土曜日は好天に恵まれた。抜けるような青空だった。真夏の暑さもまだ健在だったが、 吹き抜ける風は乾いていて心地よい。汗を拭き拭き、シーナちゃんが太陽を見上げて目 を細める。 「まさしく、神様が真面目なチラシ配りビトのために用意してくださったようなお天気 ですね ! 」 シーナちゃんと梨子は、年齢が近いこともあって、すぐ打ち解けたようだ。シーナち ゃんは、私が最初に梨子に紹介したとき、姿勢を正して大人びた悔やみの言葉を述べた。 それがあまりにもちゃんとしていたので、梨子の方は面食らったようだった。 そのあと、シーナちゃんが背中を向けている隙に、すっとわたしのそばに寄ってきて、 「椎名さんて、杉村さんのガールフレンドですか」と、ニャニヤしながら訊いた。 「とんでもない。職場の同僚だよ。というか部下だね」
長々とため息をつく。長身のシーナちゃんの等身大の憂鬱だから、やつばり吐き出さ れるまで長くかかるらしい。 「やつばもう、駄目かなあ」頬杖をついて呟いた。「物理的な距離ってのは、乗り越え らんないです。向こうが何考えてるのか、わたし、わかんなくなってきちゃってて。ま あ、それはお互いさまかな」 「とりあえず、昼飯は約束どおりに何でも好きなものを奢るからさ、元気出してくれ」 シーナちゃんのリクエストしたイタリアンレストランで、卯月刑事のことを報告した。 彼女は拍手して喜んだ。 「その子本人のためにも、出頭した方が絶対いいですよ。早く踏み切ってくれないです かね」 とても嬉しいからデザートを二品食べていいかというので、私はした。彼女が洋 梨のジェラートとカスタードプリンに舌鼓を打っているときに、私の携帯が振動した。 「非通知」ではなかった。ただの迷惑メールだった。私は舌打ちして消去した。 シーナちゃんは、昨日の菜穂子と同じように目をまん丸にしている。 E 「ドラマでしか見たことないけど、今の電話の出方、誘拐犯人からの連絡を待ってる刑 事さんみたいですね。舌打ちなんかするのも、杉村さんにしちゃ珍しいです」 誰私は事情を話した。私の推測も話した。 「うん : : : 」スプーンを口に突っ込んだまま、シーナちゃんは考え込んだ。「わたしも
水曜日、私が出勤すると、シーナちゃんがもう来ていて、パソコンのモニターの前に 座っていた。私の顔を見ると、嬉しそうに手招きした。 「見て見て見て」 梶田さんのチラシだった。シーナちゃんは私よりもはるかに有能なパソコン使いだ。 見やすいレイアウトだ。事件のあらましと、情報を求める丁寧な呼びかけと、梶田さ じようとう んの顔写真。連絡先には、タテカンにあった城東警察署の番号のほかに、私の携帯電話 の番号も並べて記してある。 私が見入っていると、シーナちゃんは心配になったのか、 「見て見て見てる ? 」と訊いた。 誰「見て見て見てるよ。よくできてるね」私は心を込めて言った「ありがとう」 「今朝六時に来て仕上げたんですよ」
こかに残る。そして、当人にも思いがけないところに影を落とす。梶田夫妻が、梶田聡 美に残したものがそれだ。 夏の日に、赤いシャツを着て、風を切って自転車を駆る少年よ。君はその轍を踏ん ではならなかった。 「杉村さん、あのねえ」 シーナちゃんが珍しくはにかんで私に言った。 「彼と仲直りできたんです」 「そりや良かった」 「三時間も長電話しちゃったんですよ。今月、わたしお小遣い大ピンチ」 「大丈夫だよ、シーナちゃん」 「え ? それってつまり、ずっとお昼を奢ってくれるっていうことですか ? わたしが 社食や立ち食い蕎麦で我慢しなくていいように」 「そうじゃないよ。遠距離恋愛だからって、諦めることはないって意味だよ」 「なあんだ」 「近くにいたって、ズレるときはズレちまうんだからさ」 のつばのシーナちゃんは、私と同じ高さで、きれいな目を瞠った。 「杉村さんに恋愛のアドバイスをしてもらえるなんて、思ってもみなかったわあ」 てつ
病院だ。設備も整っている。 「本当に入院しなくていいんですか ? 」 救急処置室の一角、私はストレッチャーに寝かされていた。その脇にスツールを並べ、 シーナちゃんと梨子が座っている。シーナちゃんは変わりないが、梨子の顔色はまだ灰 色だ。 「大丈夫だよ。医者にも帰っていいって言われた」 正確には、べッドが空いていないので、入院するなら他の病院に照会をかけないとな らないがどうするかと訊かれたのだ。私はそうした方がいいかと訊き返した。医師は、 ほとんど心配ないと思うと答えた。その「ほとんど」のバーセンテージがどのくらいか はわからないが、私はそれでよしとした。病院は嫌いだ。 「家には報せてないよね ? 」と、私はシーナちゃんに訊いた。 「報せてません。ホントなら報せるべきなんだけど」 「うちの場合は例外なんだ」 「杉村さん、運ばれてるときからそればっかり言ってましたよ。こんなことで驚かせた ら、奥さんの方がひっくり返っちゃうって」 そして梨子に、杉村さんの奥さん、心臓が弱いんですよと説明を足した。 「うん、知ってる」 まだ頬を強張らせたまま、梨子がうなずいた。もう十年来の友達に対するような態度 、トわば
「自転車だって歩道を走っていいんだよ」 「もしかしたら、車に撥ねられていたかもしれないんですよ」 ド ) やよ、ゝ 「撥ねられなかったからいい 「それは久保さんと工藤さんのおかげですよ。杉村さんが転がっているところに車が近 づいてくるのは見えてたのに、わたし動けなかったんです。足が突っ張っちゃって」 シーナちゃんのバレーポールで鍛えた筋肉も硬直してしまったわけだ。 梨子はしょげ返っている。あの場所は呪われているんじゃないかしらなどと言い出し こ。私はシーナちゃんに、彼女を家まで送ってくれるように頼んだ。 「杉村さんはどうするんです ? 」 「タクシーで帰るよ。一人で大丈夫だから」 「重・は ? ・」 そうだった。グレスデンハイツ石川の近くの、コインパーキングに入れたままだ。 「明日にでも取りに来るよ。路上駐車じゃないから心配ない」 渋る二人を説得して、救急処置室から追い出した。入れ違いに工藤理事長が入ってき 皿た。ずっといてくれたようだ。成り行きとはいえ、ここにも面倒見のいい人がいる。硬 い表情だったが、 さすがに世慣れていて、シーナちゃんや梨子よりはずっと落ち着いて 「えらい目に遭いましたな」
「すいません」 「何の話 ? 」 「チラシです。ほら、杉村さんが頼まれてる件の。前にお話ししたでしよ」 作ってみたんです、ちゃんと勤務時間外にやりましたよと、シーナちゃんは抜かりな く断りを入れた。 園田編集長は、ト / 型のテープレコーダーにくつつけたイアホンを耳からぶらさげて、 憮然とした顔をのそかせた。げつそりしている。 「何だって ? 何のことよ」 「聞こえませんでした ? 」 「どうして編集長自らがテープ起こしなんかやらなくちゃならないのかって訊いてくれ たの ? 」 「それはうちが手不足だからですよ。わたしを正社員にしてくださいません ? 」 「あたしに頼むのは筋違いよ。この人に頼みなさい」 編集長は手にした鉛筆の先で私を指した。「会長直属のお婿さんなんだから」 ささや シーナちゃんは首を縮めると、私に囁きかけた。「杉村さん、直属なんですか ? 」 「かって、一瞬だけ」 誰「今は違うの ? 」 躍「 " 氷の女王〃がハサミ持って飛んできたもんだから」
する。 「すみません、すみません ! 大丈夫ですか ? 」 私は歩道に座り込み、足を投げ出していた。視界の隅に自転車の車輪が見えた。大き な声もそちらから聞こえてくる。 「避けられると思ったんです」 若い男の声だった。動転してキーが外れている。 「人が立ってるところに突っ込んでくるなんて ! 」 怒鳴るような声は久保さんだ。 「だから通り抜けられると思ったんだけど」 どうやら後ろから自転車にぶつけられたらしい。私の斜め前に立っていた工藤理事長 は、走ってくる自転車に気づいて、危ないと声をあげたのだ。 「杉村さん、動いちゃ駄目ですよ。大丈夫ですか、わたしの顔、見えますか」 シーナちゃんがそばにしやがんでいた。梨子もいる。見開いた目が黒目ばっかりにな っている。 「救急車呼ばなくちゃ ! 」 大丈夫、大丈夫、それほどのことはないと私は言った。言ったつもりだった。だが声 になっていないらしい。シーナちゃんがウエストボーチから携帯電話を取り出し、かけ ている。私は手を動かし、そんなことはしなくていいと、動作で示そうとした。腕があ
「お目にかかりたいのですが、難しいですか」 「あとで買い物に出ますので」と、聡美は声を落として言った。「お電話いたします」 わかりましたと言って、私は受話器を置いた。聡美が私と話しているところを、ちょ っと離れて ( 怖い顔をして ) 聞き耳を立てている梨子の様子をちらりと想像した。お姉 ちゃん、わたしのやることに反対してるくせして、わたしの担当編集者と何を話してる のよ ? 「おつはよ , っ」ざいまーす」 歌うように挨拶してシーナちゃんが来た。 「姉妹喧嘩というのは、こじれると始末が悪いものかな ? 」と、私は訊いた。 「わたし弟しかいないからわかんないです」 「シーナちゃんは、弟と喧嘩したときはどう決着をつけてきたの」 彼女は拳を固め、バレーポールで鍛えた二の腕の筋肉を見せつけた。 「子供のころの話だろ」 「今でも。うちの弟、弱っちいんですよ」 恐れ入りました。 昼前には聡美と連絡がついたが、会うのは夕方になった。彼女の婚約者が、一度私に はまだとしかず 彼の名は浜田利和。聡美と同じ歳で、都内のコ 会って挨拶したがっているというのだ。 ,
ばど印象に残らないと」 「そうですか : 「この梶田さんて人が、うちの前で自転車に撥ねられて亡くなった人だってことさえ知 らないのもいたからね。悪いですね。写真、返しましようか」 「いえ、まだお持ちいただけますか。ひょっとしたらということもありますから、たと えば出入りの業者さんなんかにも、機会があったら見ていただけると有難いんです」 ああそうですかと応じる声は、少々あからさまに面倒くさそうだった。 、 ) んばう シーナちゃんがコピーしてくれた二百枚のチラシは、ざっと梱包して私の机の下に置 いてある。当日、車で来て運び出すことにした。 シーナちゃんとは現地集合だ。朝早くから騒いでは迷惑になるだろう。午後一時から 始めることに決めた。 「敬老の日の祝日があるから、土曜日から三連休になるんですよ。杉村さん、初日をつ ぶしちゃうことになるけど、、、 ししんですか」 「うちの奥さんは優しいから怒らない」 それどころか、菜穂子は、チラシ配りのことを聞くと、自分も手伝うと言ってくれた。 私はあわてて止めた。 「うわあ、ホント優しい人なんですね、会長のお嬢さん。杉村さん、大事にしなくち