人生を歩もうと、たとえば桃子が私と同じようなサラリーマンの妻になるとしても、ど う転んでも、今多一族の財と名前は一生ついて回るのだから、それを裏切ることのない 人間になるよう教育しようと考えているのだろう。 桃子の好きなチェリータルトでコースをしめくくるころには、私は満腹で、少し眠気 がさすほどだった。対照的に、外出で興奮しているのか、いつもならとっくにべッドに 入っている時間なのに、桃子は目をキラキラさせていた。 帰り際になって、桃子がトイレに行きたいというので、私が連れて行った。外出用の 靴をはき、私の目にはまだまだ「よちょち」に近く見える頼りない足取りで桃子がバウ ダールームのドアの向こうに消えると、出てくるまで心配で仕方がなかった。 「おてて、じようずに洗えてる ? 」 通路に出てくると、桃子は小さな手をかざして私に尋ねた。指のあいだに水気が残っ ていたが、石驗はきれいに落ちている。私はそれを褒めた上で、ハンカチを出して手を 拭いてやった。 ータオルにとどかなかった」と、桃子は抗議するように説明した。 「ねえ、お父さん」 歩き出そうとすると、私の袖を引っ張った。 「これ、なあに ? 桃子が指さしているのは、プロンズ製の人型のオプジェだ。パウダールームの前は、
「お父さんにはわかる。桃子も、もう少し大きくなればわかるようになる」 「どうしてお顔がないんだろ ? 」 桃子はオプジェに聞かれることを恐れているかのように、小さな小さな声で尋ねた。 顔の部分に目鼻がないことが、恐怖の原因になっているらしい 「これを作った人は、お顔がない方がいいと思ったんだよ」 「でも、ヘンだよね ? お顔がないの」 「そうだね。美術品というのはね、桃子。ヘンなものでも、素晴らしいということがあ るんだよ。それも、もうちょっと大きくなるとよおくわかるようになるよ。だから今は、 これは怖く見えるけど怖くないんだってことだけ、覚えておこうね。このお店に来て、 桃子がトイレに行きたいときは、いつもお父さんが一緒についてきてあげるからね」 けなげ はいと、我が子は健気にうなずいた。その手をとって歩き出したとき、私の心の内側 で、お馴染みの小さな警句が点滅した。 子供はすべての暗闇にお化けの形を見出す。 私は振り返ってオプジェを見た。気がつくと、桃子もそうしていた。私が微笑むと、 桃子も一拍遅れてにつこりした。オプジェは知らん顔をしていた。
桃子は三歳で保育園にあがり、四歳から今の私立幼稚園に入った。それ以外に、幼児 水泳教室と、読み書きを教えてくれる塾にも通っている。 「リトミック体操のスクールよ。お友達のお母さんに薦められたの。子供の身体感覚を 高めるんですって。お受験では、そういう事柄もけっこう重要視されるらしいわ」 桃子が志望しているーーというよりは妻が桃子の入学を望んでいる小学校は、なかな ードルの高い私立校なのだ。 桃子の〃お受験〃の問題は、昨日今日始まったことではない。彼女が幼稚園に入ると すぐに、私たちの生活のなかに入り込んできた。それまではおっとりしていた妻が、幼 稚園で知り合いになったお母さんたちから豊富な情報をもらうことで、目覚めてしまっ たのだ。「ああした方がいし こ , っした亠刀かいし こういう準備が必要だ」云々の「ご 指南」は、こちらが望んでいる以上の濃度と頻度で攻め寄せてくる。そのすべてをまと てきぎ もに受け止めていたら身が保たないほどなので、私は適宜水をかけるようにしているつ もりだが、菜穂子は真剣だ。 妻としても、桃子に過大な期待をかけたり、何がなんでも英才教育をと望んでいるわ けではない。彼女自身も小学校から私立に通ったし、だから桃子もーーと自然に考えて いただけだろう。が、いろいろと耳に飛び込んでくる情報から推察するに、昨今のお受 しれつ 験競争は、自分のころとは比べようがないほどに熾烈であるらしいとわかってくると、 それまでのんびりしていた分だけ不安が強くなってしまったようである。親がしてあげ
なく怪我人然とした姿に、菜穂子は取り乱して泣き出した。泣きながら私の世話をしょ うとするので、私ももらい泣きしそうになった。両親が抱き合って泣いたり泣きそうに なったりしてるので、事情がわからないままに、桃子も泣き出した。 桃子が泣きじゃくっているのを見ると、菜穂子はにわかにしゃんとした。てきばきと しつぶ 私を寝かしつけ、病院でくれた薬を調べ、湿布を替えてくれた。 「桃ちゃん、お父さんは大丈夫よ。だからもう泣かないでね」 怪我がよくなったら、一泊なんていわず一週間でも十日でも家族で旅行しようと、私 は、いに決めた。 その夜は、桃子も菜穂子のべッドに入り、親子三人で川の字になって寝た。私は上掛 けの下で桃子と手をつないだ。おかげで夢も見ず、傷の痛みに起こされることもなく、 ぐっすりと眠った。
崎でも、我々が上得意客の今多家に連なる者でなかったならば、別の対応をするのだろ ただ、ひとつだけ自信を持って言えることがある。幼い子供に外食で贅沢をさせるの は如何なものかという議論はさておき、菜穂子は、外出したときのふるまいについて、 非常に厳しく躾けている。桃子が言うことを聞かず、騒いだりわがままを言ったりすれ ば、店員の前でも叱りつけるし、言い聞かせてわからなければ手もあげる。現に最近、 外食に出て、桃子がしつこくぐずったので、オーダーをキャンセルして帰ってきてしま ったとい , っこともあった。 だから、どんな店でも、我々が得意客だ今多一族だという下駄をはかせてもらってい なかったとしても、桃子はきわめて行儀のいい子供客として認めてもらえると思う。こ れは妻の手柄だ。こういう場では、まだまだおたおたとしてしまう私では、とてもじゃ ないがこんなふうに娘を躾け、手本を示すことはできそうにない。そんな思いをするく らいなら、ファミリーレストランに ~ 打く。 そして妻が手本としているのは、たぶん自分の子供時代ではなく、二人の兄の子供た ちの受けてきた躾だろう。生まれながらに富を授かった者は、それを正しく、見苦しく もと ないように消費するマナーを覚える義務を負っているという信念の下に。 誰 かといって、妻が桃子に対し、今多一族の跡継ぎの一人として、従兄弟姉妹たちに伍 して陽のあたるところに出てゆくよう期待しているわけではないと思う。ただ、どんな しつ
「、ど , っして ? ・」 「桃ちゃんの住んでるこの東京には、ちゃんと雨が降るからね」 「ど , っしてトウキョウには雨がふって、さばくにはふらないの ? 」 しの 菜穂子が笑い出した。「昼間のわたしの苦労が偲ばれるでしょ ? 」 まったくだ。「幼稚園の先生は偉大だね」 「あなただって、昔は子供たち向けの本を作っていたじゃないの」 「作っていたのは作者だ。僕はそれを本にしていただけだ」 妻はちらりとルームミラーのなかで娘の顔を見て、につこり笑い「桃ちゃん、続きは おうちに帰ってからね」と言った。 絵本は引っ込んだ。が、「ラクダってなに ? 」と、桃子は諦めない。 ) そのページが気 に入っているようだ。 「そういうどうぶつだよ。さばくにいる。でも動物園にもいるから、今度見に行こう」 桃子を連れて上野動物園に出かけたら、ここではラクダを見ることはできるけれど、 背中に乗ることはできないと教えてやらねばなるまい 「今日ね、午後から桃子と一緒にお教室の見学に行ってきたの」と、菜穂子が言い出し 「お教室 ? 今度は何を習うんだい」
「わかりません」 ため息のような声を出した。もどかしげに指を握ったり開いたりしている。 「まるで知らない人ではないような気もするんです。顔形も浮かんできますし。でも、 それをうまく説明することができないんです。焦点が合わないというか」 もしかしたら、具体的に思い出すのが怖いのかもしれませんと、硬い顔をして呟いた。 「だから記憶を封じてしまっているとか : そういうこと、よくあるそうですよ 確かによく聞く話だ。ただ、フィクションのなかではという注釈が付いて。 「そうすると、その女性があなたのお父さんお母さんの知人であった可能性もなくはな いですね」 なります、か」 聡美はそれを認めたくない様子だった。 私は四歳の梶田聡美を、今の桃子に置き換えて想像してみた。私や妻の友人知人 さして数は多くないがーーそれらの人びとを、桃子はどのように認識しているのだろう。 二十八年後に、桃子は彼ら彼女らのことを覚えているだろうか。 よほど親しく、頻繁に行き来し、家族同然に付き合っていて、なおかつある程度の年 誰月に亘ってその付き合いが継続していた人物でなければ、四歳の子供の記憶には残らな いのではないか。たとえば梶田夫妻の同僚とか、近所に住んでいた人という程度では、
二時になる。時計の文字盤では、三つ重ねのアイスクリームを載せたコーンを持ったコ ミックのキャラクターの犬が笑っている。 」も。もッ ) これは桃子からの借り物だ。何カ月も前に壊れたきり、修理することもなく引き出し にしまいこんである私の腕時計のかわりに、娘が貸してくれたのである。 「お父さんの時計はどうしたの ? 」 「壊れちゃったんだ。それとも電池が切れたのかもしれない」 「なおしてもらえばいいのに」 「携帯電話があれば、腕時計は要らないと思ってたんだ」 「でも今日は時計がいるの ? 」 「うん。実は携帯電話も壊れちゃったんだよ」 この世に生まれ落ちてまだ四年ながら、すでにして笑顔の達人となっている我が娘は、 いつも私を魅了してやまない笑みを浮かべてこう言った。 「お父さんは、何でもコワしちゃうメージンだね」 インブット 桃子の小さな脳のなかに、「名人」という一一 = ロ葉を登録したのはどこの誰だろう。ある いは本か、映画かコミックか。教師が誰であるにしろ、彼女はそれをきわめて正しく使 0 った。子供は呼吸するように学習する。だから私も妻も、耳に汚い言葉は一切口にしな かいよう、いがけている。 それでも今は、禁を破り声に出して罵りたい。幸い、ここには桃子もいないから。な ののし
るべき当然の準備を怠ったが故に、桃子の進路が不本意なものになってはいけない。 「桃子はその教室に興味があるようなのかな」 私はちらりと後部座席を見た。当のご本人はまだ絵本に夢中だ。 「楽しそうなのよ。幼稚園のお友達が何人か通ってるし」 幼児水泳教室もそのバターンだった。お友達と一緒だから楽しいと思うのよ。 「本人が嫌がってないのならいいと思うけどね。場所はどのへんなの」 「今までより、ちょっと遠いの。青山一丁目だから」 あざぶ 私たちの家は麻布にある。幼児水泳教室と読み書きの塾は、歩いていける距離だ。送 り迎えは妻と私で、都合をつけながらやっている。通いの家政婦に頼むこともある。幼 稚園には園のバスで通っている。 「車で送り迎えすることになるでしよ。それはゼンゼンかまわないのよ。でもホラ、わ たしはあてにならない運転手だし 腕前ではなく、体調の方がだ。 「先々のことを考えたの。この際、誰かにちゃんとお願いした方がいいかしら」 桃子は、志望する小学校に合格したら、毎日護国寺まで通うことになる。地下鉄の駅 をいくっ乗ることになるのかなーーーと、私が考えているうちに、妻が「どうかしら」と 誰追っかけて問いかけてきた。 「運転手を雇うということか」 ′ ) こくじ
は、善良で平凡であり続けることも、実はたいへんな偉業であるのかもしれない。 . お一レ」い 一昨日の夜のことだ。夕食が済み、すでに桃子はペッドに入っていた。昼間たいそう 活発に遊んだらしく、彼女は私が『小さなスプーンおばさん』の最初のエピソードを二 ページと読んでやらないうちに、すやすやと眠ってしまった。正直言うと、私は少し残 念だった。スプーンおばさんのお話をもっと読みたかったのだ。子供のころ大好きだっ た本なので、読み返すのを楽しみにしていた。 しかし桃子とは約束していた。どんな本でも、お父さんは自分だけ先に読んだりしな いつも桃子と一緒に読んで、一緒に楽しもうと。だから本を閉じて娘の部屋の小さな 書棚に戻すと、妻のいるリビング・ルームへと引き返した。 私の妻はソフアに腰かけていた。何もせず、ただばんやりとテレビに目をやっていた。 彼女には珍しいことだ。家にいてくつろいでいるとき、妻はたいてい本を読んでいる。 さもなければ何かしら手を動かしている。水彩画を描いているときもあれば、千ピース のジグソー ・パズルに挑んでいることもある。込み入ったフランス刺繍をしていること もある。いっときは通信教育でバッチワークを習っていた。だが、これも彼女にしては 珍しいことに、半年ばかりでやめてしまった。 「わたしには向いてないみたい。布と布を組み合わせて、面白い柄をつくることができ ししゅう