「今夜は静かだな」柴崎は助手席にいる新川に声をかけた。 「このへんは、くそいなかだからな」 「バカ、厚木基地だよ」 「ああ、厚木基地」新川は関心がなさそうにつぶやいた。彼はシートのヘッドレストに頭を もたれて前方を見た。ヘッドライトの光が暗闇の道路を照らし出している。新川はそのまま の姿勢で柴崎にたずねた。 「例の頬傷のあるやっ : ・ 「アゼック社常務の神坂だ。本部で確認している」 「そいつを監視するのはけっこうだが、どうするつもりだ」 「どうするって ? 」 「鑑定がいくら正確だって、神坂から血でも取らないかぎり比較できないじゃない 略か。野坂の爪に残っていたやっと」 謀「血じゃなくたって髪の毛だっていい」 章「どっちにしてもあいつが任意提出に応じるはずはないだろう。それとも神坂のあとにくっ 五 ついて髪の毛が抜けるのを待つのか」 「それもいい考えだ」 「とばけるな」同僚は顔をしかめた。
「エムザに ? 」 「そう。こいつでエムザ総合法律事務所に揺さぶりをかけましよう。向こうがどう反応する 「揺さぶりだって」岡戸は一瞬たじろいだ表情を浮かべた。 「アゼック社とエムザでは話が全然ちがう。相手は弁護士だぞ」 「別に弁護士を逮捕するわけじゃありません。とりあえずエムザの方も任意捜査でいけばい 「どうしてそんなに頭の中が単純にできているんだ。任意捜査にしたって変わりはない。工 ムザの弁護士たちは激怒するにきまっている」 「激怒のあまりポロを出すかもしれないでしよう。冷静な弁護士より、怒り狂っていた方が こっちにはかえって好都合ですよ」 染「バカいうな。好都合どころか危険が大きすぎる。へたをすると、捜査本部は日本最大の法 汚律事務所と一戦をまじえることになってしまう。少なくともいまの段階でそんなやっかいご とはごめんだ」 章 第「係長の考えはよくわかりました」柴崎は困惑している岡尸の目を直視した。 「それでも、この件は捜査会議にはかってください」 か
完全に挫折していた。 「でもその方が健全よ。企業がどんどん人を殺していくなんてぞっとしない」 「アゼック社は殺しているな、まちがいなく」 「さあ、どうかしら」 「どうかしらだって ? しらじらしい」高井は苦笑した。 「はじめに警官射殺のことを指摘したのはきみだろう。ばくは国税法違反を問題にしてい た。だけど捜査一課が出てきて考えが変わったよ。それに神坂という常務の人相、あの顔つ きは人を一「三人殺している」 「外見での判断は避けるべきね」 「もちろんそうだ」彼は食事の手を休め、女性アソシェイトの頭のてつべんから黒のタート ルネックにキャメルのジャケットという上坐・身をながめた。 索「どうみたって目の前にいる美人が、殺人事件のやりチ廾護士とは想像がっかない」 捜「別にやり手なわけじゃなくて」水島はナイフを振った。 章「わたしは財則のヒントをいかしただけ」 四 「ヒント ? 」 第 「はじめから考えてみれば」彼女はテープルにナイフを置いた。 ヾリスター・セクションに配転されたあと、わたしたちは何をやらされた ?
「じゃあ聞くがな」神坂はびくりとも表情を変えずにいった。 「あの状況でほかに何ができた。若造の警官を倉庫の中に案内して、キャッシュを差し出 し、仲よく握手でもしようっていうのか」 「ああ、その方がずっとましだった」 「あんたの考えの方がよほどバカバカしい。日本の警官は、こっちがいつも相手にしている 国の連中とはちがう。誰でも彼でも買収できるわけじゃない」 「そう。腐敗しているのはほんの一部だ」久保がにやにやして口をはさんだ。 「だが、そいつらはよく働いてくれる。そのうえ、うちの会社にはランドマークタワーの弁 護士もついている。警察がどう動こうが、捜査を出し抜いてやればいいじゃないか」 「本気でそんなことを思っているのか ? だとしたら、おまえの頭につまっているのはクソ の固まりだ」須藤は冷淡にいった。 滅「警察を甘くみるのはよせ。われわれが相手にしているのは、その辺の地方警察ではなくて 死県警本部の捜査一課だ。神奈川県警の刑事警察といえば全国レベルでも擎視庁にだって引け 章をとらない」 「さすがにくわしいもんだ」神坂はうなずいた。が、その頬骨の張り出した顔には感心した 第 様子などみじんもなかった。 , 冫 彼よ手近な椅子に腰を下ろし、小柄なアゼック社の代表者をじ っと見た。
しかし、ローファームではシニア・ ートナ 1 の意思は絶対だ。私が五部門責任者会議に推 薦すれば、その人間はまちがいな くパートナーに昇進してエムザの経営に参茄できる」 「推薦制度 ? はじめて聞く言葉です。もしさしさわりがなかったらでけっこうですが、現 実にこの一一年間で推薦を受けた人はいるんですか」 「ひとりだけいる。まだ一一年目だからな。去年パートナーになった八んは私の推薦を受 。彼は損害隘約款のエキスパートで、とくに海外投資隘にくわしい。推薦がなくて 、も、一つちカハ ートナーとして迎えいれるのにふさわしい人材だろう」 ゞヾートナーになったときは「中庭」で 八木のことなら彼女もよく知っている。昨年、彼カノ もその話題で持ちきりだった。目鼻だちの整ったエネルギッシュなエキスパートは、三 十代の若さでエムザの経営に参痂した最初のアソシェイトだ。パ 1 トナ 1 になってからは、 ートナーの地位と最低でも年額三千万円 日ごと髪の毛がうすくなってきている。しかし、 滅の報酬配分を考えれば、それくらいは安い代償だった。 死「エムザのパートナー構成に関して、私には考えがある」財則は椅子のひじ置きに体重をか 章けながら脚を組んだ。 ートナーは十三人いる。うちは新興勢力だから比較的に年齢は若 第「私と森岡を別にして、 いが、それにしたって八木を除けば残りは四十代後半を超えている。ほとんどは五十代だ そして、全員が男だ。パ ートナーの全員がね」
とした。モールの構造は五層吹き抜けで表示されている店舗数は一一頁エスカレーターが縦 横に走り、出口は少なくとも十カ所以上ある。こんな場所にけこまれたら曻を捕捉する のは不可能だ。しかも、ショッピング・モールは買い物やタ食の客でいちばん混雑する時間 をむかえていた。 「こちら。緊急。目標はショッピング・モールで停車した」 「車を降りて、やつを追尾しろ」豊原はマイクに怒鳴った。ひどい混乱の中で、もしかする と須藤がこちらの監視に気づいたのかもしれないという考えが頭をかすめた。 柴崎と新川が綾市に着いたのは午後九時 = 一十分ころだった。 えびな 綾瀬市は東名高速道路の海老名サービスエリアの近くにあって、神奈川県西部の中核都市 のひとつになっていた。市の北東側は広大な厚木飛行場が占めて、アメリカ海軍航空隊と海 上自衛隊の共同基地として使われていた。夜間発着訓練の騒音に悩まされた基地周辺の住民 から損害賠償と夜間飛行訓練の差し止め請求の裁判が起こされたのは、柴崎もよく覚えてい ないほどの昔だった。数年前にやっと最高裁判所で住民側の実質的な一部勝訴の判決が出 た。しかし、裁判でも肝心の差し止め請求は認められず、いまでも訓練があると標識ライト を点滅させた戦闘機のシルエットが夜空を突っ切り、轟音が大気をはげしく振動させてい
250 「しかし、できることとできないことがあります。刑事訴訟法をいくらひっくり返しても強 制捜査をくい止める手続きなど書いてありません」 「別に強制捜査をくい止める必要はない。事実上、捜索差し押さえを無力化してしまえば、 われわれのリ 1 ガル・ディフェンスは目的を果たすことになる。が、きみの考えと法的レベ ルはよくわかった。ほかの諸君の意見を聞こうか」 会棄一に沈黙が降りた。 水島は財則の思惑をおしはかりかねていた。高井とのやりとりを聞くと、シニア・ ナーの念頭には何らかの対策案があるにちがいない。彼はその回答をみずからいいださず に、わざわざアゼック社の常務を招いて会議を開いている。下級アソシェイトの無能無策ぶ りを顧問先に披露するつもりでなければ、この会議には仕組まれた意図があるはずだ。 会の空気はしだいに気まずいものになってきた。 リスタ 1 ・セ 高井は無とした表情で押し黙り、津田は顔を伏せてちぢこまっていた。バ クションの責任者は神経質に両目をばちばちさせている。新参の八木人史は会議のなりゆき そのものに素知らぬ顔をしていた。 水島自身は蹕していた。この会議がはじまってから、彼女の頭の中ではあらゆる法律の 条文が光ファイバー通信なみの速さで流れている。その流れの表面に県警の強制捜査を文字 通り無力化する、独創的な方法が形をとりはじめていた。おそらくふつうの刑事弁護人には
水島は羃電話をバッグの中にしまった。 どこか落ちつけるところで考えを整理する必要がありそうだ。 彼女は階段を昇り、一階フロアーを横切って、南側奥のカフェテラスに入った。これだけ のフロアーをもっているのに、カフェテラスの店内は雑居ビルの喫茶店ほどのスペースしか ない。それでも道路に面したテープル席からは外の開放的な景色をながめることができた。 水島は壁側のカウンター席に座るとコ 1 ヒ 1 を注文した。カウンターの中では、清潔なシ ャツに黒いベスト姿の若い男性が次々と舞いこむオーダーを職人芸のようなスピ 1 ドでさば いていた。カウンターにコーヒーが差し出され、彼女はプラックのままでカップに口をつけ た。熱せられた酸味がひろがって、カフェインが身体中にしみこむ感じがする。 彼女はコーヒーカップを置いて、カウンターにひじをついた。カップの中身をじっと見て いるとコーヒーの濃い液体は黒々とした円形の穴を連想させた。アゼック社は : : : この暗い 染穴と同じくらいにだ。塾何官の話を聞いてから、水島の内部ではアラーム・サイレンが 鳴りひびいていた。 汚 章あの倉庫は一一週間前に差し押さえを受けている。差し押さえがあると倉庫の登記簿謄本に 一一は「差押・競売開始決匡という裁判所ム哭が記載され、これは法務局で誰でも閲覧でき る。だから、アゼック社が差し押さえの事実を知っていたって別に不思議じゃない。定期的 皿に登記簿謄本をとりよせていればわかるし、あるいはヤマザキ化繊から連絡が入った可能性
皿ともと警察の守備範囲をこえている。神奈川県警の警官を総員整列させて、その中に民事の 差し押さえ手続きをきちんと勉強している人間がひとりでもいたらおどろきだ。こと民事に 関しては、経済・知能犯課の専従捜査員でさえ未開の野蛮人なみの知恵しかない。民事不介 入の原則ーー彼女は警察の常套句を思い浮かべた。原則といえば聞こえがいいが、この言葉 だって民事手続に対する警察の自信のなさを告白するものだ。きよう会った柴崎という刑 事、彼も差し押さえと現況調査のちがいがわからずに目を白黒させていた。あの殺人課の刑 事は警察の無知ぶりを代表する恰好の見本品といえる。殺人事件と現況調査の関連性ーー柴 崎の石頭にそんな考えがひらめくことはないだろう。 しかし、あの刑事はともかく、横浜地裁の塾何官が何か気づいて警察に連絡を入れるかも しれない。どちらにしても自分が微妙な立場にあることに変わりはなかった。 水島はショルダーバッグと小さな紙バッグをつかんで、レトルト食品の包装紙を左脇にか かえた。コーヒーはほとんど口がっかないままに残っている。女性弁護士は立ちあがり、 ッグと袋をかかえてレジに向かった。カフェテラスを出ると帰宅途中の人波にまじって横浜 駅の方角に歩き、途中から広いスロ 1 プをおりて駅に隣接する地下街に入った。横浜駅地下 街には暖房の生ぬるい風が流れ、人息でよどんだ空気をゆっくりとかきまわしていた。 あの古ばけた倉庫の中に、アゼック社の連中はいったい何を屡呂していたのか。彼らは倉 庫の秘密を守るために警察官まであっさりと射殺している。
Ⅲない」 柴崎は前方をまっすぐ見つめながらハンドルをにぎっていた。捜査本部では横浜地検に対 してアゼック社のガサ入れのため捜索差し押さえ令状をとるように要請した。しかし、担当 検事からあっさりと蹴られてしまった。いまの段階ではアゼック社の事件関与をしめす証拠 は何もなく、横浜地事部の令状裁判官を説得できないというのが理由だった。もっと具 体的な証拠を集めて出直して来い、検察官は県警本部の担当者を冷たく追い返した。 報告を受けた係長の岡尸は真っ赤になり、自分たちで令状を請求するといきり立った。警 察にも請求権限のあることは刑事訴訟法がちゃんと認めている。警察庁キャリア組の岡戸か らみれば、検事などたまたま司法試験にムしただけの成り上がり者にすぎない。彼らに軽 く見られることは我慢できなかった。一方、捜査主任の東出は別な考えをもっていた。彼は 上司の煮えたぎった血管が冷えるのを待って耳うちした。令状が出ないのならとりあえず任 意捜査でやればいい。 任意捜査は裁判所の令状に関係なくできるし、警察手帳をちらっかせ れば相手に心理的な圧力もかけられる。アゼック社に揺さぶりをかけ、尻尾をつかんだら捜 索差し押さえ令状でとどめをさす。岡尸は思案気な表情で捜査主任の話に耳をかたむけた。 東出のいうとおり、この方法はたしかに強制捜査の手ごろな代用品だった。そのあと、彼は 柳原課長のもとにおもむき、刑事をふたりばかりアゼック社に向かわせるように進一一 = ロした。 柴崎の運転する車は海岸通りを亠・し、一一車線の広い道路に出た。左手には神奈川県庁旧