金原 - みる会図書館


検索対象: 日輪の遺産
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1. 日輪の遺産

正月五日の晩、郷里から戻ってみると、エプロン姿の妻が何事もなかったように立ち働 ーていた。 おかえりなさい、と妻は言った。金原夫人が一杯機嫌でテレビを見ており、やはり何事 もなかったように、おじゃましてますよ、と言った。一家は金原夫人とともに、詫びの言 こ一」と 葉も思痴も叱言もなく、まったく何事もなかったように新年を祝った。 金原夫人の術中にまったといえばそれまでだが、正直のところ海老沢はその戦術に舌 を巻いた。性格を読みきられているとしか思えなかった。 改まって手を突かれれば、正義感の強い海老沢は決して許しはしない。何事もなかった ねっぞう かのような状況を捏造し、事件を日常の中でうやむやにしてしまおうというわけだ。しか しそうなってしまえば、優柔不断で争いごとを好まぬたちの海老沢が自らの主張をもうや むやにするであろうことは明らかだった。海老沢自身も、もしやり直せるものならば、そ んな形で再出発することを望んでいた。その形を、金原夫人はおそらく妻にも意を含めて 用意していたのである 遺家族はぎこちなく、それでもともかく生活を再開した。何事もなかったように。 曜以来、金原夫人からは何も言ってはこない。家族のひとりひとりが、金原と夫人に救わ れたことは、今のところたしかである。もしこのまま日常のあわただしさの中で空白の半 年間が葬り去られるとしたら、金原と金原夫人は善意を施したということになる。他に解

2. 日輪の遺産

ったにあるこっちゃねえ。だがーーやめとけ」 金原はふいに真顔になった。 「どうして、ですか ? 」 「事情を知らねえ人間が読んで真に受けでもしたら、おめえ、国際問題にも発展しかねね えぞ」 金原にはいかにも不似合いな「国際問題」という言葉が、冗談には聞こえなかった。む しろ丹羽はぎくりとした。手帳に記された物語がこの病院の裏山の米軍キャンプを舞台と していることを、金原は知っているーーすべてを読んでいるのだ、と丹羽は思った。 よみがえ 競馬場の掛茶屋で、手帳を差し出したときの真柴老人の真剣なまなざしが瞼に甦った。 泥酔した人間が、あんな切羽つまった表情を作ろうにも作れるものではあるまい 「ともかく、焼いちまえ。残しておいてためになるものじゃねえ」 金原は手帳にこだわった。言われれば言われるほど、丹羽は頑なになった。 「読みかけっていうのは気になりますからね。最後まで読んだら、ちゃんと処分しますよ」 遺「おめえらの言うことはあてにならねえ」 曜「じゃあ、読み終わったら金原さんにお返しします。それでいいでしよう」 金原はまいった、というふうに口をつぐみ、しばらく策を練るように目をつむってから、 車椅子を丹羽のかたわらに寄せた

3. 日輪の遺産

丹羽明人が黒革の手帳を譲り受けた経緯をありていに述べると、金原老人はでつぶりと あ′」 太った顎をゆるがせて笑った。 めえ 「そいつア、とんだ災難だったな。くたばる前にそんなものを押つつけられたんじゃあ、 考えこんじまうのもムリはねえ。もっとも本人はまさか死ぬたア思っちゃいなかったろう が」 はげあたま さげす みごとな禿頭をさすりながら、金原は蔑んだ目を丹羽の手元に向けた。 「じゃ、金原さんもこれをごらんになったことがあるんですか ? 」 「ああ」、と金原は車椅子を操って祭壇に寄ると、ぞんざいな焼香をした。 「あるもねえも、初めて見せられたときア 、いかにわしでも面くらったわい話ができす ぎているしよ。もっとも、ロのうまいジジイだったからな。わしがあんまり立ち退きをせ 遺つつくもんで、そんなものをもっともらしく書いて、わしの気を引こうとしたんじゃねえ 曜のか。なんたって大ウソつきのジジイだ」 かえる 大口を蛙のようにめくり上げて、金原はヒャッヒャッと笑った。 丹羽は真柴老人の生前の顔を思い泛かべた。金原の言うような、姑息な印象はなかった。 こそく

4. 日輪の遺産

「あるぞ。二百兆円は、あの山の中に埋まっている」 「米軍が掘り出していなければね」 壁につき当たったように、一一人は息をついた。希望をこめて、丹羽は言った。 「登記所で調べたんだが、米軍施設の外周の山林はほとんど金原が所有している。昭和三 十年代から買収を始めて、今ではやつの土地が柵の外を取り囲んでいるんだ。ヒョウタン からコマって、いうのかな、結局その後の地価高騰で、そいつが丸金総業の経営基盤にな った」 「昭和三十年代 ? 」 「そう。金原はそのころから財宝の所在を知っていたことになる。金原がいまだに土地の 買収を続けているのは、米軍が発見していないという確信があるからじゃないのかいさ 返還となったときには、外周の山林をすべて所有している金原の権限はいよいよ絶大だ。 自信があるから、やってるんだ」 「ということは、金原にしてみれば僕らの登場はまったく予期せぬことだったわけですね」 遺丹羽は足一兀にちりばめられた都会の灯を見下ろしながら、おかしそうに笑った。 曜「誰だって、戦争が終わってから半世紀も占領軍が居座ろうとは思わねえものな。真柴の 7 じいさんは間近に迫ったその日のために、金原を引きこんだんだ。それが昭和三十年代。 おめでたい話さ」

5. 日輪の遺産

350 「人殺しって言ったって、戦争だもんな。ここいらの家だって、どこも一人や二人の若え 者は殺されてるんだもんな。わしだって、いってえ何十人殺してきたかもわからねえが、 それもこれも、戦争だもんな」 「そんなこと、誰も責めていやしませんよ」 口に出してしまってから、何でこんなことを言うのだろうと、海老沢は悔いた。金原の 顔が歪んだ。 「あんたら、真柴さんがいい者で、わしを悪者だと決めつけとろうが」 「そりや、考えすぎだよ、金原さん」 と、丹羽が言葉を挟んだ。 「いいや、そう思ってるにちげえねえ。あんたらみんなーーおめえもだ」 と、金原は娘婿にまで歪んだ顔を向けた。 「おとうさん、ちょっと酒が過ぎやしませんか」 婿は穏やかに笑顔を返した。しかし金原は獸めいた唇に酒を流し込んで、いよいよ言葉 を荒らげるのだった。 「わしも人殺しだが、野郎だって立派な人殺しだがね」 「誰もそんなこと聞いてやしませんよ。さあ、おとうさん、もう休みましよう」 差し伸べた婿の腕を、金原は激しく払いのけた。瞳はカなく据わっている

6. 日輪の遺産

348 来訪者を見た。 夫人が退がるのを待って、丹羽は舅と婿の両方に頭を下げた。 「その節は、どうも」 「それアやめろ。今日は真柴のじいさんの法要で、商売の話は抜きだ。頭はいっぺん下げ りやいい」 金原は座椅子から身を起こすと、ひとりずつに酌をした。海老沢の酒を受けながら、金 原はしみじみと言った。 「おめえさんからこうして盃を受けるたア、思わなんだな、エビさんよ」 「真柴さんが仲を取り持ってくれたんでしようか 海老沢は単刀直人に、福祉財団のことを訊こうとした。しかし金原の鋭い目はすでにそ れを察知しているように、きっかりと海老沢の唇を制した。 「わしのすることにや、まちがいはねえ。少なくとも、おめえら若え者よりア確かだ。ず っと、そうしてきた。これからもだ」 自分が不死身であると信ずるように、金原はぐいと盃をあけた。 この供養の席で、本来かたられねばならぬ真柴老人のことについて、金原は容易に話し 出そうとはしなかった。しびれをきらして丹羽がその名前を口にすると、金原は投げやり しゅうと

7. 日輪の遺産

り打ちとけた、花見の宴もたけなわのころである 車にはマイケル・イガラシ退役中将と、金原夫妻が乗っていた。 助手席の将校がトランクから金原の車椅子を取り出し、敬礼をしながらドアを開けた。 金原は「よう」、と手を挙げ、杖にすがるようにして歩み寄ってきた。 「お知り合いなんですか ? あの軍人」 海老沢は酔った顔をしらふに装って金原に訊ねた。将軍はパイプをくわえ、サングラス をめぐらして三の谷の空を見上げている 「さてな。まんざら知らぬ仲でもねえらしいけんどーー今さら年寄り同士が因縁話をした って始まるめえ。車椅子でごろごろやってきたら、途中で拾われた」 金原夫人は周囲の思惑などまるでお構いなしに、会釈をしながら宴席の脇を通り抜ける と祠の前に屈みこんだ。地方政財界のトソプレディにふさわしい豪華な藤色のドレスが、 小さな夫人を大柄に見せていた。 「やあ、ありがたいねえ。お子さんたちに供養していただいたの、初めてですよ、きっと」 遺盛りだくさんに供えられた花束や菓子を見て夫人は独りごっように言い、、 の中から生米と線香とを取りだした。 はんにやしんぎよう 。、、、こ ) 、、こしとけ、辛気くせ 「くそばばあが、秋葉様の祠で般若心経はねえだろおーオ ( 力しー えぞ」 っえ

8. 日輪の遺産

「あのな、社会奉仕ってえ言葉はよ、わしらが聞くと、滅私奉公ってえ昔のお題目を思い 出させるのさー - ・・・、ーこれだけアわかるめえ。イヤな言葉だ」 丹羽の茶碗になみなみと酌をすると、金原はそれだけで強欲な感じのする分厚い唇にポ ケット瓶をくわえ、ぐびりと飲んだ。いかにも周囲に止められている酒を、そうして隠し 持っているというふうであった。 「このジジイは、一年中、花が咲いたの鳥が飛んだのって、ばうっとして暮らしやがって よ。まったくけっこうな人生だ。で、わけのわからん夢を見て、まわりに迷惑かけて死ん 一つ一つ、寒、ー じまう、と。気楽なもんだな コートを脱ぎかける丹羽の手を押し返すと、金原老人は何を思ったか、死体をくるんだ シーツの端を引き寄せた 「こんなもん、死人に用はねえ。もう寒くもねえんだから、生きてる人間によこせ」 ストレッチャーごとカずくで引き寄せ、金原は死体のシーツを剥ぎとると自分の体をす つばりとくるんだ。 「そりや、ひでえよ金原さん」 「なあに、ひでえことがあるもんか。あとは頼んだぜ、若いの。ひと眠りするけんど、わ しもこのまま死んじまうかも知らねえしな」 たかいびき 壁に頭をもたせかけ、シーツの中でそう言うと、金原老人はたちまち高鼾をかき始めた。

9. 日輪の遺産

「僕は関係ないですよ。遊びに来ているんだから」 「だが、 どうもそんな雰囲気じゃねえぞ。みんながこっちを見ている」 折良く野球場のバックネットを背にして、軍楽隊の演奏が始まり、人々はそちらに向か って集まり始めた。 金原は夫人に介添されて、足を曳きながら歩みよってきた。娘婿が車椅子を押して後に 従っている。 「やあ、よく来た。ゆっくりして行ってくれや」 金原がそんなふうに笑いかけたのは初めてのような気がした。この壮大なイベントのど さくさにまぎれて、一気に言いくるめようというのであろうか 「金原さん、私は 言いかける海老沢を、年季の入ったしわがれ声が制した。 「面倒なこたア言いなさんな。飲んで食って花を見て、楽しくやってくれりやいー 今日 だけは、この中のどこをどう歩こうが勝手だ。ただしーー・花を盗んだり、土を掘ったりし ちゃならねえ」 春の光に老いた目を細めて、金原は花ざかりの山々を見渡した。

10. 日輪の遺産

しの 「そう言ったって、あのクソジジイには偲ぶほどの遺徳なんて、ありやしねえもんな」 と、言った。 それからひどく遠回しに、そうした手順を踏まねば話が行きっかぬとでもいうふうに、 金原は戦後の小玉村の風景や、寄合いのような草創期の議会のことや、私鉄の支線を誘致 した苦労談や、毎年農民たちを悩ませた大水のことを、とっとっと語った。 それらの多くは娘婿にとっても初めて聞く話のようであった。事業の後継者である彼は、 時おり適切な質問をまじえて、岳父の話に聞き入っていた。 ぼくとっ 金原は決して言葉巧みではなかった。むしろ粗野で朴訥で、要領を得ない語り口であっ たが、それはいちいち、老いた肉体が語るような強い説得力を持っていた。 広縁の外の闇には、まるで終戦直後の荒廃した農村の風景が広がっているような気がし た。時代の切り口の、すべてが死に絶えたような夏の闇。収穫期の梨畑の中に点在する農 家は、男たちの復員と戦死公報を、息を詰めて待っていた。 金原はふと、話すことのうまく言葉にならぬ歯痒さを呪うように、広縁の闇に目を向け 遺た。太い首だけを捻じ曲げたまま、卓の上に置かれた指先を神経質にうごめかせている 輪長い沈黙であった。老人は明らかに、越えてはならぬ領域に踏みこもうとしていた。 再び座を見返った金原の、打って変わった気弱なまなざしに誰もが愕いた。追憶から逃 げ帰ったように、金原は深い溜息をつき、ばそりと呟いた