こえなかった。むしろそうすることが自分の使命であり、自分はすでに三人の大人たちと 肪同じ立場にあるのだと、決意しているようであった。 「野口先生がそうおっしやったから。私、みなさんのご迷惑にはなりません。もし敵に捕 まって問い質されたら、舌を噛んで死にます」 少女はそう言って二、三歩すすみ出ると、大きな前歯で舌を噛むまねをした。 野口教員の言ったとおり、たしかに利ロな子供だと、曹長は感心した。万事に機転がき き、目から鼻に抜けるような手際の良さを、曹長は作業の間にすっかり認めていた。 しばらく考えるふうをして歩きながら、真柴が訊ねた 「そうは言ってもおまえ、われわれがいったい何をしたか、知っているのか」 少女はにべもなく答えた。 「わかりません。でも、大人になればきっとわかると思います。いまわかるのは、みなさ んがとても大事な任務を負ってらしたということだけです。だから、隊長さんがもういー とおっしやるまで、私は先生のことやみんなのことは忘れています。そうしろと一言われる のなら、嘘もっきます」 男たちは同時に、ほうっと息をついた。小泉中尉は少女の前に立っと、長身を折るよう にして小さな肩を擱んだ。 「おまえなあ : : : その、思い出していい日がいつになるかわかるのか。十年後かも知れん
「とても、尊敬していました。わかっていただけて、ありがとうございます 肪初めて少女が泣いた。涙を拭おうともせずにうつむき、唇を噛みしめ、声を押し殺して 位いた。 「も一ついー わかった。中尉、もう何も言うな」 真柴はそう言って、秋虫のすだき始めた土手道を、先に立って歩き出した。そのまま 時間も歩けば、故郷の日野であった。 ふいに、四人の影が路上に延びたと見る間に、ヘン 、ドライトを一っ一っと灯したオート ハイが背後から走ってきた。 曹長は手びさしをかざして振り返った。川岸の湿気が虹色の光の輪を作っているばかり であった。やがてくつきりと、オー トバイを操縦する軍人の姿と、はね上がるように従う 側車の形が浮かび上がった。曹長はとっさに、少女を背のうしろに隠した。 オ 1 トバイは光の中にもうもうと埃を舞い立てて、一行の前に停止した。旧式詰襟の軍 服の上にマントを着、拳銃と図嚢をたすきがけに掛けた憲兵将校が降りた。 ひさし へ ッドライトを日裏にし、顎紐をかけた軍帽の庇を深く下げているせいで、表情は見え オー 「これは、。 とういうことでありますか、真柴少佐殿」 憲兵は詰め寄った。 あごひも ほこり
永遠の恐怖と苦悩の底に叩き落としたのだった。 そこは多摩丘陵の山ぶところの、切り通しの峠道に沿った谷間だった。うっそうと雑木 の繁茂した山肌は暗く、不吉だった。 荒れ果てた工場が建ち、どんよりと風の動かぬ、モノクロフィルムのような風景の中に、 たたず 巨大な煙突が何本も魔物のように佇んでいた。 無人の衛門をくぐり、緩い坂道を一マイルも走ったところで、エ兵隊長が車を出迎えた。 砂利道はそこから左に折れ、両側に険しい山肌ののしかかる狭い谷間を上っていた。し ばらく行くと、道ばたに崩れかけた三角兵舎が一棟、うらめしげに建っていた。なんとい 、ンドルを握りながらイガラシは思った。 ういやな場所だろうと、 岩壁に囲まれた、壺の底のような広場に行き着いた。ジープのステップに立って先導し てきたエ兵隊長は青ざめた顔つきで説明した。 の倉庫に、信管を外しただけの一トン爆弾が残っておりまして、そ 「そこのコンクリート の撤去作業の最中に、たまたま地下壕への入口を発見したのです」 産 遺 ほの暗い広場の奥に小さな石の祠が建っており、ちょうどその背面に、ぼっかりと等身 の 大の空洞が開いていた。 「この神社が珍しくて眺めていたら、あちらに別の台座があることに気付きまして。誰か がコンクリートの台座をわざわざ外して、ここに移動させたのだろうと。それで何となく
515 解説 浅田作品では魂が入っているからこそ、登場人物たちに血が通うことにもなる。彼らは、 カーら ストーリーに合わせて動く作者の傀儡では決してない。浅田氏の紡ぐ物語の世界では、彼 らは、自らの意思で動く生命をもった存在となっているのだ。だからこそ、読者は己を主 人公に同化させながら物語の世界に浸ることができるのである。主人公の魂が、読者の魂 とシンクロし、そこに真の感動が生れ、それは余韻となって永遠に我々の心に残るのだ。 はやく しかも、驚くべきことに、践田作品では、ストーリ ーの中ではほんの端役にしか過ぎな いような人物でさえ、血が通い生き生きと描かれているのである。例えば、『蒼穹の昴』 シャォメイ ( 下巻 ) には「小梅」という、耳の聞こえない村娘がほんのちょっと顔を出す。彼女は、 おういっ 袁世凱の暗殺に失敗し牢に繋がれた王逸を脱出させるのに一役買うことになるのだが、そ のワンシーンにしか登場しないだが、実に印象的なのだ。 浅田作品では、この「小梅に限らず、そうした登場人物が目白押しだ。本書では、冒 頭に登場する女子学校の生徒たちゃその教師である野口が、そうであろうか。ともかく、 そうした人物たちに遭遇できるのも、浅田作品を読むときの密かな楽しみであろう。 さて、本書であるが、終戦前夜の昭和一一十年八月と、それからほば半世紀が過ぎた現在 の日本とが舞台となっている。過去と現在という二つの時点が同時進行的に描かれ、やが て一つになるという浅田氏が得意とするスタイルの、その原点が本書にあるとみてよいの ではなかろうか
152 「実は昨日からずっと、膝頭が合わないのであります。少佐殿は落ち着いていらして、や つばり士官学校はたいしたものだと思っておりました」 おび 膝頭が合わぬほどの怯えが、決して顔色や言葉に表れないことのほうがたいしたものだ と、真柴はかえって感心した。 「俺は脳ミソが慄えつばなしだよ。頼むぞ」 あかぬ 中尉は新兵のように垢抜けぬ敬礼をすると、線路ぎわのトラックに向かった。 「行ってきます」 と、頼もしい濁声を上げて、曹長は中尉の後に従った。 そび トラックを見送ると、真柴は山ぶところに聳え立っ火工廠の煙突を目ざして歩き出した。 太陽は峰にたゆたう朝靄を朱く染めて、八月の空に翔け昇った。 たんぽ 街道に沿ってずっと続いていた梨畑も、このあたりでは青々とした田圃にかわっていた。 赤土の道はからからに乾ききって、風が立っと視界は黄色く濁った。ここから切り通しの 峠道を越えて川崎街道を下れば、ほどなく郷里の日野である。 南多摩火工廠が建設されたのは昭和十三年のことで、子供のころに仲間たちと足を伸ば したこのあたりは野兎や猿の出る山であった。もしかしたら、近在の出身であるという理 由だけで自分は選ばれたのかもしれない、と思った。
かく、ひとりのカで何とかやってきたのである 「でもよ、それだったら妙だよな。町が急に財源を確保したのかよ。市の予算で福祉財団 を作るなんて、おめえ、実現したら快挙だぜ。それだけでこの町は有名になっちまう」 「その、資金の出どころなんですけどね」 海老沢は怖い話でもするように声をひそめた。 「どう考えても、数十億の基金を提供できる人間は、金原しかいないと思うんですけど」 おどろ 「ほらな」、と丹羽は愕きもせずに言った。 「やつばり善人なんだよ、あのじいさんは。私財をなげうって福祉財団を作る。けえつ、 泣かせるなあ。いや、やりかねねえぞ。何しろ恵まれない不動産屋に、三億ものカネをポ ンと投げたんだからな」 「それとこれとを一緒にしないで下さい」 「いいや、一緒かもしれねえぞ」 と、丹羽は意味ありげに、一一つの手帳を重ねた。ずっと考え続けてきたことをようやく 遺口にするように、丹羽は目を据えた。 の 「やつばり、あんたはこの謎の合鍵を持って来たな」 「合鍵ですか ? 「金原は勝負に出るんだ。あの米軍施設が返還されるのだって時間の問題だろう。そのと
白いペンキで不細工に塗りたくられていたが、窓枠や庇には隠しおおせぬ焼けただれた痕 跡が残っていた。 隅田川の堤防に沿って、複雑な形の病棟が入り組んでいた。中尉は歩きながら、まるで 弁解をするように、自分は神戸出身の純血の日本人である、と言った。自分よりさらに小 柄な、厚いフラノ地の将校服に包まれた米軍中尉の人生について、真柴は少し考えた。 おそらく本人以外は誰にも理解できぬほど有為転変の末に、この若い中尉は敗れた祖国 に帰ってきたのであろう。そして今こうして、自分自身すら知らぬうちに、母国の存亡の 鍵を握らされている。いったいどのような数奇な星の下に生まれた男なのだろう、と真柴 は思った。 蔵前通りに面した通用ロのようなところから病棟に入る。天井にむき出しのパイプが雑 あんうつ 然と走る、ひどく暗鬱な廊下を歩きながら、ふと陸軍省の半地下の廊下を歩いているよう な錯覚を起こした。これから参謀総長に会うのだと思った。 薄暗い急な階段を四階まで昇りつめると、冷えびえとした廊下のあちこちにカービン銃 遺を背負ったが立っていた。重要な病舎に違いなかった。 とざ 鎖された鉄扉の前に屈強な下士官が立っていた。精勤章のぎっしりと付いた腕を挙げて、 下士官は敬礼をした。頭ひとつも身丈のちがう小柄な中尉を見おろしながら、下士官は丁 重に面会証の提示を求めた。中尉は手ぶりで鉄扉と真柴とを指し示し、何ごとかを説明し
で、そのまま使ってくれといわんばかりに磨き上げられているのだった。 べつだん死期を悟ってそうしたわけではないことは、海老沢が誰よりも知っている。そ くつろ れは真柴老人の日常だった。いっ訪れても、寛いでいるところを見たためしはなかった。 身のまわりを片付けることがまるで自分の仕事であるかのように、、 ( つも何かを磨いてい もしかしたら、執拗に年金の受給を拒否し続け、海老沢の善意をけむたがっていた偏屈 さは、こうした異常とも思える潔癖さと同じものであったのかもしれない 「まいったなあ」、と海老沢は思わず呟いた 梨畑の棚を隔てた金原の屋敷で、クラクションが鳴った。 「おばあちゃん、おばあちゃん」 婿の声が金原夫人を呼んだ。 「はいはい 婿さん、せつかちなところだけはおじいさんにそっくりでねえ。先に行く けんど、開けつばなしにしといて。少し風を入れにやね」 遺「不用心じゃないですかね」 曜言ってしまってから海老沢と夫人は顔を見合わせて笑った。 「持ってってもらえりや、助かるわ」 夫人はころころと笑いながら、お辞儀だけは上品にして庭先から出て行った。 しつよう
はゾッと鳥肌立った。 今やほとんどの人間は病院で死ぬのだから、誰もがいっかは世話になる部屋にちがいな それにしても、屋外喫煙所からほんの五十メートルと離れてはいないのは、いかにも不 用意な感じがした。臨終が昼間であったなら、死体は喫煙所にたむろする患者や家族の目 の前を運ばれて行くのだろうか あんうつ ドアを開けて死体を押しこむ。十畳ほどの、思いがけなく明るい部屋だった。暗鬱な場 所を想像していた丹羽の心は少し和んだが、死体を中央に置いてみると、その明るさがか えってしらじらしく感じられた。 「うう寒い。冷えるのよねえ、この部屋」 と、看護婦もしらじらしく笑った。 「暖房を、入れてくれますかね」 身慄いして天井を見上げた丹羽の視線を追って、看護婦は答えた。 「あれは、クーラーなんです。ェアコンじゃないわけは、わかりますよね」 の 輪枕元には花が飾られている。真柴老人のためというより、備えつけの花であろう。ほか には隅のテープルに、魔法瓶と湯呑み茶碗が置かれているきりだ。 「殺風景なところだなあ」
じっと夫人の背を見つめる将軍の視線に気遣いながら、金原は言った。 イガラシ中将は軍帽を脱いで胸に当て、まっすぐに歩いて金原夫人の背後に立っと、十 けいけん 字を切って敬虔な祈りを捧げた。刈り上げた銀髪のうなじはたくましく、歴戦の野戦指揮 はたざお 官の貫禄が、小柄だが旗竿を入れたような背筋から漂い出ていた。 イガラシ中将と金原夫人は合掌したまま、古い記憶をていねいにたどるように、長いこ と動かなかった。 「これ、どっしましょ一つか」 と、海老沢は思いついて、ウエストボーチの中から手帳を取り出した。金原はまったく 興味なさそうに顔をそむけた。 「だから焼いちまえって言ったろう。ま、大事に持っていて、自分がおじけづいたときに でも読めや。薬にはなる」 「しかしなあーー」、と丹羽は突き出た腹をさすりながら首をひねった。 「何で真柴のじいさん、俺たちにこんな物を渡したんだろう」 「わかんねえか ? いや、わかっとるはずだ : 丹羽と海老沢は顔を見合わせた。 「不器用な人だったなあ。昭和天皇の御大葬のとき、多摩御陵のそばでな、御料車を追い かけて警察に取り押さえられたんだ」