声 - みる会図書館


検索対象: 日輪の遺産
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1. 日輪の遺産

273 日輪の遺産 ただまっしろな場所に立ちつくしていた。 失い、何もない、 そこには、音も光も匂いも、何もなかった。真午の太陽だけが輝き続け、蝉の声がひと ときの絶える間もなく降り続けていた。 いや、もしかしたらーーその太陽すらもまばろしで、蝉の声は耳鳴りだったのかもしれ ないけれど まひる せみ

2. 日輪の遺産

238 「真柴です : : : 」 答える声の方がうわずっていた。廊下に膝を落とし、帽子を脱いで、真柴は伏し拝むよ うに両手を突いた と、将軍の朱に染まったシャツの肩が、気を取り直すように、ぐいと持ち上がった。 「貴様、なにをしに来た。帰れ」 再びがくりとうなじを垂れ、大臣は言った。 真柴はみちみち用意してきた言葉を忘れた。雨戸のすきまから差し入る紫の光が、自分 と大臣とを隔てる壁のように、廊下の闇を切っていた。 「自分は、あの命令を : : : 」 ようやく口にした言葉を、阿南大将は一喝して退けた。 「帰れ。任務に戻れー 雷鳴を間近にしたように、真柴はひれ伏した。将軍は真柴を脅すような、低い唸り声を 上げ続けた。苦痛に体が揺らぐたびに、古い廊下はぎしぎしと軋んだ。 「閣下、ご介錯を」 と、真柴は身を起こして軍刀を引き寄せた。 「無用 : : : 」 将軍は細身の短刀を逆手に握っていた。刃先は唸り声に合わせて小刻みに慄えている

3. 日輪の遺産

476 声で諭した。 「あわてるな。愕くことは何ひとつない。百個師団の共産軍が攻めこんできても、私の軍 隊は負けない 「イエス・サー・ゼネラルー そろ と、一一人は声を揃えた。 「もちろんです将軍。そんなことでしたら、われわれもべつに愕きはしません。しかしーー」 ウイロビー少将は筋肉質の顔をひきつらせて新兵のように気をつけをしたまま、たしか に愕くべきことを言った。 「閣下の財宝が、発見されました」 マッカーサーの表情の動きに、全員が注目した。しかし将軍は彼らの期待に反して、笑 いも愕きもしなかった。端正な顔をいちど、こくりと肯かせただけだった。 「それはすばらしい。で、どこにあった ? ホイットニーが答えた。 かこうしょ - っ 「陸軍の南多摩火工廠です。集積弾薬の処理に当たっていたエ兵隊が、偶然発見しまし 「現在はどうなっている。工兵隊員は ? と、マッカーサーはたたみかけるように言った。

4. 日輪の遺産

さらにひと呼吸おいてから、妻の剣呑な声がした。 〈どうしたって : : : あなた、今どこにいるの ? 〉 タバコを喫うために病棟から出ると、冷たい夜であった。妻の声は昏れ残る雑木山の稜 線を越えて、やっと届くほどに心細かった。 「病院だ。ええと、武蔵小玉市の市立病院。心配するな、俺は何ともない。知り合いが倒 れたんだ」 なりゆきを説明する自信はない。 丹羽は嘘をつかなかったことを後悔した。 〈知り合いって、どなた ? 〉 いふか 訝しげに聞こえたのは、丹羽の考えすぎだろうか。年の離れているせいで、夫の行動に はさして干渉しないが、別れた妻子たちとの関わりについては敏感である。誤解を怖れて、 丹羽は言いつくろった。 「いや、実は参っている。さっきまで一緒に飲んでいたじいさんが、おかしくなっちまっ てな」 産〈おじいさんて誰なの、それ〉 輪「誰だかは、こっちが聞きてえよ。俺は隣で飲んでいただけだ」 言葉を荒らげると、妻はしばらく押し黙った。 〈私 : : : ずっと電話してたのよ。スイッチ、切ってあったの ? 〉 せん けんのん りよう

5. 日輪の遺産

真柴は好んで議論に加わっていたわけではない。温厚で従順で、悪く一言うなら凡庸な優 等生である真柴は、ただ群れの中に身を置くように、彼らとともにそうしていただけであ る なるよ一つにしかなるまい それが本心であった。戦時ならではの二十 , ハ歳の少佐にと って、状況はあまりに重かった。 朝早く、陸軍省の参謀が現れて、昨夜の最高戦争指導会議が夜半まで紛糾したという情 報をもたらした。 共同宣言は政府の名において、すでに黙殺されているはずであった。将校室には再び議 論が湧き起こった。 電話が鳴ったのはそんなさなかである。真柴が受話器をとると、耳に飛びこんできたの は思いがけぬ師団長の声であった。 〈真柴少佐か ? 〉 と、森中将は押し殺した声で確認した。 産〈近くに誰かおるか名前はロにするな〉 輪真柴はちらりと議論の輪を振り返り、「はい」とだけ答えた。 〈そうか。では、東部軍からの命令受領だと言って、そこを出よ〉 「どちらに参ればよろしいのでありますか」

6. 日輪の遺産

ハイ、明るい暮らしのトータルプランナー、ニワ・エステートです」 急によそいきの高い声を使って電話に出ると、事務員は答えもせずに受話器を差し向け 「現場」 ほっと息をついて、丹羽は受話器をうけとった。塩漬けッ いる社員のあわてふためいた声が、耳にとびこんできた。 おどろ 〈社長、大事件です。愕かないで下さい〉 「ふん。おまえらの大事件は聞きあきたよ。また暴走族にスプレーかけられたか。それと も火事でも出したか。大事件なんて言葉はな、そのウサギ小屋が一棟でも売れたときに使 いやがれ」 〈それ、それなんです。売れちゃったんです〉 売れた ! て、てめえ、冗談だったら叩ッ殺すぞ ! 」 ばうぜん 丹羽は受話器を持ちかえながら叫んだ。事務員は呆然と立ちすくんでいる 〈つい今しがた、みんなでべンツを食ってたら弁当が客を乗せてきて、こいつアけっこう だ、俺にも食わせろ、じゃなかった、ええと、ともかく、お宅拝見と上がりこんで : : : 〉 「落ちつけ、落ちつくんだ。主語と述語を明確にしろ」 〈ですから、マルキン総業の社長がやってきて、これならいいって : : : 〉 る。 ーバイフォーの掃除に行って

7. 日輪の遺産

「梅津将軍に危害を加えることはありません。あなたや、あなたの上司に迷惑もおかけし ません。あなたを日本人だと信じています」 一一人はしばらくの間、切っ先をまじえるように睨みあった。たぶん今しがた、遠来の客 のために上司を説得してくれたのだろうこの若者の善意を、こんなふうに逆手に取ること は辛かった。もし中尉が黙って見過ごしてくれたとしても、自分は生涯、この卑劣な手段 を悔いるだろうと思った。 「理由をおっしやって下さい。無理を通した以上、私には私の立場というものがあります」 中尉の立場ー・ーそれは異国に忠誠を誓わなければならなかった日系一一世の立場に違いな かった。 言葉は無力であった。真柴は床に膝をつき、中尉の足一兀に土下座をした。 とがし 「要するにあなたはーー私に勧進帳の富樫になれと、そうおっしやる」 ふり落ちてくる中尉の声は悲しげだった。お願いいたします、と真柴はくり返し何度も 声をしばった。 「およしなさいな。世界を相手に戦った軍人じゃないですかそんなことしてはいけな、 スタンド・アップ。お願いです、立って下さい」 帽の額に手を当てて困惑しながらも、中尉は誠実に、真柴の事情を理解しようとし ているふうだった。

8. 日輪の遺産

428 とに、時はいっそうその刻みを緩めて行くように思われた。 犬の吠え声に目覚め、足音におののき、町に出れば十歩ごとに振り返ることが、彼の習 性になった。 怖れながらも、いつも何かを待っていた。まるで孤島の密林に置き去られた兵のように、 自分の所在がわからなかった。わからない分だけ、すべてのものを怖れねばならなかった。 初めて自分自身の消息を知ったのは、敗戦から三年余りも経った年の瀬のことである。 いわし 新宿の闇市で鰯を食っていた真柴は、隣の屋台からウドンの鉢を抱えて近付いてきた男 に声をかけられた。 しばらく横顔を覗きこむようにしてから、男はためらいがちに言った。 「真柴、だよな : : : 」 男が言いためらったのと同じ時間、真柴もまた考えねばならなかった。世の中が変わっ た分だけ、人間の表情もまた変わっていた。 「やあ、しばらく」 名前は思い出せないが、士官学校の同期生であることにまちがいはない。ひどく目立た ぬ、おとなしい生徒であった。 士官学校の五十一一期生は、一一十代なかばの働き盛りで大戦に突入し、その多くは前線の 指揮官として戦死していた。出会いを懐かしむより先に、生き恥を晒しているといううし さら

9. 日輪の遺産

「意見具申をなさるなら、今晩中ですよ、少佐殿。それだけは、自分にはできません」 兵舎の闇の中に立っているのは、明日の正午を期して始まる「もうひとつの戦」の指揮 官であった。 明日からのことは任せておけ、しかしそれまでのことはあなたの任務だと、中尉は言っ ているにちがいなかった。 この命令を、将軍たちが何の惑いもなく発令したはずはなかった。意見具申をしてみる だけの価値はある、いやぜひともそうせねばならない、と真柴は思った。 作業が終了したのだろうか、少女たちの華やかな声が遠くに聴こえた。夜風に乗って、 それらはやがてひとかたまりの唄声になった。 「出てこいニミツツ、マッカーサー、出てくりや地獄に逆落とし : : : 」 真柴は耳を塞いだ。 そのとき、細長い兵舎の奥で何かがうごめいた。一一人は愕いて闇に目を凝らした。 顔を見合わせ、足音を忍ばせて近付く。懐中電灯に照らし出されたのは、体の弱い、美 遺しい少女の寝顔であった。 曜真柴は少女の肩を揺すった。一一度三度と突き起こされて、初めて少女は寝惚けまなこを 1 灯にしばたたいた。少女が深い眠りに落ちていたことを、真柴は祈った。 「眠っていたのか ? 」

10. 日輪の遺産

〈田中閣下ハ、カラカラト笑ヒタリ。カッテ英国駐在武官ノ間、オックスフォードニ学ビ、 あたか 後、米国ノ大使館付モ長ラク経験セル欧米通ナリ。呵々大笑ハ似合ハズ、恰モ自嘲セルガ 如ク聞エタリ〉 真柴少佐は立ち尽くしたまま、小泉中尉は椅子に座って頭を抱えたまま、しばらく黙考 した。い くら考えても答えの出るはずはなかった。 やがて、田中軍司令官は拍車を鳴らして窓辺に歩み寄ると、勢いよくカーテンを開け、 ガラス窓を押し上げた。蝉の声がなだれこんだ。人々は目覚めたように、い っせいに顔を 上げた。 たけだけ ロ髭を指先でもてあそびながら、田中大将は猛々しく赫く日輪に目を細めた。 りゅうちょう ふいに、あたりもはばからぬ声で流暢な英語をしゃべり、意味がわからずに呆然とする 真柴に向かって、大将は言った。 「遺産を管理する役目も、悪くはない、 とい一つことだよ」 将軍は縛めから解かれたように、カラカラと笑った。 4 かがや