真柴はようやくそれだけを訊ねた。野口教員はしつかりとした足どりで歩き、十字に背 負った雑嚢と水筒を、少女たちのそれらに並べて置いた 「私ですかーー私は、生徒たちを引率せねばなりませんから」 野口はそう言って、さりげなく時計を見た。 敬礼をしかけて、真柴は帽子を取り、頭を下げた。子供の時分から、それが世界で一番 ひせん 誇り高い職業だと信じていた軍人というものの卑賤さを、真柴は思い知った。 洞窟の入口で、野口教員は三の谷の小さな空に翔け昇った日輪を見上げた。 「久枝ーーよかったな」 教え残したすべての知識を、そのひとことに集約するように、野口は生き残った少女に 向かってそう言った。 少女は曹長の腕から放たれてもその場に立ちすくんだまま、たとえば恋人の乗った艀を 波止場で見送るように呆然と、坑道の闇に消えて行く野口の姿を見つめていた。 あとには、まばゆく降り注ぐ日盛りの中に、三人の軍人と一人の少女が残った。 遺彼らはそれぞれにうなだれて、弔鐘を聴くように、一発の銃声を待った。 はしけ
生徒たちが帰宅してからも決して作業について語らぬよう、もういちど野口教員に念を 押しておく必要があった。平和のため、という理由は、野口教員の口から諭せばいっそう 効果的であるにちがいない 坂下の兵舎まで下りて、真柴は大声で野口教員を呼んだ。野口は晴れやかさを噛み殺す ような難しい顔で走ってきた。 「あとは坑道を塗り固めるだけですから。自分らだけで十分ですよ。ごくろうさまでした」 少女の疑問に今さら答えるように、、 泉中尉は言った。 「申しわけありません。鈴木はひとりだけ作業に加わっていなかったものですから、みん なの前でちょっと気負って見せたのだと思います。ふだんは大声も出せぬようなやつなん ですが」 そうかも知れない、と真柴は思った。十三歳の子供の考えとしては、むしろ自然だろう。 三角兵舎の中はきれいに掃き清められ、毛布やゴザも兵舎のそれのように、きちんと積 み上げられていた。 三人は自分たちの寝場所になっていた入口近くの床に膝を寄せて座った。 「ただい ま生徒に言ったことは、先生からも重々、念を押して下さい。これは軍の機密に 属することですから」 軍という言葉を口にしたとき、真柴はすでにそれが、ひどく空疎な響きしか持たぬこと
みんなビックリした。と同時に、スーちゃんをかばわねばならないと、誰もが思った。 「誰だ、前へ出よー 憲兵が叫んだとたん、みんなは口々に心の中で考えていたことをしゃべり出したのだっ こ 0 「先生は何もまちがったことはおっしやっていません」 「私たちは学問をするために女学校に入ったんです」 「野口先生を返して下さい」 「私たちの成績が悪いのは、第九工場の古い機械が故障ばかりするからです」 「資材も一番あとまわしになるんです」 「先生を返して下さい」 そろ 返して下さい、と、しまいにはみんなが口を揃えた。 「黙れ ! 、、と憲兵は金切声を上げた。それからこんこんと、第九工場の成績が悪いのは、 機械や資材のせいではない、野口教員の危険思想が私たちに伝染しているからだ、と言っ た。野口も貴様らも非国民だと言った。 「 : : : 先生、帰ってくるよ。だからあんなにしつこく言うのさ」 マッさんがそう耳打ちした。先生さえ無事に帰ってくるなら、何を一言われてもかまわな いと私は思った。それ以上みんなが騒いで、憲兵がへそを曲げたら困ると考え、
野口教員がためらいがちに歩み寄って、配給された衣料と、風呂の礼を述べた。表情に 漂う安らかさは、任務を終えたというより、やはり終戦を予感しているからにちがいない 「ごくろうさまでした。放送が終わりしだい、学校までお送りします」 野口教員はほっと眉を開いた。 何かを言い出そうとして口ごもり、真柴が車から降りるのを待って、野口教員は唐突に 言った。 「私は、子供たちに詫びなければならないんです。もし事故でも起こったらどうしようか と、ずっと思いつめていました。ありがとうございます」 「詫びる、とは ? 」 はあ、と野口はまたロごもった。かわりに中尉が言葉を継いだ。 「先生は特高ににらまれておられるそうです。だから、生徒たちまで妙な思想を吹きこま れているんじゃないかと疑われて、それで危険な作業につかされたんだろうと、ずっと悩 んでらしたそうです」 「そんなことはありませんよ」 と、真柴は野口に向かって笑い返した。 ハンドルにもたれて居眠りをしていると見えた曹長の目が、ふいに見開かれて真柴を見 つめた。本当はそうだったのかもしれない、と真柴は思った。
310 曹長は真柴に向かって懇願した。 真ッ白になった頭の中で、相反する二つの結論がせめぎ合った。 たとえ一人でも助けねばならない。しかしその一人を抹殺してしまえば、命令は完遂さ れる 真柴に結論を選択させたのは、野口教員のひとことだった。 「お願いします、少佐殿。久枝は頭の良い子供です。ちゃんとわかっていますから」 真柴が肯くと、小泉中尉は魔が落ちたように拳銃を投げ捨てた。 野口教員の顔に、ほっと安堵のいろが泛かんだ。それから、まるで決められていること のように小泉の拳銃を拾い上げると、野口は真柴に向かってていねいに頭を下げた。 「先生」 と、級長は言い、立ちつくす大人たちをおろおろと見渡した。 「だいじようぶだ、久枝。おまえなら、ちゃんとやっていける」 野口はそう言って何度も肯いて見せた。 「私が、楽にしてやってくれとお願いしたんです。中尉殿を責めないで下さい。ご面倒を おかけしました。私の教育が、どこかまちがっていたようです」 しようよう 従容と落ち着き払って、野口は言った。 「どうなさるおつもりですか
「ない。ないぞーー少佐殿、処分されましたか」 ろうばい 中味を床にぶちまけて、中尉は狼狽した。その手が命令書を包んでいた油紙をもみしだ いたとき、真柴も血の気を失った。 「知らんぞ。そこに入れてあったのか」 「命令書を焼いたとき、この紙に包んで入れておいたのですーー、ー雑嚢の紐が、ほどけてい 小泉と真柴は、畳み上げられた毛布の山を突き崩し、兵舎の隅々を探し回った。 「何でしようか : ・・ : 」 野口教員が不安げに訊ねた。中尉は言葉をつくろいながら言った。 「大事な物がーーー特別に給与された栄養剤なのですがね。見かけませんでしたか、紙袋に 入った、白い錠剤です」 「薬、ですか 野口は通路の床下を覗きこんだ。土間をはいながら、ふいにぎくりと打たれたように身 遺を起こすと、野口はひびの入った丸メガネの目を、一一人の将校に向けた。 「それは、栄養剤、ですよね : : : 」 野口の表情は凍えていた。 いったん幕が下りたかに見えた現実が、思いがけぬ形に暗転したことに気付き、三人は ひも
202 「私の教育が行き届かぬせいで : : : どうか叱らないでやって下さい 野口は責めを乞うように、形の悪いさいづち頭をじっと垂れていた。 この男はいったいどういう人間なのだろうと、真柴は見ているだけで胸苦しくなるほど 誠実な野口を見つめた。教職者としての印象にこれほど欠ける男はいない。生徒たちを監 督するどころか、いつもおろおろと、まるで子を探す親猫のようにとまどっている。見よ うによっては、女学生の中にひとりだけ不器用な男子生徒が混じっているようにも思える のだ。与えられた仕事を切ないぐらいに繰り返す少年のような印象が、この教師にはあっ 「いえ、なかなかしつかりした生徒じゃないですか。他に誰も聞いているわけでもなし、 そう気になさらんで下さい と、小泉はうちしおれる野口を励ますように肩を叩いた。 「あとで、よく言ってきかせます。決して任務をないがしろにするような子供ではありま せんから : 「そんなことは、自分らが一番よく知っていますよ、先生」 野口はおそるおそる真柴に敬礼をして、生徒たちのあとを追って行った。後ろ姿を見送 りながら、やれやれというふうに小泉中尉は言った。 「横河電機の工場長に聞いたのですがねーーあの教員、特高に目をつけられているんだそ
野口教員はうろたえて、生徒と真柴の顔を見つめた。 「いえ、隊長殿にお訊ねしたいんですけど。アメリカの女学生も今は学校に行っていない のでしようか 一瞬、笑い声が起こったが、それはすぐに消えた。真柴は少女の竹刀が面に打ちかかっ てきたような気がした。応えねばならなかった。 「もちろんだ。アメリカの学生たちも必死で兵器を増産している。諸君らと戦っているの 「食べる物にも不自由しているのでしようか。家を焼かれた人も、いるのでしようか」 真柴は答えに窮して、野口教員をちらりと見た。しかし野口は生徒の質問をとどめよう とはせず、黙ってうつむいていた。 「米国は国土が広く、都市も分散しているから、わが国のように焦土になってはおるまい 食糧事情も、われわれほどは切迫してはおるまい。しかし、本土決戦で返り討ちに遭って 撤退すれば、たちまち逆転するのだ」 遺「こんどは、日本軍が攻めて行くのですか 「そうだ。敵が降参するか和平を申し入れてこない限り、帝国陸海軍は米国本土まで攻め 7 こむ。カリフォルニアに上陸して、ロッキー山脈を越えて、ニューヨークにまで攻めこむ のだ」 めん
に気付いた。軍の機密ーー何というおぞましい言葉だろう。ひからびた感触だけが、喉の 奥に残った。 せんさく 「万が一、敵に詮索されるようなことがあったら、生徒たちの身に累が及ぶかもしれませ ん。忘れるように言って下さい。よろしいですね」 野口教員は何かを質問しようとしたが、生徒たちの身、という言葉におじけづくように 押し黙った。 真柴は小泉中尉の顔を窺った。それでよい、というふうに中尉はひとっ肯くと、野口の 緊張をときほぐすように微笑みかけた。 「いや、べつに堅苦しく考えるほどのことではありませんがね、この先どういう世の中が やってくるかわかりませんから、やはり厳重に言い含めておいて下さい。生徒らはずっと 今日まで三鷹の横河電機にいた、と。それでいいじゃないですか」 出発を午後一時としたのは、敗戦に打ちのめされている火工廠から逃げるように立ち去 るのは気が引けたからである。生徒たちもひどく落胆しているようだし、少し気を落ちっ 遺けてから出発しようと、真柴は言った。 の 曜野口教員の表情はむしろ明るかった。二人の手前、戦の終わった喜びを口にすることは じようぜっ 3 なかったが、一 = ロ葉は自然と饒舌になった。 しばらくの間、三人はこのさき起こるであろう出来事について、かなり無責任な意見を
一瞬、つなぐ言葉を失った真柴にかわって小泉中尉が言いつくろった。 「いや、先生の学級が一番まとまっていると、横河電機の工場長が推薦したんです」 「はあ、そうでしたか : : : ちょっと言いわけをするようですけど」 と、野口教員は誠実そうな顔を上げた。 「私はそんな大それた者じゃないんです。皆さんたちとはちがって、苦学して夜間大学を やっとこさ卒業した、代用教員みたいなものなんです。子供たちに平和を説き続けたこと が、あらぬ誤解を招きました。特高にはアカ呼ばわりされましたけど、本当はマルクスだ って読んだことはないんです」 「もういいんですよ。先生がいて下さって助かりました。まったく良い教育をしておられ る。内心、敬服しておりました」 野口教員の性格はわかりきっている。そのぐらい純粋な男である 戦とも世相とも関係のない短い講話を、この不器用な若い教師は寸暇を惜しんで語り聞 かせていた。わずかな小休止の間にも、そのまわりにはいつも生徒たちの輪ができていた。 遺ぎこちない敬礼をして野口が立ち去ると、小泉中尉は少しあきれたように呟いた。 の 「あれは、確信犯ですな」 共産党員か」 「確信犯 ? 軍人が戦をするこ 「いや、確信犯的な教育者です。まったくそのことしか頭の中にない。