめだてするのは 良策ではないと考えていたが、空缶のひとっからシンナーの匂いが立ち昇って、さすがに 父は詰問した。 「おまえも、こんなものをやるのか ? 娘は首を振ってはっきりと否定した。嘘ではなさそうだ。 「こんなものをやるんだったら、とうさんの晩酌につき合えよな」 言いわけもできず、悪態もつけずにいる娘を助手席に押しこむ。

2. 日輪の遺産

「梅津将軍に危害を加えることはありません。あなたや、あなたの上司に迷惑もおかけし ません。あなたを日本人だと信じています」 一一人はしばらくの間、切っ先をまじえるように睨みあった。たぶん今しがた、遠来の客 のために上司を説得してくれたのだろうこの若者の善意を、こんなふうに逆手に取ること は辛かった。もし中尉が黙って見過ごしてくれたとしても、自分は生涯、この卑劣な手段 を悔いるだろうと思った。 「理由をおっしやって下さい。無理を通した以上、私には私の立場というものがあります」 中尉の立場ー・ーそれは異国に忠誠を誓わなければならなかった日系一一世の立場に違いな かった。 言葉は無力であった。真柴は床に膝をつき、中尉の足一兀に土下座をした。 とがし 「要するにあなたはーー私に勧進帳の富樫になれと、そうおっしやる」 ふり落ちてくる中尉の声は悲しげだった。お願いいたします、と真柴はくり返し何度も 声をしばった。 「およしなさいな。世界を相手に戦った軍人じゃないですかそんなことしてはいけな、 スタンド・アップ。お願いです、立って下さい」 帽の額に手を当てて困惑しながらも、中尉は誠実に、真柴の事情を理解しようとし ているふうだった。

3. 日輪の遺産

452 どのように資料を調べ、この先の可能性をどれほど考えても、結局のところ話は治外法 とんざ 権の柵の前に頓挫するしかなかった。そのうえ手記と証言とをどうつなぎ合わせても、不 明なことはあまりに多すぎた。 少女たちはなぜ死んでしまったのか。財宝はその後、どうなったのか小泉中尉はどこ ー「冫えたのか 時価一一百兆円という、想像を超えた数字とともに、彼らの推理はそれ以上進むことので きぬ壁につき当たっていた。 「しかしまあ、あきれるぐら、 ーいところですね」 「まったくね、ウソみてえだな」 丹羽の言葉には実感がこもっていた。 もみ 咲きほこる桜の合い間に、みごとな枝ぶりの樅の木が聳え立っている。クリスマスの季 節には、その枝のすべてに光のデコレ 1 ションが飾られて、金網ごしに街道を行く車の目 を奪うのだ。 じゅうたん 広場には絨毯のよ一つに刈りこまれた洋芝が敷きつめられ、道端や土手には菜の花やレン ギョウや雪柳が、とりどりのお花畑を作っている。注意して見ると、あじさいの株やつつ きようちくとう じの植込みや、夾竹桃の並木もあって、どの季節にも花の絶えることはあるまいと思わ れる そび

4. 日輪の遺産

三の谷の祠の前に受信器を据えて、一同は終戦の詔勅を聴いた。 甲高い抑揚をもった天皇の肉声は、雑音のあい間にわずかに聴き取れるほどで、真柴に さえその内容はわからなかった。 谷間の狭い空を被いつくす蝉の声に縛められながら、玉音は長く続いた めいりよう しかし、時おり明瞭に響く声は、決して国民を鼓舞するものには聴こえなかった。それ が深い哀しみを表し、何かを諭しているにちがいないことは、誰の耳にも明らかであった。 命令ではなく、説諭に聴こえることが、真柴を打ちのめした。 初めは興味ぶかげに放送を聴いていた生徒たちも、何となく内容を理解すると、水を奪 われた花のようにひとりずっしおたれていった。 少女たちがあえて解説を待つまでもなく敗戦の事実に気付いたことは、少なからず真柴 あんど またそうする資格もあるまい。このま を安堵させた。彼女たちに説明をする自信はない。 遺ま暗黙のうちに解散することが最善の方法であろうと真柴は思った。 輪 ともかく、生きることだと、真柴は打ちしおれる少女たちのひとりひとりを見つめなが 日 ら、彼女らの未来について祈った。 四 そのときふと、両脇を友人たちに支えられて列の端に立っ少女と目が合った。貧血を起 った。 ほ′」 - り

5. 日輪の遺産

はいきし 高みから見下ろす町は、茫々たる廃墟であった。 そとばり 緑色の藻に覆われた外濠の対岸を、ゆっくりと貨車が通過して行く。轍の音が去ってし まうと、あたりは怖ろしいぐらいに静まり返った。 眼下の靖国通りには、釜から煙を立ち昇らせた代燃車が一台、ばつんと止まっているき りである 耳の奥に鼓動を聴きながら、真柴は自分がふいに、見知らぬ世界に迷いこんでしまった ような気分になった。 市ヶ谷台は予科士官学校の一一年間を過ごした懐かしい場所であるつい二カ月前までは、 陸軍省に勤務していた。通いなれた道であるのに、ずっと知らない土地の、知らない坂道 を登って来たような気がする いったいこのうつろな静けさはどうしたことであろう。 寝不足のせいだろうと、軍衣の袖で瞼を拭いながら真柴は思った。 先月の末に連合国の共同声明を傍受して以来、若い将校たちが毎夜のごとく集まって、 果てしのない議論を続けていた。 ただでさえ堂々めぐりの精神論に終始するところへきて、このところ新型爆弾の投下や ソ連の参戦という悲報が相ついで、議論はいよいよ取りとめようのないものになっていた。 層をなして嵩んで行く不安と焦燥が、彼らを眠らせなかった。 わだち

6. 日輪の遺産

決着がつくだろう、と考えた。 どういう星の下に生まれたものか、誠に波瀾万丈の人生であった。子供の時分に父親と は死に別れ、母親や兄弟とは生き別れた。苦学して夜間大学は出たものの、短気な性格が 災いして地味な宮仕えにはなじめず、若くして始めた事業も一一度まで潰した。そのたびに 妻子とも別れ、今の女房は三人目である。母親のちがう五人の子供に養育費を送り続ける ことに、あのめくるめく黄金時 苦労も、景気の冷えこんだ今となっては並大抵ではない。 代に言わでもの大口を叩いた分、よけい並大抵ではない。 かたわらにじっと立っ老人の姿を足元からたぐって、このジジイもまさか俺ほど苦労を 背負っちゃいるまい、と思った。 「じゃあ、一っしましょ一つか と、老人は窓口に背をもたせ、丹羽と並んでしやがみこんだ。「もし的中したら、私が 責任を取ります」 「責任を取る、だと ? 」 丹羽は噴き出した。買いそびれたマークシートを老人の目の前に突き出し、ポールペン の先で、最終オッズを映し出す場内テレビを指した。 「あのな、じいさん。仮にだよ、このうちの三番六番っていうのが来たとする。見えるか よ。三百十五倍だぜ。つまり、俺が一一十万ずつ五点買おうとしたうちのそれが当たれば、 はらん つぶ

7. 日輪の遺産

レールを引込線へと切り換えた。 いらだ 曹長は苛立つように双眼鏡を下ろすと、ホ】ムの先端まで歩いて軍刀を杖に立った。そ れはいかにも、度重なる白兵戦を斬り結んできたというような身幅の広い軍刀で、柄には さらし 晒木綿がきりきりと巻きつけられていた。 たちばな 「星の数より飯の数、というやつですな。ああしていると、なんだか橘中佐の銅像のよう です」 地図をしまうと、小泉中尉は少しあきれたふうに曹長を見、似合わぬ軍歌を小声で口ず さんだ。 真柴はふと、この二人の部下が実は全く相容れない人間であることに気付いた。 曹長は小泉中尉の前でことさら武張って見せているように思え、中尉もそれを承知で、 さげす 武骨な野戦下士官を内心蔑んでいるように見えた。 もしかしたらーーと、引込線の上から遥かな鉄道に目を向けて、真柴は考えた。 もしかしたら、彼らは自分のことも疎んじているのかもしれない。軍隊生活のほかは何 遺ひとっ知らず、その軍隊の中でさえ図面の上でしか戦をしたことのない自分である。一十 六歳といえば、平時ならせいぜい中隊長の陸軍中尉で、時勢のままに急造された少佐であ ることを彼らは知っている。それを態度に表さないのは、おしきせの階級章と、胸を飾る 参謀飾緒の威光でしかあるまい メンコ

8. 日輪の遺産

はいきょ ま一つぼう 乾いた空気が、々たる廃墟をかけぬけて吹き込んできた。草色の都電が青い火花を散 4 らしながら眼下を通りすぎて行く。デッキにまでしがみついた人々の顔は、どれも深まり 行く秋におびえていた。 メルポルンからの道のりは長かった。しかし、これでやっとペイ・オフだと、マッカー サ 1 はいっか希望と祈りをこめて呟いた言葉を、このとき初めて確信した。 ホイットニーが、彼よりも背の高い背広姿の日本人を連れて入ってきた。少し遅れて、 通訳のイガラシ中尉も来た。 小泉の顔をひとめ見てマッカーサ】は、この男は取引きにきたのだろう、と思った。そ おうよう ふそん のぐらい鷹揚に、不遜に見えたのである。敗北者の卑屈な態度が、その男にはまったく見 受けられなかった。 あいさっ 落ちつき払ってマッカーサーの前に立っと、小泉は正確な英国ふうの発音で挨拶を述べ ) 、こ、マッカーサーは感 た。その極めて適切な、敬意を払いながらも堂々とした言葉づカー ( 、いした。 元帥が日本人と握手を交わしたのは、ホイットニ 1 が見た限り、ヒロヒト天皇に続いて それが二度目である。 「お会いできてうれしい、ミスタ 1 ・コイズミ。ところで英語はどちらでマスターされた」 ーシティ インペリアル・ユニバ 「帝国大学です、閣下」

9. 日輪の遺産

マッカーサーの座乗するリンカーンに停止の合図を送ると、後続の幕僚たちは車を飛び 出して、彼らのポスをなだめに駆けつけた。 なにしろ、ロバート・リー将軍と同じくらい勇敢なポスは、日本軍に包囲されたコレヒ トップ・サイド ド 1 ルの要塞でも、山頂に仁王立ちに立ったまま鉄甲さえ冠ろうとしなかったし、闇に 紛れてバターン半島を脱出したときも、ボートの甲板でただひとり救命具を身につけ ようとはしなかったのだ。零戦の二十ミリ弾が頭上をかすめてもまばたきひとっせず、高 波にあおられる甲板では、直立不動のまま吐いていたのを、誰もが知っていた。 幕僚たちがよほどうまく時間を稼がなければ、リンカーン一台でも横浜に向かって突っ 走るに決まっていた。 そのとき、いつものようにマッカーサーが駄々をこねなかったのは、幕僚たちの説得が 功を奏したからではない。 沿道に置かれている日本の乗合バスや乗用車が、どれも背中にストープをしよった代燃 車であることに彼が気付いたからである。 産 遺 いかにポンコッとはいえ、敗戦国が誠意をもって二十五台のガソリン車を供出したこと の 曜が、彼の粗暴な勇気を押しとどめたのだった。 煙突からもくもくと煙を吐き出しながら行き過ぎる車をあんぐりと見つめて、マッカー サ 1 は呟いた。 ようさい

10. 日輪の遺産

正月五日の晩、郷里から戻ってみると、エプロン姿の妻が何事もなかったように立ち働 ーていた。 おかえりなさい、と妻は言った。金原夫人が一杯機嫌でテレビを見ており、やはり何事 もなかったように、おじゃましてますよ、と言った。一家は金原夫人とともに、詫びの言 こ一」と 葉も思痴も叱言もなく、まったく何事もなかったように新年を祝った。 金原夫人の術中にまったといえばそれまでだが、正直のところ海老沢はその戦術に舌 を巻いた。性格を読みきられているとしか思えなかった。 改まって手を突かれれば、正義感の強い海老沢は決して許しはしない。何事もなかった ねっぞう かのような状況を捏造し、事件を日常の中でうやむやにしてしまおうというわけだ。しか しそうなってしまえば、優柔不断で争いごとを好まぬたちの海老沢が自らの主張をもうや むやにするであろうことは明らかだった。海老沢自身も、もしやり直せるものならば、そ んな形で再出発することを望んでいた。その形を、金原夫人はおそらく妻にも意を含めて 用意していたのである 遺家族はぎこちなく、それでもともかく生活を再開した。何事もなかったように。 曜以来、金原夫人からは何も言ってはこない。家族のひとりひとりが、金原と夫人に救わ れたことは、今のところたしかである。もしこのまま日常のあわただしさの中で空白の半 年間が葬り去られるとしたら、金原と金原夫人は善意を施したということになる。他に解