ュレックを搭載したものと考えればよい ) を搭載したも のだが , 詳しいことはまだよくわかっていない。 ☆ B Ⅳの部隊編成 さて , 以上で無線誘導式破壊車輛 B Ⅳについての知識 は頭に入ったと思う。 では , この B Ⅳが実際にはどのように編成され , 実戦 に登場したのかということを書いてみたい。 B Ⅳによる部隊がはじめて編成されたのは , クルスク 戦を間近にひかえた 1943 年の春で , この部隊は第 300 無 線誘導戦車大隊 (Panzer Funklenk Abtei1ung 300 ) と よばれるものだった。 この第 300 無線誘導戦車大隊は , ティーガー I と BIV によって編成され , 実戦ではまず B Ⅳが自ら持っ爆薬に よって障害物 ( 地雷 , トーチカ , バリケードなど ) を除 去 , 破壊し , 障害物がなくなるとただちにティーガーが 戦線を突破するという方法をとることになっていた。 これは , B Ⅳによって障害突破の時間 , 資材 , 人的な 労力を最大限に節約し , かっ防禦陣地の突破や強力な戦 線の攻撃における重戦車の能力を最大限に引き出すため にとられた編成と思われる。 第 300 大隊は , クルクス戦ではじめて実戦に投入され たものとみられるが , 実際の活躍 ? についてははっき りしない。 しかし B Ⅳの生産がこの後も続けられ , また新しい部 隊の編成も行われているのだから , 軍当局はクルスクで の B Ⅳの働きをある程度は評価していたものと考えられ この無線誘導戦車大隊は軍団直轄の部隊で , 必要に応 編成は , 中隊本部にティーガー I が 2 輛 , 3 コある小 通信小隊 装甲板が起き上がっているのがよくわかる C 型のプロダクション・モデル。操縦室の 第 311 , 312 , 313 , 314 , 315 , 316 , 513 の各中隊が確認 はⅡを持っ戦車師団に配備されるもので , 現在のところ この中隊は重戦車大隊にではなく , ティーガー I また はなく , 中隊もあった。 また , 無線誘導戦車で編成されていたのは大隊だけで 大隊だが , それ以上の細かい内容は詳かでない。 いるものは , 第 300 以外に第 301 , 302 , 305 を加えて 4 コ これら無線誘導戦車大隊で , いまのところ確認されて みていただくことにして , こでは話を先へ進めよう。 この B Ⅳ装備の重戦車大隊の編成については , 別表を とよばれることになる。 導戦車装備 ) ー・—Schwer Panzer Abteilung (FKL) 車大隊の配備された重戦車大隊は , 重戦車大隊 ( 無線誘 じて各重戦車大隊に配属された。この場合 , 無線誘導戦 されている。 重戦車大隊 ( 無線誘導戦車装備 ) 戦車中隊 本部中隊 ( ティ ーゲル I X 3 ) 偵察小隊 工兵小隊 弾薬小隊 補給中隊 衛生小隊管理小隊 対空小隊 ( ティーゲル I >< 2 ) 中隊本部 戦車小隊 燃料小隊 BIV X 9 ティーゲノレ I X 4 整備小隊 (BIV><27) あくまでもこれは編成上の定数で、実際にはもっと少なかったと考えられる 25
THE BATTLE OF 戦い ク ルスクの く第 3 回〉 by Boris S010YY0 マ ドイツ軍はなお , 幻想にひたっていたのである。 0 ドイツ軍全力を投入 東部戦線で実際に指揮をとっていたドイツ軍指揮官で 攻撃の進みぐあいがはかばかしくなく , また多くの損 すら , 作戦が成功裡に終わることに自信を持っていた。 害をこうむったのにもかかわらず , ドイツ軍はあらゆる 7 月 11 日 , 南部軍集団総司令官フォン・マンシュタイ 犠牲をおしてもクルスクで勝利を収めようと必死になっ ン元帥は , 2 コ戦車部隊を突進させて , リポヴィ・ドネ ッ河と北ドネッ河の間でソ連軍を包囲 , 撃滅し , ソ連軍 ていた。 防衛線にスキ間をつくり , 反対側の東方からクルスクに 7 月 11 日 , ドイツ軍がもはや大きな成果を収めること ! は不可能となっていたにもかかわらず , ヒトラーとドイ 突破しようとする作戦計画を立案した。 ッ統帥部は勝利への盲信にしがみついていた。 同様に , 中部軍集団総司令官フォン・クルーゲも楽観 7 月 11 日づけ東部戦線情報部の報告には次のように記 的であった。彼は北方よりクルスクに対する攻撃を再び されている。 「ドイツ第 9 軍 開始しようと精力的に準備中であった。 「敵の作戦行動に大きな変化はない。敵はドイツ軍の先 は敵の反攻を撃退した後 , 主攻方向を変更し , 予備兵力 を投入することによって , 7 月 12 日には攻勢を再開し , 鋒に対抗して側翼に編成されていた部隊を戦線の正面に 突破を完成できるであろうと期待をかけていた」とフォ 投入してしまったので , ドイツ軍の側翼に対する大部隊 ン・マンシュタインも書いている。 による反撃は全く考えられなくなった。側面からの反撃 の可能性は , 敵が主力を別の地点に移し , しかも戦線後 クルスク突出部のオリョール地区で戦闘中であったド 方からの部隊移動が探知された後にのみ , 生起するであ ィッ第 2 機甲軍と第九軍司令部の作戦報告は , 攻勢再開 のための具体的な準備が進行中であったことを示してい ろう」 7 月 11 日 , 西部方面軍の左翼とフ・リャンスク方面軍の る。それによれば , 新鋭部隊の再編を終了しだい , クル 戦線において , 反攻開始に先行する威力偵察が開始され スクへの突破を完成させる目的で南西方向に攻勢を再開 ていたにもかかわらず , 敵はこう結論を出している。最 する予定であった。 初の数時間 , ドイツ側はこの行動を陽動作戦と考えてい これが , クルスクの戦いが転回点を迎えた夜における 82
「 7 月 10 日より 15 日までの間 に , フォン・マンシュタイン 元帥の率いる兵団は , ドネッ 河 , プゼル河 , サイム河 , ヴ ォルスカラ河の分水界にまで 到達することに成功したが , 攻勢はそこでカつきた。攻勢 は , ベルゴロド / オポャン道 路上のシェベキノとゴンキの 森林付近で停止した。 後にコーネフ将軍は , ドイ ツ戦車部隊の『白鳥の歌』に ついて述べている。 攻勢を行える最後の部隊は 炎上し , 屑鉄と化した。ドイ ツ戦車部隊の背骨は断ち折ら れたのだ」 命中 / ソ連軍の対戦車砲火に撃破されるⅢ号戦車 これに関連することで , 戦 後の西側史学で広く信じられ ている考え方についてここで言及するのが適切だろう。 よ , 待ちに待ったソ連軍の大反撃がはじまるのである。 クルスクの戦いに関する事実を論証するにあたり , 外国 ソ連軍の反攻 の歴史家の一部は , アメリカ , イギリス連合軍が 1943 年 クルスクの突出部に , 強力な防衛陣地を構築するのと 7 月 10 日にシシリー島上陸を行ったために , ドイツ統帥 部がクルスクにおける攻勢作戦を中止したと主張してい 同時に , ソ連軍司令部はオリョール地区とハルコフの北 方に集結した敵部隊を撃滅するための反撃部隊の準備を る。実際の状況は , ドイツ軍の攻撃部隊がソ連軍の防衛 行っていた。この反攻は , すでに直接敵にぶつかってい 線で撃破され , 西部およびプリャンスク両方面軍の反攻 る部隊 ( ヴォロネッおよび中部両方面軍 ) だけでなく , のために独ン戦線で戦略的守勢をとらざるを得なかった 防衛作戦地域から離れて準備された部隊 ( 西部 , フ・リャ ことを示しているのである。 ンスク , ステップ各方面軍 ) も加わった大部隊によって 西側の歴史家の主張の背後にある目的は , 地中海にお 行われる予定であった。 ける限定された規模の作戦の重要性を誇張し , その作戦 をョーロッパにおける実際以上に重要な戦いとみせかけ ソ連軍はクルスクの作戦で , これまでのどの作戦にも ることにある。 増して大きな兵力を投入することが可能になっていた。 事実はこの考え方が嘘でぬりかためたものであること モスクワやスターリングラードでの攻勢のときには , そ を暴露する。ドイツの政治および軍事指導者は , 独ソ戦 れそれ 3 コ方面軍で闘われたのに対し , クルスクの攻勢 線に大きな重要性を与えていた。そのために , 鹹塞作戦 作戦には 5 コ方面軍が投入され , しかも , その当時ソ連 に大きな希望をかけ , 最後までそれを遂行しようと戦っ 軍が持っていた 5 コ戦車軍の全てが含まれていた。 たのだ。 細部までよく練られた計画により , ソ連軍部隊は防衛 独ソ戦線からイタリアに兵力を移動させた問題は , ド 戦闘の終了と反攻作戦の開始との間に , 空白期間をおか ィッ軍がソ連軍の攻撃を受けて後退している時期に生じ ずにすんだ。西部方面軍とプリャンスク方面軍の左翼の た。しかし , その時期においてすら , ドイツ軍が非常に 部隊は , これまでの戦闘には参加していなかった新しい 限られた兵力で戦闘を行っていたイタリアに兵力移動を 部隊で , 7 月 12 日に攻勢をはじめ , 中部方面軍右翼の各 行う代わりに , 独ソ戦線に兵力を残しておく決定が行わ 部隊は 7 月 15 日に攻勢を開始した。ヴォロネッ方面軍は れている。 予備部隊により増強され , 7 月 12 日 , 強力な反撃に転 ドイツ軍の最精鋭部隊から編成された , 恐るべきドイ じ , 8 月 3 日にはステップ方面軍とともにベルゴロド / ツ戦車部隊の突撃を阻止したのは , ソ連軍兵士の忠誠と ハルコフ方面に対する反攻に突進した。 勇気と戦闘技術であった。その成果は , 独ソ戦線におけ クルスク突出部におけるソ連の反攻と呼応して , 突出 るドイツ軍の攻勢戦略に終止符を打ったことであった。 部の南北でも 2 つの大規模な攻勢作戦が行われた。すな そして戦いはこれで終わったのではなかった。いよい わち , 7 月 12 日から 8 月 18 日までの間に行われたオリョ 85 洋ご
を一変させた。北方よりクルスクに進撃中の敵攻撃部隊 ドイツ軍の計画であり , 戦況の評価であり , ドイツの指 の後方で , 激しく , そして敵にとっていのちとりとなる 噂者のムードであった。しかし , ドイツの攻勢戦略が全 く無益に終わることがすぐに明らかになるのである。 状況が生起したのだ。 この間 , ソ連軍司令部は反攻のための準備を完成して 7 月 12 日 , ヴォロネッ方面軍は , クルスク突出部南方 地区で進出中の敵に対して , 強力な反撃を加えた。 p ・ いた。西部方面軍およびプリャンスク方面軍の左翼部隊 ロトミストロフ将軍の率いる第 5 親衛戦車軍と A ・ザー は , オリョールに向かって攻撃を集中し , ヴォロネッ方 ドフ将軍の指揮する第 5 親衛軍が , この作戦の中核とな 面軍と戦線に移動進出してきた戦略予備兵団は , ベルゴ 、ロドとハルコフの方向に対して攻撃することになってい っていた。 フ。ロホロフカ付近で , 第 2 次大戦中最大の規模の戦車 た。ソ連軍は , いまや自軍に有利に局面を変えるために 戦が起こった。合計 1200 輛の戦車が , 各種各様の戦闘を ・必要な兵力を整え終わっていた。 ソ連軍はまた , ゲリラ活動の積極的な支援を受けた。 くり広げながら , すさまじい戦いを展開した。同時に , 空でも激戦が行われていた。ソ連軍の反攻は敵戦車部隊 クルスクの戦いの第 1 週に , オリョールとプリャンスク 地区のゲリラは , 1295 名のドイツ将兵を倒し , 9 本の列 に甚大な損害を与え , ドイツの大規模な攻勢計画に終止 符を打ったのである。 . 車を脱線させていた。 第 2 次大戦中で , これほど注意深く立案されたドイツ 当時 , 第 5 親衛戦車軍司令官であった P ・ロトミスト 軍の大攻勢が , これほどまでに完全に , そして短時日の ロフ元帥は , プロホロフカの戦闘について次のように記 うちに崩壊した戦例はなかった。ドイツ軍は , この新し している。 い事態を時間をかけて消化し , 正しい教訓を導きだすべ 「その日の夜遅くまで , 戦場一帯にエンジンのうなりや きであった。しかし , 攻勢の断末魔の状況をはっきりと キャタビラの音が間断なく響きわたっていた。いたると ころに砲弾が炸裂し何百輛もの戦車や自走砲が炎上し 目のあたりにしていたドイツ軍高級将校ですら , それが できなかったことが示されている。彼ら 部隊を再編し , 予備兵力を投入し , ソ連軍 を防衛陣を崩壊させるために , もうひと押し . 攻撃を行うことであると信じつづけてい ドイツ軍では , 部隊の再編成と新たな 0 . 攻撃のための準備作業が , 精力的に進めら ドイツ軍は , やがて将軍たちの れていた。 誤算のために , 高い代価を支払うことにな る。 しかしソ連軍は , ドイツ軍の再攻勢によ る新たな危機が到来することを正確に予想 していた。 7 月 12 日朝 , 西部方面軍翼とプリャン スク方面軍の一部は , オリョール地区の敵 集団を撃滅しようと攻勢を開始した。南部 のヴォロネッ方面軍は , プロホロフカに向 かう敵の攻勢をストップさせ , ソ連軍防衛 線にくいこんでいるドイツ軍を潰走させる ため , 同時に攻撃を開始した。 ソ連軍はクルスクに大部隊を集結させて いた。 7 月 12 日現在 , まだ戦闘に参加して いない兵力は 6 コ軍あった。うち 4 コ軍は オリョール地区の作戦に投入され , 1 コ戦 車軍を含む 2 コ軍はベルゴロド / ハルコフ 地区の作戦に向けられた。 西部およびプリャンスク両方面軍による 準備周到な攻撃は , オリョール地区の戦局 クルスク突出部の南北両戦線に , ドイツ軍は 2700 輛 にのほる戦車を集中し , ソ連防禦線の突破をねらう 83
プロホロフカの大戦車戦 ( 7 月に日 ) 南部戦区、 が , ソ連軍は戦車総数でやや優勢であり , かっ戦車の速 力が早く , またこの反撃をドイツ側が予想していなかっ たために , ドイツの攻撃を粉砕することができた。 1 日 中 , 地上で , 空中で激戦が続いた。本戦闘は第 2 次大戦に おける最も激しい戦いのひとつである。攻者は約 10 , 000 第 5 親衛軍 名の死傷をこうむり , クルスクの戦いに戦争の今後の望 第 5 親衛戦車軍 みをたくしていたドイツの最後の希望は断たれた (The Army Quarterly and Defence Journal 誌 1969 年 10 月 号 P .48 ) 」 ソ連軍反攻開始の 7 月 12 日は , クルスクの戦いの転回 点を記した日であった。オリョールのドイツ軍攻撃開始 地区における攻勢作戦は進んでいた。数日後 , クルスク 突出部南方地区に対する攻勢をかけようとしたドイツ南 部軍集団の計画は失敗に終わり , フォン・マンシュタイ 第 3 機甲軍団 ン元帥の兵団は , 攻勢開始位置まで退却を余儀なくされ / 第 7 親衛軍 た。 ヴォロネッ方面軍は , これに圧力を加えはじめた。早 南西方面車 くも 7 月 19 日には , I ・コーネフ将軍の率いるステップ ( マリノ 7 スキー ) 方面軍が攻勢に加わり , 7 月 23 日までにドイツ軍は作戦 開始時の位置まで押し戻されてしまった。 クルスクの作戦は , ドイツ軍指導部が戦略的主導権を 奪回しようとした最後の試みであったが , 作戦はこのよ うにして無残にも失敗してしまった。クルスクの攻勢作 ていた。土煙や爆煙が空高く上っていく。敵はフ。ロホロ 戦において , ドイツ軍は甚大な損害をこうむった。攻撃 フカ戦区で , 戦車による反撃に合うとは予想していなか のためにたくわえた戦力は , ソ連軍の防衛体制に吸い一 ったのだ・ まれて , 消えさってしまった。多くの西ドイツの歴史家 ソ連軍は非常に大きな成果を収めた。激しい戦車戦の は , この点を認めている。例えば W ・ゲルリツツはその = 結果 , ドイツ戦車の突撃部隊は多大な出血を強いられ , 著書 , 「第 2 次世界大戦」で次のように述べている。 攻勢を続ける力を失って防禦にまわらざるを得なくなっ たのである」 書いている。 「夜に入って , ソ連軍が戦 場の支配者になったことが ・。史上最大 確認された・ の戦車戦は終わった・・・ ( P ・ヤング著「第 2 次世 界大戦略史」 P .273 ロンド ン , 1966 年刊 ) 」 プホロフカの大戦車戦 について , イギリスの軍事 評論家ミッチェル・パーリ ッシュは次のように論評し ている。 「攻撃するドイツ軍は , 戦 線 1 マイルあたりほぼ 150 輛の戦車で戦闘を開始した 84 0 SOkm 0 オポャン ポロ - ネッ方面車 ( バツーチン ) 第 6 親衛軍 第一戦車軍 プロホロ・ / カ ゼレニヒノ 第 69 車 シ′レ・ンニ月ぐ s sn 甲軍団 第 48 機甲軍団 . 第 40 軍′ 、第イ機甲軍 : :. ヤコプレポ 0 ・しラみを 0 : : * :. くノレコ・ロド ケジプフ作戦集 冢ケンフ・フ ・・南方軍集団 . :. : 曇藪マンシュ・タイン 7 月 4 日の戦線 7 月 8 日の戦線 - 7 月に日の戦線 - 0 ドイツ軍の攻撃を待ち受けたソ連軍はドイツ軍を上まわる兵力を集め て , 進撃してくるドイツ戦車に強力なカウンター・パンチをみまった
ール作戦と , 8 月・ 3 日から 23 日までに行われたベルゴロ 車 , 自走砲 2360 輛 , 航空機 3000 機で , 兵力で 100 % , 火 砲が 200 % , 戦車 , 自走砲では 170 % , 航空機が 200 % , ド / ハルコフ作戦である。 とそれそれドイツ軍に勝っていた。 オリヨール作戦 クルスクの攻勢をはじめるずっと以前に , ドイツ軍は 7 月 12 日 , クルスク戦の流れが変わった。ソ連軍が攻 オリョールの攻撃開始地区を , 重要地域とする指定を行 撃に転じ , ドイツ軍は防禦態勢に入ることを余儀なくさ い , 強力な防禦陣地を構築していた。主防禦線は , 非常 に強固に要塞化された抵抗中心と , 全周防禦用に設計さ れた。 ドイツ軍にとって , とくに危険な状況がオリョール地 れた砲兵陣地で構成されており , これが , 小さく区分さ ーを守備するドイツ軍部隊は , 奇 れたざん壕と相互に連結していた。主防禦線は 5 ~ 7 区で展開していた 襲攻撃をかけたフ・リャンスク方面軍と西部方面軍左翼部 の縦深をもち , 重要な地点ではその縦深は 9 におよん 隊の強力な圧力をまともに受けることになった。 でいた。 敵は , オリョールにおける攻勢開始地区に強力な部隊 ソ連軍最高司令部は , まずオリョール攻撃開始地区の を持っていた。ソ連軍の反攻が開始されたとき , この集 防禦陣地を撃滅し , そこを守備する敵の第 2 戦車軍と第 団は 37 コ師団で構成されており , その内訳は歩兵 27 コ師 9 軍を殲滅することから , 攻撃を開始することに決定し 団 , 戦車 8 コ師団 , 機械化 2 コ師団だったが , 歩兵師団 たのである。 の 3 分の 1 以上と戦車師団の大部分は , 攻勢作戦中にそ カコロフスキー将軍の率いる西部方面軍は , ポルコフ の戦力を消耗しぎっていた。オリョール地区の敵集団の 方面に第 11 親衛軍を投入することにより , 左翼に猛攻を 兵力は 40 万名 , 火砲約 6000 門 , 戦車 , 突撃砲 1000 輛で , I ・バグラミャン将軍の率いる第 11 親衛軍 加えていた。 1000 機以上の作戦機の支援を受けていた。 は , フ・リャンスク方面軍の右翼部隊とともに , 敵集団を この集団を撃滅することは大変な任務であった。しか 包囲・殲滅することになっていた。さらに , 第 11 親衛軍 し , 反攻開始時までに , ソ連軍はオリョール戦区におけ の一部をもってカチューネッ地区の鉄道とオリョール / る敵に対して数的な優勢を確保していた。作戦を行う西 フ・リアンスク間の道路を遮断するため , 南方に攻撃を加 部方面軍の左翼部隊 , プリャンスク方面軍および中部方 えることも計画された。 面軍の右翼は , 兵力 80 万名以上 , 火砲約 19 , 500 門 , 戦 M ・ポポフ将軍の率いるプリアンスク方面軍は , 東方 でオリョール付近の敵防禦線を突破するための準備にあ たっていた。第 11 親衛軍の一部とともに , 第 61 軍 (P ・ ・べロフ将軍 ) はポルコフ方向に攻撃を行い , 前方地域 における敵の包囲・殲滅にあたることになっていた。第 3 軍 (A ・プルトフ将軍 ) と第 63 軍 (V ・コルパキ将 軍 ) は , オリョールを南北より包囲し , ノヴォシルから オリョールにかけて敵に猛攻を加えつつあった。 反攻を開始するにあたり , K ・ロコソフスキー将軍の 指揮する中部方面軍は , その右翼軍により , ソ連軍陣地 に深く侵入している敵を圧迫して退却させ , 次いで南方 および南西方向でオリョール地域の敵集団を包囲するた めに , クロミイ方面から北西方向に攻勢を行うこととな った。そして , プリャンスク方面軍と西部方面軍ととも に , 中部方面軍は敵集団を潰走させる予定であった。 7 月 12 日午前 3 時 20 分 , 西部方面軍の進攻地域に対し て , すさまじい砲撃と航空機による事前攻撃が開始され た。砲撃は , これまでに前例のないほどよく計画された 強力なものであった。このはげしい準備射撃を目のあた りにした戦時報道班員 Y ・ヴォロフ・イエフは次のように 描写している。 「斉射する砲門から吐き出される爆風はすさましいもの だった。みな , 岸に投げ出されて気絶した魚のようにロ をあけたままでいる。人間の聴覚は地獄のような騷音 , 轟き , ものすごい振動に耐えるようになっていないのだ をー名を 4 雨あがリのドロ道を戦線へ向かうドイ ツ兵。大機甲部隊同士がぶつかったク ルスクでも , 馬は責重な戦力だった 86
3m / 90 8mm/17 8 m / 24 8 m / 幻 IO 熊宿 / 64 田 mm / 47 田 m / 79 0 0 5 十 8 / 円 / 40 5 十 8 , / 55 / 90 BIV Ausf. A 装甲厚と角度 さて , もし君がこの B Ⅳを 自作して ( といってもモデル の話。これから先はプラモに 興味のある人だけお読み下さ い ) , ティーガー I やⅢ号突 撃砲と組んだディオラマでも れアンテナを自作してつけて 戦闘室の後部にでも , それそ 上面にでも , Ⅲ号突撃砲では ティーガーの場合は砲塔の 追加するのを忘れてはならな や突撃砲に , アンテナを 1 本 の車輛 , すなわちティーガー 作ろうと考えた場合 , 誘導用 隊にそれそれティーガー I が 4 輛 , B Ⅳが 9 輛ずっ配備 され , これに整備小隊 , 輜重小隊 (BIV 9 輛の予備を持 つ ) などがついて中隊を構成した。 そして以上の他にもうひとつ , B Ⅳによって編成され た中隊が記録に残っている。それは第 319 中隊だが , い ままでの部隊とはやや異なり , ペアを組んだ戦車がティ ーガー I ではなく , Ⅲ号突撃砲が使用されていた。 この部隊についても細かいことは不明だが , 大戦も末 期になるとこのような編成が増えていったと考えるのが 妥当と思われる。主力戦車はただでさえ不足していたの だから。 以上の各部隊は , クルスク戦をはじめとして , 1944 年 夏のワルシャワの攻防や 12 月のアルデンヌ攻勢などに投 入された記録があるが , これもくわしいことはわからな い。しかし , はっきりとした記録が残っていないことか らみても , あまり成功したとはいえないようだ。 やれば , それで無線誘導車輛は完成する。しかし , Ⅲ号 突撃砲の場合では , 操縦室の横にアンテナを立てている 車輛の写真もあるので , あまりこだわることはないよう だ。 以上 , B Ⅳのこと , 部隊編成や投入された戦闘のこと などを書いてきたが , 今回もまた , 不明なところが多く てあまり役に立っことは書けなかった。今後 , この種の 車輛に関する資料の発掘を期待する , というのが筆者の 実感である。 今回使用した資料は次のとおり。 ・ Spezia1-Panzerfahrzeuge Motorbuch ・・ Aero ・・・・・・ Armor Series NO. 9 Sonderpanzer AFV News ・・・・・・ V01. 17 NO. 2 , 4 , V01. 9 NO. 4 型 車 車 型 種 式 B Ⅳ各 Schwerer Ladungsträger *Sdkfz 301 、 B Ⅳ A, B ( B 型はカッコ内 ) 生産会社 生産年代 ュ・ンシン ヴォルグバード 1942 ~ 1943 ヴォルグバード 6 M 2 , 3 R T B V 出力 ( Ⅳ ) 気筒容積 (cc) 全長 (n) 全幅 (mm) 全高 (m) 車体重量 ( んの 接地長 (n) 轍距 (n) 26 49 2247 3650 1800 1185 3600 ( 400 の 1790 1600 ヴォルグバード 1943 ~ 1944 ヴォルグバード 6 M 3 , 8 1600 1790 5000 1250 1830 4100 3745 78 のア 履帯幅 (mm) 履帯数 ( 片側 ) 接地圧 ( ん 9 / ) 回転半径 ( 川 ) 燃料容積 ( の 装甲 (mm) 車体前部 側部 上部 タ 130 11.5 0.66 55 200 爆薬 500 ん 9 : 路外 ( ) 125 1340 24 38 5 十 8 5 十 8 10 武装 超堤能力 ( ) 登坂能力 ( 。 ) 最高速度 (km/h) 航続距離 : 路上 ( 212 200 77 123 20 20 24 1340 爆薬 500
ナ」 ッ , こに紹介していない号は在庫しておりません 0 500 円 く 1976 年・ 10 月号 > カラー図 : ドイツ 35 ( t ) / 38 ( t ) 戦車折込図 : M46 中戦車ロ絵 : 35 ( t ) / 38 ( t ) 戦車 M46 中戦車ダビデの星の機甲部隊本文 : 35 ( t ) / 38 ( t ) 戦車 M46 中戦車アメリカ XM-I スエーデン陸軍の編成と装備僕の ョーロッパ飛びある記戦史ー軍艦と射ち合った戦車 500 円 く 1 1 月号 > カラー図 : パレンタイン歩兵戦車折込図 : バレンタイン歩兵戦車ロ 絵 : M 5 引パレンタイン・シリーズドイツ Nb. Fz 重戦車本文 : M 5 引 シェリダン空挺戦車パレンタイン・シリーズドイツ Nb. Fz. 戦車フ ォックス軽偵察車戦史ーキエフの大包囲戦 500 円 く 1 2 月号 > ロ絵 : M47 中 カラー図 : 38 ( t ) 改造車輛折込図 : 駆逐戦車へツツアー 戦車 38 ( t ) 改造の駆逐戦車と自走砲陸上自衛隊観閲式本文 : M47 パ ットン中戦車駆逐戦車ツツアーと自走砲ツツアーの塗装とマー キングイラン向けチーフテン戦史一日本軍ラングーン ~ 入城 550 円 く 1977 年・ 1 月号 > カラー図 : チャーチル歩兵戦車折込図 : レオパルト I A 3 ロ絵 : チ ャーチル戦車ドイツ AFV アル / ヾム世界の MBT 本文 : チャーチル歩 兵戦車九七式中戦車アトランダムソ連と西欧の戦車 XM-I MBT を語るアメリカ陸軍の編成と配備戦史ー砂漢の大突破戦 く 1 977 年・ 2 月号〉 530 円 カラー図 : 特ニ式内火艇折込図 : M 48 A 3 戦車ロ絵 : M 48 シリーズ ドイツ A F v アルバムドイツⅢ号突撃砲本文 : M 48 中戦車特ニ式 ノ、ルバロッサ作戦の運命イラン向けチー 内火艇世界の列車砲 ( ー ) フテンを探る戦史ーフランス戦車のソワソン攻撃 530 円 く 1977 年・ 3 月号 > カラー図 : イギリス巡航戦車折込図 : レオパルト A-I ロ絵 : 大戦前期 のイギリス巡航戦車レオパルト I スコーピオンのファミリー車本 文 : レオパルト I 大戦前期のイギリス巡航戦車に 0 滑腔砲を探る カルロ・べローチェ C. V. 29 戦史ーガダルカナルの日米戦車 530 円 く 1 977 年・ 4 月号 > 折込図 : カラー : M 7 SPG M 60 シリーズャークト・ティーガー M 60 A2 ロ絵 : ャークト・ティーガーランドローノヾー M 60 シリーズ 本文 : M60 戦車駆逐戦車ャークト・ティーガーキャタピラ・ゴーア 装輪車世界の列車砲アメリカ戦史セバストボリ陥落 く 1 9 77 年・ 5 月号 > 530 円 カラー図 : フランス戦車折込図 : レオノヾルトⅡロ絵 : レオノヾルト II ドイツ A F V アル / ヾムイギリスの M 田 9 本文 : レオノヾルトⅡ , Ⅱ A V 大戦間のフランス戦車 M 9 自走砲ドイツの 6 輪装甲車戦史 ダンケルクの浜辺 530 円 く 1 977 年・ 6 月号〉 カラー : 軽戦車ルクス折込図 : 軽戦車ルクスロ絵 : アメリカの自走 砲Ⅱ号軽戦車ルクス架橋戦車ドイツ AFV アルバム本文 : アメリ 力の自走砲Ⅱ号軽戦車ルクス泄界の工兵車輛スクラッチ日本の自 走砲工ンテべ空港の奇襲毅史レイテの日本戦車隊 530 円 く 1977 年・ 7 月号〉 カラー図 : イギリス巡航戦車折込図 : Ⅸ v - 引駆逐戦車ロ絵 lKV-91 対空戦車ゲパルトイキリス巡航戦車ドイツ AFV アル バム本文コ K v- 引後期のイギリス巡航戦車自走浮橋と装甲 工作車チェコ戦車小史チーフテンの F C S 530 円 く 1 9 77 年・ 8 月号〉 カラー図 : ドイツ・ハーフトラック折込図コ KV ・引ロ絵 : T 62 ・ T 64 Sdkfz. 250 / 2 引現代の車載ミサイルアメリカの AFV 本文 : T 62 ・ T 64 Sdkfz. 250 / 2 引世界の列車砲超小型ニ人乗り戦車最近の N A T 0 軍戦史イタリー軍ェチオビアへ浸入 530 円 く 1977 年・ 9 月号 > カラー図 : M 3 リー / グラント戦車折込図 : チーフテン Mk. 2 ロ絵 . チーフテン・シリーズ M 3 リー中戦車ソ連の水陸両用偵察戦車太 平洋戦域の日本戦車本文 : チーフテン M 3 リー / グラント最近の 戦術輸送車輛攻撃へリの発達戦史プローニュの奮戦 550 円 く 1977 年・ 10 月号〉 カラー図 : Ⅱ号戦車の改造車輛折込図 : レオバルト I ー A 3 ロ絵 : ア ポット自走砲陸上自衛隊の総合火力演習 M Ⅱ 3 A p c シリーズマ ーケットガーデン作戦の連合軍車輛本文 : M B T - 70 戦車Ⅱ号戦車 の改造車輛西ドイツの兵器産業イスラエル戦車メルカバ く 1977 年・ 11 月号 > 550 円 折込図 : 引式戦車 K B ロ絵 : ビカーズ M K コ / M K . 3 スイス陸 軍の機甲部隊ドイツ A F V アルバム第 79 機甲師団を中心とするイギ リスの特殊戦車本文 : M 60 A 3 はどんな戦車か西ドイツの陸戦兵器 産業第 4 次中東戦争に現われた兵器戦史ビアク島の米軍を追い落とせ 550 円 く 1 977 年・ 1 2 月号 > ロ絵 : ガ カラー図 : アラブ諸国の戦闘車輛折込図 : R SO トラクター マゴートトラック陸上自衛隊観閲式シレイラミサイルを装備した戦車 カンガールの国のレオ / くルトシャーマンインアクション本文 : X M アメリカの願いは実現するか式山砲西ドイツの陸戦兵器産業 600 円 く 1978 年・ 1 月号〉 カラー図 . 第 2 次大戦のイタリア戦車折込図 : T34 / 76 戦車円 42 年型 ロ絵 : 陸上自衛隊の現用車輛陸上自衛隊の車輛のマーキングフラン スの装輪装甲車第 2 次大戦のイタリア戦車本文 : 歩兵輸送車輛の発 達戦史ー上海の市街戦 く 1978 年・ 2 月号 > 550 円 カラー図 : ナスホルン / フンメル折込図 : 九七式中戦車ロ絵 : テス ト中のイスラエル戦車メルカバ M60 新着写真集 AMX - ロシリーズ 円 30 年代のイギリス戦車本文 : フランス陸軍の問題点開発の進むア メリカ新兵器戦史ツーロン港の奮回 く 1 9 78 年・ 3 月号 > 550 円 カラー折込 : M60A ー折込図 : M 5 A ーロ絵 : スコーピオン軽戦車 ベトナムにおけるアメリカ軍スエーデン陸車の主な装備大戦前にお ける日本の戦車マルダー AP C 本文 : マルダー A P C M 3 / M 5 軽戦 車アメリカ陸軍の新兵器戦史スリム台地の激戦 550 円 ぐ 978 年・ 4 月号 > カラー図 : 74 式戦車折込図 : ドイツ牽引車ロ絵 : 74 式戦車の機能と 構造ベトナムにおけるアメリカ軍富士教導団で実験中の戦車塗装 ドイツ牽引車シリーズイギリスの特殊戦車本文 : クルスクの戦い べールをぬいだ T 72 戦史シンガホール島落ちる <1978 年・ 5 月号〉 550 円 カラー図 : 74 式戦車折込図 : 74 式戦車ロ絵 : 74 式戦車大戦前のソ ヒ工ト戦車 X M ー実用化へ近づく自走対戦車ミサイルストライカー イギリスのキャリアーシリーズ本文 : 革命的な新上陸車 L V A ク ルスクの戦い戦史モスクワあやうし 550 円 ぐ 978 年・ 6 月号 > 折込図 : センチュリオン MK コ 3 戦車Ⅳ号 H 型戦車ロ絵 . 富士教団戦 車大隊のマーキングセンチュリオン・シリーズ T 62 戦車のプロフィ ールドイツⅣ号 H / J 型戦車朝鮮戦争におけるアメリカ軍本文 . アメリカの新国防報告富士の戦車にマーキング戦史九五式軽戦車ニ ューギニアへ 東京都文京区水道ーー 4 ー ・上記のパックナンパーをご希望の方は、ご要望の号数を明記して現金書留か定額小為替にてご注文下さい。 送料は 1 部 45 円、 2 部 65 円、 3 部 85 円です。なおパックナンパーは予約購読扱いにはなりませんので、両方を 同時に申し込まれるときは、注文書、送料などを分けてご注文下さい。 サンデーアート社パンツア ー・ノヾックナン / ヾ ー係