と、庄造は真柴の体を揺すりたてた。真柴はすり抜けるようにして、土手道を歩きかけ こ 0 「おとつい、おふくろが死んだ」 真柴はばつりと呟いた。ただひとりの身内に死なれて方途を見失ったのにちがいない、 と庄造は思った。影を踏むようにして立ち去ろうとする真柴の背に向かって、庄造は濁声 をはり上げた。 もら 「わし、久枝を嫁に貰ったです。ずるがしこいやつだと思わんで下さい。久枝を抱いたと き思ったです、こいつは一生飢えさせんと。いや、わしはこの村の百姓も一生飢えさせん です。少佐殿の食いぶちぐれえ、何とでもしますから、ほれ、そこに家作を建てとるんで す。引っ越してきて下さい」 真柴は悲しい顔で振り返った。言葉が真柴を傷つけたように思えて、庄造は言いつくろ った。 「わしら、軍人ですから。戦をして負けたんですから。生き残った者を守ってやらにゃな 遺らんと、わし、そう誓ったです」 金原老人は話しながら、肥えた体をねじって仏壇の小ひき出しを開けた。 厚いグラフィック誌を取り出すと、ページを繰り、戦を知らぬ三人の男たちの前に差し
だいだい 真柴は橙色の「光」の箱を取り出すと、庄造に勧めた。唇にからむ刻み葉をいらいらと 吐き出しながら、真柴は煙に顔をしかめた。 「みんな、死んじまったんだ。阿南閣下、森閣下、田中閣下、杉山閣下 : : : 」 庄造は聞きながら指を折った。小指が余った。 「もうお一人、おられるはずです」 真柴は肯いた。煙をほうっと吐き出しながら、いっそう苦渋に満ちた顔を庄造に向けた。 「知っているのか、その一人がどなただか 「さて、なにぶん雲の上の方々ですから」 「梅津閣下だよ。参謀総長の、梅津大将だ」 庄造はつなぐ一言葉を失った。極東軍事裁判の被告人の中に、その名前があったことを思 い出したのである 「しかし、絞首刑はまぬがれたのでは」 きんこ 「うん。終身禁錮だ。まさか梅津閣下が戦犯に指名されようとはな。地味な軍人だったし、 むしろ陸軍がしでかした事件の後始末ばかりしてきたような方なのに」 「降伏調印式での全権でしたね」 「ああ。だが昔のことを言えばそればかりじゃない。一 ・二六の後の陸軍次官。ノモンハ ンの後の関東軍司令官。そして終戦の時の参謀総長だ。気の毒な方だよ、責任ある人間が
386 「ああ、そうよなあ。一一十三年、いや四年だったか。春先の梨の受粉のころだった。その ころはここいらも一面の梨畑でよ。花の季節になりや、誰も桜なんぞに目が行かねえぐれ え、それこそ村じゅう真ッ白な敷布を広げたみてえになったもんだ」 金原は見果てぬ花を見るように、遠い目をした。 満開の梨棚を見下ろす小川の土手道を歩いてくる人影が、真柴にちがいないと、はるか 遠くから確信したのはふしぎなことである 金原庄造は長い間、それを心待ちにし、また同時に怖れてもいた。 「久枝、おめえ家に帰ってろ。おやじにや何も一言うんじゃねえぞ」 祝言を終えたばかりの幼い妻は、受粉の筆を休めると、夫の視線を追って表情をこわば らせた。久枝にはその来訪者を待っ理由は何もなかった。 「でも、あいさつぐらいしとかなきや」 真柴は進駐軍の払い下げらしいぶかぶかの外套を着、粗末な鳥打帽を冠っていた。風呂 敷包みを小脇に抱えて、ときどき立ち止まっては訪ねる家を探すしぐさをしている どう呼んだものかととまどった末、庄造は「おおい ! 」と叫んで手を振った。 真柴は土手道にはい上がった庄造の姿を認めると、鳥打帽を脱ぎ、遠くから深々と頭を 下げた。ずいぶんな苦労をしたのだろうと、庄造は思った。 カーとう
392 「そんな : ・ 庄造は思わず、真柴の肩を擱んだ。忘れかけていた感情が時を踏みこえて甦った。 「それじゃあ、あいつらは、いったい何のために。そんなバカな話がありますか」 真柴の痩せた体は、庄造の力にゆらゆらと揺れた。 「ではどうしろというんだ。火工廠は米軍に接収されたままで、あのことは他に誰ひとり として知らんのだぞ」 「待ちましようよ。やつらが出て行くまで、五年でも、十年でも」 「待ったからどうなるというんだ。いっか接収が解除されたとしても、こんな俺たちだけ で何ができる」 真柴は立ち上がると、古ばけた長靴で石を蹴った。 「できるもなにも、やらなきゃいかんでしよう。自分は頑張ります。金を稼いで、あの山 をそっくり買ってやる。ねえ、少佐殿。世の中どう変わるかわからんのです。頑張りまし ようよ」 「あんたは、本当にいい男だなあ」 と、真柴はつくづく庄造の顔を見つめた。 「せめて、焼いてやればよかった。なんであのままにしてきたんだろう」 「そんなことじゃない。自分らがやらねばならんのは、そんなことじゃない」 よみがえ
「思い出したよ。あの顔は変わらんね」 と、真柴は庄造に笑いかけた。 「帰ってろ。話はここでするから」 庄造は久枝に向かって言うと、梨棚の下から霜よけの古畳を担ぎ上げて、土手道に敷い た。久枝は所在なく花の下に立っていたが、もういちど夫に促されると、おじぎをして走 り去って行った。 「梨畑にパイナップルを持ってくるなんて、まったく俺は世間知らずだよなあ」 真柴はそう言って古畳の上に座ると、春色に染まった火工廠の山肌をばんやり眺めた。 「すまんな。この通りだ」 真柴は畳に両膝をついて、頭を下げた。そのことを言いに訪ねてきたのだと知ると、庄 造はたまらなく哀れになった。こうした実直さが今の世の中で、どのくらい不利益なもの であるかは良く知っている 「連絡しようにも、命令がこんのだから仕様がない 「小泉中尉殿は ? 」 庄造も真柴と肩を並べて座った。 「さあ。どうしているのやら。何度か大蔵省に問い合わせてみたのだが、人の出入りが激 しいのと、公職追放なんかのゴタゴタで、ちっとも要領を得んのだ。こっちもおっかなび
「やあ」、と真柴は歩み寄って、懐かしげに庄造の手を握った。 「ご連絡がないもんで、ごらんの通りすっかり百姓になっちまいましたよ」 庄造は頬かぶりを取って笑い返した。 「君がまだここにいると耳にしたものだから 真柴はカのない声で言った。めぐりあいの言葉はどちらも矛盾だらけであった。おたが い生きるために精いつばいだったのだ、と、一一人は目の中で了解しあった。 「こんにちは」、と久枝が花の下から顔を出した。真柴は頭を下げ返してから少し考え、 「ああ、君は」、と目をみはった。 「見ちがえるな。いい娘になった」 「村の若い者はみんな兵隊にとられて、手が足らんものですから」 庄造は嘘ともまことともっかぬ言い方をした。やつれ果てた真柴を前にして、婿に入っ たなどとはとても言えなかった。 頭の良い真柴がどこまで事情を理解したのかはわからない。かって見せたことのない柔 遺和な笑顔を向けて、真柴は風呂敷包みを久枝に手渡した。 曜「これ、つまらんものですが。に出人りしている知り合いがいるもので。パイナップ ルの缶詰です」 豪勢な手みやげに久枝は目を丸くした。
いんずう みんな自決してしまったものだから、法廷に引きずり出されたんだ。員数合わせだな、つ まり」 そんないきさつもあったのか、と庄造は溜息をついた。 「びんばうクジを引かされた、というわけですか。たまりませんなあ」 「言ってしまえば、そういうことになる。陸軍省にいたころ、何度もお目にかかった。他 の将軍たちとは、ちょっと毛色がちがうんだ。抜群の実務家だよ。だから終戦処理にはど うしても必要な人物だった。やるべきことが多すぎて、自決さえ許されなかったんだよ、 あの方は」 真柴は小石をつまんでは、意味もなく土手道に投げ続けた。 「しかし、禁錮刑ならばいずれ釈放されることもあるのでは」 「うん。そのうち新憲法の発布とか、講和条約の締結とかがあれば、恩赦ということもあ ると思う。だがなあ : 真柴はやつれた顔を無念そうに青空に向けた。 遺「死んじまった」 曜「え、死んだ ? 」 「ついこの間のことだ。何も言わず、知らん顔をして死んじまったんだ。だから俺は、俺 たちの使命もこれで終わったんだと思う。そう考えるしかあるまい
つくりだしな。たぶん、役所にはいないと思うが」 「そろそろ連絡はありますよ。ここも、真柴少佐殿のご実家も知っておられるんですから」 真柴はふっと淋しげな目を、足元の梨棚にすべらせた。 「その、少佐殿というのはやめてくれよなあ」 横顔を見つめながら、庄造は改めて真柴の変わりように愕いた。闇市をさまよう多くの 男たちと同じ、飢えた、精気のない、抜け殻のような顔であった。たどってきた道筋を訊 くことは憚られた。 「実はな、命令を解除しようと思ってやってきた。それだけはしておかんと、あなたも心 が重かろうと思ってね。小泉さんにもそのことを伝えたいのだが」 「命令の解除、と申しますと ? 」 「うん。はっきりしたからな。もう上からの命令はありえんのだ」 魂の抜けたように、唇だけで真柴は言った。命令を待ち続け、そのまま立ち往生してし まった困惑が、年よりも十も老けて見える横顔にありありと泛かんでいた。 遺「話したかな、命令の発令者のことは」 曜「聞いてはおりませんが、何となく耳にしておりました。お名前だけでもすごくて、自分 9 な」にはピンとき士 6 せん 「そうだよな。俺だって、あれは夢だったんじゃないかと思うことがある」
「じゃあ、なぜこだわるんです ? 」 丹羽はネクタイをくつろげると、やっと一一一口うべきことにたどりついたように、はっきり と玄いた。 「欲がなくなったとき、こいつは宝さがしの物語じゃねえと気付いたんだ。つまりだな、 これは国生みの神話だ」 高速道路の高みから望む一面の夜景の上を滑るように車は走った。 やしき そび 梨畑の闇の中に聳え立っ金原庄造の邸は、まるで濠に囲まれた城郭のようである。 土地の高騰で立派に建て替えられた家の目につくこのあたりでも、これだけの構えはま ずあるまい じんちょうげ 門前に車を止め、沈丁花の匂う小径を歩くと、畑の縁に沿って何棟かの借家が並んでい どの窓にも灯はない。 「あの左の端が、真柴さんの家だったんですよ」 遺「へえ。本当にお邸の庭つづきなんだな」 曜「昼間だと、ちょうどこの畑の棚の上に、火工廠の山が見えます。ほんのすぐそこに」 月のない闇夜であった。猟犬が鎖を鳴らして、激しく吠えた。 玄関の前に、高級車が乗りつけられていた。
276 「丹羽さん、あんた妙な取引きはしなかったでしようね」 「妙なって ? 」 視線をはずす丹羽の鼻先に、海老沢は手帳を突き出した。 「この件から手を引けっていう条件が、ついたんじゃないですか ? 」 丹羽は不敵に笑い返して、アタッシェケ 1 スの中からもう一冊の手帳を取り出した。 「それらしいことは、たしかに言っていた。だが、法的に有効なわけじゃあるめえ。理由 はともかく、くれるというものは黙ってもらっておくのが、俺の主義だ」 不良在庫六棟の肩がわりで手を打ったのなら、丹羽は一一度と自分とは会わないはずだ、 と海老沢は思った。 「金原ともあろう人が、そんな甘いやりかたをしますかね。これは、何かありますよ」 「そうかな。俺はむしろ善意に解釈したぜ。金原のじいさんは俺の惨状を見かねてだな 「善意 ! ーー・・・・・なんて美しい言葉だ。しかし、そういう言葉は気をつけて使ってもらわなけ ればね。 。いですか、金原庄造は少なくとも他人のために何かをしてやるなどという、け っこうな人物じゃありません。この僕が保証します」 言いながら海老沢は、自分の言葉に責任が持てなくなった。金原の「善意」については、 海老沢も少なからず思い当たるふしがあったのだ。